四季彩カタルシス

深水千世

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夕暮れ。ひとり。ムーンリバー。

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 北海道の夏は涼しいといっても、やはり住人にとっては充分暑いものだ。この日も真夏日で伸びっぱなしの髪が汗をかいた首筋にはりつくのを不快に感じながら退勤した。
 個人病院の受付などという仕事をしていると、土曜日にはお昼を過ぎれば家に帰れるのだが、少し残業をしたために帰宅したのは午後二時を過ぎたあたりだった。暑さと疲れで体も心も重く、お昼はコンビニで冷やし中華を買ってきていた。
 玄関の鍵を開けて郵便受けを見ると、幾つかの郵便物が届いていた。手に取らなくても、嫌な予感がした。宛名はすべて同棲している彼で、中身など見なくて察しがつく。大体が請求書か督促状だ。
 彼がお金にだらしないことは、同棲してから知った。どうも、手続きとか税金とか、そういう細かいことが頭に入らないらしい。そして苦手だからと先延ばしにし、期限を守れないのだ。
 収入も少ないくせに好き勝手にギャンブルしては、いろんな請求を延滞し続け、ギリギリまで逃げ続ける。典型的な金銭にだらしない男だった。
 何度も別れようと思った。けれど、そのたびに『私がいなきゃ、この人はどうなるんだろう』という同情にも似た思いが沸き起こる。彼はお金と私に依存しているのだとしたら、私は愛情と彼に依存しているのだ。
 優しいところも、純粋なところも好きだ。そして別れようと思うと、未練もある。けれど、お金はなにより心を重くするものだ。鉛のように冷たく、容赦なく、この心を塞いでしまう。
 彼は昨日から帰ってきていないようだ。あの人がふらりと外出して丸一日や二日ほど戻ってこないことは、たびたびあった。同棲して最初の頃は浮気してるのかと思ったが、この頃では雀荘だとすぐにわかる。
 パチンコやパチスロだと、長く居るにはとてもお金が続かない。たとえ大当たりしてもその日のうちに帰るはずだ。朝までやってるパチンコ店など聞いたこともない。
 私は冷やし中華をすすり、肩を落とした。私はギャンブルに興じて帰る彼にまとわりつく煙草の臭いが嫌いだった。とはいっても、私は愛煙家だ。けれど、煙草を吸わないはずの彼に染みついた雀荘やパチンコ店の臭いは、憎むべき悪癖の象徴のように思えてならなかった。女の気配を持ち込むよりはマシなのかとも思うが、どうしてもうんざりする。

 空になった冷やし中華の容器をゴミ箱に押し込むと、億劫な腰を上げて、洗濯機の電源を入れる。二人分になると、洗濯の量だって大違いだ。洗濯槽が回転する音を聞きながら、私は窓辺に座った。
 窓の外には見慣れた風景が広がっている。ぼんやりと煙草を吸いながら、道行く人々を眺めてみた。
 子どもを連れて歩く若い母親と買い物袋を手に提げる老人がすれ違い、ユニフォーム姿の野球少年が自転車で音もなく彼らを追い越していく。みんな、呑気で幸せそうに見えた。
 私とは違う。あくせく働いて、自分の分はもちろん、ろくに収入がない同居人の分まで支出を担って終わりのない苦労をしている私とは雲泥の差だ。
 でも、心のどこかではうすうす、彼に税金を払える収入はあるんだと勘づいていた。ギャンブルとか目先の楽しみに消えていくだけの話であり、私は彼を怒らせたくないあまり、それを問い詰める勇気も持てないのだ。

 そのときだった。突然、はつらつとした声が聞こえてきた。

「ありがとうございました!」

 ふと見やると、向かいにあるカフェの出入り口でバイトの女の子がお客さんを見送っている。お客さんは男と女の連れで、「ごちそうさま」とにこやかに返していた。
 頭を下げたままの彼女を何気なく見ていると、勢いよく体を起こし、満足げな笑みになった。
 私は思わず胸を衝かれた。その顔があまりに眩しかったのだ。目が輝き、一欠片の悩みもなさそうな、無垢な笑みだった。その顔の若々しさからいって、高校生くらいに見えた。
 カフェに戻る寸前、彼女は誰も見ていないと思っているのか、小さくガッツポーズを決めた。
 それを見た私は、つい噴き出してしまった。目を細めて店の向こうに消えるのを見送ると、今度は自分の部屋を回し見る。
 彼女はあんなに眩しいのに。それにひきかえ私ったら、どれだけさびれてるんだろう?
 洗濯機の音は、生活感を五倍増しに見せている。片付けても片付けても衣服を脱ぎ散らかす同居人の服が、だらしなく椅子にかかっていた。
 立ち上がり、その服を畳むと、今度は掃除機に手をかけた。床に落ちているものがないくらいまでとことん整理し、いつもは年末だけ掃除する換気扇にも洗剤をかける。
 洗濯が終わると、窓からの風が流れる中、干していった。パンッと心地いい音をたてて、皺を伸ばす。心の皺まで伸ばせたらと、願いながら。

 それから気分転換に、久しぶりに読書をしてみた。さっき見たカフェの先にある坂を上がると、市立図書館があるのだ。このアパートに引っ越す決め手だった。
 借りっ放しになっていたアガサ・クリスティを手にしてみる。中学の頃に読んでいるが、何故か無性に読み直したくなって借りたはずだった。今では延滞しまくり、借りていたことすら忘れそうだったのに、このときは自然と手が伸びたのだ。
 名探偵ポワロが自分の几帳面さに恍惚としている場面を読みながら、笑ってしまった。
 昔はこのゆで卵のような姿をした探偵が嫌いだった。几帳面というと聞こえはいいけれど、細か過ぎて融通もきかない。だけど、今はこの探偵の細かさが少しでも同棲している彼にあればと思う。
 昔は几帳面な人は窮屈で嫌だった。なのに今なら、ポワロくらい細かい人を好きになっても不思議じゃない。
 犯人を知っているのに、それでも私は読み進めた。クリスティの作品は、よくも悪くも女を感じる。情愛とお金に関する描写が、今の私には痛いくらいよく伝わった。

 いつの間にか、あたりは夕暮れだった。ふと、私の耳に聞き慣れた『ムーンリバー』のメロディが飛び込んできた。
 街中に響き渡る、この割れた音色は、子どもたちに『もう17時半だよ。お家に帰りなさい』と伝える合図だ。
 ほんのり薄暗い街に木霊するメロディが、高い雲を浮かべた空に消えていく。そよ風が湿った匂いを運んで、私の頬を撫でた。
 思わず煙草をもう一本取り出し、火をつけた。紫煙が窓の外に逃げていく。
 私も帰りたいよ。ここじゃない、どこかへ。そんなことをふっと思った。
 夕暮れが私を心細くする。窓の外に見える家々では、夕食の匂いもし始めているはず。だけど、このアパートにはご飯の炊ける匂いすらない。
 ひとりが私を寂しくさせる。最近の彼はここに寝るためだけに帰って来る。戻ってきた彼は、テーブルに置かれた請求書を見ない振りをして、私にキスをする。そのたびに心に鉛が増えていくのに。
 ムーンリバーが私を不安にさせる。もうお家に帰る時間だと言われても、私の帰る場所はどこなのだろう。こんなに切ない部屋がそうなのだろうか。
 ほっとする場所が家なんだと思っていた。だけど、そうじゃない。自分が自分でいられる場所は、心から安らげる場所は、自分で培うものだ。
 ムーンリバーが私に警鐘を鳴らしていた。続けて読んだミス・マープルが私に語る。

「冷静に物事を見てごらん」

 そう無言で語る。

 それから何時間が過ぎただろう。網戸越しの景色はすっかり夜だった。賑やかだったカフェも外灯を消し、奥に穏やかな灯りが見えるだけ。もう店じまいのようだ。
 やがて、扉が開き、店主らしき若い男と昼間見たバイトの女の子が出てきた。

「マスター、今日も一日ありがとうございました」

 街灯の下で、あの子がにこやかに言う。マスターと呼ばれた男はまだ若いが、雇い主なのだろう。彼女を慈しむように見ていた。

「あぁ、お疲れ様。今日も一日頑張ったな」

 私は思わず、目を細める。
 そうだ、みんな頑張ってるんだよ。お昼に道を歩いていた人たちだって、きっと何かを抱えている。その背や肩に何かを担いでいる。だけど、懸命に毎日を生きているはずなのだ。

「さぁ、帰ろう」

 マスターの優しい声がし、彼の手が彼女を引き寄せる。二人は触れるだけの軽いキスをして、微笑み合った。
 覗きをしているようで気がとがめるどころか、私は見入ってしまった。
 あぁ、いいなぁ。そう思えた。あれは、一緒にいるのが嬉しくって仕方ないというキスだ。ちょっと唇が触れただけでいいのだ。くすぐったい気持ちを抑えて、笑みをこぼして見つめ合う時間がどんな愛の言葉よりも多くのものを語る時期だ。
 好きだよという気持ちが溢れている光景に、あんなキスなんて忘れていたなとしみじみした。

 私は手にしていたクリスティの文庫を膝の上に置いて、また煙草に火をつけた。カフェの二人が遠ざかって行くのとすれ違いに、同棲している彼の車が駐車場に入って来るのが見える。
 私は儀式のように、目を閉じた。ムーンリバーが耳に木霊する。あの二人のキスが目に浮かぶ。クリスティが心を揺さぶった。
 私は五分後、彼に『さようなら』を言うだろう。
 立ち上がれ。つかみ取れ。自分の帰る場所を築くために。ムーンリバーが胸を締め付けないように。幸せなキスを忘れないように。……そうよね、クリスティ?
 闇の向こうでクリスティが声もなく笑った気がした。
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