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三滴 Champagne Supernova
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それから私は野球帽の青年と、広尾の図書館で結構な頻度で逢うようになった。便宜上、野球帽の青年と心のなかで密かに呼んでいたが、もちろん彼にもちゃんとした名前があった。藤野綾といった。
藤野さんと図書館で結構な頻度で逢うようになった、と言っても、たいてい夕方になって藤野さんの勤める画廊が閉店するとひょっこり現れた。講義が終わると私は卒業論文の資料を探しに図書館へ通うようにしている。月曜日と水曜日は大学が休みだから最近は丸一日ここで過ごす。三階の閲覧席で私が研究内容に関連した参考文献を夢中で読み漁っていると、いつの間にか藤野さんは目の前の席に座ってにこにこしている。相変わらず彼の代名詞である野球帽を被っている。毛根への負担を多少なりとも心配するなら館内では脱ぐべきだと思う。
軽く会釈をすると藤野さんは前髪の奥に隠れた猫の目をかっと見開いた。みるみる口角をにゅっと上げ、見開いた目を細めて笑った。まるで猫そのものだ。今度から野球帽ではなく藤野だから藤猫と呼んでやろうかしら。
私は再びマルクス・レーニン主義の基本構想について書かれた本に目を落とした。そのまま一〇分経っても、三〇分経っても藤野さんが読書を開始する気配が無い。頬杖をついて、ずっとにこにこ笑いながら私の様子を見ている。
「私の顔に何かついていますか」
そんなに見つめられると気になって読書に集中できない。
「ううん。超難しそうな顔して読んでいるのがなんか面白くて」
藤野さんは無邪気ににっこりと笑って言った。藤猫め。実は見抜いていたのか。確かにさっきから長い時間読んでいても、正直言ってさっぱり理解できない。こんな調子で果たして卒業論文が書けるのかといささか不安になっていたところだ。
「藤野さんは何か読まないのですか」
「僕、本とか小説とかあんま読まないから」
いともあっさりと言われた。
「なら、そこにずっと座ったままで退屈しないのですか」
藤野さんは猫顔をくしゃっとした。
「大丈夫、本を読む君を見ているだけでいろいろ楽しいから」
マルクス・レーニン主義の基本構想の本がこぼれ落ちるところだった。藤猫よ、急にぬけぬけと変なことを言うから驚くではないか。まるで高校時代に読んだ少女漫画の登場人物みたいなセリフじゃないか。しかも不覚にも少しだけときめいてしまったではないか。そんな訳が無い。私はもっと睫毛が長くて二重がぱっちりとした目の男性が好みな筈だ。藤猫は想い描いた「彼氏」とは似ても似つかないではないか。彼氏どころかむしろ猫ではないか。猫はにゃんぴぃ一匹でとっくに間に合っている。とにかく、良い加減に静まれ、私の心臓よ。
平静を装い私は藤野さんに言った。
「藤野さんは絵描きさんですよね」
「そうだよ」
「好きな画家はいますか」
「ルネ・マグリットだよ。ルネサンス期も良いけど、印象派とかシュルレアリスムの画家が好き」
藤野さんが言い終わるか否かの瞬間に私は立ち上がった。そしてきょとんとする彼を残してさっさと書庫の方へ向って歩いていった。数分後、私は両手いっぱいにルネ・マグリットの画集を抱えて戻り、大量のそれらを藤野さんの目前で机の上に並べて見せた。
「これはほんの一部。まだまだ美術書庫に行けばたくさんありますよ」
細くて切れ長のアーチを描いた藤野さんの目が輝き出した。
「凄いな、ここの図書館。ベクシンスキーなんてほとんど日本じゃ無名な画家の画集まで揃えてあるし、山口晃や会田誠とか新人画家の作品集まであるよ」
芸術コーナーの書棚にしゃがみ込んで齧りつくような姿勢の藤野さんが興奮気味にまくし立てる。後ろから眺めていると後頭部に白髪を一本だけ発見した。
「近くに住んでいてこんな良い場所があるなんて全然気付かなかったよ。教えてくれてありがとう」
振り返り、藤野さんが言った。なぜかちゃんと顔を見ることが出来なくて、目を反らしてしまった。
本を読むことは昔から好きだった。自給自足の娯楽提供である空想がネタ切れを迎えると、決まって私は本を読み始めた。生まれて初めて読んだ本は部屋の片隅で転がっていた父の愛読書だった。ピンクのチューリップが散らばった装丁がお洒落で気に入った。わりと厚みがあって小学校入学前の私には難しい語彙が多かったが、根気よく読んでいった。その様子を見た父がどんどん私に本を貸して寄こしたので、しばらくは退屈せずに済んだ。家じゅうの本という本をほぼ読破した頃、父は私を近くの古本屋へ連れて行った。今度はカバーの紛失した一冊一〇円くらいの漫画本をたくさん買ってもらった。特に『りぼん』に連載していた作品が好きだった。
視力が低下するからとテレビゲーム機の類は一切買い与えてはくれなかった。持っているゲーム機と言えばおじさんが私の両親に隠れて買ってくれたゲームボーイだった。しかも非常に厚くて重い旧型のそれ一つのみだった。そのかわり、父に欲しい本を言えばいくらでも買ってもらえた。あまりにも小説や漫画本を読みすぎたせいで、中学生になった頃には眼鏡やコンタクトレンズが無いと歩行困難な近眼状態にまで陥った。本末転倒とはまさにこのことだ。
私にとって小説や漫画本に囲まれて過ごすことは、普段は仕事で忙しい父親を身近に感じられる唯一の時間だったのだ。
席に戻り、喰い入るようにしてルネ・マグリットの画集を見つめる藤野さんを今度は私が眺める番だった。不思議な人だ。この人といると忘れていた昔のことを次々と思い出してしまう。それらは全て懐かしくて、本当は忘れてはいけない大事なことばかりだったような気がしてくる。
私は藤野さんに気付かれないように、こっそりと鞄のなかを探ってにゃんぴぃを取りだした。手に持って、画集の向こう側にいる藤猫とにゃんぴぃを見比べてみた。あまりにも目と口が酷似していて、ばれないように笑った。
私は理解不能で誰も知らないような難解な資料を読んで唸り、藤野さんはこれまた理解不能で誰も知らないような抽象絵画の画集を眺めて瞳を輝かす日々が続いた。時間は穏やかにゆっくりと流れ、一向に進まない論文と、一向に描かれないキャンバスがぽつんと取り残された。
藤野さんと図書館で結構な頻度で逢うようになった、と言っても、たいてい夕方になって藤野さんの勤める画廊が閉店するとひょっこり現れた。講義が終わると私は卒業論文の資料を探しに図書館へ通うようにしている。月曜日と水曜日は大学が休みだから最近は丸一日ここで過ごす。三階の閲覧席で私が研究内容に関連した参考文献を夢中で読み漁っていると、いつの間にか藤野さんは目の前の席に座ってにこにこしている。相変わらず彼の代名詞である野球帽を被っている。毛根への負担を多少なりとも心配するなら館内では脱ぐべきだと思う。
軽く会釈をすると藤野さんは前髪の奥に隠れた猫の目をかっと見開いた。みるみる口角をにゅっと上げ、見開いた目を細めて笑った。まるで猫そのものだ。今度から野球帽ではなく藤野だから藤猫と呼んでやろうかしら。
私は再びマルクス・レーニン主義の基本構想について書かれた本に目を落とした。そのまま一〇分経っても、三〇分経っても藤野さんが読書を開始する気配が無い。頬杖をついて、ずっとにこにこ笑いながら私の様子を見ている。
「私の顔に何かついていますか」
そんなに見つめられると気になって読書に集中できない。
「ううん。超難しそうな顔して読んでいるのがなんか面白くて」
藤野さんは無邪気ににっこりと笑って言った。藤猫め。実は見抜いていたのか。確かにさっきから長い時間読んでいても、正直言ってさっぱり理解できない。こんな調子で果たして卒業論文が書けるのかといささか不安になっていたところだ。
「藤野さんは何か読まないのですか」
「僕、本とか小説とかあんま読まないから」
いともあっさりと言われた。
「なら、そこにずっと座ったままで退屈しないのですか」
藤野さんは猫顔をくしゃっとした。
「大丈夫、本を読む君を見ているだけでいろいろ楽しいから」
マルクス・レーニン主義の基本構想の本がこぼれ落ちるところだった。藤猫よ、急にぬけぬけと変なことを言うから驚くではないか。まるで高校時代に読んだ少女漫画の登場人物みたいなセリフじゃないか。しかも不覚にも少しだけときめいてしまったではないか。そんな訳が無い。私はもっと睫毛が長くて二重がぱっちりとした目の男性が好みな筈だ。藤猫は想い描いた「彼氏」とは似ても似つかないではないか。彼氏どころかむしろ猫ではないか。猫はにゃんぴぃ一匹でとっくに間に合っている。とにかく、良い加減に静まれ、私の心臓よ。
平静を装い私は藤野さんに言った。
「藤野さんは絵描きさんですよね」
「そうだよ」
「好きな画家はいますか」
「ルネ・マグリットだよ。ルネサンス期も良いけど、印象派とかシュルレアリスムの画家が好き」
藤野さんが言い終わるか否かの瞬間に私は立ち上がった。そしてきょとんとする彼を残してさっさと書庫の方へ向って歩いていった。数分後、私は両手いっぱいにルネ・マグリットの画集を抱えて戻り、大量のそれらを藤野さんの目前で机の上に並べて見せた。
「これはほんの一部。まだまだ美術書庫に行けばたくさんありますよ」
細くて切れ長のアーチを描いた藤野さんの目が輝き出した。
「凄いな、ここの図書館。ベクシンスキーなんてほとんど日本じゃ無名な画家の画集まで揃えてあるし、山口晃や会田誠とか新人画家の作品集まであるよ」
芸術コーナーの書棚にしゃがみ込んで齧りつくような姿勢の藤野さんが興奮気味にまくし立てる。後ろから眺めていると後頭部に白髪を一本だけ発見した。
「近くに住んでいてこんな良い場所があるなんて全然気付かなかったよ。教えてくれてありがとう」
振り返り、藤野さんが言った。なぜかちゃんと顔を見ることが出来なくて、目を反らしてしまった。
本を読むことは昔から好きだった。自給自足の娯楽提供である空想がネタ切れを迎えると、決まって私は本を読み始めた。生まれて初めて読んだ本は部屋の片隅で転がっていた父の愛読書だった。ピンクのチューリップが散らばった装丁がお洒落で気に入った。わりと厚みがあって小学校入学前の私には難しい語彙が多かったが、根気よく読んでいった。その様子を見た父がどんどん私に本を貸して寄こしたので、しばらくは退屈せずに済んだ。家じゅうの本という本をほぼ読破した頃、父は私を近くの古本屋へ連れて行った。今度はカバーの紛失した一冊一〇円くらいの漫画本をたくさん買ってもらった。特に『りぼん』に連載していた作品が好きだった。
視力が低下するからとテレビゲーム機の類は一切買い与えてはくれなかった。持っているゲーム機と言えばおじさんが私の両親に隠れて買ってくれたゲームボーイだった。しかも非常に厚くて重い旧型のそれ一つのみだった。そのかわり、父に欲しい本を言えばいくらでも買ってもらえた。あまりにも小説や漫画本を読みすぎたせいで、中学生になった頃には眼鏡やコンタクトレンズが無いと歩行困難な近眼状態にまで陥った。本末転倒とはまさにこのことだ。
私にとって小説や漫画本に囲まれて過ごすことは、普段は仕事で忙しい父親を身近に感じられる唯一の時間だったのだ。
席に戻り、喰い入るようにしてルネ・マグリットの画集を見つめる藤野さんを今度は私が眺める番だった。不思議な人だ。この人といると忘れていた昔のことを次々と思い出してしまう。それらは全て懐かしくて、本当は忘れてはいけない大事なことばかりだったような気がしてくる。
私は藤野さんに気付かれないように、こっそりと鞄のなかを探ってにゃんぴぃを取りだした。手に持って、画集の向こう側にいる藤猫とにゃんぴぃを見比べてみた。あまりにも目と口が酷似していて、ばれないように笑った。
私は理解不能で誰も知らないような難解な資料を読んで唸り、藤野さんはこれまた理解不能で誰も知らないような抽象絵画の画集を眺めて瞳を輝かす日々が続いた。時間は穏やかにゆっくりと流れ、一向に進まない論文と、一向に描かれないキャンバスがぽつんと取り残された。
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