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夏
蕎麦と革靴
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「親父、臭かったよな」
父の葬儀の晩、兄がビール片手に苦笑した。
「あの独特な臭いも今となっちゃ、懐かしいな」
ぽつりと呟くように言う。その言葉に私は言葉なしに頷いていた。蕎麦屋を営んでいた父は、帰宅すると、天ぷらの油と出汁と醤油の混ざったような、なんとも言えない臭いを体中にまとっていた。
父は、母に先立たれても一人で店を続けた。健康そのものに見えた彼を病魔が襲ったのは一年前だった。看病している間にも、父はよく「お客さんが待ってるから、早く治さなきゃ」と繰り返し口にしていたものだ。
しかし、父はあっけなく母のもとへ逝ってしまった。
私は兄のグラスにビールを足しながら、静かに頷いた。
「もう、あの臭いも嗅げないのね」
あんなに嫌だったのに。私は胸がぐっと締め付けられるのを感じていた。
父は仕事に生きた人だった。
毎日毎日、その日の蕎麦を打つ。みりんとザラメ、醤油を煮つめてかえしを作る。昆布を鍋に入れて出汁をとる。汗をかきながら、天ぷらを揚げ、蕎麦を茹でる。そうした仕事の臭いが、年頃の私と兄にはなんとも言えない悪臭だった。
父はそのことをよく承知していて、家に帰るとまっすぐ脱衣所に行って着替えていた。だが、そうするようになったのも、当時小学生だった私のちょっとした一言が原因だった。
ある晩、お風呂上がりの私に、帰宅してすぐの父が笑顔で近寄って来たことがある。彼は「ただいま」のあとに、こう切り出した。
「授業参観、どうだった?」
その言葉に、私は反射的に叫んでいた。
「お父さんの馬鹿! 臭いし嫌いよ!」
涙がぽろぽろ溢れて、部屋に逃げるように走り、布団をかぶった。
私は仕事で一度も父が授業参観に来てくれないことに拗ねていたのだ。どんなに勉強を頑張っても、店がある限り、父も母も見に来てはくれない。大人になってみれば、そんなことくらいでと思うけれど、当時の私は淋しかった。
他の子が「お母さん、来てくれた」だの「お前のお父さん、かっこいいな」だの言い合っているのを、羨ましく思っていたのだ。
私のお母さんだって、店の手伝いがなければ来てくれるんだから。私のお父さんだって、かっこいいんだから。
悔しくて、淋しくて、布団の中で声を上げて泣いた。
それから何時間たっただろう。泣き疲れた私がそっと二階にある子ども部屋を出ると、階段の下が明るい。足音をしのばせ、階段を途中まで降りてリビングを覗いた私は、思わず息を呑んだ。
そこに見えたのは、テレビに向かって酒を飲む父の背中だった。あの悪臭のするTシャツのまま、ぽつんと一人、盃を傾けている。その背中が言いようもなく淋しく、遠く見えたのだ。
ふと、父は盃を置いて、Tシャツを脱いだ。
「いい加減、風呂に行くか」
Tシャツの下は隆々とした筋肉。毎日蕎麦を打つためだけについた筋肉だ。そして父は脱いだ服を顔に寄せ、犬のように鼻を鳴らして臭いを嗅いだ。
「うん、やっぱり臭いか」
淋しげにため息を漏らす様に、私はまた涙がこぼれてきた。父が脱衣所に消えていくのを見届けると、子ども部屋に戻り、また布団をかぶる。
そして今度は父のために泣いた。
ごめんなさい。我がまま言って、ごめんなさい。お父さんが一生懸命仕事をするのは私たちのためなのに。蕎麦を打つお父さんはかっこいいって知ってるはずなのに。
『ごめんなさい』を何度も心の中で繰り返した。
けれど、結局私はそれを父に言い出せずに、時が過ぎていった。父も帰宅するとすぐ脱衣所に向かうようになり、それっきりになってしまった。
葬儀の晩になって思い出すなんて、私は馬鹿だ。そう自嘲しながら、私は父が灰になるのを見届けていた。
それからしばらくして、兄から連絡が来た。
「親父の遺品の中にさ、新品の革靴があったんだ。俺には小さいから、お前の旦那にどうだ?」
ちょうど夫と同じサイズだったこともあり、私は兄の家に向かった。兄は箱に入ったままの革靴を私に差し出す。
「まぁ、ずいぶんいい物ね」
思わず驚いてしまった。
父はいつも安いスニーカーを履いていた。店で動き回るのに、それが一番だと言い張っていたのだ。
ところが、兄が見せてくれたのは高級ブランドの革靴だった。箱から黒い革靴を取り出すと、本革の匂いが鼻をくすぐった。
「お父さん、こんなに素敵な革靴を持ってたなんて知らなかった。スーツを着る機会なんてなかったのにね」
驚く私に、兄がふっと笑った。
「俺はよく覚えてるよ」
「えっ?」
兄を見ると、彼は煙草をくゆらせながら言った。
「お前、覚えてないか? 店の定休日に、親父とお袋とお前と四人で百貨店に行ったんだ」
「そんなことあった?」
「まぁ、お前は昔からぼんやりしているし、小さかったから、覚えてなくても無理はないか。お前が小学校に入学するっていうんで、ランドセルを買いに行ったんだよ。そのとき、親父が珍しくショーウィンドウで立ち止まったんだ。そこにあったのは革靴でさ」
彼は、父にそっくりの目を細めて、話を続けた。
「しばらく眺める親父に、お袋が欲しいのかってきいたんだよ。そうしたら、親父は『授業参観のときに、スニーカーじゃかっこつかないかなぁと思って』って言ったんだ。でも、値段が高いと言って買わなかった」
私は思わず口を開いた。
「授業参観なんて、一度も来てくれなかったわよ」
兄は少し眉を下げる。
「そりゃ、店があるからな。だけど、革靴はここにある。きっと、お袋があとから買ってきたんだ。親父もお袋も、本当はきっと行きたかったんだろうさ」
咄嗟に、あの晩の父が脳裏をよぎる。授業参観に行けなかった父を責めた私に、彼は翌朝になっても何も言わなかった。ただ、黙って切ない笑みを浮かべ、頭を優しく撫でるだけだった。
「……だから、この革靴は新品なのね」
思わず涙ぐむ私を見ながら、兄が煙草をもみ消す。
「そうでもない。靴底を見てみなよ」
言われた通りに見てみると、踵がほんの少しだけ擦れていた。
「何度かは履いたみたいだからな。きっと、俺たちに隠れてお袋とデートでもしてたのかもな。いつもお袋に店の手伝いばかりさせて、申し訳ないって言ってたじゃないか」
「そうだといいわ」
笑った拍子に、涙がぽつりと膝に染みを作った。
今なら、あの父の臭いをめいっぱい吸い込みたい。そして、こう言うだろう。革靴を履いて、私ともデートしようと。
あの蕎麦屋の臭いはもう嗅げない。けれど、その代わり革靴の匂いを嗅げば、私は父を思い出すのだろう。仕事と家族の間で不器用に振る舞っていた父を。
父の葬儀の晩、兄がビール片手に苦笑した。
「あの独特な臭いも今となっちゃ、懐かしいな」
ぽつりと呟くように言う。その言葉に私は言葉なしに頷いていた。蕎麦屋を営んでいた父は、帰宅すると、天ぷらの油と出汁と醤油の混ざったような、なんとも言えない臭いを体中にまとっていた。
父は、母に先立たれても一人で店を続けた。健康そのものに見えた彼を病魔が襲ったのは一年前だった。看病している間にも、父はよく「お客さんが待ってるから、早く治さなきゃ」と繰り返し口にしていたものだ。
しかし、父はあっけなく母のもとへ逝ってしまった。
私は兄のグラスにビールを足しながら、静かに頷いた。
「もう、あの臭いも嗅げないのね」
あんなに嫌だったのに。私は胸がぐっと締め付けられるのを感じていた。
父は仕事に生きた人だった。
毎日毎日、その日の蕎麦を打つ。みりんとザラメ、醤油を煮つめてかえしを作る。昆布を鍋に入れて出汁をとる。汗をかきながら、天ぷらを揚げ、蕎麦を茹でる。そうした仕事の臭いが、年頃の私と兄にはなんとも言えない悪臭だった。
父はそのことをよく承知していて、家に帰るとまっすぐ脱衣所に行って着替えていた。だが、そうするようになったのも、当時小学生だった私のちょっとした一言が原因だった。
ある晩、お風呂上がりの私に、帰宅してすぐの父が笑顔で近寄って来たことがある。彼は「ただいま」のあとに、こう切り出した。
「授業参観、どうだった?」
その言葉に、私は反射的に叫んでいた。
「お父さんの馬鹿! 臭いし嫌いよ!」
涙がぽろぽろ溢れて、部屋に逃げるように走り、布団をかぶった。
私は仕事で一度も父が授業参観に来てくれないことに拗ねていたのだ。どんなに勉強を頑張っても、店がある限り、父も母も見に来てはくれない。大人になってみれば、そんなことくらいでと思うけれど、当時の私は淋しかった。
他の子が「お母さん、来てくれた」だの「お前のお父さん、かっこいいな」だの言い合っているのを、羨ましく思っていたのだ。
私のお母さんだって、店の手伝いがなければ来てくれるんだから。私のお父さんだって、かっこいいんだから。
悔しくて、淋しくて、布団の中で声を上げて泣いた。
それから何時間たっただろう。泣き疲れた私がそっと二階にある子ども部屋を出ると、階段の下が明るい。足音をしのばせ、階段を途中まで降りてリビングを覗いた私は、思わず息を呑んだ。
そこに見えたのは、テレビに向かって酒を飲む父の背中だった。あの悪臭のするTシャツのまま、ぽつんと一人、盃を傾けている。その背中が言いようもなく淋しく、遠く見えたのだ。
ふと、父は盃を置いて、Tシャツを脱いだ。
「いい加減、風呂に行くか」
Tシャツの下は隆々とした筋肉。毎日蕎麦を打つためだけについた筋肉だ。そして父は脱いだ服を顔に寄せ、犬のように鼻を鳴らして臭いを嗅いだ。
「うん、やっぱり臭いか」
淋しげにため息を漏らす様に、私はまた涙がこぼれてきた。父が脱衣所に消えていくのを見届けると、子ども部屋に戻り、また布団をかぶる。
そして今度は父のために泣いた。
ごめんなさい。我がまま言って、ごめんなさい。お父さんが一生懸命仕事をするのは私たちのためなのに。蕎麦を打つお父さんはかっこいいって知ってるはずなのに。
『ごめんなさい』を何度も心の中で繰り返した。
けれど、結局私はそれを父に言い出せずに、時が過ぎていった。父も帰宅するとすぐ脱衣所に向かうようになり、それっきりになってしまった。
葬儀の晩になって思い出すなんて、私は馬鹿だ。そう自嘲しながら、私は父が灰になるのを見届けていた。
それからしばらくして、兄から連絡が来た。
「親父の遺品の中にさ、新品の革靴があったんだ。俺には小さいから、お前の旦那にどうだ?」
ちょうど夫と同じサイズだったこともあり、私は兄の家に向かった。兄は箱に入ったままの革靴を私に差し出す。
「まぁ、ずいぶんいい物ね」
思わず驚いてしまった。
父はいつも安いスニーカーを履いていた。店で動き回るのに、それが一番だと言い張っていたのだ。
ところが、兄が見せてくれたのは高級ブランドの革靴だった。箱から黒い革靴を取り出すと、本革の匂いが鼻をくすぐった。
「お父さん、こんなに素敵な革靴を持ってたなんて知らなかった。スーツを着る機会なんてなかったのにね」
驚く私に、兄がふっと笑った。
「俺はよく覚えてるよ」
「えっ?」
兄を見ると、彼は煙草をくゆらせながら言った。
「お前、覚えてないか? 店の定休日に、親父とお袋とお前と四人で百貨店に行ったんだ」
「そんなことあった?」
「まぁ、お前は昔からぼんやりしているし、小さかったから、覚えてなくても無理はないか。お前が小学校に入学するっていうんで、ランドセルを買いに行ったんだよ。そのとき、親父が珍しくショーウィンドウで立ち止まったんだ。そこにあったのは革靴でさ」
彼は、父にそっくりの目を細めて、話を続けた。
「しばらく眺める親父に、お袋が欲しいのかってきいたんだよ。そうしたら、親父は『授業参観のときに、スニーカーじゃかっこつかないかなぁと思って』って言ったんだ。でも、値段が高いと言って買わなかった」
私は思わず口を開いた。
「授業参観なんて、一度も来てくれなかったわよ」
兄は少し眉を下げる。
「そりゃ、店があるからな。だけど、革靴はここにある。きっと、お袋があとから買ってきたんだ。親父もお袋も、本当はきっと行きたかったんだろうさ」
咄嗟に、あの晩の父が脳裏をよぎる。授業参観に行けなかった父を責めた私に、彼は翌朝になっても何も言わなかった。ただ、黙って切ない笑みを浮かべ、頭を優しく撫でるだけだった。
「……だから、この革靴は新品なのね」
思わず涙ぐむ私を見ながら、兄が煙草をもみ消す。
「そうでもない。靴底を見てみなよ」
言われた通りに見てみると、踵がほんの少しだけ擦れていた。
「何度かは履いたみたいだからな。きっと、俺たちに隠れてお袋とデートでもしてたのかもな。いつもお袋に店の手伝いばかりさせて、申し訳ないって言ってたじゃないか」
「そうだといいわ」
笑った拍子に、涙がぽつりと膝に染みを作った。
今なら、あの父の臭いをめいっぱい吸い込みたい。そして、こう言うだろう。革靴を履いて、私ともデートしようと。
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