カイルとリーシャと異世界の理

エルザ

文字の大きさ
19 / 28

19話・冷めた心、焼き立てパンの香りと共に

しおりを挟む
19話・冷めた心、焼き立てパンの香りと共に


翌朝、旦那様の屋敷の空気は、どこか澄み渡ったような静けさに包まれていました。
食堂の大きな窓から差し込む朝日に、銀食器が眩しく反射しています。旦那様が優雅にコーヒーを啜るその足元で、黒猫のアトラはいつものように丸まっていました。

そこへ、朝の給仕に現れたのは、あの少年――執事見習いのセシルでした。

扉を開ける所作、歩くリズム、そしてトレイを運ぶ手つき。
それらすべてが、ここ数ヶ月の刺々しさとは別人のように穏やかで、整えられていました。

セシルの胸元のポケットには、丁寧に畳まれた古いハンカチが覗いています。そして、何よりアトラが見逃さなかったのは、彼の瞳から「淀み」が消えていることでした。

ふと、旦那様が顔を上げました。

「おや、セシル。何だか今朝は顔色が良さそうじゃないか。何か良いことでもあったのかい?」

セシルは一瞬、足元のアトラに視線を送りました。その瞳には、かつて自分を脅し、利用し、突き放していた少年の面影は薄く、どこか遠い場所を見つめるような静かな光が宿っていました。

「……はい。ずっと失くしていたと思っていた『大切なもの』が、実はすぐそばにあったことに気づきまして」

セシルは少し照れくさそうに微笑み、続けます。

「昨夜、それを丁寧に磨き直したんです。……もう二度と、汚さないように」

その言葉を聞いたアトラが、ふい、と顔を背けて尻尾をパタパタと振りました。
「……ふん、遅いのよ」
そう口には出さないものの、彼女の喉の奥からは、隠しきれない安堵の「ゴロゴロ」という音が漏れ出していました。





(……あいつ、さっきまで泥にまみれて泣き叫んでいたのに)

その夜、アトラは一人、屋根の上で月を見上げていました。
あんなに惨めだったはずのセシルが、今は何もなかったかのように完璧に振る舞っている。

(壊れたものを直したんじゃない。……あいつが、自分の愚かさを認められずに放置していた『あの頃の感情』そのものを、リーシャが表面に引きずり出しただけなのよ)

アトラは、昨夜の光景を思い出していました。
セシルは、靴を受け取った瞬間にすべてを理解していたはずです。あの靴が泥に汚れていたのは、アトラのせいでも、妹の形見だからでもない。自分自身の心にある「認めると終わってしまう敗北感」を、この靴に投影して汚していたのだと。

彼は最初から、自分がアトラの献身を裏切っていると分かっていました。
だからこそ、靴が「掃除」された瞬間、少年は崩れ落ちたのです。
それは物理的な変化への驚きではなく、自分の卑怯な本音を、誰にも言わずにいた自分の醜さを、すべて見透かされたことへの戦慄と、ようやく自分を許すことができた安堵の涙でした。

(……なんて残酷な掃除なの。あんな風に心の中の泥を拭い去られたら、もう二度と、あいつは過去の自分には戻れないわ)

完璧に磨き上げられた靴。
しかし、アトラはどこか寂しさも感じていました。
セシルは戻ってきたけれど、それはかつて夜の厨房でパンを分け合った、少しだけ未熟で、同じように孤独だった少年とは別人のようでした。

アトラはため息をつき、自らの毛並みを整えました。
自分の「完璧な管理者」としての矜持。それを守るために、あんな恐ろしい力を持つ少女に頭を下げた屈辱。すべては、自分の所有物であるセシルを「正常」に戻すため。

(……ええ、これでいいのよ。あの子が私の管理下で正しく機能しているなら、それでいいわ)

アトラは自分自身に言い聞かせるように、夜の闇へと溶けていきました。



数日後のギルドにて。
「……というわけで、あいつ、あの靴を枕元に飾って寝てるのよ。不気味ったらありゃしない」

ギルドのカウンターで、アトラは相変わらずの不遜な態度でキルケの隣に座っていました。

「いいじゃない。偽物か本物かなんて、結局本人がどう思うか次第なんだから」

キルケが欠伸をしながら答えると、アトラは視線をリーシャの方へ向けました。リーシャは今日も今日とて、山積みの「汚れ物」を前に、カイルと相談しながら一日の三枠を選別しています。

「……リーシャ。これ、あいつから」

アトラが差し出したのは、セシルが焼いた最高級のクッキーが入った小さな包みでした。

「お礼だって。……それから、私も。ありがとう。あなたに『お掃除』してもらわなかったら、私は今頃、あの屋敷を飛び出して野良猫にでもなっていたかもしれないわ」

「えへへ、どういたしまして! 喜んでもらえて良かったです」

リーシャがクッキーを受け取って笑うと、カイルが横からボソリと呟きました。

「……これで少しは静かになるかと思えば、今度はアトラのせいで屋敷の秘密まで筒抜けになりそうだな」

「あら、失礼ね。私は口の堅い猫なのよ。……リーシャに有利な情報しか漏らさないわ」

アトラは優雅に身を翻すと、窓枠に飛び乗り、去り際に一度だけ振り返りました。

「……また来るわ。次は『お掃除』じゃなくて、遊びにね」

夕日に溶けるように去っていく黒猫の背中を見送りながら、リーシャは手にしたクッキーを一つ、幸せそうに頬張るのでした。





旦那様からの破格の報酬や、連日の「限定三枠」の依頼料が積み重なり、リーシャの懐には今や普通の村娘が一生かけても使い切れないほどの大金が貯まっていました。

そんなリーシャが、カイルを連れて真っ先に向かったのは、村で一番の腕利きと名高い武具店でした。

「おじさん! このお店で一番強そうで、一番カッコいい剣をください!」

リーシャがカウンターに金貨の袋をドサリと置くと、店主も、居合わせた冒険者たちも、呆気にとられて彼女を見つめました。

「おいおい、嬢ちゃん……。そんな細腕で、本物の武器なんて扱えるのかい? 飾りならもっと安物で十分だぞ」
「そうだよ。その隣の強面のお兄さんに買ってあげるならまだしも、あんたが持つなんて、豚に真珠、掃除婦に名剣だ!」

周囲の冒険者たちがゲラゲラと笑い声を上げます。彼らからすれば、リーシャはただの「運良く稼いでいる、浮かれた小娘」にしか見えません。

しかし、カイルは彼らの冷やかしを無視して、棚に並んだ一振りの大剣に目を留めていました。それは、並の戦士では持ち上げることすら叶わない、重厚で洗練された名品です。

「……リーシャ。そもそも、お前は戦わないだろう。俺が守ると言ったはずだ。お前に高性能な武器が本当に必要か?」

武具店のカウンターで、カイルはこめかみを指で押さえ、深い溜息とともに問いかけました。

カイルの視線の先には、リーシャが抱えた一振りの名剣――『竜の顎(あぎと)』があります。それは、特殊な霊銀(ミスリル)を贅沢に使い、高名な工匠が心血を注いだ、村の武具店には不釣り合いなほどの超高性能武器でした。

カイルからすれば、呆れるのも無理はありません。
彼は知っています。リーシャがその気になれば、相手の心臓を「体内の汚れ」として否定することも、迫りくる火竜の息吹を「空気の濁り」として消し去ることもできることを。

「(……お前自身が、歩く戦術兵器みたいなもんだろうが。今さら鉄の棒を振り回してどうする)」

それがカイルの本音でした。おまけに、自分を守るのが仕事であるはずの元・英雄(自分)を差し置いて、守られるべき少女が自分よりも遥かに高価で強力な武器を選んでいる状況に、カイルは形容しがたい無力感すら覚えていました。

しかし、リーシャはキラキラと目を輝かせ、確信に満ちた声で答えます。

「必要ですよ、カイルさん! だって、高性能な武器ってとにかくカッコいいじゃないですか!」

「……カッコいい、だと?」

「そうです! それに、いつ、すっごくお掃除しがいのある……そう、ドラゴン退治の依頼が来てもいいように、準備しておきたいんです。ドラゴンを箒(ほうき)で叩くなんて、せっかくの冒険なのに絵的に可愛くないですよ!」

リーシャにとって、この名剣は「戦うための道具」ではなく、憧れの冒険者になるための「最高のアクセサリー」なのです。

周りで見ていた冒険者たちは、その言葉を聞いて鼻で笑いました。
「おいおい、ドラゴンだと? 夢見るのも大概にしろよ、お掃除お嬢ちゃん」
「そんな高いだけのナマクラ、あんたが持っても重たい飾りで終わりだぜ。カイルも大変だな、雇い主がこれじゃあな!」

カイルは、彼らの嘲笑を黙って聞き流しました。
(……こいつらは何も分かっていない。重たい飾り? 違う。こいつが本気を出せば、その名剣が『重い』という事実すら消える。この武器が『ただの飾り』なのは、それを使う本人が、剣を振るうまでもなく世界を書き換えられるからだ……)

カイルはもう一度溜息を吐くと、諦めたように肩を落としました。

「……分かった。好きにしろ。だが、その担ぎ方はやめろ。そんな伝説級の剣を、道端のゴミでも拾うみたいに雑に扱う奴があるか。……ほら、貸せ。俺が持ってやる」

「ええっ、いいですよ、全然重くないですから! ほら、片手でも余裕です!」

ブンブンと、数千万ゴルドの名剣を竹箒のように振り回すリーシャ。そのたびに、剣が風を切る「ヒュッ」という音ではなく、理を削り取るような「ズレ」が空間に生じていることに気づいているのは、カイルとキルケだけでした。

『ふふ、いい見世物ね。最強の消しゴムが、わざわざ豪華な装飾の鉛筆を買って喜んでるんだから。……カイル、諦めなさい。この子の金銭感覚と常識は、もうお掃除(否定)されちゃってるのよ』

キルケが冷やかす中、リーシャはご機嫌で店を後にしました。
こうして、「伝説の武器を持った史上最強(で最高にズレている)の掃除婦」という、あまりにアンバランスな伝説が幕を開けたのです。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

〈完結〉遅効性の毒

ごろごろみかん。
ファンタジー
「結婚されても、私は傍にいます。彼が、望むなら」 悲恋に酔う彼女に私は笑った。 そんなに私の立場が欲しいなら譲ってあげる。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

【本編完結】転生令嬢は自覚なしに無双する

ベル
ファンタジー
ふと目を開けると、私は7歳くらいの女の子の姿になっていた。 きらびやかな装飾が施された部屋に、ふかふかのベット。忠実な使用人に溺愛する両親と兄。 私は戸惑いながら鏡に映る顔に驚愕することになる。 この顔って、マルスティア伯爵令嬢の幼少期じゃない? 私さっきまで確か映画館にいたはずなんだけど、どうして見ていた映画の中の脇役になってしまっているの?! 映画化された漫画の物語の中に転生してしまった女の子が、実はとてつもない魔力を隠し持った裏ボスキャラであることを自覚しないまま、どんどん怪物を倒して無双していくお話。 設定はゆるいです

 怒らせてはいけない人々 ~雉も鳴かずば撃たれまいに~

美袋和仁
恋愛
 ある夜、一人の少女が婚約を解消された。根も葉もない噂による冤罪だが、事を荒立てたくない彼女は従容として婚約解消される。  しかしその背後で爆音が轟き、一人の男性が姿を見せた。彼は少女の父親。  怒らせてはならない人々に繋がる少女の婚約解消が、思わぬ展開を導きだす。  なんとなくの一気書き。御笑覧下さると幸いです。

お爺様の贈り物

豆狸
ファンタジー
お爺様、素晴らしい贈り物を本当にありがとうございました。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

異世界召喚は7回目…って、いい加減にしろよ‼︎

アノマロカリス
ファンタジー
『おぉ、勇者達よ! 良くぞ来てくれた‼︎』 見知らぬ城の中、床には魔法陣、王族の服装は中世の時代を感じさせる衣装… 俺こと不知火 朔夜(しらぬい さくや)は、クラスメートの4人と一緒に異世界に召喚された。 突然の事で戸惑うクラスメート達… だが俺はうんざりした顔で深い溜息を吐いた。 「またか…」 王族達の話では、定番中の定番の魔王が世界を支配しているから倒してくれという話だ。 そして儀式により…イケメンの正義は【勇者】を、ギャルっぽい美紅は【聖戦士】を、クラス委員長の真美は【聖女】を、秀才の悠斗は【賢者】になった。 そして俺はというと…? 『おぉ、伝承にある通り…異世界から召喚された者には、素晴らしい加護が与えられた!』 「それよりも不知火君は何を得たんだ?」 イケメンの正義は爽やかな笑顔で聞いてきた。 俺は儀式の札を見ると、【アンノウン】と書かれていた。 その場にいた者達は、俺の加護を見ると… 「正体不明で気味が悪い」とか、「得体が知れない」とか好き放題言っていた。 『ふむ…朔夜殿だけ分からずじまいか。だが、異世界から来た者達よ、期待しておるぞ!』 王族も前の4人が上位のジョブを引いた物だから、俺の事はどうでも良いらしい。 まぁ、その方が気楽で良い。 そして正義は、リーダーとして皆に言った。 「魔王を倒して元の世界に帰ろう!」 正義の言葉に3人は頷いたが、俺は正義に言った。 「魔王を倒すという志は立派だが、まずは魔物と戦って勝利をしてから言え!」 「僕達には素晴らしい加護の恩恵があるから…」 「肩書きがどんなに立派でも、魔物を前にしたら思う様には動けないんだ。現実を知れ!」 「何よ偉そうに…アンタだったら出来るというの?」 「良いか…殴り合いの喧嘩もしたことがない奴が、いきなり魔物に勝てる訳が無いんだ。お前達は、ゲーム感覚でいるみたいだが現実はそんなに甘く無いぞ!」 「ずいぶん知ったような口を聞くね。不知火は経験があるのか?」 「あるよ、異世界召喚は今回が初めてでは無いからな…」 俺は右手を上げると、頭上から光に照らされて黄金の甲冑と二振の聖剣を手にした。 「その…鎧と剣は?」 「これが証拠だ。この鎧と剣は、今迄の世界を救った報酬として貰った。」 「今迄って…今回が2回目では無いのか?」 「今回で7回目だ!マジでいい加減にして欲しいよ。」 俺はうんざりしながら答えた。 そう…今回の異世界召喚で7回目なのだ。 いずれの世界も救って来た。 そして今度の世界は…? 6月22日 HOTランキングで6位になりました! 6月23日 HOTランキングで4位になりました! 昼過ぎには3位になっていました.°(ಗдಗ。)°. 6月24日 HOTランキングで2位になりました! 皆様、応援有り難う御座いますm(_ _)m

処理中です...