月夜に咲く

夕暮れ狼

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第2章 月と狼

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私は目の前の青年を、まじまじと見つめていた。
 彼の手には、昨夜森で失くしたハンカチが握られている。小さな血の跡が残っていた。
「それ……」

「君がくれたものだろ?」

 彼の声は落ち着いていて、どこか懐かしい響きがあった。
 それなのに、私の中の“現実”と、彼の存在は、どうしても噛み合わなかった。

 だって、そんなはずない。

 ——昨夜、あの森にいたのは、狼だったのだから。

「待って……どうして、あなたがそれを持ってるの?」

「……話せば、信じるかい?」

「信じられるかどうかは、聞いてから決める」

 私は立ち上がって、彼と向かい合った。
 彼は一瞬だけ目を伏せると、ゆっくりと口を開いた。

「俺の名前は、狩野 涼。ずっとこの町に住んでいた……いや、“住んでいた”というのは少し違うか。ずっと、森の中にいたんだ。君たち人間から、隠れるようにね」

「……まさか、本当に——」

「そう。俺は……人狼だよ」

 信じられるはずがなかった。
 けれど、彼の目を見ていると、なぜか嘘をついているようには思えなかった。
「昨夜、君が見た白い狼。あれが、俺の本当の姿だ」

 涼は、そう言って軽く口元を歪めた。

「……呪われているんだ、俺は。“月に生かされ、月に縛られる”一族さ」

「呪い……?」

「ああ。普段は人の姿でいられるけど、月が満ちる夜には、自分の意思とは関係なく狼に戻ってしまう。そして、人に心を許しすぎると——そのまま狼には戻れなくなる」

 彼の声には、どこか“諦め”のような色があった。

「それは、喜ぶべきことなんじゃないの?」

「……そう思うかい? 人間の世界に溶け込んで生きていける。それは、たしかに“救い”かもしれない」

 けれど、と涼は言葉を切る。

「狼としての本能も、誇りも、すべて捨てなきゃならない。人を愛すれば愛するほど……俺は、俺じゃなくなるんだ」

 言葉を失った私に、涼はふっと笑って見せた。
「……まあ、信じなくてもいい。ほとんどの人間は、そういう話を笑って流すから」

 彼が踵を返そうとしたとき、私は思わず声を上げた。

「待って!」

 彼が振り返る。

「昨夜、あなた……ケガ、してたよね? 今は……大丈夫なの?」

 涼は少し驚いたように目を見開き、そして静かに頷いた。

「ありがとう。君が手当てしてくれたおかげで、もう平気だ」

「なら……よかった」

 自分でも驚くほど自然に、私はそう言っていた。
 彼が“何者”であろうと、あの夜に助けた命が、無事だったことがただ嬉しかった。

「……この町には、まだ“異形”が残っているよ。俺みたいなのが、ね」

「どういう意味?」

「また会えるかもしれない。そのときまでに、覚悟しておいてくれ」

 そう言い残して、涼は森の方へと歩き出した。
 木々の間に姿が消える直前、彼はこちらを振り返り——月のような瞳で、静かに微笑んだ。

 それから数日、涼は姿を現さなかった。
 けれど、夜になるたび私は、あの目と声を思い出していた。
 あの夏の日々が、普通の夏ではないことを、私はもう感じ始めていた——。
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