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冬
消えた味噌汁
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お袋が死んだ。真冬の風呂場で倒れて、あっけなく死んだ。俺の高校の卒業式も成人式も見ずに、心筋梗塞でいっちまった。
葬儀が済んで、残されたのは高校二年生の俺と親父だけ。
時間は無情だ。吐くほど泣いたのに、立ち上がる気にもなれないのに、それでも朝がやってくる。今日から親父は会社に戻らなければならないし、俺だって学校に行かなきゃならない。
「浩志、朝だぞ。飯にしよう」
そう声をかけてきた親父は、似合わないエプロン姿だった。
いつも偉そうにダイニングテーブルで新聞を読んで、お袋に「ご飯くらい自分でよそってちょうだい」なんて言われても「ん」しか言わなかった親父が、だ。
食卓を見ると目玉焼きと山盛りのご飯、そして味噌汁が並んでいる。お袋がいた頃とは違ってサラダも漬物もないし、目玉焼きは崩れて不格好だけれど、それでも朝ご飯には違いない。
「すげぇじゃん。親父、料理できたんだな」
「料理なんて、独身の頃以来だな」
正直なところ、綺麗な焼き色の鮭と納豆が欲しいところだ。だけど、俺は親父の精一杯に応えるように文句を言わず食卓についた。
「この味噌汁な、母さんの最後の味だぞ」
箸を手にした俺に、親父がぽつりと言う。
「母さん、いつも出汁をストックしてただろ。あれの最後だ。もうどうやって出汁をとってたか知ってる人はいなくなっちまったな」
俺はじっと味噌汁のお椀を見つめる。ネギがやたら分厚いこと以外が、見慣れたものだ。ふわふわと揺れる味噌と白い湯気、口を付けるといつもの味。もうこれが味わえないなんて、信じたくなかった。
「なぁ、浩志」
朝食を終えて一緒に家を出た親父がふと口を開いた。
「父さん、今日は遅くなるから夕飯は先に適当に食っててくれ。仕事がたまってるんだ」
「親父、飯は?」
「インスタントラーメンがあったろ。今日はそれで済ませるから」
「わかった」
そして俺たちは駅で別々の電車に乗り込んだ。
こうして、お袋のいない日々が流れ出した。
「浩志、大変だったな」
学校で一番親しい友達がそう言ってくれただけで、周りのみんなはお袋のことは一切触れなかった。まるで腫れ物扱いというか、決してふってはいけない話題だと思われているようだった。
「おう、ありがとう。大丈夫だよ」
強がる俺の肩を、友達がぽんと軽くたたく。
「力になれることがあったら言ってくれ」
その言葉を俺は寒々しい気持ちで聞いていた。力になれることなんて、何もないよ。だって家族にしかわからないことだ。そして自分たちでなんとかしなきゃならないことなんだ。
その日、俺は家に帰ると制服のまま台所をあさった。探していたものはすぐに見つかった。
鰹節と昆布をテーブルにあげると、「よし」と気合いを入れた。
いくら俺でも一般的なダシが何からとられるかくらい知ってる。携帯電話で『出汁のとり方』を調べると画面いっぱいに情報が出てきた。
鍋に昆布を敷いて水を入れて火にかける。鰹節をいれて……ああ、その前に昆布を取り出すのか。そんな風に携帯電話の画面を睨むように読みながら、慣れない手つきで出汁をとる。
とった出汁を別の鍋にうつして、味噌を溶かしてみた。お袋の味になっているだろうか。期待を胸に、小皿にとって味見をした。
けれど、ぽろりと涙が溢れた。一粒溢れると、今度は壊れた水道みたいにぼたぼた流れ出る。
俺の作った出汁はまずかった。薄くてまるで味がしない。お袋の味じゃない。あの味噌汁の味はもうこの世界から消えちまった。お袋みたいに消えちまった。
認めたくないものを目の前につきつけられた気がして、俺は嗚咽をもらした。
夕焼けが台所を染め、やがて暗闇に部屋を侵食されても、鍋の出汁がすっかり冷え切っても、俺はそこから動けなかった。
冬の底冷えする台所にあぐらをかいて泣いた俺は、重い疲労感にいつしかその場にへたり込んだまま呆然としていた。
「ただいま」
がちゃりと玄関を開ける音がし、リビングに明かりがついた。親父の声だ。あぁ、俺はずいぶんとぼうっとしていたらしい。でも、動けないんだ。
「浩志、何をやってるんだ」
台所にへたり込む俺に気がつくと、親父はネクタイを緩める手をとめてガスコンロにあるものを見た。そして、ふっと眉を下げる。
「そうか、頑張ってくれようとしたんだな」
すぐには返事ができなかった。
俺は毎朝のように食卓にあがっていた味噌汁の味を消えたままにさせたくなかったんだ。お袋の足跡みたいなものをなくしたくなくて、これから仕事に行く親父を励ましたくて、何もせずにはいられなかった。けれど、俺には無理だった。
「ごめんな、親父。うまくできねぇや」
すると、親父がぽんと俺の頭に手を置いた。
「飯、まだだろ? ラーメンでいいか?」
親父はそう言って、戸棚からインスタントのラーメンの袋を二つ取り出した。
親父のラーメンは卵が乗っただけでキャベツもネギもなかった。それをすすり、たちのぼる湯気にまた鼻をずびずびさせた。ラーメンの麺を噛みながら、自分が思っている以上に空腹だったことに気づいた。
どんなに悲しくたって腹が減る。だって、俺たちは生きている。
ふと、親父がこう切り出した。
「そういえば母さんは、寝る前に昆布に切れ目をいれて水につけてたよな」
「え? そうだった?」
「うん、たまにベッドから起き上がって『忘れてた』とか言いながら慌てて鍋に水を入れてたことがあったな」
「リベンジしてみようか」
「あぁ、そうだな。いつか母さんよりうまい出汁がとれたりしてな」
「……親父」
「うん?」
「明日からさ、飯は俺が作るよ」
「そうか?」
「親父、エプロン似合わないし」
はは、と親父が笑い、最後の一口の麺を豪快にすすった。
本当は残された親父を少しでも大切にしたいなんて、恥ずかしくて言えるもんか。俺はスープを急いで飲み干すと、照れ隠しに風呂に逃げ込んだ。
それから俺の家では毎朝、味噌汁が食卓にのぼることになった。
そう、どんな日でもだ。俺が大学受験の朝も、親父が定年退職の日も、俺の彼女が初めて家に挨拶に来た日も。
そして、結婚式の朝もお袋がそこにいて、そっと湯気の向こうで微笑んでいた。
葬儀が済んで、残されたのは高校二年生の俺と親父だけ。
時間は無情だ。吐くほど泣いたのに、立ち上がる気にもなれないのに、それでも朝がやってくる。今日から親父は会社に戻らなければならないし、俺だって学校に行かなきゃならない。
「浩志、朝だぞ。飯にしよう」
そう声をかけてきた親父は、似合わないエプロン姿だった。
いつも偉そうにダイニングテーブルで新聞を読んで、お袋に「ご飯くらい自分でよそってちょうだい」なんて言われても「ん」しか言わなかった親父が、だ。
食卓を見ると目玉焼きと山盛りのご飯、そして味噌汁が並んでいる。お袋がいた頃とは違ってサラダも漬物もないし、目玉焼きは崩れて不格好だけれど、それでも朝ご飯には違いない。
「すげぇじゃん。親父、料理できたんだな」
「料理なんて、独身の頃以来だな」
正直なところ、綺麗な焼き色の鮭と納豆が欲しいところだ。だけど、俺は親父の精一杯に応えるように文句を言わず食卓についた。
「この味噌汁な、母さんの最後の味だぞ」
箸を手にした俺に、親父がぽつりと言う。
「母さん、いつも出汁をストックしてただろ。あれの最後だ。もうどうやって出汁をとってたか知ってる人はいなくなっちまったな」
俺はじっと味噌汁のお椀を見つめる。ネギがやたら分厚いこと以外が、見慣れたものだ。ふわふわと揺れる味噌と白い湯気、口を付けるといつもの味。もうこれが味わえないなんて、信じたくなかった。
「なぁ、浩志」
朝食を終えて一緒に家を出た親父がふと口を開いた。
「父さん、今日は遅くなるから夕飯は先に適当に食っててくれ。仕事がたまってるんだ」
「親父、飯は?」
「インスタントラーメンがあったろ。今日はそれで済ませるから」
「わかった」
そして俺たちは駅で別々の電車に乗り込んだ。
こうして、お袋のいない日々が流れ出した。
「浩志、大変だったな」
学校で一番親しい友達がそう言ってくれただけで、周りのみんなはお袋のことは一切触れなかった。まるで腫れ物扱いというか、決してふってはいけない話題だと思われているようだった。
「おう、ありがとう。大丈夫だよ」
強がる俺の肩を、友達がぽんと軽くたたく。
「力になれることがあったら言ってくれ」
その言葉を俺は寒々しい気持ちで聞いていた。力になれることなんて、何もないよ。だって家族にしかわからないことだ。そして自分たちでなんとかしなきゃならないことなんだ。
その日、俺は家に帰ると制服のまま台所をあさった。探していたものはすぐに見つかった。
鰹節と昆布をテーブルにあげると、「よし」と気合いを入れた。
いくら俺でも一般的なダシが何からとられるかくらい知ってる。携帯電話で『出汁のとり方』を調べると画面いっぱいに情報が出てきた。
鍋に昆布を敷いて水を入れて火にかける。鰹節をいれて……ああ、その前に昆布を取り出すのか。そんな風に携帯電話の画面を睨むように読みながら、慣れない手つきで出汁をとる。
とった出汁を別の鍋にうつして、味噌を溶かしてみた。お袋の味になっているだろうか。期待を胸に、小皿にとって味見をした。
けれど、ぽろりと涙が溢れた。一粒溢れると、今度は壊れた水道みたいにぼたぼた流れ出る。
俺の作った出汁はまずかった。薄くてまるで味がしない。お袋の味じゃない。あの味噌汁の味はもうこの世界から消えちまった。お袋みたいに消えちまった。
認めたくないものを目の前につきつけられた気がして、俺は嗚咽をもらした。
夕焼けが台所を染め、やがて暗闇に部屋を侵食されても、鍋の出汁がすっかり冷え切っても、俺はそこから動けなかった。
冬の底冷えする台所にあぐらをかいて泣いた俺は、重い疲労感にいつしかその場にへたり込んだまま呆然としていた。
「ただいま」
がちゃりと玄関を開ける音がし、リビングに明かりがついた。親父の声だ。あぁ、俺はずいぶんとぼうっとしていたらしい。でも、動けないんだ。
「浩志、何をやってるんだ」
台所にへたり込む俺に気がつくと、親父はネクタイを緩める手をとめてガスコンロにあるものを見た。そして、ふっと眉を下げる。
「そうか、頑張ってくれようとしたんだな」
すぐには返事ができなかった。
俺は毎朝のように食卓にあがっていた味噌汁の味を消えたままにさせたくなかったんだ。お袋の足跡みたいなものをなくしたくなくて、これから仕事に行く親父を励ましたくて、何もせずにはいられなかった。けれど、俺には無理だった。
「ごめんな、親父。うまくできねぇや」
すると、親父がぽんと俺の頭に手を置いた。
「飯、まだだろ? ラーメンでいいか?」
親父はそう言って、戸棚からインスタントのラーメンの袋を二つ取り出した。
親父のラーメンは卵が乗っただけでキャベツもネギもなかった。それをすすり、たちのぼる湯気にまた鼻をずびずびさせた。ラーメンの麺を噛みながら、自分が思っている以上に空腹だったことに気づいた。
どんなに悲しくたって腹が減る。だって、俺たちは生きている。
ふと、親父がこう切り出した。
「そういえば母さんは、寝る前に昆布に切れ目をいれて水につけてたよな」
「え? そうだった?」
「うん、たまにベッドから起き上がって『忘れてた』とか言いながら慌てて鍋に水を入れてたことがあったな」
「リベンジしてみようか」
「あぁ、そうだな。いつか母さんよりうまい出汁がとれたりしてな」
「……親父」
「うん?」
「明日からさ、飯は俺が作るよ」
「そうか?」
「親父、エプロン似合わないし」
はは、と親父が笑い、最後の一口の麺を豪快にすすった。
本当は残された親父を少しでも大切にしたいなんて、恥ずかしくて言えるもんか。俺はスープを急いで飲み干すと、照れ隠しに風呂に逃げ込んだ。
それから俺の家では毎朝、味噌汁が食卓にのぼることになった。
そう、どんな日でもだ。俺が大学受験の朝も、親父が定年退職の日も、俺の彼女が初めて家に挨拶に来た日も。
そして、結婚式の朝もお袋がそこにいて、そっと湯気の向こうで微笑んでいた。
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