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Act 8. 夏の小鳥
他人
しおりを挟む駅で神と別れた後、水無瀬家へと帰り、部屋で学会の資料の整理をしていると、「ちょっと入っても大丈夫?」と扉の外から声がした。
聞き覚えのある声。俺が18年間ずっと聞いてきた声。
「大丈夫です」
そう切り返せば「失礼するね」と入ってきたのは、寛人の時の母、里美だった。
目尻には沢山の皺が刻まれ、黒髪の長い髪は見事に灰色のショートヘアに変わっていた。おばちゃん、と呼ばれる事を拒んでいた母だったが、その姿はすっかり『おばあさん』であった。
20年近い歳月が経ったのだと、雅人の時より強く感じる。
「どうしたんですか?」
懐かしさに浸っていてはマズいと口にした言葉だが、この姿で母里美と対面する事が初めての事に気づき、内心焦った。
だが、そんな俺の焦りをよそに、里美はそのまま言葉を続ける。
「ごめんね。仏壇の花と果物を変えないとね」
里美が言うには、最後に変えたのは俺が来る前の事らしい。言われてみれば、花からだいぶ生気が失われていて、なるほど、と思わず頷く。
「申し遅れました、薫と同室でお世話になってます、小鳥遊伊織です」
「薫のおばあちゃんです。いつも薫がお世話になっていて、悪いねえ」
里美が佇まいをなおし、軽くお辞儀をするのに釣られて、俺もお辞儀をした。すぐに仏壇の掃除に取りかかった里美の小さくなった背中を見つめながら、自分が他人であるという事を今更ながら酷く突きつけられたような気がした。
こんな喋り方だっただろうか。こんなに小さかっただろうか。
湧いてくる疑問を思い浮かべる度に、今の母の顔が見え隠れし、思考が定まらなかった。
「邪魔して悪かったね。ありがとう」
いつの間にか全て用事を終えたのか、線香の煙が仏壇の周りに揺蕩っていた。
「いえ、こちらこそお邪魔してすみません」
里美が出て行った扉をしばらく呆然と眺めていた。
俺の人見知りは元々は母ゆずりだ。
母は決して無口な人ではなかったが、その極度の人見知りから周りから無口な人と思われている事も多かった。決して失礼な事をする訳でもないし、必要な事は人見知りとはいえ、常識的に話す。だが、初対面の人に必要以上に話しかける事をしない。
母の中に入れる人間が少ない。昔はそれを事実としてしか捉えてなかったが、今自分が外にいるこの状況下に現実を突きつけられているような気がしてならなかった。
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