『二十六時のアオイヒカリ』

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逆光の兄と三度目の夜明け

第八章 残像ピント

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 七月四日の放課後、写真部の暗室にはフィルムの酸っぱい匂いが満ちていた。赤い安全灯が頭上で瞬き、現像液の水面がゆるく揺れるたび、過去の夜を映すかすかな虹が浮かんでは溶けた。  
 照人はトレイに揺らめく印画紙を凝視しながら、胸の奥で秒針の鼓動を数えていた。今日までの三日間、彼の時間は九条との契約で奪われていたはずだが、体感はむしろ静謐だった。奪われたのは時計の外側に貼りついていた無駄な余白――そう感じられるほど、写真を焼く作業は鮮烈だった。  
 「コントラスト、少し甘いかも」茅乃が隣で呟く。白衣の袖口からのぞく耳飾りは、青光ではなく淡い乳白色に変わっていた。時間の残量が平常値に戻った証だ。  
 「焦点距離は合ってる。問題は“残像ピント”だよ」  
 「残像ピント?」  
 茅乃はトングで印画紙を持ち上げ、余分な薬液を切りながら言う。「フィルム上に写っていない像、つまり記憶の余熱が写真に影響を与える現象。幽光線で撮ったカットには全部これが含まれてる」  
 照人はネガホルダーを覗き込む。兄の涙を写した一枚は、黒い粒子の海に銀色の閃きが無数に走り、顕微鏡写真のように複雑な干渉縞を構成している。  
 「普通の引き伸ばし機じゃ分解度が足りない」  
 「だから九条が特別なレンズを送ってくれた」  
 茅乃が暗室の隅を指差す。革張りのケースには、真鍮と水晶で組まれた奇妙な双眼レンズが収められていた。ピントリングは無く、代わりに側面に小さな振り子が二本、互い違いに組み付けられている。  
 「二重振り子が像のブレを同期させて補正する。“残像ピント”という名称らしい」  
 照人はそっと機材を持ち上げ、引き伸ばし機のヘッドに装着した。カチリと鳴った瞬間、振り子が自動で揺れ始める。周期は兄のG―SHOCKが刻む一秒と完全に同期していた。  
 新しい印画紙をセットし、タイマーを全幅露光に合わせる。赤い灯の下、茅乃がフィルターダイヤルを操作し、口元でカウントダウンを始めた。  
 「さん……にい……いち……ゼロ」  
 レバーを倒すと、青白い光がネガを透過し、印画紙へ像を焼き付けた。同時に振り子が一拍だけ振幅を増幅し、写真の隅で何かが弾ける音がした。  

 停止液へ漬け、高めの温度管理で像が浮かび上がる。兄の顔――前回のカットでは泣いていたはずの目が、今度は見開かれて笑っている。涙は残るが、虹彩に映る光点が変わっていた。そこには茅乃が構えるカメラのレンズが反射している。  
 「写り込んだ……」  
 「記憶が更新されたんだね。兄君の涙は悲しみじゃなく、未来を託す覚悟の結露に変わった」  
 照人は胸が熱くなるのを感じた。残像ピントは過去の像に現在の修正を加える。写真は単なる記録ではなく、時を縫い直すメスでもあった。  
 「これで、家族写真の空白を埋められる?」  
「プリントしてみよう」  

 再度露光。今度は家族四人のネガを投影する。父の姿は幽光線以前に亡くなっているが、ネガ内で彼は兄の肩に手を置き、笑っている。振り子は周期を変え、わずかに遅延した波形を描く。露光が完了し、現像液に沈めた瞬間――影が現れた。  
 線路守……空だ。安全灯の赤い空気を裂き、帳簿を閉じた白い手が印画紙へ触れようとする。  
 「だめ!」  
 茅乃が振り子を強く弾いた。二重振り子は刹那の乱調を起こし、光学レンズが赤より深い闇を放射する。空はその闇に飲まれ、影の輪郭だけを残して後退した。  
「帳簿に私たちのプリントを追加する気だったのかな」  
「未来を担保に取る癖は治らないらしい」  
 照人は深呼吸し、印画紙を停止液へ移す。家族写真が浮かび上がる。父、母、兄、自分、そしてわずかに遅れて茅乃のシルエットが重なる。  
 「入っちゃった……」  
 「いいんだ。今のわたしは家族アルバムの端に居場所がある」  
 定着液へ移し終えると、銀粒子の雲は完全に固まり、印画紙の白地へ滑らかなグレートーンを刻んだ。写真の中心で兄の時計は動き、二:一六を指していた。幽光線の時刻が、現実の世界へ正式に刻まれた証だ。  

 暗室の扉がノックされ、兄が顔を出す。「仕上がったか?」  
 照人は写真を掲げる。兄は一瞬言葉を失い、それから小さく息を吐いた。「父さんのネガ……こんな形で生き返るとは思わなかった」  
 「涙、笑顔になったよ」と茅乃が説明する。兄は目を細め、その理由を察したように頷いた。  
「幽光線はもう走らない。でも写真はこれからも進む。止まった時間を動かす“残像ピント”は、きっと誰にだってあるんだろうな」  
 照人は暗室の赤灯を消し、白灯を点けた。現像液の匂いの向こうで、朝の光がカーテンの隙間へ射し込む。  
「未来を撮りに行こう」  
 兄が肩を叩き、茅乃が笑い、暗室のドアが開いた。廊下には次の被写体――日常という名の無数の光源が、シャッタースピードを待っていた。  

 ◆ 残像ピント調整ノート  

 引き伸ばし機を覆う暗幕の下、照人は九条から渡された小冊子を開いた。『Remanent Focus Optics』と古英字で題されたノートは、ページの余白に万年筆でびっしり日本語が追記されている。  
 〈残像ピントとは、被写体の脳裏に残る映像信号が光学像へ周波数干渉する現象である。人間の時間認識がスリット状に途切れる瞬間、その狭間へ別時刻のフォトンが混入する〉  
 〈干渉縞を安定させるには、①被写体の呼吸周期、②カメラマンの心拍、③レンズ内部振り子の重力位相、この三条件がフィボナッチ比で一致する必要がある〉  
 〈成功時、露光面には“時素子”と呼ばれる銀粒子外郭が析出する。これが時間を固定し、写真を物理媒体かつ概念媒体へ昇華させる鍵となる〉  
 「難しすぎるね」茅乃が苦笑する。「要は、心でピントを合わせろってことだよ」  
 照人はページの隅に貼られたポラロイドを指差した。そこには若き日の九条が写っていた。時計店の屋根でカメラを構え、まだ影を得る前の線路守と肩を並べて笑う姿。  
「九条も昔は残像ピントで誰かを助けたのかな」  
「その誰かが、線路守になったのかも」  

 ◆ 青光の記憶  

 写真部の部室へ戻ると、部員たちが文化祭用の展示パネルを組み立てていた。並べられたA3プリントの中で、茅乃が撮った数枚が異彩を放つ。  
 夜の校舎、光跡だけのブランコ、カーテンに映る背のない影。それらの画面には青光の微粒子が漂い、見る者のピントを迷わせる。  
「残像ピントで試し撮りしたんだ」茅乃が照れる。「普通の人が見るとブレてるだけ。でも君なら分かるでしょう?」  
 照人は一枚を外し、ルーペで覗いた。青光の粒は兄が流した涙と同じ波長を帯び、写真の奥で微かな時差を震わせている。  
「ここに写ってるの、君の“これから”だ。まだ起きていない出来事の影が映り込んでる」  
「やっぱり? じゃあ未来を撮っちゃったんだね」  
「未来は撮っていい。ただし現像するタイミングを間違えると、過去が破れる」  
「だからピントは毎日調整しないと」茅乃は笑い、耳飾りを弾いた。青光が小さく瞬き、顕微鏡写真の銀粒子のように散った。  

 ◆ 兄の手紙  

 その夜、自宅の机に封筒が置かれていた。兄からの短い手紙と、修理を終えたG―SHOCK。秒針は静かに動き、裏蓋にはごく小さな文字で『Remanent』と刻まれている。  
〈時間は巻戻せても、思い出は先にしか進まない。だから写真を撮り続けろ。止めたら、残像がピントを奪う〉  
 照人は腕時計をはめ、秒針と自分の脈拍を合わせた。心拍はわずかに先を刻み、未来へ伸びる細いリードのように感じられる。  
 窓の外で、深夜列車のホイッスルが遠く響いた気がした。現実にはもう走らないはずの幽光線。だが音は確かに耳朶を震わせ、残像ピントがわずかに像を結ぶ。  
 明日も撮ろう、と照人は誓う。残像が指し示す未来を定着させるために。  

 ◆ 夜明け前、最後の露光  

 午前三時五十九分。暗室のレンジファインダーに最後の印画紙をセットする。テーマは“二十六時の残像”。露光時間はわずか〇・六秒、絞りF一・四、ISO六四〇。  
 心拍が同期し、振り子が最小振幅で揺れる。シャッターが落ちる瞬間、窓の外で東雲の光が生まれた。夜と朝の境目が紙一重で重なり、残像ピントは最短距離で現在へ折り畳まれる。  
 像が現れ始める。そこには誰もいない日永駅ホームと、空を横切る淡い虹、そしてフィルムの上にだけ存在する一点の星。  
 それは幽光線の青白いヘッドライトかもしれない。あるいは撮影者自身の未来の残像。どちらでもいい。写真はもう宝箱であり道標でもある。  
 印画紙を乾燥棚へ掛けた瞬間、時計の秒針が四時を告げた。残像ピントは解け、現実のピントへ滑らかに移行する。  
 照人は深呼吸し、暗室の扉を開けた。朝の光が真っ直ぐに差し込み、銀粒子の世界を温かく照らし出した。  
 これから写すのは、光速で過ぎ去る現在。そして、まだ見ぬ残像達の行進だ。  

 カメラバッグを肩に、照人は校門を出た。夏の朝露がレンズフィルターに小さな玉をつくる。それを指で拭いながら、彼は微笑む。残像ピントは、今日も正しく揺れていた。  
 雲間で鳴いた一羽のヒバリが、まるでシャッター音のように空気を切り、朝のフィルムへ第一声を刻んだ。  
 ピントは合っている。未来は常にファインダーの中央だ。  
 歩き出す足音が、新しい巻き戻しを遠ざける合図になった。完終了
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