『二十六時のアオイヒカリ』

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逆光の兄と三度目の夜明け

第九章 線路守の警告

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 文化祭初日。日永高校の中庭は七月とは思えぬ涼風に包まれていた。薄雲から射す斜光はフィルムのハイライトを心地よく抑え、露出計が示すEVはまるで暗室のテストプリントのように安定している。  
 写真部の展示教室では、幽光線シリーズの大判プリントが壁一面を飾り、来場者の視線を奪っていた。兄の涙と笑顔を同時に写した“Remanent Cry/Smile”、二六時の夜を切り取ったパノラマ“Twenty‐Six Road”、そして残像ピントで定着させた未来の校舎。  
 「思ったより評判いいね」茅乃が安堵の息をつく。  
 「でも何か足りない気がする」照人は首を傾けた。「画面が呼吸していない。レンズが撓むようなあの感じが出てこないんだ」  
 「フィルムの残像が眠っているのかも」  
 その時、教室の蛍光灯が一瞬だけ瞬いた。プリント表面にかかった反射防止ガラスの奥で、銀粒子がざわつく妙なノイズが走る。来場者たちは気づかないが、照人と茅乃には明らかだった。  
 「誰かがピントを狂わせてる……?」  
 答えるように廊下の窓がパリンと割れ、一枚の白札が風に乗って展示室へ舞い込んだ。表にはたった一文字、筆太で「空」。  
 「線路守……!」  
 札は空中で急停止し、無人のまま影を伸ばした。教室の時計が狂い始め、秒針は行ったり来たりを繰り返す。来場者の時間感覚だけが奪われ、ざわめきと笑い声がピント外へフェードアウトしていく。  
 影の中央が開き、帳簿を抱えた線路守――空――が現れた。もう幽光線は走らないはずなのに、彼は存在規約を突破してここへ現界したのだ。  
 「警告を伝える」影は囁くように語り、しかし声はカーテンを引き裂くほど刺さる。「残像ピントは過剰現像を起こし、時素子を崩壊させる危険を孕む。写真の中で眠っていた時間が、現実へ逸脱を始めた」  
 照人は兄の写真を守るように立ちはだかった。「あれはもう清算済みだ。未来は担保に取られていない!」  
 「しかし鑑賞者が像を読むたび、フィルムの内部で非同期振り子が増幅する。多重視線が共鳴し、二六時の裂け目が再開きかけている」  
 茅乃が震える声で尋ねる。「じゃあ展示を中止しろと?」  
 「否。正しいピントで固定せよ。誤差は〇・〇〇一秒以内」  
 空は帳簿を開き、一行だけ追記した。〈誤差が拡大した時、幽光線は再走。終わりなき巻戻し開始〉  
 「そんな!」  
 照人は展示台の下からフィルムスキャナを取り出した。九条特製の残像ピント補正ソフトが組み込まれている。  
 「来場者の視線ごとピントを合わせればいいんだ。リアルタイムに誤差を測って露光し直す」  
 茅乃もすぐ意図を掴んだ。「インタラクティブ展示にするのね。視線追跡で位相を同期させる」  
 PCモニタへスキャナからのライヴヒストグラムが流れる。横軸は時間位相、縦軸は視線強度。初期値はガタガタだが、二人が補正リングを回すと徐々に波形が正弦へ近づいた。  
 空は黙って見守る。その名札が僅かに震え、〇・〇〇二秒の数値が赤く点滅した。あと一息。  
 「絞りを〇・九五まで開ける!」茅乃がコマンドを入力。  
 「シャッタースピード一/一二八秒!」照人が追従。  
 瞬間、展示プリント群が同時に青白い閃光を放ち、部屋全体がレンズの中へ飲み込まれた感覚が走る。来場者のざわめきが戻り、時計の秒針は正しい方向へ進み始めた。  
 空の名札からエラー値が消え、真白に戻る。影はふっと薄れ、白札へ戻ると床に落ちた。照人が拾い上げると、裏には違う文字が筆で書かれていた。〈光条〉  
 「影じゃなくて……光条?」  
 茅乃が頷く。「線路守としての役目を終えて、ただの光の筋へ変わったんだ」  
 兄が教室へ駆け込んできた。「何かあったのか?」  
 照人と茅乃は顔を見合わせ、笑った。「ちょっとピント調整。もう大丈夫」  
 空の札を日記帳に挟み、照人は最後のプレスプリントを壁へ掛けた。写真中央の虹はより鮮明に、兄の笑顔は静止画なのに動的な躍動を帯びて見えた。  

 ◆ 警告の余韻  

 文化祭翌日の深夜、照人は眠りにつきかけていたが、G―SHOCKのライトがひとりでに点いた。文字盤にはあり得ない数字――「二六:〇六」。  
 半覚醒のまま机へ向かうと、白札がひとりでに滑り出て、日付を更新する筆跡を刻む。〈八月一日 深夜二時〉。  
 同時にスマホのカレンダー通知が鳴る。九条からのシステムメッセージだ。〈線路守の警告 補追解析〉というタイトルで、添付に詳細な位相グラフがある。  
 〈展示を鑑賞した総人数×露光誤差=残像エネルギー。上限を超えると再び裂け目が生じる〉  
 照人は冷水で顔を洗い、窓を開けた。裏山の方向に青白いスジが一瞬の流星のように走る。  
 カメラを掴み、自転車を漕ぎ出した。茅乃へ連絡を入れると、ワンコールで出た。「分かってる。私も今向かってる」  

 ◆ 裏山踏切跡  

 かつて幽光線が市街へ延伸する計画で敷かれたが途中で廃止された踏切跡。レールは外され、雑草が覆う。だが今夜は青光の線が土の下で発光し、あたかも埋設線路が息を吹き返したように見えた。  
 茅乃が風を切って到着し、二人は草を掻き分け進む。やがて草陰から赤錆の遮断機が現れ、斜臂が半開きで止まったまま震えていた。  
 「線路守がここを使うつもりなら、私たちで遮断機を下ろしてしまおう」  
 「でも物理的な棒で裂け目を止められる?」  
 「残像ピントで撮れば棒は概念化する。写真に撮った遮断機は時間の結界になる」  
 照人は三脚を立て、バルブ露光に設定。二人で遮断機に手を掛け、一気に下ろす。金属が悲鳴を上げ、同時に青光が地面から噴き上がった。  
 シャッター。露光時間は兄の時計の秒針を数えてちょうど六秒。振り子が無い代わりに、二人の手首の脈がシンクロし、光条を写真へ縫い止める。  
 ファインダーの暗幕で小さな破裂音。遮断機の影が銀塊となり、ネガの中へ吸い込まれた。青光はすっと地中へ引き、夜は通常の闇へ戻る。  
 「結界成功……かな」茅乃が額の汗を拭う。耳飾りは微かな橙に揺れ、エネルギー消費を示唆する。  

 ◆ 影の手紙  

 帰宅すると机上に札。裏面に走り書き。〈警告は完了。管理を委託。線路守 空〉  
 照人は深く息を吐き、札をネガファイルにそっと挟んだ。管理人の肩書きは怖いが、写真家として避けて通れない宿命だ。  

 翌朝、兄と茅乃へこの出来事を報告すると、兄は静かに笑った。  
 「線路守の警告は、写真が生き物だと気づかせる最後の授業だったんだろう」  
 茅乃は頷く。「これでようやく、本当の意味でピントが合ったね」  
 照人はカメラを掲げた。ファインダーの中央には、まだ誰も写っていない未来の校庭。だが残像ピントは揺らがず、像はクリアだった。  

 線路守の警告は終わった。だが新しいフィルムを装填するたび、リスクと可能性は共に増幅する。  
 それでもシャッターは止まらない。銀粒子が光を啄み、時間の頁をめくる音を立てる。幽光線の夜が教えてくれたのは――回帰よりも前進こそが、記憶を輝かせる唯一の方法だということだった。  

 ◆ エンディングノート・一行目  

 夜、枕元の手帳へ照人は最初の一文を書いた。〈二六時の列車は再び来ない。しかし線路は心の暗室に続いている〉。  
 書き終わるとG―SHOCKが軽く震えた。秒針は正確に刻み、もはや狂いは無い。だがガラス面に映る自分の瞳の奥で、小さな青白い輝きが瞬いた。  
 それは恐れではなかった。未知の光源へピントを合わせるとき、ファインダーがわずかに震える――あの期待の揺れだった。  
 ページを閉じ、照人はランプを消した。遠くで踏切の警鈴のような虫の声が鳴る。列車の残像は夢の中で走り続け、次の朝を鮮度の高いフィルムへ変えるだろう。  
 そして彼は眠りに落ちた。カメラのシャッター幕がゆっくり閉じるような安堵の暗闇。ピントは合ったまま、未来の光を受け取る瞬間を静かに待っていた。  

 カメラバッグを肩に、照人は校門を出た。夏の朝露がレンズフィルターに小さな玉をつくる。それを指で拭いながら、彼は微笑む。残像ピントは、今日も正しく揺れていた。  
 雲間で鳴いた一羽のヒバリが、まるでシャッター音のように空気を切り、朝のフィルムへ第一声を刻んだ。  
 ピントは合っている。未来は常にファインダーの中央だ。  
 歩き出す足音が、新しい巻き戻しを遠ざける合図になった。完終了了
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