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第1章 始まりの森
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「……おい、大丈夫か?」
その声は、まるで遠いところから届いた残響のようだった。
温かくて力強い手が、そっと俺の肩に触れる。だが、すぐには答えられなかった。
頭の中は、壊れた映像が渦を巻くばかりだったのだ。
学校──
白い光──
首元に触れた、あの冷たい手──
喉がひりつき、ようやく言葉を押し出す。
「だ、だいじょうぶ……です。ちょっと、くらっとしただけで」
男は黙ったまま、じっと俺を見つめていた。
その目は、俺の言葉の奥を探るようで……まるで俺が自分の状態すら理解していないと見抜いているかのようだった。
視線をそらし、周囲を見る。
空気の匂いが……違う。
汚れた街の空気ではない。澄んでいて、冷たくて、どこか懐かしい。
雪に覆われた木々が林立し、枝は氷の重みでぎしりと軋んでいる。
広く、静かで……だが不思議と、見られている気配がした。
降り積もる雪は淡く光り、見たことのない月の光を反射しているようだった。
寒さは骨まで届くほどなのに、不思議と痛くない。
まるでこの世界が、俺を「選んだ」かのようだった。
──こんな場所に来た覚えはない。
そして何よりも恐ろしいのは、
いつ自分が“こちら側”に来たのか、その瞬間の記憶が抜け落ちていることだった。
我に返り、短い髭の男を見る。
どうしても気になることがあって、つい口にしてしまった。
「……ここって、まさか……アルゼンチンじゃ……ないですよね?」
男は目を丸くし、まるで未知の呪文でも聞いたかのように固まった。
「……アル……ゼン……チン……?」
ゆっくりと発音し直し、その響きを確かめるように首をかしげる。
生まれてこの方、そんな名を耳にしたことはない──そう言わんばかりだった。
「いや、若者よ」
彼は静かに答えた。
「そのような土地の名、聞いたこともない。
ここは──エリンドールだ」
エリンドール──
その名が雪の冷気に乗り、胸の奥に沈んでいく。
そして俺は悟った。
元の世界の冬は、もう終わったのではなく──ここからが始まりなのだと。
男は歩き出し、数歩進んだところで振り返った。
「雪に埋もれるまで突っ立っておるつもりか?」
わずかに皮肉を含んだ声だった。
「は、はいっ! 今行きます!」
慌てて足をもつれさせながら、後を追う。
二人で雪を踏みしめる音だけが、森の静寂を破る。
遠くで聞き慣れぬ獣の声がこだました。
──ここは、やはり俺の知っている世界ではない。
しばらくして、男が言った。
「オズウィン。それが俺の名だ」
「……鉄生(てつお)」
自分の名を口にすると、不思議と現実感が戻ってくる気がした。
本名を言うのは、なんだか久しぶりだった。
オズウィンは軽くうなずき、わずかに口元を緩ませた。
「なるほど。だが、迷子であることに変わりはないようだな。
それで──どうしてこのような姿になった?」
「俺は……」
言いかけて、胸の奥がざわつく。
ゆっくりと続けた。
「よく覚えていません。廃ビルみたいな所に入って……
気づいたら、真っ白で……それから──ここに」
「そして、今ここにいる、というわけか」
自嘲混じりに笑う。
まさか自分が異世界転移なんて、誰が想像するだろう。
オズウィンはしばらく俺を観察していたが、何かを悟ったように前を見た。
そして足を止めた。
その視線の先には──古びた木造の小屋。
遠くからは洒落た山小屋に見えたが、近づけば近づくほど現実的な荒れが目立つ。
床板はきしみ、抜けかけの板に足を取られそうになる。
「ようこそ、我が宮殿へ」
オズウィンは冗談めかし、歪んだ扉を力任せに引いた。
ギギギ、と嫌な音が響いたが、
中を覗くと──その印象は一変した。
暖炉に火が灯り、温かな光が部屋中に揺らめく。
整頓された家具、清潔な床。
雪の冷気は、瞬く間に暖かさへと変わった。
「いい場所ですね……」
思わずこぼれた言葉に、オズウィンは満足そうにうなずく。
「好きに使うがいい」
彼が奥へと引っ込むと、俺はゆっくり小屋を見て回った。
暖炉の上には、写真立てが二つ。
火の光がガラス越しに揺れている。
手に取ると、そこにはオズウィンと──
十三、四歳くらいの少女が写っていた。
淡い金髪に、翡翠のような瞳。
どこか儚げで、美しい。
写真を戻し、廊下へ。
右手に浴室、左手はオズウィンの部屋──
そして奥の扉は、恐らく少女の部屋だろう。
用を足したあと、小さな裏庭に出る。
雪に覆われた空間には、木製の小さな物置小屋。
ギィ……と開けると──息が止まった。
中には、整然と並べられた武器。
冷たい刃の短剣。
大小さまざまな剣。
そして──日本刀まで。
(……なんだ、これ)
穏やかな老人の家にあるものではない。
いや、俺が勝手にそう思い込んでいただけか。
すると背後から声がした。
「……何か、気になるものでもあったか?」
その声は、まるで遠いところから届いた残響のようだった。
温かくて力強い手が、そっと俺の肩に触れる。だが、すぐには答えられなかった。
頭の中は、壊れた映像が渦を巻くばかりだったのだ。
学校──
白い光──
首元に触れた、あの冷たい手──
喉がひりつき、ようやく言葉を押し出す。
「だ、だいじょうぶ……です。ちょっと、くらっとしただけで」
男は黙ったまま、じっと俺を見つめていた。
その目は、俺の言葉の奥を探るようで……まるで俺が自分の状態すら理解していないと見抜いているかのようだった。
視線をそらし、周囲を見る。
空気の匂いが……違う。
汚れた街の空気ではない。澄んでいて、冷たくて、どこか懐かしい。
雪に覆われた木々が林立し、枝は氷の重みでぎしりと軋んでいる。
広く、静かで……だが不思議と、見られている気配がした。
降り積もる雪は淡く光り、見たことのない月の光を反射しているようだった。
寒さは骨まで届くほどなのに、不思議と痛くない。
まるでこの世界が、俺を「選んだ」かのようだった。
──こんな場所に来た覚えはない。
そして何よりも恐ろしいのは、
いつ自分が“こちら側”に来たのか、その瞬間の記憶が抜け落ちていることだった。
我に返り、短い髭の男を見る。
どうしても気になることがあって、つい口にしてしまった。
「……ここって、まさか……アルゼンチンじゃ……ないですよね?」
男は目を丸くし、まるで未知の呪文でも聞いたかのように固まった。
「……アル……ゼン……チン……?」
ゆっくりと発音し直し、その響きを確かめるように首をかしげる。
生まれてこの方、そんな名を耳にしたことはない──そう言わんばかりだった。
「いや、若者よ」
彼は静かに答えた。
「そのような土地の名、聞いたこともない。
ここは──エリンドールだ」
エリンドール──
その名が雪の冷気に乗り、胸の奥に沈んでいく。
そして俺は悟った。
元の世界の冬は、もう終わったのではなく──ここからが始まりなのだと。
男は歩き出し、数歩進んだところで振り返った。
「雪に埋もれるまで突っ立っておるつもりか?」
わずかに皮肉を含んだ声だった。
「は、はいっ! 今行きます!」
慌てて足をもつれさせながら、後を追う。
二人で雪を踏みしめる音だけが、森の静寂を破る。
遠くで聞き慣れぬ獣の声がこだました。
──ここは、やはり俺の知っている世界ではない。
しばらくして、男が言った。
「オズウィン。それが俺の名だ」
「……鉄生(てつお)」
自分の名を口にすると、不思議と現実感が戻ってくる気がした。
本名を言うのは、なんだか久しぶりだった。
オズウィンは軽くうなずき、わずかに口元を緩ませた。
「なるほど。だが、迷子であることに変わりはないようだな。
それで──どうしてこのような姿になった?」
「俺は……」
言いかけて、胸の奥がざわつく。
ゆっくりと続けた。
「よく覚えていません。廃ビルみたいな所に入って……
気づいたら、真っ白で……それから──ここに」
「そして、今ここにいる、というわけか」
自嘲混じりに笑う。
まさか自分が異世界転移なんて、誰が想像するだろう。
オズウィンはしばらく俺を観察していたが、何かを悟ったように前を見た。
そして足を止めた。
その視線の先には──古びた木造の小屋。
遠くからは洒落た山小屋に見えたが、近づけば近づくほど現実的な荒れが目立つ。
床板はきしみ、抜けかけの板に足を取られそうになる。
「ようこそ、我が宮殿へ」
オズウィンは冗談めかし、歪んだ扉を力任せに引いた。
ギギギ、と嫌な音が響いたが、
中を覗くと──その印象は一変した。
暖炉に火が灯り、温かな光が部屋中に揺らめく。
整頓された家具、清潔な床。
雪の冷気は、瞬く間に暖かさへと変わった。
「いい場所ですね……」
思わずこぼれた言葉に、オズウィンは満足そうにうなずく。
「好きに使うがいい」
彼が奥へと引っ込むと、俺はゆっくり小屋を見て回った。
暖炉の上には、写真立てが二つ。
火の光がガラス越しに揺れている。
手に取ると、そこにはオズウィンと──
十三、四歳くらいの少女が写っていた。
淡い金髪に、翡翠のような瞳。
どこか儚げで、美しい。
写真を戻し、廊下へ。
右手に浴室、左手はオズウィンの部屋──
そして奥の扉は、恐らく少女の部屋だろう。
用を足したあと、小さな裏庭に出る。
雪に覆われた空間には、木製の小さな物置小屋。
ギィ……と開けると──息が止まった。
中には、整然と並べられた武器。
冷たい刃の短剣。
大小さまざまな剣。
そして──日本刀まで。
(……なんだ、これ)
穏やかな老人の家にあるものではない。
いや、俺が勝手にそう思い込んでいただけか。
すると背後から声がした。
「……何か、気になるものでもあったか?」
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