もうやめましょう。あなたが愛しているのはその人です

堀 和三盆

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1巻

1-2

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 獣人への理解が乏しい老舗しにせ商会だけに、ジョイの実力がどれほど評価されているのかがよく分かる。ジョイからアナリーズもウチに来ないかと誘われたが、そこまでの大手商会となるとアナリーズには流石に少し荷が重い。
 幸い、商会同士で得意としている分野が違うため、アナリーズとジョイが別の商会で働いていても特に問題はない。アナリーズも長く勤めた商会に愛着があったため、お互いにそれぞれ別の商会で、このまましばらくは共働きを続けることにした。
 仕事終わりに待ち合わせをして。食事をしたり、買い物をしたりして、同じ家に帰る。
 仕事は忙しかったが、それだけのことがとても幸せに感じられた。
 結婚してもジョイの嗅覚が鋭いのは相変わらずだった。仕事上のやり取りで職場の獣人と話したときなどには、ヤキモチを焼かれてしまう。

「またアイツの匂いがする……」
「アイツ?」
「ほら、前にアナリーズから紹介された猫獣人」
「ああ、フランクのこと? そりゃあ彼はうちの商会で断トツの成績を誇る営業のエースだもの。経理の私とは仕事上で接する機会も多いわ。それに、彼には商会に入った頃から獣人との接し方なんかについて相談に乗ってもらっているの。そのおかげで他の獣人商会員たちとの仕事もやりやすくなって、上司からも評価されるように……って、ジョイ!?」

 そこでジョイにソファーへと押し倒されてしまった。なるほど、不快そうな顔をしていたのはそれが原因だったのかとアナリーズは納得する。ジョイはしきりにアナリーズの肩口を気にしているようだ。スンスンと鼻を鳴らしてしつこく匂いを嗅いでいる。

「だからって、こんなに匂いが移るか?」
「仕事に集中しすぎて声をかけられても気付かなかったのよ。それで軽く肩を叩かれて。用事が済んだらすぐに離れたし、別に変な関係ではないわ。そんなことで疑ったりしたら流石に失礼よ」
「それでもアナリーズがアイツの匂いを付けているのは嫌だ。脱いで」
「……もう」

 ここからなし崩しにそういうことになるのがいつものパターンとなっている。ヤキモチを焼いている間は何を言っても聞いてくれないので、こうなったらジョイの気が済むまで付き合うしかない。
 何度も彼とはただの同僚だと説明しているのだが、ジョイとのゴタゴタがあった頃に顔を合わせたせいで敏感になっているのだろうか。他の獣人商会員に対するものと比べても明らかに反応が過剰なので、もしかしたら相手が同種族というのも関係があるのかもしれない。
 けれど、それを言うならヤキモチを焼きたいのはアナリーズの方だ。ジョイはまったく気付いていないようだが、話を聞いているとジョイの同僚女性たちから彼への好意がすごい。怖さばかりが強調されて何かと噂されがちな獣人だが、こと女性から男性への恋愛感情に関しては種族の違いなど何の障害にもならないらしい。
 とにかく、長身で顔の整ったジョイはモテてモテてモテまくるのだ。
 アナリーズが大切にされているのは分かるし、彼が裏切ったりしないのも理解してはいるが、こういうのは理屈ではないのだと思う。だからこそ、ジョイの方もそうなのかもしれない。
 そういった些細な問題はあったが、仕事以外のほとんどの時間を一緒に過ごし、何か気になることがあればその都度話し合っていたおかげで、アナリーズとジョイはとても幸せな毎日を過ごしていたと思う。
 この先もずっと、この人とこんな風に過ごしていくのだろうと――過ごしていきたいと、アナリーズは心の底から願っていた。


 けれど、長年、経理畑で同じ仕事をしているアナリーズとは違って、ジョイの出世は早かった。結婚してから一年も経つとどんどん重要な仕事を任されるようになり、帰宅が遅くなることも増えた。
 それでもジョイは時間の許す限り送り迎えを続けてくれたし、それが無理なときでも自分が安心できるようにとアナリーズに防犯用の高価な魔道具を持たせてくれた。
 魔法や魔術、魔道具といったものは、国によって認識が異なる。この国では、そういうものもある、というだけで、実用化どころか扱える者すらほとんどいない。アナリーズが渡されたのは、ジョイが自分の勤め先である大手商会の伝手つてを頼って国外から入手した、希少な魔道具だ。
 流石にこれは無駄遣いではと思ったが、ジョイと出会った経緯を考えると、一概にそうとも言い切れないのが痛いところだ。
 結局はそれでジョイが安心できるのなら、ということでアナリーズも受け入れた。
 アナリーズの方も仕事が忙しくなってなかなか家で食事をれないジョイのために、弁当を作ることにした。
 ジョイは少し子供っぽいところがあって、外食が続くと自分の好物だけしか食べようとしないのだ。それでは栄養面が心配だし、ジョイもアナリーズが用意したものなら喜んで食べてくれる。
 そして、この弁当作りは節約のためでもあった。
 大手商会で働くジョイの給料は既にアナリーズのそれを大きく超えている。彼には留学のために借りた奨学金の返済があるが、それでもアナリーズが働かなくてもなんとかやっていけるくらいには貰っている。
 ジョイはアナリーズが主婦業に専念することを望んでいるし、忙しい彼を支えるためにはその方がいいのも分かってはいたが、将来を考えると、アナリーズは今のうちに少しでも二人の貯蓄を増やしておきたかった。
 この感覚の違いは、二人の種族が違う、ということも原因だった。
 異なる種族の間では、どうしても子供ができづらい。
 猫獣人なら猫獣人同士、犬獣人なら犬獣人同士、というように、獣人は同種の方が圧倒的に子供に恵まれやすい。種族を超えても獣人同士ならばそこまででもないらしいが、獣人と人間との間では桁違いに子供に恵まれる確率が下がる。
 もちろん、個人差はある。同じ商会の仲間にはアナリーズたちのような獣人と人間の夫婦も多くいるが、子沢山の夫婦がまったくいないわけではない。
 なかでも『つがい』の場合はすぐに子ができると言われている。

つがい……か)

 アナリーズにはそれがどういうものなのか、つがい同士だとしたら何が変わるのか、まったく分からない。
 聞いたところによると、それは生まれつき決まっている、獣人にとっての運命の相手なのだそうだ。だから、獣人がつがいに出会えば一目で分かるし、つがい同士が結ばれれば、ただでさえ高い獣人の能力が底上げされる。
 いわばこの世界の主神である女神様からの祝福のようなものらしい。
 そして、つがいの種族は子供の授かりやすさと同様に同種族同士が一番多く、次に種族を超えた獣人同士、極々まれに獣人と人間がつがい同士、という場合もあるのだそうだ。
 しかし、残念ながらアナリーズとジョイはつがいではない。
 ジョイがどこか呑気なのは、子供ができづらい組み合わせであることを承知で結婚した、というのもあるのだろう。しばらくは二人の時間を楽しみたいから、と彼に言われて避妊しているが、そもそも子供に恵まれるとしても随分先の話だろう、と。
 それでもアナリーズは愛するジョイとの子供を望んでいるし、愛する子供には最高の環境を与えてあげたい、と思っている。将来的に授かるかどうかは未知数ではあるが、できれば経済的な面で子供に不安な思いをさせたくないのだ。
 楽観的なジョイは、その時までに自分が稼ぐから大丈夫だと言うけれど、彼の母国である獣人国は遠いし、何かあって二人で里帰りするとなればそれだけで今ある貯金は空になる。
 いつ何があるか分からないからこそ、アナリーズとしては備えだけは万全にしておきたかった。
 ――せめて、二人がつがいであったなら。
 そう思うことはあるが、アナリーズは不思議なくらいジョイのつがいについて考えることはなかった。
 それは、『つがい』という存在の神秘と共に、その希少性についても知っているからだ。
 この国にいる獣人の数はまだまだ少ない。
 獣人ばかりが住まう獣人国内ならいざしらず、人間ばかりのこの国でそこまでつがいとの出会いを心配することはない、と頭のどこかで思っていた。
 同僚の獣人たちの間ですら、『妻の妹のボーイフレンドが、知り合いにつがい同士のカップルがいると言っていた』とか、『死んだ爺ちゃんが若い頃につがいの夫婦に出会ったことがあるらしい』とか、要するに当事者ではなく噂話で聞く程度の遭遇率なのだ。
 だから、羨ましいと思いこそすれ、夫のつがいについてはそんなに心配することはないと思っていた。
 少なくとも、この時までは。


 始まりは些細な変化だった。
 ある日、ジョイが真っ青な顔をして家に帰ってきた。
 基本的に獣人は体が丈夫で、病気をしたり体調を崩したりということは、人間と比べて圧倒的に少ない。出会ってから今まででこんなことは初めてだった。
 心配になったアナリーズは獣人の商会員が仕事中の事故でお世話になったことのある、獣人の診察ができる病院に行こうと言ったのだが、ジョイは寝ていれば治るからと言って頑として頷いてはくれなかった。
 普段であれば、『大袈裟だなあ』などと言いながらも心配されたことを喜んで、それでアナリーズの気持ちが落ち着くならと、しぶしぶでも行ってくれるのに。
 翌日になってジョイの顔色は多少戻ったものの、それを境にボーっとしたりため息をついたりと、どこか上の空になってしまった。
 あれほど毎晩のようにアナリーズを求めていたのに、そんな元気もないようだ。少しいい雰囲気になっても途中でやめてしまう。
 一ヶ月ほどそんな状態が続いた時だ。

「ちょっと、獣人国に行ってこようと思うんだ」

 突然ジョイが言い出した。
 急なことで驚いたが、考えてみたら二人の結婚式の時すらジョイの家族は出席していない。彼の両親への結婚の挨拶は書面で交わしただけだった。
 単に獣人国が遠すぎて移動が困難というのもあるのだが、元々ジョイたちのような生粋の獣人は、子供が成人して親元から独り立ちした後は、よほどのことがなければ干渉しないものらしい。
 それでもジョイは親元を離れてこの国に留学してきて、アナリーズと出会ったことで獣人国へは帰らずそのままこちらで就職、結婚をしてしまった経緯がある。
 実家に置いてある荷物もそのままだろうし、いつをもって親元からの独立とするのかは非常に曖昧あいまいだ。
 獣人ならではの家族の付き合い方は分からないが、少なくともアナリーズは人間だ。一度くらいはジョイの両親に挨拶をしたいと考えていたので、これはいい機会かもしれない、と思った。

「分かったわ。ちょっと急だけど……しばらくの間お休みを貰えないか職場に相談してみるわね。ジョイの御両親に御挨拶もしたいし」
「あ、いや。あっちには一人で戻るつもりなんだ。だからアナリーズは無理して仕事を休まないでいい。獣人国は遠いし明日には出発したいから、俺はもう寝るね」
「え……明日!? でも」
「いいから。用事が済んだらすぐに戻ってくるから、アナリーズは何も心配しないで。その、大丈夫だから」

 そして翌朝。ジョイは本当に一人で獣人国へと旅立ってしまった。


「……さん。レーベンさん。アナリーズ・レーベンさん!」
「あ、ハイッ! ごめんなさい、少し考え事をしていて」
「ああ、いや……それはいいんだけど。真面目な君が仕事中に珍しいね。どうかしたの?」

 フランクからフルネームで呼ばれて、ようやく声をかけられているのが自分だということに気が付いた。
 結婚してアナリーズ・サンティマンから夫の姓であるアナリーズ・レーベンへと変わったものの、旧姓と比べると馴染みが薄いせいか、名字で呼ばれるとどうしても反応が鈍くなる。
 それも、ジョイとこのまま結婚生活を続けていければいずれ解消されるのだろうが……
 アナリーズは自然とそんなことを考えてしまい動揺した。

(ジョイと結婚生活を続けていければって……嫌だわ、縁起でもない。『続けていければ』じゃなくて、『続けていけば』でしょ。続けていけるに決まっているじゃないの)

 余計な考え事のせいで、いつの間にか仕事の手も止まっていたようだ。今の時期はまだ急ぎの仕事がないとはいえ、仕事をため込んで後々大変な思いをするのはアナリーズ自身なのに。
 アナリーズは声をかけてきたフランクから交通費の請求を受け取ると、慌てて支払いの処理をした。

「その……ちょっと気になることがあって。でも、大したことじゃないの。はい、貴方が立て替えた分の交通費」
「ありがとう。……でも、本当に大丈夫か? 顔色が優れないけど。僕にできることなら相談に乗るよ。もしかして……獣人の旦那さんのこと?」
「ええと、その……。……実は、貴方にちょっと聞きたいことがあるんだけど。お昼に少しいいかしら?」

 心配そうに耳をぴくつかせている同僚の姿を見たら、つい、そんな言葉が出てしまった。
 実は、フランクとアナリーズは同郷の幼馴染でもある――らしい。自分のことなのに『らしい』としか言えないのは、アナリーズがそのことをまったく覚えていないからだ。
 地元に獣人はほとんどいなかったから耳やしっぽを見れば忘れるはずはないと思うのだが、どうやら彼はそれらを隠して生活をしていたらしい。アナリーズの地元には獣人差別はなかったが、王都の現状を思うと気付かなかっただけかもしれない。人間視点と獣人視点では感じ方も違うだろうし、事情が事情だけに詳しく聞くのははばかられてしまう。
 それでも彼の方はアナリーズのことをよく覚えていたらしく、商会で初めて顔を合わせた時から部署の壁を越えて何かと世話を焼いてくれていた。田舎者のアナリーズにとって、王都でのたった一人の同郷ということで、困ったときにはついつい彼を頼ってしまっていた。
 日頃からさりげなく獣人の習性などを話してくれるおかげで、アナリーズは他の獣人商会員との仲も良好だ。そういった意味では獣人であるジョイと仲良くなれたのも、彼のおかげであると言える。
 そして、そんな彼からの助言もあって、結婚してからは匂いを気にするジョイのために彼との個人的な交流は避けていた。獣人は自分のテリトリーに他の獣人の匂いを持ち込むのを嫌うらしい。日頃のジョイの態度を見るとそれも頷ける。フランクの方からも一線を引かれた言動をされていて、それを冷たく感じないのは、彼の方から率先して気遣ってくれていた日々の積み重ねがあるからだ。
 だから本来ならばフランクと接するのは避けるべきなのだろうが、現在ジョイは留守にしているし、行き先を考えればこちらへ帰るのは少なくとも一ヶ月後。
 しかも、相談したいのは他ならぬジョイのことだ。
 獣人の中でも夫と同じ猫獣人のフランクなら、ジョイの不可思議な行動も理解できるかもしれない。そんな思いですがるようにフランクを見上げる。

「……っ、もちろん。じゃあ、昼休みにね」

 一瞬動揺が走ったように見えたが、交通費を受け取り去っていくフランクのしっぽは、ゆっくりと揺れていた。機嫌がいい時の仕草だ。一瞬の違和感は気のせいだったのだろう。
 夫と同種族ということもあり、その後ろ姿を見ているとどうしても様子のおかしかったジョイのことが思い出されるが、今は仕事中だ。
 アナリーズはもやもやとした気分を切り替えて、早く昼休憩に入るために目の前の業務に没頭していった。


「――よし、と」

 急ぎの仕事を終わらせて、どうにか時間通りに昼休憩に入ることができたアナリーズは、迎えに来てくれたフランクと共に勤め先近くにある飲食店へと移動し、悩みを打ち明けた。

「え。旦那さんが突然一人で獣人国に?」
「ええ、そうなの。少し前から何か様子がおかしくて……心ここにあらずというか。ため息ばかりついているし」

 裏路地にあるこの店は、立地からあまり流行ってはいないものの、その分細かなリクエストにもこたえてくれるので、商会に所属している獣人たちのひそかなお気に入りとなっている。
 今日は仕事で外に出ている商会員が多いからか、同じ商会に勤める客はアナリーズとフランクだけ。他は少し離れた席に人間の客が数人いるのみだ。他の商会員に話を聞かれてしまうことを少しだけ危惧していたが、これならば問題ないだろうとアナリーズはホッとする。とはいえ、獣人対応のできる店というのも少ないので、二人で食事をしながら……となると選択肢はないに等しいのだが。

「うーん……様子を聞いている限り特に病気とかではなさそうだけど……ケガもしてないとなると、あっちで急用でもできたんじゃない? 元留学生なら、獣人国で本人がやらないといけない手続きのどれかを忘れていたとか」
「ああ、なるほど。でも、それなら私も連れて行くんじゃないかしら? 普段の彼なら絶対にそうすると思うんだけど」
「いや? 流石に獣人国は遠いからなあ。往復だけで一ヶ月はかかるだろ。旦那さんも仕事があるだろうし、用事を済ませたらとんぼ返りする強行軍になるはずだ。そうなると僕たちみたいな獣人は良くても人間にはつらいよ」
「そういうものなの? 実は私、この国から出たことがなくて」
「うん。僕は営業職だから国内外問わずあちこち行かされるし、獣人国へも行ったことあるけど、あれは正直キツかった。しかも、往復一ヶ月と言っても天候によってはもっとかかるし。レーベンさん、今から急に一ヶ月以上の休暇の申請できる? 罪悪感を覚えないかって意味で」
「それは……、……無理かも」

 できるできないでいえば、ため込んだ有給休暇を一気に消化すれば可能だろう。しかし、引継ぎもろくにしないまま長期間職場を離れるのは、考えるだけで胃が痛くなりそうだ。

「だろ? ああ、それに、基本獣人は個人主義だけど、それでもやっぱり個人差はあるからね。特に、君の旦那さんは留学したままこっちで就職したんだろ? 家族仲が良くて親離れが早かったならホームシックもあるかもしれない。子供っぽいって言われるかもしれないけど、獣人の郷愁って、故郷を思い出すものを不意打ちで見ると、一気にくるんだ。僕も君と再会した時、本当に懐かしくて気持ちが浮ついちゃったし」
「そうだったの……」

 自分と再会した前後でフランクの様子がおかしかった覚えはないが、日頃穏やかで落ち着いている彼でさえ『一気にくる』のであれば、まだ若いジョイは尚更かもしれない。

「あとは……まあ、流石にそんなことはないか。そこまで考えだしたらキリがないし……」

 フランクが何やらブツブツと呟くのを聞き流しながら――話さなければいけないことならもっとはっきり言うだろうという信頼ゆえだ――、やはり、獣人のことは獣人に聞いてみるものだ、とアナリーズは思った。
 同僚から例として挙げられた全てがありえそうに思える。
 ジョイから家族の話はあまり聞いたことがないけれど、自然豊かな故郷の話なんかはよくしてくれていたし、自然の少ない王都での暮らしを考えればホームシックはあるかもしれない。だとしたら、あまり弱った姿をアナリーズに見せたくなかっただけの可能性もある。

「どう? 僕の話少しは参考になった?」
「ええ、すごく参考になったわ。ごめんなさい、こんなことで貴方の貴重なお昼休みを奪ってしまって」
「いいって。君みたいに獣人のことを理解しようとしてくれる人間は貴重だからね。君のおかげで随分とこの商会も居心地がくなったもの。まあ、僕みたいな猫獣人は少し気まぐれなトコがあるし、あまり深く考えなくていいと思うよ」

 ゆらゆらとのんびりしっぽを揺らす同僚に話を聞いてもらったら少し気持ちが軽くなった。
 確かに考えすぎていたかもしれない。

「分かったわ。ふふ……安心したらお腹空いちゃった」

 目の前にはランチセットがあるが、半分ほどが手付かずだった。アナリーズは急いでそれに手を付ける。
 夫のジョイは仕事上の付き合いもあるため弁当の持参は月のうち半分ほどだが、アナリーズは節約のためにお昼は毎日手作りの弁当で済ませている。
 今日は食欲がなくて弁当作りをサボってしまったが、アナリーズにとっては久しぶりの外食なのだ。残すなんてもったいない。
 自分の分をとっくに食べ終えて、のんびりと食後のお茶を楽しんでいたフランクがそんなアナリーズを優しく見つめる。

「はは、良かった。ようやく食欲も出たみたいだね。せっかくだから、旦那さんがいないこの機会に日頃できないことでもやったら? ほら、友達と美味おいしいものを食べに行くとか、同僚と飲みに行くとかさ。伴侶持ちの獣人は執着心が強いからそれも難しいでしょ。僕で良かったら愚痴を聞くくらい付き合うよ」
「ありがとう。でも、大丈夫。話を聞いてもらったおかげでスッキリしたから。そうだ、せっかくだから貴方が言う通り、この機会に部屋の大掃除でもやろうかしら? あの人お気に入りのソファーから動こうとしないから、すぐ毛だらけになっちゃって困っていたのよ。考えてみたら、掃除だって今がチャンスよね!」

 その言葉に残念そうな目をした同僚には気付かず、アナリーズはご機嫌で残っていた昼食を次々に片付けていった。


 そうして商会が休みの週末、どうせやるなら徹底的に掃除をしようと思い立ち、アナリーズは自宅で忙しく動き回っていた。

「これでよし、と。こまめに掃除をしていても、結構汚れってたまるものなのね」

 アナリーズは掃除の手を止めて、額の汗を拭った。
 やり始めたらきりがないのは分かっていたが、元々アナリーズは凝り性なのだ。昔から何かにハマり込むと、一日中そのことだけに費やすことが多かった。
 商会に入りたての頃は異なった価値観を持つ獣人商会員とのやり取りを円滑に進めるためだけに、一日中王都にある図書館にこもって獣人に関する書籍を読み漁っていたこともある。それでも分からないことはフランクに聞いた。
 真面目と言えば真面目だが、それだけ他者との関わりが少なかった、とも言える。
 子供の頃は、近所にたまたま年老いた獣人の学者が一人で住んでいて、よくその人に勉強を見てもらっていた。
 田舎町、しかも今より更に獣人が珍しい時代ではあったが、偏見の目で見る者もおらず、穏やかな老獣人は自然と町に溶け込んでいた。かなりの高齢で、現在の王都で言われているような力強い印象がなく、いわゆる『陽だまりの中でお昼寝している老猫』のイメージそのものだったからかもしれない。
 何の研究をしているのかはよく分からなかったが、気のいい彼はよく近所の子供たちを集めて勉強を教えてくれていた。アナリーズだけでなく、フランクも一時期そこで学んでいたらしい。残念ながら記憶に残っていないが、それでも先生が獣人なのだから他に獣人がいたとしても何の不思議もないし、あの勉強会に混ざる幼いフランクを想像すると、しっくりくる。
 老獣人から遊びの延長のように教えられる勉強はとても面白くて、その後両親を早くに亡くしたアナリーズが奨学金を貰いながらも勉強を続けられたのは彼のおかげと言っていい。
 結果、獣人に対しては彼の印象が強く、獣人という種族そのものを怖いと思ったことはないまま大人になった。 
 王都に住むアナリーズの世代で、こういう感覚の人間は珍しいそうだ。後になって聞いた話だが、就職のため、王都にある商会で面接試験を受けた時に『この先ウチの商会は獣人国との取引に力を入れていく予定なんだ』と面接官に言われて満面の笑みになったのは、アナリーズただ一人だったらしい。そのおかげもあって、アナリーズは無事に今の商会で雇ってもらえることになったのだ。
 そういった意味ではアナリーズは恩師である獣人学者に就職先まで面倒を見てもらったことになる。
 残念ながら進学のため地元を離れている間に老学者はどこかへ引っ越してしまったらしく、お礼を言えず仕舞いになってしまったが、彼の存在は今もアナリーズの胸の中にしっかりと残っている。

「……そういえば先生っていったい何の獣人だったのかしら?」

 獣人だったのは間違いないが、そもそも獣人に種族があることすら理解していなかった頃のことなので正直よく分からない。老猫のイメージがあるが、ネコ科の獣を祖とする獣人は耳だけだとあまり区別がつかない、ということを就職してから知った。しっぽでも覚えていれば少しは違ったのだろうが、あいにく教科書や黒板を見るのに忙しくてしっぽの記憶はまったくない。
 散々お世話になっておいて薄情なことこの上ないが、アナリーズにとって恩師である先生はあくまでも『先生』であって、彼が獣人であることは彼を構成する要素の一つでしかなかったのだ。

「……先生がもしも猫獣人だったら、私が親しい獣人って、猫獣人ばかりなのね」

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