燕の軌跡

猫絵師

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ツェツィーリア

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『おう、ラルフの子だな』

親父のハルバードを担いだ俺が《雷神の拳》の門を叩いた日、ワルターの親父さんが俺を迎えた。

団長は俺の親父を覚えていたらしい。

『素行は悪かったが、いい傭兵だった』と言って、団長はあの日から何かと俺の面倒を見てくれた。

エマにも仕事を回してくれた。おかげで妹は娼婦にならずに済んだ。

実の親より、親のように思っていた。

「フリッツ、団長の子供になるの?」

エルマーかヨナタンに聞いたのだろう。スーがやって来て俺に訊ねた。

スーは俺の座っていた長椅子に、羽を休める鳥のようにやって来て当たり前のように座った。

ほかの奴なら、放っておいてくれと言ったろうが、何故かスーを追い払う気にはならなかった。

「…分からん」と煙草を咥えたまま、スーの質問に他人事のように答えた。

実感がなかった。

感情としては複雑だ。

「嫌なの?」

「それも分からん」

「自分の事なのに分かんないの?」

「うん、さっぱりだ」

スーの質問は子供のように無遠慮だったが、悪い気はしなかった。

可愛らしい妖精との問答はそのまま続いた。

「君はもっと喜ぶと思ったけどな…」と言うスーは少し残念そうだった。

確かに、本当なら喜ぶべきだろう。

最も敬愛した人間に、自分のこれまでの歩みや功績が認められたと誇るべきだろう。

素直にそうできないのは自分に自信が無いからだ…

「俺は…これだけの男だ」

そう言ってハルバードを握って見せた。

これがあったから今まで何とか食い扶持を繋ぐことが出来た。体躯と暴力しか取り柄のないガキが、立派な傭兵団の団長に拾われ、《英雄》と肩を並べて戦えた。

でも、所詮俺はそれだけの男だ。

「団長なんてなれんよ」

「なんで?」

「学も品も徳も、全てにおいて団長には遠く及ばんからさ…

俺は何も考えずにハルバードを振るって、目の前の敵を薙ぎ払って戦うくらいしか能がないんだ。

ワルターみたいにはなれんよ」

俺の返事に、スーは首を傾げた。

「なんで君は誰かになろうとするの?

君は君だろ?そんな難しい事を考えてるなんて、君らしくないね」

子供の言葉は時として真理を内包している。

「…らしくない…か…」

まだ、付き合いの短い新参者のくせに、妖精のような子供は俺の人となりをよく知っていた。

椅子の上で片膝を抱え、スーは俺の顔を覗きながら、見透かしたような笑顔を見せた。

「君は豪胆で男らしくて、悪い事が嫌いな真っ直ぐな人だ。

仲間とこの団が大好きだ。

団長は、君の事誰よりもよく知ってるから、だから君を選んだんだと思うよ。

君だって団長の事、父さんみたいに思ってるんでしょ?そんな顔してるよ」

「だがな、俺に傭兵団を纏める事なんて…」

「一人で全部するの?仲間がいるのに?」スーはそう言って仲間の名前を上げた。

スーはいつの間にか、隊にいた奴らの名前と顔を覚えていた。本隊だけじゃない。ゲルトやヘンリックの部隊の奴らの事まで把握していた。

ある種の才能だ。こいつは大物になる気がした。

驚く俺を菫色の瞳に映して、「僕だって、遊んでたわけじゃないよ」とスーは笑っていた。

「団長だって、今まで一人で全部してた訳じゃない。ワルターだって、君に頼ったじゃないか?

ヨナタンやエルマー、オーラフやソーリューにも頼ったし、僕にだって仕事を任せてくれた。

それって悪いことなのかな?

僕は頼まれて、必要とされて嬉しかったよ」

子供の言葉に救われた気がした。

「団長やワルターを支えた君が、今度はみんなに支えられる番だ」

スーはそう言って、跳ねるように席を立った。

少しだけ振り返ったスーの紫の瞳と目が合った。

「君の『分からない』は、分からないんじゃなくて、素直になれないだけみたいだね。

答えはもう出てるみたいだ」

「…そうかもな」と少しだけ笑った俺を見て、スーは柔らかく微笑んだ。月明かりで微笑む姿は本当に人離れしていて妖精みたいだ。

「僕はもう寝るよ。またエルマーに『背が伸びないぞ』って言われちゃうから」

「また、明日」と言葉を交わして、立ち去る背を見送った。

確かに…答えは出てるのだろう…

俺にそれを受け入れるだけの度量がないだけだ…

「隣座るぞ」

いつの間にか現れた男は、俺の返事を待たずに椅子に腰を下ろした。

「馬の手配は終わったのか?」

「ふん、誰に物を言ってる?

俺の仕事は完璧だ」

ヨナタンはそう言って、灰色の髪を掻き揚げ、煙草を取り出した。

「お節介なガキはなんて?」と俺に訊ねた。

スーと話していたのを見てたらしい。

「仲間に頼れ、とさ」

「いい事言うじゃないか?お前に今必要な事だ」

ヨナタンはそう言って低く笑った。この男も、少しだけ雰囲気が変わった。何か吹っ切れたような、そんな印象に変わった気がする。

「会計や書記なら俺が引き受けてやる」とヨナタンは俺の荷を半分を引き受けた。

「ワルターと一緒に残らないのか?」

「残ったところで、俺の仕事は大して無さそうだ。

なら高く売り込める方に売り込むさ」

商魂逞しいやつだ。苦笑いが漏れた。

「すまんな…」と口にした俺に、ヨナタンは「違うだろ?」と言った。

「頼れよ」と短くも力強い言葉に胸が熱くなる。

「ありがとうよ」と彼の気遣いを素直に受け入れた。

待っていた言葉を受け止めて、ヨナタンはまた小さく笑った。

彼は、機嫌の良さそうな口元を煙草を持つ手で隠して、「世話の焼ける奴だ」と格好をつけていた。

✩.*˚

「父上、いつまでそうやって強情を張るつもりだ?」

「俺は頑固なんでな、死ぬまでこのままだ」

薄暗い石壁の檻の中、傷の痛みに耐えながら強情を張った。

抵抗虚しく、なだれ込んだ私兵らに捕らえられた。深手を負ったが、死なない程度の処置だけされて、石牢に放置された。

逃げられないからそれすら都合がいいのだろう。

檻の鍵は、俺が後継者を変えるという返事一つだけだ。

手にした灯りを牢に翳して、ギュンターはさらに口を開いた。

「ブランド家の要求を飲むだけで良いんだろう?

一筆書くだけで母上は許すって言ってんだ、簡単なことじゃねぇか?」

「…」

「俺だって、父上の心配をしてんだ」

「そうか?俺を説得しろとあの女に言われたんだろ?」

図星だったのか、ギュンターは口を噤んだ。

家族としての情などありはしないのだろう。そういう子だと知っている。あの女は自分の子すら自分に都合よく育てた。

自分無しでは生きられないようにギュンターを育てた。

逆に、自分以外は必要無いように洗脳した。

そんな人間が人の上に立てばどうなるか、容易に想像出来る。

「お前にビッテンフェルトを譲ることは出来ん」

俺の言葉に、ギュンターは隔てた鉄の格子を殴り付けて怒鳴った。声だけは立派だ。俺のそれによく似ていた。

「ふざけるな!家を潰す気か?!

俺への嫌がらせもいい加減にしろ!」

「お前にビッテンフェルトは重すぎる」

「そんなわけないだろ!

俺はあんたの息子で、ビッテンフェルト家の血を継いでいて、子供の頃からビッテンフェルトになるために教育も受けてきたんだ!

何が不満だ!《祝福》を持って生まれなかったことか?!」

「俺だって《祝福》はない…

お前は団長の器じゃないということだ」

「そんなの、なってみないと分からんだろうが!

俺は上手くやってみせる!俺はビッテンフェルトだ!」

「いいや、お前はビッテンフェルトじゃねぇ…

お前はブランドだ。魂の質が違う」

「あんたはいつだってそうだ!

そんな曖昧な答えではぐらかして、俺を馬鹿にして!

そんなにあの女の息子が可愛いか?!俺が憎いか!認めるのが嫌か!」

ギュンターは、癇癪を起こした子供のように怒鳴り続けながら檻の格子を殴り続けた。

格子は俺の心と同じくこの男を拒否し続けた。

この隔たりは埋まることがない。

息子がブランドを捨てない限り、あの女を捨てない限り、この溝は埋まらない…

恨み言を言い続け、拳を振るう息子の気狂いじみた行為を自分から切り離された思考で眺めた。

そして、自分の決定が間違っていなかった事を確信し、安堵と哀しみの感情が心の中で複雑に入り交じった。

手紙は受理されたろうか?

それ以外はもうどうでもいい。自分の命にすら興味は無くなっていた。

思い残すことは、ワルターと他人のまま死ぬことだけだった…

✩.*˚

「ツェツィーリア、なぜ呼ばれたか分かるか?」

「皆目検討つきませんわ、お兄様」

妹は扇を広げてとぼけて見せた。

「お前の夫はどうした?

騒動が下々の噂になってるぞ」

先日の騒動は私の耳にまで届いていた。

ビッテンフェルト邸での騒動は憲兵が出るまでの騒動に発展したらしい。死人も出ている。

確認しようにも、渦中のビッテンフェルト家の家長の行方が分からなかった。

「ビッテンフェルト家の事はビッテンフェルト家で解決します。

お兄様を煩わせるようなことではありませんわ」

「私の家から私兵を呼び寄せてその言い分は無いだろう?義弟殿はどこだ?」

ビッテンフェルト家は貴族でこそないが、この街の名士だ。商人や一般市民の信頼が厚く人望もある。

噂から暴動に発展する可能性があった。

しかしこの女は現実から目を背けていた。

「家の恥を晒すことはできませんわ。

私共で収めますので、お兄様は干渉しないでくださいまし」

何を勝手な!何かあってからでは責任を問われるのは私なんだぞ!

この愚妹の首一つで済むことならいいが、ブランド家にまで累が及ぶのであれば看過できない。

「義弟殿は無事に戻せ。

これはブランド家家長の命令だ、無視するなら妹とて容赦せん」

ただの脅しではなかった。

それが伝わったのか、妹は目元を歪め、扇の下から舌打ちを放った。

「…承知致しました」

反抗的な目をした女は一礼すると、もう用はないとばかりに踵を返した。

よくもまぁ、義弟殿はこの女相手に我慢しているものだ。

不愉快な女を呼び止める気にもならず見送った。

彼女は何故もああも歪んでいるのか?

兄の私にも理解出来なかった…

✩.*˚

私は…私はどうなる?

いつしか、このドロドロした感情が心を支配していることすら当たり前となっていた…

子供の頃から、美しく聡明で誰よりも優れた乙女だと称えられ、それを信じて生きてきた。

男からの贈り物や、心地よい囀りを欲しいままにしたこの私が!

全てはあの男に輿入れしたことから不幸が始まった。

無粋で何の面白みもない傭兵隊長など、社交界で《ブランドの薔薇》と持てはやされた私には釣り合わない相手だった。

面白くない。

新婚から既に私の心は冷め切っていた。

社交界から切り離され、騎士の家に嫁いだ私はすぐに人の心から忘れ去られた。

年月を重ねる毎に、花のような美しさも色褪いろあせた。今では顔を隠す扇子が手放せなくなってしまっている。

素顔を晒すのが怖い。

誰も私と気付かないのではという焦燥感が、歳を追うごとにさらに濃くなる。

許せなかった…何もかも…

あの男に他に女がいて、子供まで居たことを知った時は気が狂いそうだった。

私はこの窮屈な家に閉じ込められているというのに…

心に悪魔が住み着いた。

心が蝕まれるままに、歪み続けるままに、悪魔が囁くままにそれに従った。

私だけ不幸になるのは許せない。

あの男も地獄に落としてやる…

あの男の愛した女も、子供も、その相手も…

みんな私のように苦しめばいい!

誰一人幸せになどするものか!

憎しみは強くなる。もう後に引けないほど、その感情は私を突き動かし、底なしの沼に嵌ったようにその身を破滅へと導いている。

「私は…ツェツィーリア…私は《ブランドの薔薇》」

過去の栄光に縋ることしか残されていないとは何と無様か…

この私が…

また憎しみの炎が燃え上がる。

この私を捨てるなんて許さない!それならいっそ…

憎しみをたぎらせ、ある場所に向かった。

強情を続けるあの男はもう要らない。私にはギュンターが居ればあとは必要ないのだ。

薬屋を訪ね、主人に銀貨を渡して目的を告げた。

「《ヴィーパー草》の根を頂戴」

「劇薬です、何にお使いですか?」

「犬を殺すのよ。もう随分な老犬で、私に噛み付こうとするから処分するの」と伝えた。

「それでしたら別の物が…」

「いいのよ、言う通りになさい。

お釣りはいらないわ、取っておきなさい」

説明をしようとする薬師にそう伝えて店を後にした。

無味無臭で犬でも気付かない。

前にも使った事がある…

あの時は息子の尻拭いで、遺書も用意して、首を吊ったように工作した。今回もそうすればいい…

誰も幸せになどするものか…

黒い感情が胸の中でドロリと溢れた。

✩.*˚

ドライファッハまでは街道が整備されている。

先を行く南部侯の使者が、後から通る騎馬隊を通すように関所に通達していた。

おかげで大幅に時間を短縮して移動することが出来た。

「親父さん、この馬早ぇな」とカミルは驚いていたが、それもそうだ。俺たちが普段使っているような駄馬じゃねぇ。

ヨナタンが借りてきたのは南部侯の連絡用の軍馬だった。

『ヘルゲンの借りは返す』と侯爵が用立てたそうだ。

替え馬まで付けて随分気前の良い事だ。

無理して三日の工程が二日に短縮されたのは助かった。

目的地に着いたのは夕刻に差し掛かる頃だった。

ドライファッハの街の門をくぐるのは随分久しぶりだった。街の様相もいくらか変わっていた。

「こちらです」とウェリンガーが先導した。

懐かしい《雷神の拳》団の拠点は、俺が知っていた時よりさらに大きくなっていた。

中庭に馬を預け、建物に入った。

中は閑散としていたが、幾人か姿があった。

「ウェリンガー殿!いつお戻りに…」詰めていた親衛兵が慌てた様子で出てきてウェリンガーを出迎えた。

「団長は?」

「それが…」親衛兵らは重く口を開いた。

ここ二日ほど屋敷から出てこないのだという。

「ビッテンフェルト邸の周りには、奥様の私兵と傭兵たちが囲っていて中には入れません。

団長が今どんな状況か分かりません」

「親衛兵が五名ほどついておりましたが、その者らの消息も不明です」次々と報告される内容は旗色の悪い状況だ。

「クソ!遅かったか!」苦々しく舌打ちをしても状況は変わらない。

「ギュンター様とブランド男爵閣下は何と?」ウェリンガーが部下に訊ねた。

「ギュンター様はビッテンフェルト邸を出入りしておりますが、何とも…

団長は体調が悪いとの一点張りで入れてくれませぬ。

ブランド男爵閣下にも問い合わせてはおりますが、未だ動いて下さいません。待つようにとしか…」

「親父さん、時間もない。

俺たちに行けと命令してくれ」

カミルがそう言って俺に号令を促した。

「どちらにせよ、先に行った侯爵の使者もギュンターたちに捕まってる可能性がある。そうなりゃ大ビッテンフェルトの身も危ねぇ」カミルの言うことは一理ある。

「…いいな、ウェリンガー」

「無論です」これ以上の時間は無用とばかりに、ウェリンガーは一行をビッテンフェルト邸に先導した。

邸宅の周りには話に聞いた通り、得物を手にした兵士たちが並んでいた。

「何事だ」と邸宅の中から騒ぎを聞きつけたギュンターが顔を出した。

ウェリンガーの姿を見てギュンターは明らかに動揺を見せた。

「ウェリンガー!何故お前が…それに、これは何事だ?」

「ギュンター様、団長は何処に?」

「ただ体調が悪いだけだ。それよりこれは何のつもりだ?」

「団長に今すぐお目に掛かりたい」

「ならん!出直せ!」ギュンターはウェリンガーの要求を突っぱねた。これでは時間の無駄だ。

「随分偉そうな口を聞くじゃねぇか?母ちゃんのスカートに隠れるだけのクソガキが!」

「なっ!貴様、ヴィンクラー!」天敵でも見たようにギュンターは顔を歪めた。

ガキの時分に俺に怒鳴りつけられたのを覚えているらしい。

ギュンターは慌てて私兵らに守りを固めるように指示を出した。

「お前たち!誰一人として通すな!」

「押し通れ!」

俺の号令に、待っていたとばかりにカミルらが「応!」と答えて邸宅の門に雪崩込んだ。

ビッテンフェルト邸はあっという間に血腥い戦場と化した。

カミルたちは門扉を押し開けて中庭を占領した。質の悪い私兵と傭兵しか集まらなかったのだろう。あっという間に中庭を奪われ、ギュンターは本邸に逃げ込もうとした。

「逃がすな!」

「あいよ」カミルの強弓がキリキリと音を立て、引き絞った弦が矢を放った。

悲鳴をあげてギュンターは地面を転がった。

腿を貫通した矢は勢いそのままに地面に刺さった。

「あぁぁぁ!足が!足がぁあ!」

「でかい図体の割に、ひ弱なお坊ちゃんだ」とカミルは悲鳴を上げてのたうち回る大男を鼻で笑った。

「傭兵なら、このぐらいの怪我普通だぜ。

腕は無事だろ?まだまだ戦えるぜ」

「そう言うな、手当してやれ…」

「あいよ」軽く応じてカミルは手際よくギュンターを縛り上げて回収した。

「お前ら!こんな事してタダで済むと思うなよ!」額に汗を浮かべながら悪態吐くギュンターに、カミルは意地悪く笑った。

「へぇ、まだ元気そうだ。どれ?もう一本どうだい?」

酒でも勧めるかのように次の矢を番えるカミルに、さすがのギュンターも顔を青くした。

「お、俺を、殺す気か?!」

「そうだな。俺は親父さんの言う事しか聞かないからな…」

「ヴィンクラー!助けてくれ!頼む!殺さないでくれ!」ギュンターは迷わず命乞いに走った。

情けない男だ…こいつがあのグスタフの子だと思うと悲しくなる…

「グスタフは何処だ?」

俺の質問にギュンターは言葉を詰まらせた。

口を噤んだギュンターの真横でカミルが無言で矢を番えて弓弦を引いた。

「ち、地下にいる!お願いだ!止めてくれ!」

「地下の何処だ?」カミルは一切容赦ない。矢は今にも放たれそうで弦がキリキリと鳴いた。

「石牢に入れられてる」

「…親父を牢に入れてんのか?」カミルの目が怒りに燃えた。引き絞った弓弦から手が離れた。

強烈な音を立てて放たれた矢が、ギュンターの足ギリギリを掠めて地面に刺さった。

カミルは矢を放った手でギュンターの髪を鷲掴みにして、鬼の形相で頭を揺さぶった。

大の大人が失禁するほど恐ろしかったらしい。ギュンターはガクガクと震えるだけの人形になってしまった。

「てめぇに、息子を名乗る資格はねぇ!反省も要らねぇ!この場でぶっ殺してやる!」

珍しく感情を剥き出しにしたカミルはダガーに手を伸ばした。余程許せなかったのだろう。

ダガーを構えた手を掴んで止めた。

「カミル、時間が無い捨てておけ」

「親父さん!」

「そいつにそんな価値もねぇ、お前の名誉に傷が付く」仮にもグスタフの子であることに変わりはない。

カミルにこの馬鹿を殺させる訳にはいかなかった。

「チッ!」カミルは分かりやすく舌打ちをして、ダガーを捨て、ギュンターから手を放した。

女々しく啜り泣くギュンターをその場に残し、本邸に踏み込んだ。中は既にウェリンガーたちに制圧されている。

「地下牢は何処だ?」

俺の問いにウェリンガーは顔を歪めて絶句した。

俺だって同じ気分だ…

何とか持ち直したウェリンガーは「…こちらです」と本邸の裏に回った。

部下に両開きの重い木の扉を開けさせ、暗い石の階段に踏み込んだ。

奥から呻き声が聞こえる。物音に気付いて慌てて階段を登ってきた女と鉢合わせた。

ビッテンフェルト夫人だ。

「何者です?!」

「久しぶりだな、《ブランドの薔薇》」皮肉たっぷりに美しかった頃の呼び名を口にした。

「もう見る影も無いな」と吐き捨てた俺を睨んで彼女は手のひらを閃かせた。

平手打ちをしようとした手をカミルが止めた。

「無礼者!手を離しなさい!私はビッテンフェルト夫人ですよ!」

彼女は掴まれた腕を振りほどこうと暴れた。

それでもカミルは彼女の手首を放さずに、さらに力を加えた。

「親父さんを殴ろうとした悪い手だ」と低く呟くと、握力だけで彼女の手首をへし折った。

余程機嫌が悪いのだろう。一切の躊躇がない。悲鳴をあげようが喚こうが、カミルは夫人を逃がさなかった。

「グスタフは下か?」と夫人に訊ねた。

「その目で見てくる事ね」と気丈に振る舞い、彼女は俺を睨んで唾を吐いた。学習しない女だ…

止める間もなく、カミルは拳で女の顔を殴った。

それは俺だってさすがに躊躇するぞ…

顔を殴られた夫人は悲鳴を上げて顔を抑えた。

「顔は止めて!」

「許さねぇ、親父さんに唾吐きやがった!その自慢の顔をズタボロにしてやる!」

「カミル、その女の仕置は後にしろ。グスタフを助けるのが先だ」

「…あいよ」カミルは不満げだが、俺の言いつけを守った。

「ヴィンクラー殿!夫人から鍵を取り上げてください!」先に階下に降りていたウェリンガーが下から叫んだ。

牢の鍵か?

「出せ」

「鍵束についてるわ」と答えて夫人は素直に鍵を渡した。ジャラジャラと大量の鍵がぶら下がっている。

面倒くせぇ!

「婆さん、どれだ?」カミルに凄まれて夫人は震えながら鍵を一つ選んで「これよ」と答えた。

顔を殴られたのが余程堪えたと見える。

夫人を部下に預けて地下に降りた。

ウェリンガーは俺の手から鍵をひったくると、急いで錠を外し、中に踏み込んだ。

「団長!しっかりしてください!」

「医者だ!薬師も呼べ!」 

「手を貸せ!部屋に運ぶんだ!早くしろ!」

慌ただしい声が狭い地下牢に響き渡った。

肌が粟立つのを感じ、慌てて夫人の元に戻った。

夫人に掴みかかって怒鳴りつけた。

「グスタフに何をした!」

彼女の勝ち誇ったように歪な笑みに背筋が凍る。夫人は 自分がしたことを誇るように、狂気の瞳で俺を見据えた。

「助かりっこないわ!私の勝ちよ!

あの忌々しい娘のように苦しんで死ぬわ!」

高らかに勝利を宣言して、彼女は何かを口に入れようとした。

慌ててその手を叩いた。夫人の手から何かがこぼれ落ち、足元に転がった。

「返せ!」

落としたものを拾った俺の腕に、気狂い女が縋って噛み付いた。狂犬と化した哀れな女は必死にその何かを取り返そうとした。

カミルが慌てて夫人を引き剥がそうとした時だった。

「ぎゃあああ!」夫人が悲鳴をあげて仰け反った。

「しまった!」

痛みで無意識に《祝福》が反応してしまったようだ。

毒は容赦なく彼女の身体に巡った。

紅を引いた口から赤黒い血がゴボゴボと溢れ、ヒューヒューと喉の鳴る音が続いて彼女は絶命した。

「親父さん、大丈夫か?!」カミルが噛まれた傷を確認しようと手を伸ばしたが、その手を拒んだ。

「待て、触るな、お前も食らうぞ」

悪魔のような狂気を孕んだ女の屍を眺め、ため息を零した。 

最後まで面倒臭い女だった。

生前の彼女が奪おうとした品を確認した。

「何か分かるか?」とカミルに訊ねたが彼も首を傾げた。

「いいもんじゃなさそうだ」

周りに確認したが分からないらしい。

そうこうしている間にウェリンガーが地下室から上がってきた。

「ウェリンガー、夫人の落し物だ、何か分かるか?」

「…植物の根ですか?」チョロチョロと髭のような根が枝分かれしてるように見える。

「薬師に確認させます」と彼は植物片を預かった。

「グスタフの様子は?」と尋ねると、ウェリンガーは唇を噛み締めて苦々しく答えた。

「私には分かりかねます。今水を飲ませて毒を吐かせてますが間に合うかどうか…」

「諦めずに続けろ。

夫人は俺の腕に噛み付いたから毒を食らっちまった」

そう言ってウェリンガーに噛まれた傷を見せた。

腕には小さな歯の痕が並び血が滲んでいた。全く、怖い女だ…

ウェリンガーは部下に、足元に転がった女の死体を屋敷に運ぶように命じた。

「ヴィンクラー殿も治療を受けてください」

「そうさせてもらう」と答えて地下室の入口に視線を向けた。そういえばあの女、さっき娘がどうとか言っていたが、あれは誰の事だったのか?

「夫人は他にも誰かに毒を飲ませたらしい。

《忌々しい娘》と言っていたが…誰の事だ?」

俺の問いに、ウェリンガーは驚いた顔を見せた。

「…まさか…彼女は自殺だったはずでは?」

「知ってるのか?」

「エマ・ウェーバーの事ではありませんか?以前そのように罵るのを聞いたことがあります」

「フリッツの妹か?」ワルターの婚約者だった娘だ。

もしそうだとすれば…

「嫌な置き土産をしてくれたもんだ…」

彼女の毒は死後も残るようだ。この事実をワルターやフリッツに伝えるべきか悩んだ。

「夫人の日記を確認します。何か記録が残ってるやも知れません」

「おう、悪いな」

ウェリンガーと話をしていると、カミルがイライラした様子で俺の腕を引っ張った。

「親父さん、話なんか後だ!早く傷を洗って治療してくれ!あの気狂い婆さんから変な病気が移ったらどうすんだ!」

「お前なぁ…」

爺相手に過保護な奴だ。

そこまで耄碌してねぇってのに…

屋敷の門の外では、騒ぎを聞きつけた憲兵たちの姿があった。

随分派手に暴れたから、このままでは不味いことになりそうだ。

「もうひと暴れといきますかい?」とカミルは不敵に笑った。若い彼はまだ体力が有り余ってるようだ。

「勘弁してくれ、年寄りはもう寝る時間だ」と言って肩を竦めて見せた。

もう胸糞悪いことで腹一杯だ。おかわりをする気にはならなかった。
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