魔王と勇者のPKO 2

猫絵師

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癒し

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アーケイイックが動いた…

フィーアの南部侯に送った使者は王子だったと報告を受けた。

余程親密と見える。

《毒蜘蛛》に出した急ぎの依頼は未だ果たされず、何の報告も無い。

戦争をしようと言うのに情報が足りない…

「…不愉快だ」と老人は呟いた。

カーテンから射し込む陽光は穏やかで気持ちが良いはずなのに、彼は苛立たしげにカーテンを広げ、暖かな光を遮った。

彼はカーテンを閉めて、一枚の肖像画に歩み寄った。

用事があるのは、絵の裏の小さな空間に隠れた相手だ。

「《蜘蛛》のかしらに依頼を続けるように伝えよ。

確実に、間違いなく殺せ」

独り言のようだが、彼は確実に指示を出していた。

「《黒い狐》は確実にやれ!

多少目立っても構わん!必ず殺せ!

あの目障りな化け物め…いつまでもこの世に未練を残しよって…さっさとくたばれば良いものを…」

老人はブツブツと恨み言のように憎しみを口にした。

彼にとって、偉業を為すにはヴェストファーレンは邪魔すぎた。

あの飛燕の旗が邪魔をして、フィーア国内への侵攻は全て阻まれた。

あの男の息子と名乗る者達が幾つ屍を晒しても、あの黒い狐は未だ傷一つ無い。

毛並みも変わらぬまま我々の前を横切る。

目障りで堪らない。

腸が煮える…

私はもう髪の色も変わったというのに…

「アーケイイックの現状も探るように伝えよ。

魔王と本格的に手を組むようなら奴らは人類の敵だ」

そうなればフィーアは人の枠を外れる。

他国にも大義名分を持たせて同時に侵攻する事も可能だ。

彼はそれを待っている。

上手くいけば、フィーアの中央からヴェストファーレンやヴェルフェル侯爵を切り離すことが出来るかもしれない。

「冒険者にも、アーケイイックを荒らして魔王の動きを探るよう依頼を出せ。

略奪ができるのだ、奴らも喜ぶだろう?

あわよくば、勇者を奪還する機会が巡ってくるやもしれん」

命じた内容だけを聞けばどちらが魔王か分からない。

テューダー公爵は目の前の肖像画を見上げた。

穏やかな視線で空を見つめる男の肖像画。

若くはないが、年老いてもいない。

男として一番良い時期のものだろう。

穏やかな琥珀色の瞳、長い濃い灰色の髪の男は、貴人の身なりで首から下げたルフトゥの丸い十字架に触れていた。

彼が崇拝するオークランドの伝説の大賢者の肖像画。

アンバー・エリオット・ワイズマン卿の肖像は、国の安寧と発展を願うものだ。

私は彼になる…

心に刻んだ思いは憧れた青年の頃から変わらない。

オークランドが過去の栄光を取り戻すその日まで、狂ったように彼を追い続ける。

例えそれが、あの大賢者が望まぬ事だとしても…

✩.*˚

「イール!」

飛竜の背で、ありえない声を聞いた。

驚いて声のした方を見て思わず声を上げてしまった。

「姉上!またそんな事を!」

風の精霊の翼を纏った双子の姉は、長い髪をなびかせて私の乗った飛竜の背に舞い降りた。

「おかえりなさい!」

嬉しそうな声でそう言って、姉上は私を後ろから抱き締めた。

「危ないですよ」と言うと私と同じ顔が不満げに膨れた。

「心配してたのに、会って一言目も二言目も小言なの?」

「…ご心配をお掛けしました。

ただいま戻りました、姉上」

私の返答に満足したのか、彼女は「よろしい」と頷きながら笑った。

「でも飛竜の上でふざけるのは感心しませんよ。

私は姉上のように飛べないんです。

落ちたらどうするんです?」

「もう!もっと別に言うことあるでしょう?」

「あと、飛ぶならその服で飛ばないで欲しいです

せめて中に何か…」

「せっかく心配して飛んできたのに酷いわ!」

「はいはい、ありがとうございます」

相変わらず少女みたいな自由な人だ。

でも姉上の姿を見て少し気持ちが明るくなった。

「何とか帰ってこれました」と笑って見せると姉上はまた「おかえりなさい」と言ってくれた。

「酷い目には会わなかった?」

「ラーチシュタットで手痛い歓迎を受けましたが、ヴェストファーレンの息子が助けてくれました」

「息子?

まさかあの…」

姉上が嫌なものを思い出したような顔をした。

それもそうだろう。

私も彼に再会した時、多分姉上と同じ顔をしていた。

「トリスタンです。

彼が居なければ帰るのがもっと遅くなりました」

「…感謝…すべきなんでしょうね…」

姉上の反応があからさまで面白い。

フィーアに行く前なら私も同じ反応をしただろう。

それでも今の私はフィーア帰りだ。

「イール、貴方楽しそうね」

「私からすれば初めての外の世界でしたからね。

珍しい食事や建物も見れました。

アーケイイックとは全く違う国でした」

「そう…」

「私も男ですね。

外の世界を見て少しだけ心が踊りました」

そう言って姉上に振り返ると、彼女は複雑な表情を浮かべていた。

私を抱きしめる腕が、少しだけ強くなった気がした。

「大丈夫ですよ」と笑って、姉の手を握り返した。

「私の国はアーケイイックです」

「…そうね、ここはあなたの国よ」

姉上はそう言って、三回目の「おかえりなさい」を口にした。

私も今度は素直に「ただいま」と応えた。

アーケイイックの風は懐かしい緑の匂いを含んでいた。

✩.*˚

飛竜を兵士に預けて、陛下に報告に向かった。

姉上と外の回廊を歩いていると、城の練兵所のある辺りから轟音と砂煙が上がった。

「また…」と姉上が眉をひそめた。

「また?」

「ルイがヒルダの相手をしてるの…

盾の強度を確認するためと言って、二人共無茶するんだから…」

「…なるほど」

少し元気になったようだな…良かった…

「それにしても…随分激しいですね」

「時々砂や小石が降ってくるから困るのよね…」と姉上は愚痴を言いながら右手を振った。

風の精霊が強い風が吹かせて、舞い上がった砂煙を城壁の外に追い出した。

「行きましょう。陛下がお待ちよ」と言って姉上は何事も無かったようにまた歩き出す。

「ミツルは?」

「侯爵と一緒よ。

体調が優れないみたい…

治癒魔法では効果が出ないわね。

むしろ治癒魔法をかけた方が体調が悪そうで心配だわ。

マリーの薬湯で何とか持っている感じね…」

「そんなことってありますか?」

「不思議よね?

生命力を高めると、普通なら傷の治りが早くなったり、病気を追い出す助けになるはずよ。

それができない身体なのかしら?」

「異常なのでは?」

「そうね、普通の状態じゃないわ。

何とかしてあげたいけど…」

「お手上げですね」と言うと姉上も困った顔で頷いた。

少なくとも同じような病気はエルフでは聞いたことがない。

人間だけの病気なのだろうか?

「ミツルは…彼の世界でもある病気なのでしょうか?」

「人間だから?」

「彼の世界とは文化がだいぶ違うみたいですし、時々我々の知らないことを口にしたりしますから…

ダメもとで訊いてみるのもいいかと…」

私の意見に姉上は考える様子を見せた。

「分かったわ。

でも陛下にご相談してからにしましょう」

姉上はそう言って「行きましょう」と私を促した。

執務室に向かうと、部屋で待っていた陛下が両手を広げて出迎えてくれた。

「よく無事で帰った」と言ってしっかりと抱きしめてくれる腕は、出ていった時と変わらない、優しい父親のそれだった。

「遅くなって申し訳ございません」

「帰りが遅いので心配したよ。

でも、出ていった時より成長した顔をしている。

可愛い子には旅をさせるものだ」

そう言いながら私の肩を優しく叩く。

ヴェストファーレンから預かった手紙を渡すと、陛下は礼を言って受け取った。

「初めての異国はどうだったかね?

何か糧になるような事はあったかね?」

「短い滞在でしたから、少し文化に触れた程度です。

それでもアーケイイックとは違う文化に触れました」

「うむ、そうか。

良い経験だ、大事にしなさい。

お前を息子として誇りに思うよ」

陛下は嬉しそうに私を称えた。

その言葉を聞いて、ヴェストファーレンの言った言葉を思い出す。

本当に良い父親とはどちらなのだろうか?

陛下は優しい頼れる父親だ。

ヴェストファーレンは厳しさが強かった。

それでも自立を促す、強く育てようとする父でもあった…

「どうしたのかね?」

「なんでもありません」と答えた。

私が無駄に思いをめぐらせているだけで、陛下には関係の無い話だ。

「疲れただろう?

今日明日くらいゆっくり休みなさい。

たまには休暇も必要だ」

「ヴェルフェル侯爵に手紙を届けたらお言葉に甘えさせて頂きます」

「手紙か、ヴェストファーレンからかね?」

「モーントシェンメンからのも預かっています」と答えると陛下は嬉しそうに歓声をあげた。

「おお、それは喜ぶだろう!

侯爵はすっかり元気を無くしていたからね。

良い土産を持って帰ってきてくれた!」

陛下の喜ぶ姿に不安が過ぎる。

「そんなに悪いのでしょうか?」と問うと陛下はため息を吐いて頷いた。

「病気が病気なのでな…

マリーも珍しく手探り状態で、もう少し情報が欲しいところだな…

心労のせいか、急に病状が悪化した」

「その事ですが、陛下…」と姉上が口を開いた。

「ミツル様の世界にも似たような病気がないか相談してもおよろしいでしょうか?」

「ミツルにか?彼はそういった知識もあるのかね?」

姉上の言葉に陛下が驚いて問い返した。

「分かりません。

でももし何かヒントになるようなことがあれば伺いたいと思いまして…」

「ふむ…まぁ、そうだな…この際致し方ないか…」

あまり乗り気では無い様子だが、「私から訊ねてみる」と仰った。

「二人とも、気にかけてくれて感謝する。

私の子供達は皆優しく頼りになる子達だ」

そう言って姉上と私を抱き締めた。

子供の頃のように、二人一緒に抱き締められた。

抱きしめる腕は少し窮屈になったが、それでもあいも変わらず愛情を注いでくれる。

やっと帰ってきた実感が私の中に溢れ、少しだけ目頭が熱くなった。

✩.*˚

「あ、イール、おかえり」

ヴェルフェル侯爵の部屋にイールとアンバーがやってきた。

イールは少し疲れた顔をしていたが元気そうだった。

「侯爵は?」と彼が訊ねたので、「寝てる」と答えた。

さっき眠ったところだったから起こすのも忍びない。

「手紙を預かってきたんだが…後の方が良いだろうか?」とイールは手紙を手にしていた。

封筒は二つ握られていた。

二つという事は、侯爵のとヒルダのだろうか?

アンバーから僕に話があると言う事だったので、その場にイールを残して部屋を出た。

「イール、疲れてるんじゃないの?」

「まぁ、そうだが、自分で届けたいそうだ。

渡したら休みに行くだろう」

アンバーはそう言うと、僕を連れていつもの散歩コースを歩いた。

無意識に歩くのだろう。

彼の散歩コースは、のんびり緑に覆われた庭園を歩いて、噴水まで行って戻ってくるというお決まりのパターンだ。

「話って何?」

「侯爵の病気の事だ」と彼は答えた。

今まで訊ねても教えてくれなかったのに、急にそんなことを言い出したので僕も驚いた。

「君は人一倍お節介だからね。

彼の病気を知って無駄に悩むと行けないから言わなかったんだ」

「酷い言われようだな…

何で急に喋る気になったのさ?」

「侯爵の病状が芳しくない…

このままだと来た時より悪くなる恐れがある」

「なるほど…」猫の手も借りたいってやつか…

「君たちの世界にも似たような事例があるなら知りたいと思ってね、それで相談しようと思った…」

そう言いながら彼は池に立ち寄った。

「ご覧、エマヌエルだ」と彼は池の中の白い睡蓮に似た花を指さした。

白い花びらが水面に浮かんでいる。

「あの花には可哀想な物語があってね」と彼は教えてくれた。

エマヌエル少年は、魔女を怒らせた王子の身代わりにされて呪われた。

呪いで苦しんだ末に、泉の女神に救われた。

ボロボロの身体は泉に癒されたが、水を出ると、呪われた苦しい状態に戻ってしまう。

可哀想な少年は泉の女神に頼んで水草に姿を変えた…

それがあの花だ、と教えられた。

「侯爵の病気はエマヌエル病という難病だ。

根本的な治療法もないし、治癒魔法も逆効果だ」

アンバーはそう言って池を後にした。

「症状はエマヌエルの呪いに似てる。

発熱、関節の炎症、皮膚疾患、虹彩異常、目眩、失神、貧血の症状、最後には感染症や多臓器不全で死に至る」

「そんなに?!」驚いて大声を出してしまった。

めちゃくちゃやばい病気じゃん…

でもなんかそれ聞いたことある気もする…

「原因はよく分からない、似たような症状の病気を知らないか?」

「それって別の人に感染する病気?

セックスとか、血液とか粘膜を通して感染する?」

「いや、聞いたことないな…」

「ならHIVじゃないな…先天性?家系的なやつ?」

「家族には同じ症状の者は居ないと聞いたが、そこまで詳しくは分からないな…」

「僕も専門的なことは分からないけど、免疫異常でそんな症状が出るのは知ってる。

リウマチとか膠原病とかサイトカインストームって言うやつ」

「リウマチは分かるが、サイト…」

「サイトカインストームってのは、簡単に言うと、病気の原因になる物が体に入った時に、ブロックしてくれる免疫細胞が間違えて自分を攻撃してしまう免疫疾患みたいな…」

「…身体の中で同士討ちが始まるのか?」とアンバーが訊ねた。

「まぁ、そんな感じ」

「なんでそんな事になるんだ?」

「だから知らないよ」専門外だわ!

「調べ物した時にウィキペディアとかで見ただけだからフワッとしか覚えてないよ」

「何だ?それは?」アンバーが珍しく困っている。

そりゃそうだ、この世界にはスマホもパソコンもインターネットも無い。

「あー…なんて言うか…皆で知識を持ち寄って作る辞書みたいなやつで、特定の方法で閲覧出来るヤツ」

「…分からん…」

あーあー…大賢者様が頭抱え込んじゃったよ…

僕だって専門外だから分からない…

この世界じゃネットは繋がらないしな…

インターネットって今思えばめちゃくちゃ便利だったよな…

「…あ」そういえば、と思って電源を切っていたスマホを取り出した。

「何かね?」

「PDFなら残ってるかも…」

「また呪文だ…」

「略語だよ、僕は魔法は使えない」

そう言って以前調べ物に使ったPDFデータを確認する。

うっわぁ…全然整理出来てないからなかなか出てこない…

蕁麻疹が出た時に、アレルギーのこと調べてた時のやつにどっか残ってたはず…

後で読むだろうと、とりあえずPDFだけダウンロードして放っておいたやつだ。

整理してないってことは消してないはずだ…

「皮膚疾患とアレルギー、膠原病の事…」

「まるで呪文だ」とアンバーが呟いた。

彼は僕が見てたスマホを覗き込んだが直ぐに見るのを止めた。

「どこの言葉だ?」とやや困惑気味に訊ねた。

僕とずっと会話してるじゃないか?

「日本語だよ」

「すまんが、全く読めない…」

「えぇ…?僕と会話出来てるのに?」

「だから、前にも言ったが、君のそれは勇者のスキルだ。

私たちには君の言葉は一番馴染みのある言語で聴こえるし、君には私達が何語で話しても君の理解できる言語で聞こえるというわけだ」

「そうでした…」ってことはこの手のやつはほぼ無意味か…

せっかくPDF残ってたのに…

僕じゃ書き出しても翻訳できないしな…仕方ない…

そう思ってスマホを引っ込めようとすると、アンバーに手首を掴まれた。

「諦めるな、勇者よ」いきなりの魔王モードに困惑する僕に、アンバーの赤い目が光った。

「君が全部音読して、私が書き起こせば問題ない!」

「はあ?」音読?

「徹夜仕事になるかもしれないがそのくらい問題ないだろう?」

「え?ちょっと待って、全部?」

嘘だろ?かなりあるぞ!残してた僕のバカ!

「君は勇者だろう?

人の命がかかってるんだ、そのくらいで文句を言うとは情けないぞ!

さぁ、今からやるぞ!」

アンバーの変なスイッチが入ってしまった…

こうなると彼は満足するまで終わらない。

「…徹夜かぁ…」

項垂れる僕の肩に手を回してアンバーはご機嫌だ。

「人の役に立てるんだ、勇者として誇りたまえ!」

「なんか僕の知ってる勇者の貢献の仕方と違う気がするんだけど…」

「君には剣を振るうより、そういうのがお似合いだよ」

彼はそう言って僕を執務室に監禁したのだった…

✩.*˚

ルイ王子に訓練の礼を言って、日が高いうちに大人しく部屋に戻った。

服は埃まみれだし、汗で肌着が張り付いていて気持ち悪い。

それでも他の兵士たちがいるところで肌を見せないと約束したからそのままだ。

あの狼男、そういうのはこだわるらしい…

「別にあたしは気にしないのにな…」とボヤいた。

ルイ王子は随分面倒見が良い奴だ。

勇者には勇者の、あたしにはあたしの能力に合わせて客観的に意見を述べ、訓練を課した。

あいつは素手でないにしても、あたしの防殼に容赦なくヒビを入れて割った。

魔法適性が無いと言っていたが、パワーとスタミナが桁違いに高い。

魔王から拝領した手甲と剣を駆使してあたしより上手に戦う。

拳闘術はオリヴィエより上だし、剣の腕もシャルルのような技巧はないが正面から潰しに来る。

それに、視野が広い。

さすがあいつらをまとめてるだけはある。

それなのに口癖が『未熟者だ』ってのはどういう意味だ?

「上には上が居るな…」

ルイ王子と戦ったら、多分あたしじゃ勝てない。

あたしこそ未熟者だ…

でもだからこそまだ強くなれる…

トリスタンを置いて行ってやる!

でもその前に身体を洗って着替えだな…

「ヘイリー、戻ったよ」

侯爵に宛てがわれた部屋に入って奥の寝室を覗いた。

静かだ、寝てるのか?

いつも誰かしら居るのに気配がしない。

静かに部屋に入るとベッドの脇に黒い大きな塊があった。

黒い固まりが動いた。

前に酒を届けに来た狼だ。

同じ奴か?

「…お前、イール殿下の…」

そう口にしようとして、ベッドの向こうに置かれた椅子に視線が留まった。

首を傾げるように項垂れて、腕を組んだままイール王子が眠っている。

銀色の髪が顔を隠しているが間違いなく彼だ。

フィーアに行ったと聞いていたが、帰ってきてたんだ…

椅子で寝るなんて危なっかしいな…

向こうのソファに運んでやろうか?

でもその前に寝顔見てやろう。

狼に静かにしろよ、と指を立てて合図して、ご主人様に忍び足で近付いた。

その間、狼は静かに床に伏せていた。

あいつはあたしを敵視してないみたいだ。

飛びかかってくる様子も無いので、安心して王子の顔を覗き込んだ。

姉ちゃんに似て綺麗な顔だ。

睫毛まで銀色なんだな…

しかも長い、あたしより長いかも知れない…

あー…綺麗だな…ずっと見ていられる…

でも瞳も綺麗なんだよな。

あたしの瞳みたいなくすんだ緑じゃなくて、エメラルドみたいなキラキラした色…

やっぱりあたし、こいつの事好きだな…

眺めていたら、イール王子の身体が少し動いた。

椅子の上で絶妙なバランスを保っていた身体が傾く。

思わず手を出してしまった。

「あ…」宝石みたいな緑の瞳が驚いていた。

つい断りもなく腕を思いっきり掴んでしまった。

慌てて手を引っ込めたが、彼は幽霊でも見たような顔をしてる。

「…ヒルダ?」

「悪い、痛かったか?倒れそうだったから…」

「すまない、付き添っていたのに寝てしまっていた」

彼はそう言ってベッドに視線を向けた。

ヘイリーはまだ眠っている。

それを見てイール王子は胸を撫で下ろしていた。

私が「いつ帰ってきたんだ?」と訊ねると、彼はまだ眠そうな顔で答えた。

「昼過ぎに戻った…

暗かったからつい寝入ってしまった…すまない」

そう言ってイール王子は眠い目を擦ると、あたしの姿を見てクスリと笑った。

「酷い格好だ…着替えたらどうだ?」

そういえば戻った時のままだった。

砂まみれで叩けば埃が立つくらいだ。

「美人が台無しだ」と彼は笑った。

本当にそう思ってるのか?あんたの方が綺麗な顔してるだろうに?

青を含んだ深い緑の瞳が、瞬きする度に煌めいて宝石みたいだ。

「フィーアはどうだった?」と訊ねると、彼は「ラーチシュタットで止められた」と答えた。

「トリスタンに会った」

「トリスタン?」あいつまたちょっかい出したのか?

嫌な話になるかと思ったが、イール王子の口から出たのは意外な言葉だった。

「危うく拘束されそうになったのを彼が助けてくれた。

フィーアの料理を馳走になって、一晩泊めてくれたよ。

人に囲まれるのに疲れていたから本当に助かった」そう言ってイール王子は思い出したように笑った。

「あのちっさい家に?王子様を泊めるような家じゃないだろ?」

そう言いながら、トリスタンの家を思い出した。

一般の兵士と変わらないこじんまりした家だ。

あいつは自分で管理できる分しか物を持たない主義だから、家も小さければ持ち物も少ない。

それでもイール王子は気にしていない様子で、むしろ楽しそうだった。

「そうか?キレイにしてたから苦にはならなかった。

寝床も譲ってくれて、親切に着替えも貸してくれた。

彼に会ったら礼を言ってたと伝えてくれないか?」

「そんなの当たり前だ」

あんたをソファや床で寝かせたらあたしが許さない。

それにしても、あいつは何を考えてそんなに世話を焼いたんだ?

見返りなんか気にするような奴じゃない…

ましてや、親父殿に気を使うような息子でもない…

「ヒルダに、『メソメソするなよ』と伝えろと言っていた。

ちゃんと伝えた」

「あいつ何様だよ…」

呆れた…王子を伝言役みたいに使いやがって…

イール王子はトリスタンの悪口は言わなかった。

あたしはそれが意外だったが嬉しくもあった。

「シュミット殿はアインホーン城までお送りした。

あとは貴殿らの父上が良くして下さる事だろう」

「そうか…良かった、ありがとう…」

ライナー、ちゃんと帰れたんだな…

そう思うと少しだけ心が晴れた。

安心して眠りな、ライナー…

あたしも帰ったら、花を持って、顔ぐらい出してやるよ。

「ヴェストファーレンは陛下と侯爵にしか手紙をくれなかった…

貴殿には不要だと…そう言っていた」

「そうか、親父殿らしいな」と答えて苦笑が漏れた。

あたしが越えれない壁では無いと言いたいのか?

相変わらず厳しいな…

でも、慰めを素直に受け取れるほど、あたしはしおらしくない。

この距離感があたし達には丁度いい。

あたしらはそういう関係だ。

「何だよ?」

イール王子の目を見て笑った。

あたしを可哀想と思ってるんだろ?

「別に可哀想じゃないからな、普通だ。

むしろ手紙なんて珍しいものを寄越したら、説教か更迭かって不安になる」

「…そういうものか?」

「そんなの、それぞれだろ?

あたしの場合はそうってだけさ」

「じゃあ辛い時はどうするんだ?」とイール王子が訊いた。

エメラルドの瞳があたしを真っ直ぐ見つめている。

えらく食い下がるじゃないか?

そこまで感情移入してくれなくていいのにさ…

「そんなん自分でなんとかするさ」と答えて話を打ち切った。

可哀想だと思っても、あんただってあたしを満たしてくれるつもりは無いんだろ?

それならあんまり期待させるなよ…

「身体を洗ってくる」

殿下にそう告げて、寝室から出ていこうとしたら、急に後ろから手首を掴まれた。

「ヒルダ、貴殿と二人で話がしたい…」

驚いて振り返ると、王子は男みたいな真剣な顔をしていた。

その表情を崩さぬまま、王子様みたいな顔であたしに言った。

「聞いてくれるなら、後で私の部屋に来てくれ…

嫌なら、それでもいい」

「何の話だよ?」

「私が男で、貴殿が女だという話だ」

分かりにくい、回りくどい言い方をする。

期待すんな、ヒルダ…

そう自分に言い聞かせた。

どうせ、思ってたような話じゃないさ。

ガッカリするだけだ…

「ここで言ってもいいが…どうする?」とイール王子は表情を崩さずあたしを見つめてる。

言えるのか?あんたに?

「…まどろっこしい言い方は嫌いだよ。

あたしはバカだから駆け引きなんて無しだ」

「分かった」と答えて、あたしの手首を掴んでいた手が離れた。

彼の唇が動いて音を発した。

言うはずのない言葉を聞いた気がした。

あまりのことに信じられずに固まる。

彼は言うだけ言って照れくさそうに笑った。

「そういうことだ…気が向いたら私の部屋に来てくれ、待ってる」

「…今、なんて?」

そんなわけない…あんたはその言葉を言うはずがないんだ!

あたしの無駄な期待で耳がおかしくなっただけだ!

綺麗な顔が笑った。

晴れやかなスッキリとした顔で、彼はあたしが聞き漏らさないようにもう一度言ってくれた。

「貴殿に、愛してるって言ったんだ」

そう言って一歩歩み寄る。

二人の距離が縮んだ。

顔が近い。

身長分くらいしか離れてない。

でも彼は遠そうにあたしを見上げていた。

こんな煤けた見上げるような女のどこが良いんだよ…

あんたバカだな…

あんたの背じゃあたしには届かないだろ?

あべこべじゃないか?

そう笑って、唇を迎えに行った。

あぁ…やっぱりあんたの事好きだわ…

✩.*˚

目を覚ますとミツルの姿がなかった。

ヒルダもまだ戻ってないのだろうか?

喉が乾いていた。

「ヴェルフェル侯爵」と呼ぶ声に驚いて視線を向けると、そこには黒い肌のエルフの青年の姿があった。

銀色の髪とエメラルドの瞳はペトラ王女の双子の弟だ。

「イール殿下…

無事戻ったのですね」

「侯爵の書状が役に立ちました。

ヴェストファーレンとモーントシェンメンから書状をお預かりしております」

そう言って彼は私の身体を起こすのを手伝うと、持っていた封筒を差し出した。

豪華な金箔を使用した燕の印の封筒と、一緒に差し出されたのは何の印も飾り気もない白い封筒だった。

私が今一番欲しいものだった…

「彼から、必ず渡すように頼まれました。

確かにお渡しした」

「わざわざこのために?」

私が寝てる間ずっと待っててくれたのか?

イール王子は私の手に手紙を握らせて、

「私が預かった中で一番の貴重品です。

今の貴殿にとって、一番の薬だ」と言ってくれた。

胸に熱いものが込み上げる。

この白い飾り気のない封筒を、私はずっと待ち望んでいた…

「私は疲れたので失礼します。

隣の部屋に使用人を置いておくので何かあったら呼んでお申し付けください。

必要なものは何でも用立てます」

「ありがとうございます、殿下…」

「その薬が効くと信じています」

イール王子はそう言って寝室から出て行った。

彼を見送った後、少し迷って、ヴェストファーレンのものを先に開封した。

しっかりした封蝋を開けるのに苦労する。

誰かが開けてくれると思ったのだろうか?

左手だけで開けるのに少し手間取った。

中から現れた箔押しの便箋には、近況報告のような事務的な文面が男らしい強い筆跡で綴られていた。

少しも乱れない筆跡と、理路整然とした文面は味気ない。

手紙の最後は、身体を大事にするように、迷惑をかけぬように、と子供に言うような言葉で締めくくられていた。

無駄のない彼らしい手紙だ。

もっと面白いことを書いてくれてもいいのに…

検閲されるのを恐れたのか、差し障りのない文章に味気なさを感じた。

彼の手紙をしまい、もう一通に手を伸ばす。

手紙の封は指先で簡単に開いた。

左手だけで開けることを思って緩く封をしてくれたのだろうか?

それとも早く読んで欲しかったのだろうか?

厚みのせいで封筒の中で便箋が引っかかっていた。

封筒の端を咥えて引っ張った。

「ははっ」便箋を開いて笑いが漏れる。

ウィル、君ってやつは…

慌てて用意したのだろう。

所々乾いてないインクが滲んでいた。

読む前に視界が涙で滲んだ…

この酷い手紙の向こうに、彼の慌ててる姿がありありと浮かぶ。

纏まらない文面と滲んだ文字は彼自身だ…

ありがとう、ウィル…

愛してる…

君は私の一番の薬だ…

癖のあるGとLの文字…

君の筆跡だとすぐに分かる。

手紙の内容なんかどうでもいい、ただこれが届いた事の方が重要だ。


具合はどうか?

ちゃんと食べてるか?

無理してないか?

不自由してないか?

退屈してないか?


ずっと質問ばかりだ。

君は本当に心配症だな…

自分の事も少しは書いてくれないと、どうしてるのか分からないだろう?

質問攻めの文面が終わると、今度は会いたいという文章が溢れ出す。

私もそうさ…

でもここに来て私はまだ何も成していない。

ただ寝込んだだけだ…情けない…

自分で君を遠ざけたくせに、私は君に会いたくてたまらない。

でもこんな姿では会えないね…

君はまた怒るんだろう?

自分無しじゃダメじゃないか、って怒りながら、私を信じた自分を責めるんだろう?

そんな再会は嫌だな…


生きて、また会おうと言って別れた。

「…生きるよ」

自分に言い聞かすために約束を口にした。

涙が溢れて手紙に落ちた。

このまま、こんな所で死ねない。

私の心臓はまだ動いている。

意識だってはっきりしている。

私は、まだ生きている。

折れかけていた心の芯が、また真っ直ぐに背筋を伸ばした。

テントウムシのように、私は自分の光を見つけた。

もう、エマヌエルのように諦めたりしない。

君のために、何度だって明かりの方に向かうと心に決めた。

寝台の真横に置かれた水差しの水をグラスに注いで、喉を潤した。

たったそれだけだが、私にとってはそれすら難しかった事だ。

自分で一つずつこなしていくよ。

横になっている時間も少しずつ減らすよ。

食事も増やせるように努力する。

助けを借りないで、自分の足で歩く。

次に会う時は、いい意味で君を驚かすことにするよ。

君が私をここに置いていったことを悔やまないように…

君が私を信じて良かったと思えるように…

私を癒してくれた礼だ。

この手紙に見合うだけの褒美を君に用意する。

✩.*˚

強い風が吹いた。

紫煙を蹴散らし、私の髪を弄んだ風は、落ち葉をばら撒きながら息子たちの墓を荒らして通り去った。

「酷い風だ」と彼女は言った。

白い墓石に張り付いた枯葉に、「あたしの男だよ」と言って叩き落とした。

彼女の白くキレイだった手も、働き者の荒れたゴツゴツした手に変わった。

シワも増えたし、顔も少しキツくなった。

亜麻色の髪にも白髪が混ざっている。

「親父さん、こんなところで一人で油売ってて良いのかい?」

彼女はそう言って笑った。

「お前こそ、店は暇なのか?」

「愛した男の死んだ日くらい覚えてるさ」

彼女はそう言って墓石に火を灯した煙草を供えた。

煙がすぅっと空に昇って風に消える。

「トリスタン様が、あたしがもっと若ければ抱いてやったのにって言ってたよ。

やっぱりカスパー様の兄弟だ」

「お前は人気者だな」

彼女は美しい娘だった。

彼女がたくさんの男の中から選んだのはヴェストファーレンだったが、私ではなく息子のカスパーだった。

短く切りそろえた針金のような硬い黒髪に、明るい茶色の瞳の快活な青年が脳裏を過る。

そんな二人の愛も戦争で儚く散った。

「惚れる男を間違えたかね?」と彼女は言ったが、悪い選択だったとは思わない。

あいつは私の自慢の息子だ。

最後の瞬間までヴェストファーレンを誇って逝った。

「あいつは良い奴だった。

あいつだけじゃなくて、ここに眠る息子達は皆誇れる子供達だった…

悪いのは…私だ…」

「どうしたのさ?

ヴェストファーレン様らしくないね」

彼女の水色の瞳が驚いていた。

「…もっと子供を大事にしろと言われた」

私なりに息子達を愛したつもりだった。

しかし、イール王子が間違ってるとも言い難い。

私は子供達を次々送り出しては死なせた…

燕の旗に包まれて帰る子供達は、誰一人安らかな死を迎えることは無かった。

首だけで帰ってきた息子はまだマシな方だ。

判別できないような肉片を息子と言われた事もあった…

それでもいつか、私を継ぐヴェストファーレンが現れると信じて、弟子の中で優秀な者にヴェストファーレンの名を与え続けた。

ヴェストファーレンは四十五人の息子と一人の娘のうち、もう二人しか残っていない。

そろそろ私も疲れていた…

「悪い親父だ…」

早足に消えていく雲を見上げてため息を吐いた。

高さの違うところに浮かんだ雲だけが、置いて行かれるようにゆっくり動いていた。

「…もうヴェストファーレンは嫌になったのかい?」

レギーナは墓を撫でながら私に訊ねた。

「いいや」と答えて私は煙草を口に運んだ。

カノッサの煙は苦くて重い。

それでも慣れてしまうと普通のヤツじゃ満足出来ない。

「こいつらの手前、そんな事は言えんよ」と強がった。

レギーナは少しだけ安心したような顔で笑った。

「良かったね、もしそれ以上弱音を吐いたらあたしがカスパー様の代わりにぶん殴るところさ」

「まだそこまで老いぼれてはいないさ」

「そうだね、親父さんは若い姿のままだ…」

その言葉に、彼女も歳をとったのだとしみじみと感じた。

私は全てに置いて行かれる。

まるで古い文学書のように、流行り廃れる本の中に取り残されるように一人ぽつんと取り残される。

その本を手に取るのは限られた人間だけだ…

必要とされるが、万人受けはしない…

時には絶賛され、時には酷評され、時には必要とされ、時には廃される運命だ…

「捨てられるまでヴェストファーレンのまま生きるさ」と豪語した。

『人に飽きたら私の所においで』と言ってくれた不死者の王には悪いが、私はこの土地にこだわっている。

ヴェルフェル侯爵とヴェストファーレンと、大切な子供達の眠るこの土地を愛してる。

捨てれるものか…

百年も守ったのだ…

失いながら、歯を食いしばって耐えてきたのだ…

今更引けるものか…

「そうだよね、あんたはまだやれるもんね」

彼女はそう言って私の腕を軽く叩いた。

「《燕》が例の親子を見つけたそうだよ」と彼女は話題を変えた。

「《頑固な老人》の近くに居るから連れ出しにくいみたいだ。

随分厄介な依頼じゃないか?

もうしばらく時間がかかるよ」

アレン・サッチャーの妻と娘は王都に住んでいるということか…

あの男、意外と重要な人物だったのかもしれないな…

恩を売って損は無さそうだ。

「そうか…できるだけ急ぐように伝えてくれ」

「戦争が始まる前には方を付けるさ。

《燕》達を無事に戻すのもあたしの仕事さ」と彼女は頼もしく答えた。

彼女に預けている《燕》は他国から情報を持ち帰る役目を担っている。

彼等は私の貴重な財産だ。

彼女は情報をもたらす吉報の鳥の止まり木だ。

「ありがとう、レギーナ」

「礼ならカスパー様に言っておくれよ。

あの人が居なかったら、あんたはただの客で、あたしはただの酒場の娘だったんだから」

そう言ってレギーナは燃え尽きた煙草の吸殻を拾った。

もう帰るのだろう。

店の仕込みだってあるんだ。

彼女は去り際に私に忠告を残した。

「しばらく《燕亭》には来るんじゃないよ。

例の怪しい奴がまだ出入りしてる。

あたしは上手くやるからあんたは下手に動くんじゃないよ。

何かあればいつもの方法で伝えるよ」

「分かった、無理するなよ」

「あんたみたいな軽薄な男のために無理なんかするものか。

いい加減あっちこっちで女を口説くのは止めな、そのうち背中から女に刺されるよ」

「それは勘弁だな」と笑った。

息子のために義理堅く生きてる彼女からすれば、私の女癖の悪さは目に余るのだろう。

私は君も含めて全員本気で口説いているよ。

誰も私に連れ添ってくれないだけなんだがね…

エルフでも人間でもない私に連れ添ってくれる女性などもういないさ。

もし居たら、運命だと思うけどね…

「そのうち落ち着くさ」と答えて墓地を離れる彼女を見送った。

「…いい女だな、カスパー…」

そっと白い石に触れて話しかけた。

お前を失って、もう三十年もたっているんだぞ…

「お前に似合のいい女だ」

彼女を褒めて、カスパーのためにもう一本煙草に火を付けた。

この煙草の火が消えたら、また元の強い父に戻るつもりだ。

もう少しだけ、あと少しだけ心が癒えたら、お前達の誇れる父に戻るから、今だけは見逃してくれ。
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