水しか描けない

ピンク式部

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二滴 He's A Waterfall.

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 まるでアラスカにいるのかと思うくらい、雪が白くて寒い土地で暮らしていた頃の初めての「友達」はおじさんに買ってもらったウサギのぬいぐるみだった。私は「うさぴぃ」と呼んで抱きしめて眠った。うさぴぃの他に、目つきのやたら鋭い黒猫のぬいぐるみ「にゃんぴぃ」がいた。にゃんぴぃはうさぴぃと共に引っ越しの餞別としておじさんが一緒に買ってくれたのだが、あまりにも「これぞ猫」といった野性的な顔立ちに初めて見たときは泣き出してしまった。私が怖がって泣き出したせいでせっかくプレゼントしてくれたおじさんはおろおろするばかりだった。
 デザインの関係なのか、にゃんぴぃの右目は左目に対して目じりが少し釣り上がっていて、いわゆるガチャ目猫であった。円筒形の胴体に耳がちょこんと付いている魅惑のマシュマロボディーのうさぴぃに対し、にゃんぴぃは頭でっかちの二頭身で、大きさは大人になった私の掌くらいしかない。第一印象はただの怖い猫だったにゃんぴぃも長くそばにいるうちに愛着が湧き、うさぴぃと一緒に枕元で眠る「友達」になった。小回りが利くそのサイズが気に入って今でも私の通学用鞄には、にゃんぴぃがひっそりと侵入している。広尾に外出する際は、にゃんぴぃも首に白いレースリボンを巻いておしゃれをしている。彼いわく、都心に出る時は一応気を使っているつもりのようだ。
 広尾の商店街を走り抜けるさなか、私はふと鞄のなかにいるはずのにゃんぴぃのことを思い出した。きっと四方八方にぶつかって目を回しているに違いないにゃんぴぃと、前方を走る野球帽の青年の姿が重なった。ほどなくして私たちは夜を迎えてすっかり眠りに着いた古い画廊の前で止まり、走って乱れた息を整えた。膝小僧に手をついて肩を上下に揺らした。中東系の外国人たちは野球帽の青年から渡されたものを見て満足して去って行ったはずだった。なぜこんなに急いで逃げ出さないとならなかったのか、よくよく考えてみると不思議な疑問であった。
「なんで、こんなに逃げなきゃならないのですか」
 私は同じく息を荒くしている野球帽の青年に向かって言った。
「っていうか、何を渡したんですか」
 ついでに思い切って疑問を口にした。
「クスリ」
 悲鳴が出そうになった私の口の前に、野球帽がとっさに人差し指をたてて塞いだ。
「少なくとも彼らはそう思っているだろうね」
「どういうこと」
 野球帽が右手の細い人差し指をすっと下におろしながら話し始めた。改めて見ると細身で背の高い青年であることが分かった。
「この辺りは六本木に近いから、外国人がそういうシロモノを手に入れやすいクラブが何軒かあるんだ。でも僕が彼らにあげたのは」
 そう言って彼は間を空けた。
「あげたのは?」
「画材用の、石灰の粉さ」
 野球帽は残念そうに両手を上にあげると頭の後ろで指を組み、初秋の夜空を見上げた。
「期限、明日までだったんだけどな。まぁ、人助けだし、仕方ないか」
 石灰の粉。期限。さっぱり話が読めないでいると、夜空を見上げていた彼がくるりと振り返って言った。
「僕の絵、見てく?」
 野球帽は画廊の重い鉄製の扉に鍵を挿した。長い黒髪が月に照らされてきらきら輝いた。
 迷子猫堂は猫好きのちょっと一風変わった画商が営んでいる古い画廊で、室内は猫をモチーフにした家具や壁紙でいっぱいだった。なかには私のにゃんぴぃにそっくりな黒猫をあしらったカーテンもあった。
「可愛いお店ね」
 うっとりとしながら声を上げた。
「オーナーは、僕の顔が猫に似ているから雇った、って」
 オーナーと呼ばれる画商のセンスの良さに思わず笑った。
「先程は、助けてくれてありがとうございました」
 野球帽の向こう側の猫目がきゅっと細くなって答えた。
 扉のすぐそばにある白い螺旋階段を昇りはじめたので、慌てて後について行った。階段は三階で止まり、踊り場の向こうに古びた扉を発見した。彼は再びチェーンの先に繋がれたいくつかの鍵を物色し始めた。一番小さな鍵を扉の鍵穴に差し込むと、かちりと音がしてぎぃと木の軋む音をたててゆっくりと開いた。
 部屋には何枚もの水をモチーフにした絵が展示してあった。光る水面、夜の闇をたたえる海、陽に紅く染まっていく川の流れ。それらが暗い部屋のなか窓から静かに降りそそぐ満月の光だけに照らされて点在していた。部屋ごと水底に迷い込んでしまったようだった。
「あなたが描いたの?」
 しばらく見惚れてから私は訊いた。野球帽はゆっくりと頷いた。
「こうして、月の光しか明りがない夜に、この部屋にいるとなんだかほっとするんだ」
「きれい」
 私はため息をついた。心の底からそう思った。
「それとほぼ同時に、怖くもなるけど」
私は彼の方を振り向いた。
「今回は描けたけど、もう描けなくなるんじゃないか。いつか何も描けなくなって絵が嫌いになる日が来るんじゃないか。なんて、思ったりして、怖くなる」
「素敵な絵じゃないですか。私、新しい絵ももっと見てみたいです」
 私ははっきりと彼の顔を見上げながらそう言った。
 野球帽と長い前髪の奥の目が、ますます細くなった。困ったように笑って言った。
「でも、僕は水しか描けない」
 寒さで身体が凍えそうになっても飽きるまで部屋のなかの水底を私たちは泳いた。
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