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1巻
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しおりを挟む「それじゃあ、ちょっと番に会いに行ってくるから。ええと帰りは……七日後、かな……」
申し訳なさそうに眉尻を下げながら、しかし、どこかいそいそと浮足立った様子でそう言ってくる夫に対し、アナリーズはなんてことないような顔をして元気に送り出した。
「行ってらっしゃい、気を付けて。番さんによろしくね!」
獣人であるアナリーズの夫、ジョイは、魂の伴侶とも言える番に出会ってしまった。彼がこの先もアナリーズと夫婦関係を続けるためには、ある程度の時間を番の女性と共に過ごす必要があるのだ。
『別に性的な接触は必要ないし、獣人としての本能を抑えるために、番と二人で一定時間楽しく過ごすだけ』
『だから浮気とは違うし、この先も夫婦としてやっていくためにはどうしても必要なこと』
そんな説明を受けてからというもの、ジョイは一ヶ月に一度、仕事のついでに番の女性に会いに出掛ける。……妻であるアナリーズをこの家に残して。
アナリーズはそれを受け入れた。
夫であるジョイを愛しているから。
必ず自分のもとへと帰ってきてほしいから。
今日もとびきりの笑顔を貼り付けて、番のもとへと向かう夫を送り出す。
自分の内側がズタズタに引き裂かれていくような胸の痛みには気付かぬふりをして――
*****
アナリーズが夫と出会ったのは、もう随分と前――二十二歳の頃だった。
当時、既に働いていたアナリーズは王都でも中堅の商会で経理の仕事に就いていた。締め日が近くなると、経理の仕事はどうしても残業になりがちだ。
仕方がない。取引先への支払いが遅れれば商会の信用にも関わるし、給与計算が間に合わなければ困るのは同僚の商会員たちだ。よって、それらの期日が迫れば残業をしてでも終わらせるしかない。
その日、アナリーズが商会員の給料の支払い手続きを終えて勤務先の商会を出るときには、既に日付が変わっていた。
時間に追われて昼食を摂っている時間も無かった。そのせいでかなりの空腹だったが、これ以上遅くなるのは御免だと、アナリーズは行きつけの朝までやっている食堂へは寄らずに、まっすぐ街はずれの家に帰ることにした。
しかし、少しでも早く帰ろうと、公園を横切ったのがまずかった。運の悪いことにそこでたむろしていたガラの悪い酔っぱらいに絡まれてしまったのだ。
「なんだぁ~姉ちゃん、こんな時間に一人で危ねーなー。へへ……そうだ、良かったら俺らが家まで送ってやんよ」
「……おっと、逃げんなよ。ほぉら、遠慮せずにこっち来いってぇ」
「へえぇ……オネーサンよく見たら結構いいカラダしてるじゃーん。もしかして着やせするタイプ? 確かめてやるからちょっと見せてよ」
「や……やめてください! 誰か助ゖ……ぅぐっ……」
アナリーズは走って逃げようとしたが、相手はガタイのいい男。しかも三人。
あっという間に捕まえられて、大きな手で口を塞がれる。叫び声さえ上げられずに、無理やり暗がりに連れ込まれそうになってしまった。
もうダメだ。アナリーズが諦めかけた、そのときだ。
「あ~あ、人がせっかく夜のお散歩を楽しんでたのに騒がしいなあ。お前らそんなでかい図体して、人間ってのは群れないと女も口説けないのか? しかも、同意も得ずに無理やり交尾しようとか最低だろ。オスとして恥ずかしくないのかよ?」
「ああっ!? なんだ、テメーは……ひっ」
口をガッチリと掴まれていて顔を動かせないが、どうにか声のする方向へ視線だけでも向けると、暗闇にキラリと光る二つの目が見えた。軽快な語り口とは裏腹に、漂う空気は殺気にも近い。
「やべ……獣人だ。お、おい、お前ら行こうぜ」
「お……おう……っ」
「ち……っ」
威勢の良さはどこへやら。酔っ払い三人組は、アナリーズを放り出して慌ただしく逃げていく。
酒臭い男たちから乱暴に背中を押される形で解放されたアナリーズは、突き飛ばされた勢いのまま数歩進んだ。そのままその場に力なくヘロヘロと崩れ落ちる前に、素早く走り寄った男性によって両手で軽々と抱き上げられる。
いわゆる、お姫様抱っこだ。
「……おおっと。危ない、危ない。こんなトコ座ったらキレイな服が汚れちゃうよ。お姉さん大丈夫? ケガはない?」
「は……はい。大丈夫……です」
心配そうに顔を覗き込んでくる男性の目は、先ほどと同様にキラキラと輝いている。
そして、その頭には特徴的な猫の耳。
(獣人……)
月明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がる、自分とはまるで違うシルエットに、アナリーズは目を見開いた。
獣人は王都において、かなり複雑な立ち位置だからだ。
この国には現在、四種類の種族が暮らしていると言われている。
『王族』、『貴族』、『人間』、そして『獣人』。
『王族』と『貴族』については国の支配層に対するただのやっかみ交じりの皮肉だが、『獣人』だけは本当に種族が違う。
彼らは近年、獣人国――文字通り獣人だけが住む国――からの移民が増えたことで見かけるようになった者たちだ。その名の通り様々な動物を祖としており、それぞれ元となった動物の性質を色濃く引き継いでいる。
多くの獣人が人間よりも遥かに力が強いこと、また、数十年前までろくに交流がなかったこともあり、人間からは怖れられる存在となっている。
鋭い牙で食い殺されるとか。
強い力で身体を引きちぎられるとか。
死肉を食らうとか。
王都でも獣人を見かけることが増えてはきたが、人間に比べればまだまだ数が少ないせいで、噂ばかりが広まっているのが現状だ。
先ほどの酔っぱらいたちが一目散に逃げていったのも、そんな無責任な噂を聞いていたからだろう。
(――そんなことはないのに)
実際のところ、獣人はとても温厚で仲間思いの義理堅い種族なのだ。
アナリーズの商会は獣人国とも取引があるため、多くの獣人たちが働いている。おかげでアナリーズは彼らの真実の姿を知っているし、王都に蔓延る無責任な噂に振り回されることもない。
もちろん、種族によっては気難しい者たちもいるにはいるが、性格の良し悪しは人それぞれ。そのあたりの事情は獣人も人間とさほど変わらない。
閑話休題。
助けてくれた男性の、暗闇に光る神秘的な瞳に魅入られて、アナリーズがついついその輝きを凝視していると、居心地が悪そうについ……っと、その目を逸らされた。
「あー……ごめん。もしかして、獣人だからかえって君を怖がらせちゃったかな? 身体も震えてるし」
そこで気付く。傍から見れば今の状況は、抱き上げられて固まった、ともとれるだろう。
「あ……ち、違うの。ジロジロ見たりしてごめんなさい。貴方の目がキラキラしていてすごくキレイだったものだから、つい見惚れてしまって。……でも、獣人の方ってそういうの苦手なのよね? その、知り合いに獣人の方もいるけれど、今まで夜に会ったことはなかったの。だから、ビックリして……あの、助かったわ。どうもありがと……あ……っ」
うまくまとまらないまま喋っていると、むしろ気を遣われてその場に降ろされる。しかし、アナリーズの足の震えは治まらず、獣人の彼にしがみついてしまった。
「ご……ごめんなさい!! これは貴方が怖いとかじゃなくて……、その……」
「あー……、うん。君が躊躇なく俺にしがみついてきたから流石にそれは分かった。……まあ、あんな目に遭ったら、すぐに切り替えるなんて無理だよな。よし、ちょうどいいや。少し腹減ってきたから、食事に付き合ってよ」
そう言って彼は再びアナリーズを抱き上げた。
「あ、ちょっと待って。私、自分で歩け…………そうも、ないわね……ごめんなさい」
慌てて声を張り上げるものの、震えを自覚しているため、段々と尻すぼみになってしまった。
「ははは! お姉さん素直でいいね」
獣人の男性は楽しげに笑うと、飲食店が立ち並ぶ賑やかなエリアへと歩き出した。
人のいない公園内はともかく、明るい場所に来ると行きかう人々の視線が二人に突き刺さる。仕方がない。ただでさえ街中でのお姫様抱っこは目立つし、男性の身長が高いこともあってどうしても人々の目を引いてしまうのだ。
今の状況でそれを気にしてもどうしようもないのは分かっているが、気になるものは気になる。時間帯が時間帯だけに酒が入っている者が多く、冷やかし交じりの声まで聞こえてくる始末。それを堂々と受け流す彼は大物なのか、人間の国に暮らす獣人として日頃から視線を浴びることに慣れているのか……
興味津々の眼差しから逃れるように視線を逸らすと、視界の隅にゆったりと揺れるしっぽが見えた。もちろん、アナリーズを軽々と抱き上げている獣人男性のものだ。可愛らしいそれをなんとなく眺めているうちに、不思議と周囲の視線は気にならなくなっていった。
そうして連れていかれたのは、偶然にもアナリーズの行きつけの食堂だった。一応酒も置いてはいるが、深夜勤務の労働者向けの食堂なので、酒の種類は少ない。そのせいかこの時間にやっている飲食店にしては酔っぱらいの姿が見られず、活気はあるものの治安はいい。いわゆる『飲み屋』とは住み分けができていた。
危険な目に遭った衝撃は強かったものの、通い慣れた店へと来た安心感から、アナリーズは心の平穏を取り戻した。獣人はテリトリーを気にすると聞いたことがあるけれど、人間にもそれはあるのかもしれない。薄暗い公園よりも、この少々うるさい空間の方がアナリーズには合っている。
お通しを食べ終え、メインディッシュが来る頃には声が弾むようになっていた。彼も店を気に入ってくれたようだ。
「美味しい!! 適当に入ったけど、美味いな、この店!」
「でしょ!? ここの煮込み料理は絶品なのよ。もっと食べて、食べて!」
すっかり元通りになったことを自覚し、そもそも空腹を感じていたのだから最初からこちらへ向かえばよかったとアナリーズは反省した。しかしここで落ち込んではまた気を遣わせてしまうだろうと明るく振る舞う。
「……あー……でも、本当にいいのか? 誘っといてなんだけど、実は俺あんまり手持ちが……」
一方で、あんなに頼りがいのあった獣人男性の方は店に入ってから少々大人しくなっている。アナリーズに勧められるままに料理に手を伸ばすが、気後れしているようだ。
どうやら、ショックを受けているアナリーズを安心させるためだけに、とりあえず人が多い店へと入ったようだ。アナリーズは彼のその心遣いをありがたく思った。
それだけに、どことなく落ち着かない様子の彼を見て、申し訳なさを感じてしまう。
そこで笑いながら提案した。
「ふふ……危ないところを助けてもらったから、これはそのお礼よ。ご馳走するから、好きなものを注文してちょうだい。実は、お昼ご飯を食べ損ねて、私もお腹が減っていたの」
「……えーと……じゃあ、遠慮なく!」
彼はアナリーズの言葉に、ホッとした様子だ。
そして宣言通りに遠慮することなく料理を注文して、パクパクと豪快に食べ進めていく。その食べっぷりが見ていて気持ちがいい。
男性の見事な食べっぷりに食欲が刺激され、先ほど怖い目に遭ったばかりのアナリーズも、しっかりと昼食兼夕食兼夜食を摂ることができた。
そして、美味しい食事を食べてリラックスすれば、自然と会話も盛り上がる。
獣人の男性はアナリーズよりも二つ年下で、まだ学生。聞いたところによると、留学のためにこの国に来たばかりらしい。あちこちに獣人の気配を感じるものの、あの公園だけは誰のテリトリーでもないからと、夜の散歩を楽しんでいたらしい。
獣人としては、やはりその辺が気になってしまうのだそうだ。
「……まー、本能とはいえ、都会で暮らすやつらは段々その辺の折り合いがついてくるらしいけど、俺は獣人国でも田舎の方の出身だったからさ。やっぱ、慣れるまでは少しキツイ」
「ふふ……なんか意外だわ。猫さん、あんなに力持ちで強いのにね」
「『ジョイ』」
「え?」
「ジョイ・レーベン。それが俺の名前。ちゃんと名前で呼んでよ。お姉さん、この国に来て初めてできた人間の友達だからさ。ああ、さん付けもやめてくれよな。柄じゃないし」
そう言って、やや不満そうにアナリーズを睨みつけてくる彼を可愛らしいと思ってしまった。先ほど、酔っぱらいたちを殺気だけで蹴散らした野性味あふれる姿とはまるで別人……というか、別猫だ。
「分かったわ、ジョイ。私はアナリーズよ。アナリーズ・サンティマン。アナリーズでいいわ」
「そっか。へへ……よろしくな、アナリーズ!」
時間帯が遅かったこともありその日は早々に解散したが、それからアナリーズとジョイは急激に親しくなった。ジョイが留学してきたばかりとあって、まだこちらに知り合いが少なかったのもあるのだろう。
ジョイから落とし物をしたと相談されれば一緒に探して問い合わせ先を教えたし、学生にとって必要不可欠な図書館の利用方法もアナリーズが教えた。
一方で、女性には相談しづらいこともあるだろうと思い、アナリーズが何かとお世話になっている面倒見のいい同僚の猫獣人の男性を紹介したが、ジョイは何故か不機嫌になるばかりでアナリーズにしか頼ろうとしなかった。
性別に加え同種族にしか分からないこともあるのではないか……と気を利かせたのだが、獣人の場合は違うのだろうか? 紹介した猫獣人の同僚に聞いてみたけれど、困った顔をされるだけだった。
ジョイはアナリーズの職場近くの飲み屋でバイトを始め、アナリーズが仕事で遅くなるときには必ず家まで送ってくれた。
酔っぱらいから絡まれた後、あの暗い公園を通ることは流石にやめたが、かといって毎月の残業がなくなるわけではない。結局は同じような時間帯に帰っていることをジョイに知られて、アナリーズはひどく怒られた。彼が職場近くの飲み屋で働きだしたのはそれからすぐのことだった。
どうやら、ジョイはアナリーズの繁忙期に合わせてバイトのシフトを入れているらしい。
流石に、ここまでされたら恋愛とは無縁だったアナリーズもジョイからの好意に気付く。
だが、そこからすんなりと交際に至ったわけではない。
何故なら、ジョイが非常にモテたからだ。
この頃に一度、彼が働く飲み屋に行ってみたが、長身で顔の整ったジョイは、敬遠されがちな獣人にもかかわらず、バイト仲間からも客の女性たちからも大人気だった。それを見て、アナリーズは自分では彼に釣り合わないと尻込みをしてしまった。
今になって思えば、そこで萎縮して何もしなかったのが悪かったのだろう。
ひょんなことから、ジョイが好意を寄せているのがアナリーズであると、彼と同じ大学の女子たち、それもかなり派手で苛烈な性格の集団に知られてしまったのだ。
『年上のおばさんのくせに』
『地味女がどういうつもり? いい加減ジョイに付き纏うのはやめて』
仕事中のアナリーズを呼び出し、文句を言うだけ言って帰っていく嫌がらせが始まった。それも一人や二人ではない。
若く、可愛らしい女の子たちからとはいえ、敵意に満ちた視線は怖い。こうも呼び出されては商会の業務に支障が出るのではと、アナリーズの心はどんどん萎縮していった。
幸運だったのは、彼女たちの呼び出しが礼を欠くものだったこともあり、職場の面々が皆アナリーズに同情的だったことだ。
「すいませーん、アナリーズって女を呼んでもらえます?」
きゃぴきゃぴとした若い女の子たちの声が商会内に響く。またかと立ち上がろうとしたアナリーズを制したのは、同僚のフランクだ。以前ジョイに紹介した、面倒見のいい猫獣人である。彼は営業部でアナリーズは経理部なのだが、営業部から経理部に来ると商会の受付が視界に入るので、彼女たちの言動を見るに見かねたのだろう。
「アナリーズはここにいて」と小声で告げた彼は、そのまま彼女たちに近づく。
「お待たせいたしました。面会をご希望ですか? ですが、名前だけでは……その者の所属する部署か、せめてフルネームを頂戴できませんでしょうか」
「えっ!? ね、ねえどうする? そんなの知らないわよ」
「適当に言えばいいわよ。それより、この人もなかなかカッコいいじゃない。なんか、優しそうだし。ついでに名前とか聞いちゃう?」
「やだもー、今日の目的は違うでしょ。あのぅ、部署とかよく分からないんですけどぉ。年上のおばさんのくせに私たちのジョイにしつこく付き纏っている女がいて困っててぇ」
「アポイントメントは取っていらっしゃいますか?」
「え!? い、いえ。ただ、ちょっと話したいだけで、何もそんな……」
「そうですか。業務時間中ですので、ご要望には応じかねます」
きっぱりと告げたフランクは、表情だけは笑顔のままで続ける。
「それから、所属商会員保護の観点から身元不明者との面会は許可できませんので、念のために皆様のお名前と連絡先を伺ってもよろしいでしょうか。商会員への付き纏い及び当商会への営業妨害と判断した場合には騎士団へ通報の上、保護者及び学校等へ連絡をさせていただくことになりますが……」
「ひ……っ!?」
「な、何よっ! いいわよ、みんなもう行きましょ!!」
フランクの毅然とした対応に怖気づいたらしく、女の子たちは慌ただしく帰っていった。小さく悲鳴が上がったのは、学校に連絡が行くことを恐れたのだろうか。
確かに、彼女たちから見れば、アナリーズはおばさんに違いない。ジョイに付き纏っているつもりはないのだが。
「ふう……もう帰ったから大丈夫だよ。しっかりと脅しておいたから二度と来ないんじゃないかな。今日の子たちは、だけどね」
「ごめんなさい、フランク。貴方にばかり迷惑をかけてしまって」
「いいよ。別に君が悪いわけじゃないんだから気にしないで。ただ、あの子たちが言っていたジョイって、前に君から紹介された獣人国からの留学生だろ? 僕がいるときはこうして代わりに対応できるからいいけど、運悪く君しか手が空いてない、なんてことがあったら心配だよ。あの手の女の子たちってしつこいしさ。何かあってからでは遅いし、あんまり続くようならしっかりと彼に伝えた方がいいんじゃないか?」
「……そうよね。少し対応を考えてみるわ」
答えて、アナリーズはそっと息を吐く。
最近ではこうして、同僚たちがジョイ狙いの女の子たちを追い払ってくれるようになったが、これ以上迷惑はかけられない。アナリーズもいい加減覚悟を決めるべきだろう。
留学したての頃ならともかく、男女問わず知り合いもたくさんできて、ジョイもこの国に随分馴染んだようだ。危ないところを助けてもらったことからなし崩しに一緒に過ごしてきたが、これ以上は彼のためにもよくない。
自分が彼のためにできるのはここまでだろうと、アナリーズはジョイと少しずつ距離をとり始めた。
しかし。
「……あのさ、何で急に会えなくなったの? わざわざ仕事場までの出勤ルートまで変えちゃってさ。もしかして、アナリーズは俺のこと避けてる?」
しばらくして、いつもの残業帰りにジョイに待ち伏せをされたのだ。
助けられたあの日と同じように、暗闇の中で彼の目が煌めいている。少しだけ違うのは……あの日、酔っぱらいに向けられていた殺気がアナリーズ自身に向けられていることだ。
「その……今日はたまたま……」
「嘘だね。俺も最初はそう思ったけど、ここのところ毎日道を変えてるでしょ。普段通らないような道まで通ってさ。ああ、でもアナリーズがやっているソレ全部無駄だから。俺、すごく鼻がいいから、調べようと思えばアナリーズが今どこにいるか、どの道を通ったかもすぐに分かるし」
アナリーズのすぐ傍まで来てスンっと大袈裟に鼻を鳴らすジョイ。
その距離感のまま猫獣人特有の鋭い眼光を向けられて、あの日とは逆に居心地の悪さゆえにアナリーズの方から視線を逸らそうとしたが、両手で頬をがっちりと押さえられて阻止されてしまった。
そして――
「あの……ジョイ? ……何を……んぅ……」
彼の端正な顔が近づいてきたと思ったら、そのまま唇を奪われた。ジョイのザラリとした温かい舌がアナリーズの唇をこじ開けて入り込み、未知の刺激が好き勝手に口内を蹂躙する。
「ぁ……ジョ……ゃめ……」
「嫌だ。アナリーズ……お願いだから」
――俺を、避けないで。
夜の闇に貪るような水音とジョイの懇願するような囁きが途切れ途切れに響く。
アナリーズは、まるで自分が内側から貪られていくように感じてクラクラと眩暈がした。
その初めての感触に軽くパニックを起こし、いったい何が起こっているのか分からぬままにはくはくと空気を求めて、与えられる刺激に必死で抗っていると、ようやくジョイの唇が離れた。
「……っは、はあ……ふう……はぁ……」
すっかり力の抜けた下半身を支えるためにジョイにしがみついたまま、一生懸命に呼吸を整えるアナリーズ。
それを見て、ジョイは機嫌よくゴロゴロと喉を鳴らす。
「へぇ……? なんだ、恋人でもできたかと思ったけど。……もしかしてキスも初めてなんだ?」
先ほどまでの殺気はどこへやら、ジョイはアナリーズの唾液で光る自分の唇を色気たっぷりにぺろりと舐めて、楽しそうにゆったりとしっぽを揺らした。
「ど……うして、こんな」
「どうして? アナリーズが俺から逃げるからでしょ。人がせっかく本能を抑えて我慢しているのに、俺のこと避けて全力で逃げるとか……そんなの追うに決まってるじゃん。俺、これでも結構分かりやすく好意を伝えていたつもりなんだけどな……もしかして、アナリーズに俺の気持ち全然伝わっていなかった?」
「……だって、私年上だし」
「関係ないよね?」
「私よりもお似合いの子が」
「ソレは俺の意志と関係なくうるさいメスどもが勝手に言っているだけでしょ。……ああ、安心して。ソイツらもう排除したから」
瞬時に殺気が戻り、ジョイの目がギラリと怪しく光る。
「あ、あの……排除って……?」
「ああ、誤解しないで。乱暴なことはしてないよ。興味ないって分からせるために、言葉で説得しただけ。そしたら泣き出して二度と俺に近づいてこなくなったよ。だって、俺にはアナリーズだけいればそれでいいからね?」
ジョイの獲物を狙う目がアナリーズに向けられる。
暗闇に光るキレイな目。
アナリーズを傷つける者を徹底的に排除して、怪しく誘う目。
……アナリーズを惹きつけてやまない目。
ジョイに助けられたあの日、彼の瞳に魅せられたアナリーズの心はとっくに彼に捕らわれていたのだと、ようやく悟った。
そこからジョイの行動は素早かった。
アナリーズのアパートにジョイが泊まることが増え、少しずつ部屋にはジョイの荷物が増えていった。いつの間にか彼のアパートは解約されていて、気付いた時にはジョイはアナリーズのアパートに居座っていた。
完全に同棲状態だ。
それでも結婚するまではそういう行為はしたくない、というアナリーズの願いをジョイは聞き届けてくれた。
夜の公園で酔っぱらいに襲われかけて怖い思いをしたアナリーズ。
あの日助けてくれた彼は、しっかりとアナリーズの意思を尊重してくれて、無理やりにそういった行為に及ぶことは決してなかった。獣人としての本能なのか春先などにつらそうにしているときはあったが、それでも必死に耐えてくれた。
……まあ、その分、季節に関係なく唇だけは散々に求められたし、結婚後にはそれはもうすごいことになってしまうのだが。
アナリーズとジョイが正式に結婚をしたのは、学生だったジョイが卒業し、就職してから半年ほどが経った時のこと。
彼はアナリーズが働く商会とは別の、王都でも指折りの大商会へと就職した。
貴族が経営している大手商会ながらまだ獣人雇用の実績がなく、ジョイが獣人としては初めての雇用になる。
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