燕の軌跡

猫絵師

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フリーデ

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団長さんは本当にあたしに仕事を回してくれた。

暇があるとチビちゃんを呼んで、おしめの世話までしてくれた。

《燕の団》の連中もチビちゃんを《お嬢》と呼んで可愛がってくれた。

『赤ん坊使って仕事取るなんてね』と嫌味も言われたけど、あたしたち親子に意地悪をすれば、あの団長さんの怒りを買う。

その逆もあって、チビちゃんを気にかけてくれていた女の子たちは、チビちゃんのおかげで仕事を貰えたと喜んでいた。

《燕》の旦那たちが金を落としてくれるから、みんなフリーデを《珊瑚の烏》だと言っていた。

商人が好む象徴で、お金を呼び込む、幸運を運ぶ鳥だ。

「《犬》が仕事くれたよ。ありがとう、フリーデ!」

「今日もあの人来てくれるって!」と仲の良い娼婦たちがきゃあきゃあと騒いでいた。

「髪結の兄さん?」

「うん。あの人が結んでくれると評判がいいんだよ。フリーデのおかげでタダで結ってくれるしね!」

「《珊瑚の烏》様だね」と彼女らはおっぱいを飲んでるチビちゃんを代わる代わる撫でた。

「少し肥えたね」

「やっぱり赤ちゃんはこのくらいが可愛いよ」

「もう、あんたたち《燕》の団長さんに貰ってもらいなよ」と彼女らは好き勝手に囀った。

「無理だよ。あの人奥さんも子供もいるもん」

「でも、これだけしてくれてるんだから、脈アリだろ?

あの人たちいなくなったらどうするのさ?」

そう言われると不安になる…

カナルにいる間という条件で世話してくれてたから、彼らがカナルを去ったら、あたしたちはどうなるんだろう?

また、チビちゃんを抱えて生活していく自信はなかった…

それに、今の甘えた生活に慣れてしまったら、もう、元に戻るのは辛かった。

貰ってくれたらいいのにな…

そうでなくても、この子と二人生活して行けるような働き口を紹介してくれたらいいのに…

でもさすがにそこまで望むのは図々しすぎるよね…

呆れられて、今あるものまで失うのが怖かった。

おっぱいを放したチビちゃんは、お腹がいっぱいになったのか、大きな欠伸をした。

もうそろそろお迎えの来る時間だ。

「よぉ」といつものヘラヘラと笑う男があたしを迎えに来た。

「スーが来いってさ」

「うん」と頷いて、チビちゃんを抱いたまま彼に着いて歩き出した。

イザークは団長さんからは割と信頼されているらしい。

最初はいかにも軽薄そうな印象の彼に、あまり良い印象を持たなかった。

でも、彼は子供の扱いにも慣れてて、チビちゃんをお嬢と呼んで可愛がってくれていた。

「お嬢抱っこさせてよ」

彼はそう言って、あたしの腕から眠そうなチビちゃんを引き取った。

「あーあー、なんかふてぶてしくなったな…」

欠伸をするチビちゃんを抱っこして、イザークは楽しそうに笑った。

彼がチビちゃんをあやして背中をトントンすると、チビちゃんはゲップと一緒にさっき飲んだお乳を少し吐いてしまった。

「あっ!」

「いいよ、どうせもう汚れてるし」と彼はチビちゃんの粗相を苦笑いした。

男ってこういうの嫌いだから、怒るかと思った。

「後で洗うから…」と言ってチビちゃんを受け取ろうとすると、チビちゃんはイザークの腕の中でむずかった。

さっきお乳を飲んだばかりだから嫌な予感がした。

「お嬢、俺ちゃんがいいの?可愛いな?」と呑気な男の腕の中で、チビちゃんは彼を試すように次なる粗相をした。

「あ…」チビちゃんのおしりから音がして匂いが漏れた…

「…」二人で無言になる。気まず…

チビちゃんは自分でしたくせに、おしりの不快感を訴えて泣き出した。

やばい、さすがにこれは…

イザークの顔を盗み見た。怒るかと思ったけど、彼は怒らなかった。

「あちゃー…やられたわ」と苦笑いでチビちゃんの粗相を許した。

「替えあるか?さすがにこのままスーに渡すわけにいかないからな…」

「すぐに替えるよ」

「おいおい、お嬢は女の子なんだから、どこでも尻出しちゃ可哀想だろ?俺のテントで替えて行けよ」

「え?でも…」

「すぐそこだよ。ディルクもいるけど、あいつだって嫌なんて言わねぇからさ」

彼はそう言って、あたしに手を握ると少しだけ寄り道をした。

彼は自分のテントにあたしを案内して、チビちゃんのおむつを替えさせた。

同居人はテントに居なかった。

「洗っといてやるから、そのままスーのところに行きな」と彼は汚れたおむつを引き受けた。

「え?悪いよ、持って帰るから…」

「スーのところにこれもって行く気か?

あいつの事待たせてんだ。早く行ってやんなよ」と彼はあたしが気を負わないように言ってくれた。

男は嫌いだったけど、少しだけ心が動いていた…

女の子みたいな感情があたしの中に湧いた。

彼は急かすようにテントの入口を開いて、「行きなよ」と笑って送り出してくれた。

テントを出る時に、男の手のひらがそっと背中を押した。

その手に不覚にもドキッとした。

「何?」

「…なんでもない、ありがとう」

「どういたしまして」と当たり前のように応えて、彼はあたしたちを見送った。

気になって少しだけ振り返ると、煙草を咥えようとしていた男は、あたしの視線に気づいて手をヒラヒラと振って応えた。

団長さんのテントに着くと、彼はチビちゃんを受け取って、「イザークを迎えにやったけど?」とイザークの姿を探した。

「途中でチビちゃんが粗相しちゃって…

彼のテントで替えさせて貰ったの。

汚れたおむつを洗っておいてくれるって、先行ってって言われたの」

「あぁ、そう?」

途中で放り出したんじゃないと知って、団長さんは頷いた。

「あいつにしては上出来だ。

フリーデ、スッキリしたな。今日もお腹いっぱいか?」

チビちゃんも、いつも優しくしてくれる相手に会えて嬉しそうに声を上げた。

あまり泣いたり笑ったりする子じゃなかったのに、この子も変わったな…

団長さんはご機嫌そうにチビちゃんをあやして、あたしに視線を向けた。

「エラ、君も腹減ってるだろ?

何か食べに行こう」と彼はいつも通りあたしを食事に誘った。

彼に着いて行くと、団長さんは傭兵たちの並ぶテーブルの目立つ場所に席を取った。

団長が来ると、周りにワラワラと人が集まってきた。

「よー!お嬢!」

「スー、お嬢貸してくれよ」と男たちは赤ん坊に群がった。

「やだよ。俺だってさっき抱っこしたんだから。

あと、お前ら汚いだろ?」

団長の指摘に、男たち自分たちの姿を見比べて「普通だろ?」と言い合っていた。

でも一日カナルの警備に当たっていた彼らは、汗まみれで砂埃が立っていた。

「世間一般ではお前ら汚いんだよ。

フリーデが抱きたかったら着替えて手ぇ洗ってこいよ」

団長さんはそう言って、辺りを見回して、若い男を呼んだ。青年は他の奴らに比べれば身なりも良くて、小綺麗だ。

「ルドルフ、フリーデ預かってろ。

飯貰ってくるから、その間死守しろ。他の奴らに渡すなよ?」

「何で私が子守りなんて…」と面倒を押し付けられた青年は不服そうにボヤいた。

お坊ちゃんみたいな上品な印象の青年は、文句を言いながらも差し出された赤ん坊を受け取った。

初めて抱いたみたいで少し危なっかしい。

彼は動くチビちゃんを抱っこするのに苦労していたけど、それでも何とか腕の中に納めると、黙って赤ん坊を見つめた。

「戻ってくるまで預かってろよ。落としたらキレるからな」と青年に言い残した。

「行こう、エラ」団長さんはあたしを連れて、食事を取りに席を離れた。

✩.*˚

甘いしっとりしたミルクの匂いが鼻腔に流れ込む。

泥臭い戦場には不似合いだ…

まさかこんなところまで連れてこられるとは思ってなかったが、私を預かった男はそんなことお構い無しだった。

傭兵たちと並んでカナルの岸で警備に着いた。

戦端は開いていないが、それなりに小競り合いもある。

河をまたいで自陣に辿り着く矢は、狙いも定まっていないが当たれば怪我する。

自陣に土塁を積む作業も辛かった。

汗をかいて、泥まみれになって働くのは王子だった頃には考えられないことだ…

挙句に子守りまで…

赤ん坊なんて煩いし、まだ言葉すら交わすことの出来ない生き物だ。

粗相はするし、一人でなにもすることの出来ない、人間と言うにはお粗末な存在だと思っていた。

今までこんな無力な生き物と関わったことなどなかった。

渡された赤ん坊は私の抱き方が気に入らなかったようで、腕の中でモゾモゾと動いて不満を訴えた。

ようやく大人しくなったと思ったら、無遠慮に私の顔を見つめた。

何故かこの生き物から視線が外せなくなっていた…

何故だろう…

赤ん坊のしっとりとした体温が腕に、胸に沁みた…

不器用に動かす手の先には、小さいながら、ちゃんと五本の指と爪が付いていた。

細く弱々しい髪は薄く細い。

白目と瞳の色はくっきりと分かれていて、澄んだ色をしていた。

低くて小さい鼻は、これから高くなるのだろうか?

「…人間みたいだ」と思った事が口から零れた。

「は?人間だよ、当たり前だろ?」と私の言葉を拾った男が呆れたように言った。

「お前だって赤ん坊だったんだよ。

お前の親父とお袋が、することやって産まれたんだ。そんなの皆一緒だろ?」

言い方は下品だが、そのあけすけな言葉が妙に響いた。

「お前、割と大事に育ててもらったんだろ?

そうじゃなきゃ、そんなにお上品には育たねぇよ。

お前がどんな事情でここにいるなんて知らないけどよ、親父さんやお袋さんにちゃんと感謝するんだぜ?」

傭兵たちの説教を聞かされながら、腕に抱いた赤ん坊を見下ろした。

私もこうだったのか…

父上も母上も…

無力な赤ん坊を抱いた胸の奥で、熱いものが込み上げてきた。

「…いいものだな」とまた心の声が漏れた。

「こんな幼子にも教えられるのだな…勉強になった…」

自然と笑みが零れた。

命の重さと温もりを知った…

自分の愚かさにも気付かせてくれた…

腕の中に納まった、この小さな命に感謝した。

一足先にカミルに間借りしてるテントに戻ると、自分の荷物から、まだ封を切っていない手紙を取り出した。

手紙は二つ…

一つは、ヴォルガシュタットを離れる時に渡された父上からの手紙。

もう一つは、ヨアヒム兄様がロンメル男爵の誕生会の時に持参した父上からの手紙だ。

読む気にもならず、そのままになっていた。

古い方を手に取って封を開けた。

便箋に綴られた手紙は、《愛する息子、ルドルフ》と始まっていた。

父上はあんなにも恥をかかせた私を、まだ愛してくれていた…

父上は、可愛いからと甘やかし続けた事が、私の為にならなかったのだと、自らの愚かさを悔いていた。

違う…愚かなのは私の方だ…

全てを失ってから与えられていたことに気付いた。当たり前のものが、当たり前でなく、どれほど自分が何も出来ない人間かを思い知らされた。

子供だってできる着替えも、靴紐さえも結べなかったのだから…

父上の願いは、幼い心のまま育ってしまった私が成長することだった。

《どうか、心を入れ替えて戻ってきて欲しい》と、この国で最も尊い存在である国王は、散々我儘を続けた不名誉な息子の帰りを望んでいた。

何故、もっと早くこれを読まなかったのか、と後悔した。

二つ目の封筒を手に取って、続きを確認した。

そこには変わらない愛情が綴られていた…

《ロンメル男爵から、手紙で其方の様子を伝え聞いている。励んでいるようで、我が子の成長をとても喜ばしく思う》と、手紙は私を褒めていた。

手紙が滲んで読めなくなる。視界を歪める涙を袖で拭った。

《トリシャ王妃もヨアヒム王子も、其方の事を心配していた。

どうか、食事はしっかり摂って、身体を大事にするように。

トリシャ王妃も母神ヴォルガ様に其方の帰りを祈っている》

いつも厳しい言葉ばかりの次兄も、母上も私を見捨ててはいなかった。

手紙には、私の従者だったアルバは、ヨアヒム兄様が預かっているとも書かれていた。

放逐されて二度と会えないという事は無いようだ…

父上は、ちゃんと私の帰る場所を残してくださっていた…

「…帰る…」

ボロボロと涙を零しながら、誓うように呟いた。

心を入れ替えて、家族の元に帰る…

褒めて貰えるように、認めて貰えるように…

《待っている》と綴ってくれた家族のために、私はここで変わるつもりだ。

涙を拭って、手紙を持ってテントを出た。

湿った夜風には、篝火の火の粉の匂いが混ざっていた。

どこからか運ばれてくる人の汗の匂いと、湿った土の匂いが鼻の奥に届く。

笑い声だか怒鳴り声だか分からない、活気のある喧騒も、庶民の生活に触れて初めて知った。

城にいた頃は知らないとことばかりだった…

他人に感謝することも知った。

団長のテントの前には《犬》がいた。

彼らは私に気付くと、「何か用か?」と用向きを訊ねた。

「団長に頼みたいことがあって…」と要件を伝えると、彼らが答えるより先に団長が顔を出した。

「何?」と外を見回して、彼は私に気付いた。

「入れよ」

団長はもう寝る用意を済ませた姿だったが、私をテントに招いた。

「お前から来るなんて珍しいじゃないか?」と言いながら、彼は煙草を咥えた。あの親子のおかげで機嫌は良さそうだ。今なら頼める気がした。

「頼みがあるんだ」と切り出して、手紙を書かせて欲しいと頼んだ。

「何だよ、ここから逃げ出す算段か?」

「違う。父上に…家族に詫びたい」

私の申し出に、団長は驚いたように目を見開いて私を見た。

「これからもここで真面目に働くし、帰りたいなんて言わない。

だから、手紙をロンメル男爵に届けてくれるように頼んで欲しい」

どちらにせよ、私から直接届ける手段はない。

団長は煙草を指先に摘んで、口に含んだ紫煙を吐き出した。

まだ何かと言われるかもと身構えたが、団長の返事は意外なものだった。

「いいよ」

彼はあっさりとした口調で応えた。少年のような顔で笑うと、私に「変わったよな、お前」と告げた。

「書いたら預かるよ。ワルターには俺から言っておく」

「あ、ありがとう…」約束してくれたことに対して礼を言うと、彼は珍しく柔らかい笑みを見せた。

「伝えたいことがあるなら、伝えられるうちに伝えたらいいさ…」

何か思うところがあるのだろうか?

団長の言葉には、若い容姿に似合わない哀愁があった。

✩.*˚

いかんよなぁ…

咥えた煙草の煙が昇って消えるのを見ていた。

テントの尖った屋根にぶつかって、行き場をなくした煙が雲のように溜まった。

まるで俺の罪悪感みたいだ…

あの親子が、捨てた女と残してきた子供に重なった…

多少親切にしてやったところで、俺の心にはさらに罪悪感が募った。

『こんな話さ、あんたにしても…何にもならないけどさ…』

エラは俺にフリーデの父親の話をした。

クソ野郎だな、と言ってやりたかったが、生憎俺も同じ穴の狢だ…

苦笑いして、『苦労したねぇ』と言って、洗ってやったおしめを彼女に返した。

『ありがとう』と笑顔を見せた彼女を、彼女らの居住区に送った。

《ありがとう》なんて言われる筋合いはないんだ…

俺はスーに言われたことをしただけだし、俺が満たされたいから、彼女たちを捨てた嫁さんたちに重ねて贖罪をしているだけだろうな…

『寄って行きなよ』とエラは俺の手を握って誘った。

見上げる顔に《女》が見えた…

いつもなら《ラッキー》だよ…でもなぁ…

『悪ぃ、疲れてんだ』と、ヘラヘラ笑って彼女の誘いを断った。

彼女に、『俺はあんたの旦那と同じ《クソ野郎》なんだよ』とも言えずに、誤魔化すように『また明日』と別れた。

「…クソ野郎」立ち昇る煙を睨んで、自分に向けて小さく罵声を放った。

消えないんだよなぁ…過去って…

あの時、知らないフリをして、なにくわぬ顔で子供が生まれるを待てばよかったんだろうな。

あのお節介なお喋り女のせいだ…クソっ!

段々とイライラし始めたので、煙草をやめて汗臭い毛布を被った。

いつの間にか眠って、ディルクに蹴って起こされた。

「…ねむ…」

「何やってんだ?さっさと起きろ。スーにどやされるぞ」

ディルクは俺を待たずに、さっさと身支度を済ませてテントを出て行った。

気持ちは相変わらず晴れないまま、身支度を済ませてディルクの後を追った。あいつが早起きして行くところなんて、スーのところしかない。

朝のカナルから吹き上がる風は、冷たく身体に纒わり付く。

ヘラヘラと笑いながらスーのところに顔を出した。

「遅い」と文句を言われたが、比べる相手が悪いだけだ。

ディルクはスーの世話が好きだから、誰にも譲らない。何も言わないけどそうなんだろう。

スーの身支度が済む頃には朝飯の時間だ。

それが終わると、今日もダラダラと河を挟んだ小競り合いが始まる。

どうせ何も無いし、あったとしても、どこそこの防衛強化という名の土嚢積みの土木作業だ。

あんな労働より、スーのご機嫌取りの方が大変だ。

今日も終わったら、ヘラヘラしながら彼女たちを迎えに行って、送り返して寝るだけだ…

俺の仕事はそんだけだ…

仕事だもんな…

そう自分に言い聞かせた。

✩.*˚

「マジでやんのか?」とニックが俺に訊ねた。

「《歓迎してやる》って言ったのは向こうだからな。なぁに、ちと挨拶して来るだけさ」

そう言って、俺の血で印をつけた矢をヴィクターに渡した。

「そろそろ痺れを切らしてるお偉さんから《挑発》の許可は貰った。

どれ?例の《燕の団》の団長さんとヤラの顔も拝んでくるとするか…」

「あんたも物好きだな…」

「気に入ったら連れて帰ってきてやるよ」と笑って、同じように印をつけた石ころをニックに握らせた。

「俺の命綱だからな、お前に預ける。

その辺に捨てるなよ?」

「あんたが行ったらコレで水切りでもするかい」とあいつは笑えないことを言った。

印は俺の血でできてるから、水に触れれば消えてしまう。

矢も届く前に水に触れれば同じ事だ。

「まぁ、皆でお邪魔したいところだがな、急に押しかけちゃ先方も迷惑だ。また今度連れてってやるさ。

ニック、石捨てたら許さねぇぞ」

兄貴が悪戯しないように釘を刺して、弟を櫓に連れて行った。梯子を握らせると、ヴィクターは目隠ししたまま、慣れたように梯子を登った。

ヴィクターに続いて梯子を上がると、障害物のない場所から対岸を眺めた。

「いけるか?」

「うん」と応えて、ヴィクターは目隠しを外した。

《鷹の目》が対岸を捉えた。

「どこにする?《燕》の近く?それとも他の旗の所がいい?」とヴィクターは俺の指示を仰いだ。

「そうさなぁ…お偉さんへの《お土産》も欲しいところだしなぁ…」

やるなら面白いのが一番だ。

「あの旗まで届くか?」と、対岸に並ぶ、フィーア王家の旗とヴェルフェル侯爵の旗の場所を指定した。

「できるよ」と応えて、ヴィクターは弓に矢を番えた。

ギリギリと音を立てて、限界まで張り詰めた弓は印を付けた矢を吐き出した。

数秒遅れて、ヴィクターは「届いたよ」と朗報を告げた。

掏り替えスウィッチ》の合図で、指先を鳴らすと風景が一瞬にして変わった。

「何?!」ライン語で動揺する声が上がる。

対岸から届いた矢が、人に変わったのだから驚きもするだろう。

そのビビった顔、最高に間抜けでイイこった!

でもよ、まだ面白いのはここからだ!

とりあえず目障りだった目の前に居た奴は斬って捨て、辺りを見回した。

「あったあった」

本当に旗の近くに矢を届けたんだな。近すぎて分からなかった。

掲げられた旗の紐を切って、奴らの誇りを地に落とした。

「無礼者!」「《玉旗》を守れ!」と泡を食った連中が殺到した。

左手の手のひらを少し傷つけて旗を握ると、奴らの目の前に放り出した。

「間抜けめ」と罵って指先を鳴らした。

旗を拾おうとした騎士たちの目の前で旗は消えて、代わりに俺の血が付いた小石と掏り替った。

「わっかんねぇよなぁ、ヒヒッ」

目の前の滑稽な見世物を笑って、次の旗を落とした。

旗を奪われると知った奴らは悲鳴を上げた。

「ごきげんよう、間抜けな諸君」

旗をマントのように被って指先を鳴らした。

「はぁっはっは!」

「ご機嫌じゃねぇか、隊長」

景色が入れ替わり、ニックの声がした。ニックは俺がさっき掏り替えた旗を担いでいた。

彼の前に、美しく刺繍が施された一角獣の旗を投げ捨てた。無機質な捕虜は砂利に落ちて汚れた。

「面白かった。石はまだ二つあるだろ?もう一つ取ってくる」

この能力は便利だが、回数制限があるのが玉に瑕だ。さっきので既に三回使ってる。

一日に使える限界はせいぜい六回だ。

それを超えると二日酔いみたいになって、戦うどころじゃなくなる。

櫓に戻ると、上ではまだヴィクターが待機していた。

「連中、めちゃくちゃ慌ててたね。面白いのが見れたよ」とヴィクターは子供みたいに笑った。

「もう一回飛ばしてくれ」と頼むと、ヴィクターは「どこにする?」と嬉しそうに訊ねた。

こいつは頼られて嬉しいらしい。子供みたいだ。

「生意気に、立派な旗を掲げてる新参者に先輩として挨拶してやる」

「隊長。《燕》の旗は俺にくれよ」と珍しくヴィクターが物を強請った。

「何だ?そんなのどうすんだよ?」

「滑らかで寝心地良さそうだから枕にするんだ」

「へぇ、そいつはイイな」と笑って、燕の旗はヴィクターにやると約束した。
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