四季彩カタルシス

深水千世

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ショットガンの誓い

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 俺はげんなりしながら泥にまみれたジェラート状態の雪を踏みしめていた。
 北海道の冬は長いが、雪解けの時期はまさに三寒四温だ。雪が溶けてぬかるみになったかと思えば、また寒くなってデコボコに凍りつく。そしてまた溶けていき、いつの間にか春が忍び寄るのだ。
 今夜は夜風が温い。とは言っても充分寒いのだが、今までの寒さに慣れてしまったせいか感覚が麻痺している。
 歩きにくい道を進むうちにスーツの裾が濡れているのに気づいた。靴の先も湿っぽくて気持ち悪い。

「……最悪だ」

 俺はため息を漏らしながらバーへ向かう。このぬかるんだ道よりも、それを踏み越える苦労をしてまで飲みたい気分だというほうが最悪だと思う。
 会社でヘマをやらかして上司から嫌味を言われ、電車に乗り遅れ、挙げ句の果てに買ったばかりの定期を落とした。入社して三年たっているが、昇給も出世も見込めない。
 俺は何をやってんだ。こんな日々のためにリクルートスーツを着て就職活動したのか。
 うだつの上がらない自分にうんざりしながら、行きつけのバーの扉を開けた。

「いらっしゃい」

 店に入ると、見慣れた顔が出迎えてくれた。このバーを切り盛りするのは、同級生だった拓海たくみという男だ。
 彼は亡き祖父が開いたバーで、姉と一緒にバーテンダーをしている。美人で評判の姉さんを持つだけに、こいつも昔から涼しい顔立ちだ。おまけに男気があるというか、頼れる性格なんだ。

「よう。商売はどうだ?」

 昔のように声をかけるけれど、こういうときはもう俺たちは学生じゃないって思う。あの頃はこんな言葉をかけなかったよな。

「まぁ、よくもなく、悪くもないさ」

 ただし、拓海のこういう飄々とした口調だけは変わらない。無性にほっとしながら、コートを脱いでカウンターに腰を落ち着けた。

「今日はお姉さん、いないんだな」

「用事があって休んでるよ。残念だったな」

「そうだな。特に今夜はあの笑顔で癒されたかったな」

「相変わらず女に弱いな、お前は。今夜は似ている顔で我慢しろ」

 冗談めいた口調の拓海が、湯気の昇るおしぼりを差し出してくれた。手に伝わる熱と彼の憎まれ口で、少しはささくれだった気持ちが柔らかくなった。
 けれど、そんなこと口に出してやるもんか。なんだか気恥ずかしいじゃないか。まぁ、あの美人の姉さんになら言うだろうけど。

「何にする?」

 拓海がカウンターに両手をついてニヤリと笑う。ここで「いつもの」なんて言えたらカッコいいのかもしれないが、俺は「何も考えてなかった」と苦笑した。
 本当に何でもいいから、ただ飲みたかっただけなんだ。無性にこの店に来たかっただけ。
 すると、彼はそれを察したように眉を上げて言う。

「落ち込んでるな。景気のいいやつにするか?」

「まさか、アレか?」

 ふっとよぎる昔の思い出に、思わず頬が緩んだ。

「今、空き腹だぞ」

「ちょうどいいじゃないか。サッサと酔ってパッと寝てしまえ。疲れた顔をしているからな」

 そう言うや否や、拓海はテキーラを取り出した。次いでショットグラスを戸棚から持ってくる。俺は彼の手が動くのを見ながら、ぼんやりと言った。

「なぁ、拓海。お前って会社勤めしたことないだろう?」

「あぁ」

 彼は冷蔵庫からソーダを取り出しながら短く答えた。

「俺はお前が羨ましいよ」

 心の底からそう呟いた。
 拓海はもう高校生のときには自分の道をみつけていた。祖父の開いたバーを継ぐと決めた彼は、受験勉強も就職活動も一切しなかった。
 その代わり、彼は知り合いのバーテンダーのところでみっちり修行していた。その目が希望に輝いていたことを、今でも覚えている。
 俺が大学を卒業する頃には、彼はすっかり一端のバーテンダーになっていて、重苦しい色のリクルートスーツを着て、どこでもいいから就職したいと焦っていた俺には妬ましくさえ思えた。

 だけど、あるとき気づいたんだ。学生時代の彼は、授業中でも休み時間でも、暇さえあればメジャーカップを動かす手つきを練習していた。料理に慣れないうちは指が絆創膏だらけだった。体が資本だと言って、筋力トレーニングまでしていたのも、俺は知っている。
 そんな姿を見ていると、『お前はもう仕事が決まっていていいよな』なんて妬んでいる自分が恥ずかしく思えたんだ。
 テキーラがグラスに注がれるのを見ながら、笑みが漏れた。こいつの手つきはもう、あの頃と違って板についていた。
 拓海の凄いところは、「自由業も大変なんだぞ」なんて口が裂けても言わないところだ。その手つきでそう語るところだ。
 上司にへつらうこともなく、取引先に頭を下げることもない拓海は、その代わり『自由』という相手と戦っている。
 客が来ない夜はさぞかし不安だろうし、自信もなくなるだろう。定年がない代わりに、自分の腕と知識とウィットを研鑽する日々に果てはない。気を許せば何もせずに過ごすことが出来るのに、店をきっちり開けることがどれだけ屈強な意志を必要とすることか。
 彼が輝いて見えるのは、自分を甘やかさずに、そういう道を踏みしめて確実に突き進んでいるからだ。俺はそんな背中を見ながら、ぼやいているだけ。ぬかるんで泥にまみれた道を歩いて嫌な思いをすることに舌打ちしている。今も昔も。
 きっと、だからこそ今夜はこいつの顔が見たかった。
 もうちょっとがむしゃらにいけよ。ぬかるんだ道に足を踏み込むのを躊躇しているんじゃないよ。そう背中を押して欲しくて。
 グラスに注がれたテキーラと同じ量だけ、ソーダが満たされる。彼は「懐かしの味だ」と、笑ってコースターの上に差し出した。

「味も何もあるかよ、ショットガンに」

 思わず苦笑する。ショットガンとは、ショットグラスにテキーラでも何でもいいからスピリッツとソーダを1:1で注ぐものだ。そして、手のひらでグラスの縁を塞ぐように持ち、カウンターにコンッとぶつける。ぶわっと泡立ったところを一気に飲み干すのだ。
 ショットガンは一気に酔いがくる。酒に弱いやつがすることじゃない。バーでもどこでも、酒は穏やかにスマートに楽しむべきだ。そうわかっていても、俺と拓海は一緒に飲むたびに、必ず最後をコレで締めていた。
 まるで儀式のようだ。いや、挨拶というべきか。見えない明日も、勢いつけて走っていこうぜ、という心意気のつもりだ。
 若気の至りだったとは思うけれど、そう考えると拓海も誰かに背中を押して欲しかったのかもしれない。

「お前もやれよ」

 目の前に出されたグラスから拓海に視線を移すと、既に彼は満たされたショットグラスを手にしていた。

「もちろん。仕事中は飲まない主義だけど、今夜は付き合ってやるよ」

 拓海は昔からこうして上手に誰かを救ってしまうところがある。
 俺たちはもう学生じゃない。あの頃とは生活も顔つきも、どこか違う。けれど、確かに変わらないものだってある。それが心強くもあり、嬉しい。
 俺たちは目で合図し、同時にグラスをカウンターに叩き付けた。ぐっと煽るとアルコールが喉を滑り落ち、腹の中に熱いものが広がった。

「久々にやるとキツいな」

 情けない声の俺に、拓海も苦笑いする。

「まったくだ。だけど、今夜はすっきり寝られるだろう?」

「あぁ、そうだな」

 俺たちは声を上げて笑った。
 ショットガンを手に、俺はぬかるんだ道に足を踏み出せる。裾が濡れたって構わないじゃないか。つま先が湿って気持ち悪いなら、いっそ靴なんか脱いでしまえ。
 俺たちはぬかるみを歩き続ける。そして、たまにこうしてショットガンを突きつけ合うんだ。
 勘定を済ませて外に出ると、夜風が優しく頬を撫でた。ほんの少し、春の気配を滲ませた夜風だった。
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