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5話・理(ことわり)の境界
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5話・理(ことわり)の境界
カイルは、猫から言われた「魔力を捨てる」という言葉に、一日中頭を抱えていました。
意識すればするほど、かつて体に染み付いた魔力の練り方が邪魔をする。何もできず、ただ庭の隅で蹲るカイルの姿は、リーシャの目には絶望に打ちひしがれた男にしか見えていませんでした。
「カイルさん、お茶が入りましたよ。……あ」
トレイを持って庭へ出てきたリーシャが、泥で滑りやすい石畳に足を取られました。
派手な音を立てて転ぶ。そう確信した瞬間、カイルの思考から「魔術」や「構成」といった理屈が、驚きによって一瞬だけ吹き飛びました。
(危ない――!)
彼が手を伸ばした時、そこには魔力の発動に伴う輝きも、風のうねりもありませんでした。
しかし、リーシャの体は、地面に激突する寸前で、まるで**「重力そのものが書き換えられた」**かのように、ふわりと不自然に静止し、そのままゆっくりと垂直に立ち戻ったのです。
「……え?」
リーシャは、自分がなぜ立っているのか分からず、手の中の無事なトレイを見つめて呆然としています。彼女にとっては「奇跡的に踏ん張れた」程度の認識でしたが、カイルには分かりました。今、自分の意志が、世界の法則を一瞬だけ上書きしたのだと。
「……できた。今、確かに……」
カイルが自分の手を見つめて震えていると、塀の上から、いつもの落ち着いた女性の声が降ってきました。
『あら、できるじゃない』
猫は退屈そうに欠伸をしながら、黄金の瞳でカイルをねめつけました。
カイルは猫を見つめ、静かに問いかけました。
「ねえ……俺の体が、どうにかなっているのか? 魔法なんて微塵も練っていないのに、世界が俺に従った」
『「どうにかなっている」か。……ええ、そうね。あなたがかつて持っていた『魔力』が暴風だとしたら、今あなたに宿っているのは『大地そのもの』よ。』
猫は前足で、カイルの足首を軽く叩きました。
『あなたが魔力を失い、何も持たず、ただ雨に打たれながらパンを分け与え続けた日々。あの積み重ねが、あなたの魂の形を変えたの。……あなたは奪うことをやめ、分け与え続けた。その空っぽの器に、私の宇宙の理が長い時間をかけて染み込んだのよ。』
「順応、していたのか……俺の魂が」
『そう。だからあなたは魔法を捨てられたの。最初から、魔力なんて必要なかった。ただ、あなたが自分の「重さ」を自覚しさえすれば、世界はあなたに従うわ。』
カイルは、心臓の奥底で、かつてない「静寂」が満ちるのを感じました。
かつて支配しようとしていた傲慢な自分。そして今、誰かを守るために理を編み直そうとしている自分。その落差に、カイルは苦笑しました。
「……責任、か。……いいさ。例えこれが禁忌であろうと、俺がこいつを守るための理(ことわり)なら、俺は一生かけて編み直すだけだ」
『いい決意ね。……でもカイル、彼女、そんなにピンチでもなかったはずよ? 別に死ぬわけじゃなし。そんな些細なことで「世界」を歪めてしまうなんて……。あなた、案外、お人好しなのね。』
カイルは顔を赤くして沈黙しました。
隣では、リーシャが「不思議ですね、転びませんでした」と首を傾げています。カイルは、リーシャの無邪気な感謝が、今の自分の「禁忌」に触れる重みであることを知り、どう反応していいか分からず、ただ視線を逸らしました。
*
深夜、リーシャは一人、工房の片隅で古い記録帳を広げていました。
カイルさんは、私を助けてくれている。でも、どうしてあんなに隠そうとするの? まるで、いけないことでもしているみたいに……。
彼女の困惑は、不安へと形を変え始めていました。カイルが時折見せる、空虚な空間を掴み取ろうとするような不器用な動作。そして、そんな彼をあざ笑うように、けれどどこか親密に寄り添う猫の姿。
「ねえ、カイルさん。無理、してないですよね?」
彼女がそっと声をかけても、カイルの背中はどこか遠い場所を向いているように感じました。
リーシャは、彼が自分に隠して、この世界の住人には決して触れてはいけない「何か」と契約してしまったのではないかという、漠然とした、けれど鋭い恐怖を感じ始めていたのです。
(……このままじゃ、カイルさんがどこか遠くへ行っちゃう)
リーシャは、戸棚の奥に隠していた、亡き父の形見である「魔力検知の石」を握りしめました。
(お願い、反応して。……カイルさんが頑張っている「魔法」なんだって、教えて……!)
しかし、石は冷たく、暗いままでした。
目の前で起きる奇跡は、魔法のような輝きも音もなく、ただ「不自然に、結果だけが起きる」という、正体不明の何か。
「……あ……」
口の端から、意味をなさない吐息が漏れました。
「魔法なら、もっとこう……世界が震えるはずなのに」
彼女にとっての魔法は、もっと人間臭く、必死で、使う者の体温が伝わってくるような「技」でした。
目の前のそれは、あまりに静かで、あまりに……非人間的。
「リーシャ……? そこで何をしてるんだ?」
カイルが振り返ります。その顔は、いつもの優しい、けれど少し頼りないカイルさんのまま。
そのギャップが、リーシャにはたまらなく恐ろしく思えたのでした。
カイルは、猫から言われた「魔力を捨てる」という言葉に、一日中頭を抱えていました。
意識すればするほど、かつて体に染み付いた魔力の練り方が邪魔をする。何もできず、ただ庭の隅で蹲るカイルの姿は、リーシャの目には絶望に打ちひしがれた男にしか見えていませんでした。
「カイルさん、お茶が入りましたよ。……あ」
トレイを持って庭へ出てきたリーシャが、泥で滑りやすい石畳に足を取られました。
派手な音を立てて転ぶ。そう確信した瞬間、カイルの思考から「魔術」や「構成」といった理屈が、驚きによって一瞬だけ吹き飛びました。
(危ない――!)
彼が手を伸ばした時、そこには魔力の発動に伴う輝きも、風のうねりもありませんでした。
しかし、リーシャの体は、地面に激突する寸前で、まるで**「重力そのものが書き換えられた」**かのように、ふわりと不自然に静止し、そのままゆっくりと垂直に立ち戻ったのです。
「……え?」
リーシャは、自分がなぜ立っているのか分からず、手の中の無事なトレイを見つめて呆然としています。彼女にとっては「奇跡的に踏ん張れた」程度の認識でしたが、カイルには分かりました。今、自分の意志が、世界の法則を一瞬だけ上書きしたのだと。
「……できた。今、確かに……」
カイルが自分の手を見つめて震えていると、塀の上から、いつもの落ち着いた女性の声が降ってきました。
『あら、できるじゃない』
猫は退屈そうに欠伸をしながら、黄金の瞳でカイルをねめつけました。
カイルは猫を見つめ、静かに問いかけました。
「ねえ……俺の体が、どうにかなっているのか? 魔法なんて微塵も練っていないのに、世界が俺に従った」
『「どうにかなっている」か。……ええ、そうね。あなたがかつて持っていた『魔力』が暴風だとしたら、今あなたに宿っているのは『大地そのもの』よ。』
猫は前足で、カイルの足首を軽く叩きました。
『あなたが魔力を失い、何も持たず、ただ雨に打たれながらパンを分け与え続けた日々。あの積み重ねが、あなたの魂の形を変えたの。……あなたは奪うことをやめ、分け与え続けた。その空っぽの器に、私の宇宙の理が長い時間をかけて染み込んだのよ。』
「順応、していたのか……俺の魂が」
『そう。だからあなたは魔法を捨てられたの。最初から、魔力なんて必要なかった。ただ、あなたが自分の「重さ」を自覚しさえすれば、世界はあなたに従うわ。』
カイルは、心臓の奥底で、かつてない「静寂」が満ちるのを感じました。
かつて支配しようとしていた傲慢な自分。そして今、誰かを守るために理を編み直そうとしている自分。その落差に、カイルは苦笑しました。
「……責任、か。……いいさ。例えこれが禁忌であろうと、俺がこいつを守るための理(ことわり)なら、俺は一生かけて編み直すだけだ」
『いい決意ね。……でもカイル、彼女、そんなにピンチでもなかったはずよ? 別に死ぬわけじゃなし。そんな些細なことで「世界」を歪めてしまうなんて……。あなた、案外、お人好しなのね。』
カイルは顔を赤くして沈黙しました。
隣では、リーシャが「不思議ですね、転びませんでした」と首を傾げています。カイルは、リーシャの無邪気な感謝が、今の自分の「禁忌」に触れる重みであることを知り、どう反応していいか分からず、ただ視線を逸らしました。
*
深夜、リーシャは一人、工房の片隅で古い記録帳を広げていました。
カイルさんは、私を助けてくれている。でも、どうしてあんなに隠そうとするの? まるで、いけないことでもしているみたいに……。
彼女の困惑は、不安へと形を変え始めていました。カイルが時折見せる、空虚な空間を掴み取ろうとするような不器用な動作。そして、そんな彼をあざ笑うように、けれどどこか親密に寄り添う猫の姿。
「ねえ、カイルさん。無理、してないですよね?」
彼女がそっと声をかけても、カイルの背中はどこか遠い場所を向いているように感じました。
リーシャは、彼が自分に隠して、この世界の住人には決して触れてはいけない「何か」と契約してしまったのではないかという、漠然とした、けれど鋭い恐怖を感じ始めていたのです。
(……このままじゃ、カイルさんがどこか遠くへ行っちゃう)
リーシャは、戸棚の奥に隠していた、亡き父の形見である「魔力検知の石」を握りしめました。
(お願い、反応して。……カイルさんが頑張っている「魔法」なんだって、教えて……!)
しかし、石は冷たく、暗いままでした。
目の前で起きる奇跡は、魔法のような輝きも音もなく、ただ「不自然に、結果だけが起きる」という、正体不明の何か。
「……あ……」
口の端から、意味をなさない吐息が漏れました。
「魔法なら、もっとこう……世界が震えるはずなのに」
彼女にとっての魔法は、もっと人間臭く、必死で、使う者の体温が伝わってくるような「技」でした。
目の前のそれは、あまりに静かで、あまりに……非人間的。
「リーシャ……? そこで何をしてるんだ?」
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そのギャップが、リーシャにはたまらなく恐ろしく思えたのでした。
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