4 / 6
四滴 Champagne Supernova (reprise)
しおりを挟む
穏やかな日々に終止符が打たれた日も、閉館時刻の九時まで二人で図書館にいた。閉館のアナウンスに促されるようにして図書館を出た。私は藤野さんと並んで細くて曲がりくねった広尾駅までの帰り道を歩いた。
「手を繋いでも良いかな」
急に藤野さんが言った。返事を待たずに私の左手を藤野さんの右手が捕えた。予想外の展開に驚きのあまりなされるままだった。
「君と一緒にいると楽しい。僕は君のことが好きなんだと思う」
沈黙の後に藤野さんがささやくような調子で言った。白い息が街頭に照らされて、翳った。有栖川記念公園から下手くそなギターの音と歌が聞こえてきた。憎たらしいくらいに夜空の星が綺麗だった。新月なのか、月はどこにも見えなかった。
「君は僕のことをどう思っているか知りたい」
不意打ちみたいな展開に対して、悲しいのか嬉しいのか自分でもよく分からない感情が込み上げてきた。藤野さんの鋭くて綺麗な猫目に心の全てを見抜かれるのが怖くて、顔を背けた。涙が流れた。私は、彼をどう思っているのだろう。
「ごめんなさい」
藤野さんにひたすら謝っていた。その「ごめんなさい」が泣いてしまったことに対する言葉なのか、藤野さんの好意に応えられない意味の言葉なのか、解らなかった。広尾駅で別れて、その話はそれっきりになった。
私のおめでたくて平和な空想の世界に住む「彼氏」は、鼻が高く睫毛が長くてぱっちりとした二重の目をしている。確かに鼻筋は通ってはいるが、口角が上がっていて切れ長で細くてシャープな猫目の藤猫とは満月とお餅くらいにかけ離れている。はっきりと言ってしまえば全然好みの容姿ではない。それなのに、藤野さんを見ていると胸がきゅうと苦しくなるときがある。どんな本を読んで調べても答えが見つけられないような、そんな不可解な気持ちになる。
藤野さんと一緒に過ごす時間は、楽しい。ずっとこのまま時間が止まれば良いなとさえ思うこともある。かねてから想像していた、太鼓を打ち鳴らしたような激しいときめきは皆無だ。少女漫画にありがちな、逢いたくて寂しくて泣いてしまうなんてことも無い。しかし、石灰を使って水をキャンバスに描く姿や、玩具を手に入れた子どもみたいな表情で画集のページをめくる藤野さんを想像する時間がだんだん増えてきた。
藤野さんに比べると、今までは理想だと思っていたぱっちり二重の「彼氏」がいかに浅はかで薄っぺらい空想の産物であるかを思い知らされる。それ程に生身の藤野さんは生き生きとしていて、美しく、私にとっての「男性」そのものだった。
だからこそ私は、自分でも知らないうちに藤野さんに恋し始めていた事実を封印していた。湧き起こる恋の気持ちに頑丈な鋼鉄の蓋をし、ガムテープで何重にもぐるぐる巻きにした。怖かったのだ。いつか彼への想いが強くなって、爆発して、時間をかけて創ってきた私だけの空想の世界が壊れてしまうかもしれないことが怖かった。鋼鉄の蓋を破り、ぐるぐる巻きにしたガムテープも引きちぎって想いが溢れてしまえばどうなるか見当もつかない。現実の彼に恋する気持ちが洪水になって、うさぴぃやにゃんぴぃ、空想の世界の「友達」を飲み込んでしまう日が来たら私はどうしたら良いのだろう。仮に空想の世界を全て壊して彼に想いを打ち明け、幸運にも受け入れてくれたとしても、知らなかった藤野さんの嫌な部分を見てしまうかもしれない。幻滅し、傷ついて、ほらやっぱり空想の世界が一番幸せじゃないかと自分に言い聞かせる。そんな可能性もあるかもしれない。藤野綾という現実の男性が、生まれて初めての憧れの対象であったし、また私自身を根本的に覆し得る脅威でもあったのだ。
「手を繋いでも良いかな」
急に藤野さんが言った。返事を待たずに私の左手を藤野さんの右手が捕えた。予想外の展開に驚きのあまりなされるままだった。
「君と一緒にいると楽しい。僕は君のことが好きなんだと思う」
沈黙の後に藤野さんがささやくような調子で言った。白い息が街頭に照らされて、翳った。有栖川記念公園から下手くそなギターの音と歌が聞こえてきた。憎たらしいくらいに夜空の星が綺麗だった。新月なのか、月はどこにも見えなかった。
「君は僕のことをどう思っているか知りたい」
不意打ちみたいな展開に対して、悲しいのか嬉しいのか自分でもよく分からない感情が込み上げてきた。藤野さんの鋭くて綺麗な猫目に心の全てを見抜かれるのが怖くて、顔を背けた。涙が流れた。私は、彼をどう思っているのだろう。
「ごめんなさい」
藤野さんにひたすら謝っていた。その「ごめんなさい」が泣いてしまったことに対する言葉なのか、藤野さんの好意に応えられない意味の言葉なのか、解らなかった。広尾駅で別れて、その話はそれっきりになった。
私のおめでたくて平和な空想の世界に住む「彼氏」は、鼻が高く睫毛が長くてぱっちりとした二重の目をしている。確かに鼻筋は通ってはいるが、口角が上がっていて切れ長で細くてシャープな猫目の藤猫とは満月とお餅くらいにかけ離れている。はっきりと言ってしまえば全然好みの容姿ではない。それなのに、藤野さんを見ていると胸がきゅうと苦しくなるときがある。どんな本を読んで調べても答えが見つけられないような、そんな不可解な気持ちになる。
藤野さんと一緒に過ごす時間は、楽しい。ずっとこのまま時間が止まれば良いなとさえ思うこともある。かねてから想像していた、太鼓を打ち鳴らしたような激しいときめきは皆無だ。少女漫画にありがちな、逢いたくて寂しくて泣いてしまうなんてことも無い。しかし、石灰を使って水をキャンバスに描く姿や、玩具を手に入れた子どもみたいな表情で画集のページをめくる藤野さんを想像する時間がだんだん増えてきた。
藤野さんに比べると、今までは理想だと思っていたぱっちり二重の「彼氏」がいかに浅はかで薄っぺらい空想の産物であるかを思い知らされる。それ程に生身の藤野さんは生き生きとしていて、美しく、私にとっての「男性」そのものだった。
だからこそ私は、自分でも知らないうちに藤野さんに恋し始めていた事実を封印していた。湧き起こる恋の気持ちに頑丈な鋼鉄の蓋をし、ガムテープで何重にもぐるぐる巻きにした。怖かったのだ。いつか彼への想いが強くなって、爆発して、時間をかけて創ってきた私だけの空想の世界が壊れてしまうかもしれないことが怖かった。鋼鉄の蓋を破り、ぐるぐる巻きにしたガムテープも引きちぎって想いが溢れてしまえばどうなるか見当もつかない。現実の彼に恋する気持ちが洪水になって、うさぴぃやにゃんぴぃ、空想の世界の「友達」を飲み込んでしまう日が来たら私はどうしたら良いのだろう。仮に空想の世界を全て壊して彼に想いを打ち明け、幸運にも受け入れてくれたとしても、知らなかった藤野さんの嫌な部分を見てしまうかもしれない。幻滅し、傷ついて、ほらやっぱり空想の世界が一番幸せじゃないかと自分に言い聞かせる。そんな可能性もあるかもしれない。藤野綾という現実の男性が、生まれて初めての憧れの対象であったし、また私自身を根本的に覆し得る脅威でもあったのだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
冷遇された没落姫は、風に乗せて真実を詠う ─残り香の檻─
あとりえむ
恋愛
「お前の練る香など、埃と同じだ」
没落した名家の姫・瑠璃は、冷酷な夫・道隆に蔑まれ、極寒の離れに追いやられていた。夫の隣には、贅を尽くした香料を纏う愛人の明子。
しかし道隆は知らなかった。瑠璃が魂を削って練り上げた香は、焚く者の心根を映し出す「真実の鏡」であることを。
瑠璃が最後に残した香の種を、明子が盗み出し、手柄を偽って帝の前で焚き上げた瞬間。美しき夢は、獣の死臭が漂う地獄へと変貌する。
「この香りの主を探せ。これほど澄み切った魂が、この都に在るはずだ」
絶望の淵で放たれた一筋の香りに導かれ、孤独な東宮が泥の中に咲く白蓮を見つけ出す。
嘘と虚飾にまみれた貴族社会を、ひとりの調香師が浄化する、雅やかな逆転劇。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる