お父さんがゆく異世界旅物語

はなまる

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序章

第一話 プロローグ

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 空が白みはじめる前に、そっと屋根裏部屋から降りる。庭に出ると、昨夜は珍しく霧が出たのだろう、空気は雨上がりに似た匂いがする。岩壁の縄ばしごを登り、壁の上に立つ。

 地平線から顔を出す太陽を待ち、残りの本数を数えてから煙草に火をつける。目を射るような強烈な光が、影に沈んだ大地の赤を照らしだす。ここから朝日を眺めながらの一服が、すっかり習慣のようになった。隅々まで命を吹き込んでいくような、巨大な装置が起動する瞬間のようなこの光景を、毎朝ひとりで眺める。

 壁の上の強い風が、細く吐き出した煙を、流れる間もなくすぐに消す。 

 ここはサラサスーン。日本語でいうと『夕焼け色の岩の谷』。俺たちは茜谷とか茜岩谷と呼んでいる。

 割とどこにでもいるような三十路のおっさんである俺が、なぜ朝っぱらから地平線なんぞを眺めながら一服しているかと言うとそれはもう、一言ひとことでは説明しきれないくらいの理由わけがある。

 人に言ったら『疲れているのか?』と心配される程度には、現実ばなれした話だ。俺が気の置けない友人からこんな話を聞いたら、後からこそっと家族に連絡を取り『ゆっくり休ませてやってくれ』と言ってしまうレベルだろう。

 だが、俺にとっては紛れもない現実であり、実際、何度眠っても寝室のベッドには戻れないでいる。

 それはある朝、突然に、俺たち家族に起きた、一瞬の出来事からはじまった。

 ▽△▽

 今から二か月ほど前。俺たちはごく普通の四人家族として、日本で呑気に暮らしていた。忙しい嫁にしては珍しく三連休が取れたので、近所の公園に向かう途中。

 信号待ちをしていた。本当に、ただそれだけだった。

 八月のジリジリと照りつける日差しを避けて、桜並木の作る木陰になんとか収まるように移動した。隣にいた嫁がスニーカーの紐を結び直す為に、道の端に座り込み長男の、ハルの手を離した。

「ハル、こっち来い」

 ハルを呼び、左手で下の娘、ハナを抱え上げ、右手を差し出した。

 ハルの手が、俺の手に触れた瞬間。

 降り注ぐように鳴いていた蝉の声と、信号待ちの通りゃんせの音が、ピタリと止やんだ。目の前でカメラのフラッシュを焚かれたと思うほどの眩しさに目を細める。振り向くと、嫁がびっくりしたように目を見開いて、顔を上げたところだった。

 画面がホワイトアウトから復帰するように視界が戻ると、俺はハナを左手に抱え、ハルの手を握って見渡す限りの荒野に立っていた。

 あまりに唐突とうとつな出来事に、しばらく身動きも出来なかった。

 地平線なんてものを、初めて見た。遠近感が狂うほどの開けた視界いっぱいに、赤い地面が遥か遠くまで続き、盛り上がった大地は切り立った崖のようで、縞模様の地層をむき出しにしてそそり立っている。

 ところどころひび割れの走る地面に、こびりつくように生える枯れた色の草。

 荒野。読んで字の如し。荒れ果てた、不毛の地。ひっきりなしに風が吹き、乾いた空気をかき回す。

「ねぇ、おとーさん。ここどこ?」

 ハルが、ほうけたような声を出した。

「おう、ここどこだろうなぁ」

 俺も似たような声しか出なかった。

「おかーさんは?」

 振り向いても、あたりを見回しても、嫁の姿はどこにも見あたらなかった。

「おかーさん? おかーさーん!」

 慌てたように呼ぶハルの声を聞きながら、俺はただ、その手を放すまいとぎゅっと握った。三歳になる娘のハナが、俺の腕の中であくびをひとつした。

 ▽△▽


 携帯用灰皿で煙草の火を消していると、ハルが縄バシゴを登ってきた。

「うわー、今日は風がつよいねぇ」

 俺の隣に立って朝の風を受け、首をすくめてフードを被る。茜岩谷サラサスーンの朝は冷える。

 民族衣装のポンチョを着て、編み上げのブーツを履いたハルは、どこにでもいる地元の少年のようだ。俺は二ヵ月たった今も、ポンチョを着るのが若干気恥ずかしい。

 あれから、まだたった二ヵ月しかたっていないのか。もう、二ヵ月も過ぎてしまったのか。季節の流れないこの地では、気温や風景で時間をはかることが、ひどく難しい。

 日本では今頃、赤とんぼが飛びはじめているかも知れない。月を眺めながら、団子だんごを食っているかも知れない。この地は俺たちが降り立った日と、変わらず乾いた風が吹いている。

 俺たちが『大岩の家』と呼んでいるこの家は、内側をごっそりとくり抜いたように、ぐるりと岩壁に囲まれた中にある。まるで天然の隠し砦のようだ。何かから隠れるように、大切なものを隠すように、大岩の中にある。見渡す限りの荒野の、一軒家。

 俺は今日この家に、宝物をひとつ、置いてゆく。

 ハルと二人並んで岩壁の上に立ち、黙って地平線を眺める。大岩の家から少し離れたところから、太陽の昇る方向へと、細い道が続いている。

 あの日、俺たちが辿たどった道だ。どこを目指して良いかもわからず、ただ歩いた道。でもそれは、立ち止まって現実に追いつかれるのが、怖かったのかも知れない。

 ▽△▽

「ねぇおとーさん、おうちへ帰るまでどのくらいかかるかな? ヘチマにお水あげないと枯れちゃうよ」

 歩きはじめてしばらくすると、ハルがそんなことを言った。

 ああ! 夏休みの観察日記な。やっとちっさい実が出来たって、喜んでたもんな。

 わかるよ、わかるけどハル。でもお父さん、今は自分たちの方が枯れちゃいそうで心配だよ。

 差し当たっての問題はヘチマより、どっちに向かって歩くかだろう。コレが右も左もわからないってヤツか。緊急時に助けてくれそうな、警察や消防署、役所などは電話が圏外なので通じない。
 当然Wi-Fiも飛んでいないので、チャットアプリも、地図アプリも立ち上がらなかった。嫁と連絡を取る手段が見つからない。

 スマホのGPS機能を使えば、嫁の居場所も現在地もわかるはずなのに。

 万能とも思える便利さで、なくてはならないツールであったはずのスマホは、この状況では案外使い物にならなかった。確かに大自然に囲まれた素晴らしい景色ではあるが、今はカメラ機能を使う気にもならない。

 とりあえずあたりが見渡せそうな高台へと向かう。

 高台までは急な坂道で、よじ登るような起伏もあり、かなりハードな道のりだった。だがそこからの景色は目を瞠るような、とびきりスケールの大きな眺めだった。

 起伏がはげしくけわしい岩山は赤みが強く、まるで巨人が地層を飴細工のように引っ張り出して、無造作に並べてしまったかのようだ。そんな景色が地平線まで続いている。そして、岩山の間を縫うように、細く長く伸びる道。

「うわぁ」

 二人同時に驚愕とも、絶望ともとれるうめき声を上げる。

「おとーさん、道のおわりが見えないよ。コンビニもせんろも、じどうはんばいきも見あたらないよ」

 ハルが途方に暮れたように言った。
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