Rasanz‼︎ーラザンツー

池代智美

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最下層

最下層4

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 地下での初めての買い物は、特にトラブルもなく終了した。
 今は落ち着いた雰囲気のカフェで休憩中である。
 僕の目の前にあるチーズケーキはもう三分の一まで減っていて、飲み物のカフェオレも残り半分になった。
一方でシェルアさんはケーキを食べ終えていて、ブラックコーヒーを味わっている。
 僕はチーズケーキをフォークで更に小さく切り分けると、口に運んだ。
 生地はふわふわしていて、アプリコットジャムの甘さが合ってやっぱり美味しい。
夢中になって食べていると、ふとシェルアさんと目が合った。

「サンは計算得意?」
「あ、いえ、得意ってほどじゃないです。多分普通です」
「そっかあ」
「何かありました?」
「いや、記憶喪失の割に一般教養が身に付いていると思って」
「え?」

……言われてみれば、そうかもしれない。

 僕はシェルアさんに言われて、初めてそれに気が付いた。
 僕は僕自身と家族や友達の周りの人間の記憶がない状態だけど、その他の記憶は知識として残っている。
文字も読めるし、簡単な計算も出来るし、こうして言葉を交わす事も出来る。
 何か一つくらい自分に関する事を思い出せないかと頭をひねった。
だけどいくら思い出そうと思考を巡らせても、家族の顔や名前は霧がかかったみたいに見えなくて落ち込んだ。
 自然と口から溜息がこぼれる。

「はぁぁ……なんで思い出せないんだろ……」
「まあまあ、もし最下層に落ちた衝撃で記憶を失ったのなら、案外ひょんな事で思い出すかもしれないよ」
「でも……」
「明日は腕のいい医者の所に連れて行くから」

 僕は凡人で、そこまでして貰うような価値のある人間じゃないのに。
 下に向けていた視線をわずかに上げると、シェルアさんが小さく笑った。

「もしかしてお金の心配してる?」
「ぅ、まあ……はい」
「大丈夫だよ。これでも稼いでるから」
「でも……」
「じゃあ言い方を変えよう。子供は大人に甘えてなさい」

 そう言われてしまうと返事はイエスしか返せなかった。
 僕が頷くと、シェルアさんは満足そうにコーヒーに口を付ける。
僕もカフェオレとチーズケーキを味わって、最後の一口を終えた。
 シェルアさんがスマホで誰かとメッセージのやり取りを始めたから、僕は文字を打つシェルアさんの指先を見つめた。
 やっぱり力のあるような手だとは思えないくらいの細い手だ。
ぼんやり眺めていると、シェルアさんがパッと顔を上げた。
 
「ごめん、君がいるのに」
「いえ、そんな。お仕事忙しいんですか?」
「忙しい時とそうじゃない時の差が激しくて……」

 シェルアさんは卓上にある紙ナプキンを取ると、僕に手渡した。
 どうやら僕の口に食べかすが付いていたらしい。
 僕は急いで口を拭くと、紙ナプキンを丸めて皿の端に置いた。

「ありがとうございます」
「いーえ。じゃあ帰ろうか」
「はい」

 席を立ってシェルアさんと並んで歩く。
   シェルアさんの家に着くまでの間、街で色んな人とすれ違った。
 此処が最下層でも、みんな普通に暮らしているらしい。
 僕がいた地上と違う所は特に見当たらないし、ただの日常をみんなが平和に過ごしている。
そして帰り道、シェルアさんは結構な人から声をかけられていた。
この界隈ではちょっとした有名人らしく、大人から子供までシェルアさんの名前を呼んで、あの時はありがとうとか今度パーティーを開催するからおいでとか、そういう事を言われていた。
きっとシェルアさんの人柄の良さに、人が寄って来るのだろう。

 此処での僕は“凡人”ではなく、地上にいた記憶喪失の“才人”として扱われる事になった。
身寄りのない僕をシェルアさんが引き取ったという体《てい》で話を進められて、近所の人達に紹介された時に不審に思われるかもしれないと僕は不安だったけど、全然そんな事はなくて拍子抜けした。
だってみんな揃って、またか~なんて言って笑っていたのだ。
なんでも、シェルアさんは僕が来る前に一緒に暮らしていた人達が結構いるそうで、直近で暮らしていたのが二人の姉弟らしかった。
 今はその姉弟もシェルアさんの使用人として隣のアパートに住んでいるとの事だった。

「あの、その人達って、僕と同い年くらいですか?」
「いや、サンよりは年上だよ。出会った時は今のサンより小さかったな」
「そうなんですか……」
「……やっぱり同い年の子がいた方が心強い?」

 眉を下げて聞くシェルアさんに、僕は慌てて首を横に振った。

「あっいえ、そういう訳じゃ! ただちょっと気になっただけです!」
「そう? 知り合いにいるから紹介は出来るよ?」
「大丈夫です! 多分会ったら緊張して上手く話出来ないと思いますし……!!」

 シェルアさんの提案は有り難いけど、そこまで面倒見て貰うのはだいぶ違う気がする。
そりゃ歳が近い人がいれば話もしやすいだろうし、友達になれるかもしれないけど、今は友達作りよりも自分の記憶を取り戻すのが最優先だ。
 シェルアさんは一瞬何か言いたげな顔をしたけど、僕がもう一度大丈夫だと言うと納得したようだった。

「えーっと、それで、その人達ってシェルアさんと付き合い長いんですか?」
「そうだなあ……十数年、くらいかな」
「長いですね」
「縁があってね。就職先をうちにしたのは驚いたけど」

 僕は相槌を打ちながら家の中へと入った。
 シェルアさんに先に手を洗うよう促されて、荷物を一旦置いて洗面所へ向かう。
 泡を手に乗せて指の先や爪の間を丁寧に洗っていると、ふと視線を感じて後ろを振り向いたけど、シェルアさんはいなかった。
気のせいかと思って泡を水で洗い流していると、また視線を感じて後ろを振り向く。

……誰もいない。

 濡れた手をタオルで拭いた後、すかさずもう一度後ろを振り向くと、僕を見上げる二つの目と目が合った。

「ワンッ」
「……犬?」

 子犬よりやや大きく、成犬というには小さい犬がそこにいた。
 犬種は柴犬だろうか。何かのマスコットキャラクターで見た覚えがあった。
 黒い毛並みに茶色の麻呂眉、つぶらな瞳。
凛々しくも可愛くも見える柴犬は、僕を見てまたワンと鳴いた。

「あれ。今日はまだ駄目って言ったはずなのに」
「シェルアさん、この犬は?」
「私の家族。サンが犬苦手かもしれないから、昨日から隣の姉弟に預けてたんだ」
「そうだったんですか!? 僕犬好きですよ! アレルギーも多分ないですし!!」

 僕は柴犬の側にいくと、目線を犬に合わせるように屈んだ。
 柴犬はフンフンと鼻を鳴らしながら匂いを嗅いで、僕の周りを一周する。

「大福……好奇心に負けてこっちに来たな?」
「ワフン!」
「もー……三日ぐらいは預かって貰うつもりだったのに……」

 シェルアさんの小言を聞いても、柴犬は特に気にする様子もなく、陽気に尻尾を振っている。

「ダイフクっていうんですか?」
「ああ、うん。その国の犬種だからその名前にしたんだ」
「ダイフク……あのモチ? の?」
「そうそう。あの餅の」

——大福。

 僕が名前を呼ぶと、大福はワンと元気よく鳴いて返事をした。
 僕は握手の代わりに手を差し出す。

「僕はサン。これからよろしくね」
「ワンッ!!」

 大福はひと鳴きすると、差し出した僕の手に片方の前足を乗せた。
まるでよろしくと言ってくれているみたいだ。
 顎の下を撫でると、大福は目を細めて嬉しそうな顔をした。

「ワウッ」
「可愛い……」
「ワウッ」
「ん? あれ?」

 鳴き声が違う方向から聞こえた。
 二回目の鳴き声がした方へと顔を向けると、大福と同じ柴犬がいた。
でも色は茶色で、足が緑がかった色をしている。
 茶色の柴犬は僕と目が合うと、シェルアさんの足元に隠れた。

「あの、その犬は……?」
「こっちはよもぎ。大福と一緒で私の家族なんだけど、人懐っこい大福と違って気を許すのに時間がかかるタイプなんだ。気を悪くしたらごめんね」
「いやそんな……悪いのはどう考えても勝手に転がり込んだ僕の方ですし……」

 よもぎという茶色の柴犬は僕を警戒しているのか、シェルアさんの足の隙間から僕を見ている。
 いきなり知らない人が来て一緒に住む事になりましたなんて、元から住んでいた犬からしてみたらお前誰だよ案件だろう。
 僕は申し訳ない気持ちになった。

「ごめんね、いきなり来て。仲良くするのは無理でも、一緒の家で暮らすのは許してほしいな」
「……」
「う……やっぱり駄目……?」
「いや、そんな事はないと思うけど……」

 謝罪の言葉を口にしても、大福みたいな元気な鳴き声は返ってこなかった。
シェルアさんは僕を気遣ってくれたけど、向こうが寄り付こうとしないのは僕にその原因があるからだ。
 
——仲良くは無理でも、せめて自然体でいてくれるようになったらいいなあ。

そんな事を考えていると、大福がぽてぽて歩いてよもぎに近付いた。
 よもぎはなんとなく嫌そうな顔をしている。
そんなよもぎに構う事なく、大福は大きくワンと鳴いた。
続いてひと鳴き、ふた鳴き。まるで会話でもしているようだった。
するとあれだけ僕に近寄ろうとしなかったよもぎが、大福と一緒に僕にゆっくり近付いてきた。

「えっ」
「ワンッ」
「……アン」

 よもぎは少し不服そうに鳴くと、僕の周りを一周した。
 フンフンとさっきの大福のように匂いを嗅いでいる。
そっと手を出すと、よもぎの鼻息が当たって少しくすぐったかった。
 
「フンッ」
「ワフゥン……」
「えっ? えっ? どういう事?」

 よもぎが鼻を鳴らすと、大福はどこか悲しげな鳴き声を洩らした。
 僕は意味がわからなくて、よもぎと大福を交互に見た後、飼い主であるシェルアさんに通訳を求めた。
 シェルアさんは楽しそうにニコニコ笑っている。

「サンの事、嫌いではないみたい」
「あ、そう……なん、ですか……? そんな風には見えませんでしたけど……」
「素直じゃない子だから。そこが可愛いんだけどね」

 シェルアさんの言葉に反応したのか、よもぎはワンと鳴いてシェルアさんの足に鼻先を擦り付けた。

「ちなみによもぎは女の子です」
「じゃあ……よもぎちゃん?」
「サンの好きに呼んだらいいよ」
「よろしく、よもぎちゃん」

 よもぎちゃんと目が合ったから、もう一度手を差し出してみる。
しばらくするとよもぎちゃんは僕の手を見てゆっくり瞬きした後、明後日の方向に目を逸らした。

「……」
「やっぱ嫌われてません!?」
「そんな事ないって。大丈夫、大丈夫」

 本当に大丈夫なんだろうか。
 確かに威嚇はされていないから大丈夫といえば大丈夫なんだろうけど、でも嫌われるよりは好かれたかった。
 僕はよもぎちゃんと仲良くなれるようにこれから頑張ろうと、ひっそり決意した。
 
「ワォン」
「アンッ」

 よもぎちゃんは前足で大福の頭をぺしぺしと叩いている。
僕とあまり仲良くしないようにと言っているみたいだ。
 大福は大福でされるがままかと思いきや、よもぎちゃんに身体をくっつけたり周りをぐるぐる回ったりして、どうにかよもぎちゃんを落ち着かせようと頑張っていた。
でも次第に逃げるよもぎちゃんを大福が追いかけるようになって、最終的に二匹の鬼ごっこが開催された。
 ちゃかちゃか走り回る姿は楽しそうだったけど、シェルアさんにやんわり注意されると二匹は走るのをやめた。

「クゥ~ン」
「ぶつかったら危ないでしょ。そんな顔しても駄目」
「ワフッ」
「プッ、あははは!」

 うるうるの可愛い目で訴える大福をシェルアさんがバッサリ切って、その上でよもぎちゃんが鬼ごっこを始めた大福を叱るように鳴いたから、僕は面白くてつい笑ってしまった。
 みんなの視線が僕に集中する。

「っあ、いや、可愛いなって思って……!」
「まあ確かに可愛いんだけど、たまにやんちゃが過ぎるから困るんだよ」
「そうなんですか? でもすごく賢いと思いますよ。こっちの事理解してくれてますし」

 ちら、と僕は二匹に視線を移した。
 大福は僕の側に歩み寄る一方で、よもぎちゃんは動かずに僕に目だけを向けた。

「この子達って兄妹きょうだいなんですか?」
「どちらかというとパートナーって感じかな」
「パートナー?」
「そう。恋仲」

——つまり相思相愛。

 急に二匹のつぶらな瞳がきらきらとより輝いて見えた。
 僕が顔の前に手をやって目を細めると、僕の行動を不思議に思ったのか、大福とよもぎちゃんは首を傾げた。

「どうした?」
「いや……なんか眩しくて……」
「「「???」」」
「あっ大丈夫です気にしないでください」

 シェルアさんにも首を傾げられて、僕はちょっとダメージを負った。
 多分こういう風に思うって事は、僕に恋人という存在はいなかったのだろう。
記憶喪失だから思い出せないだけなのかもしれないけど、どこか真実みを帯びていて悲しくなった。
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