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第6話
セピア色の記憶と、真夜中の黄色い布団
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深夜二時。冷たい雨が止み、アスファルトが月光を反射して銀色に光る夜。
「Cafe Sunflower」のドアが、静かに、重厚な音を立てて開いた。
入ってきたのは、仕立ての良いグレーのコートを羽織った老紳士だった。
白髪をきれいに整え、手には使い込まれた革のステッキ。彼は店内に一歩足を踏み入れると、懐かしい空気を吸い込むように、深く、長く呼吸をした。
「……変わっていないな。この、古時計の刻む音の響きまで」
MIKAが「いらっしゃいませ」と声をかける前に、老紳士の視線はカウンターの端、いつもの特等席に釘付けになった。
そこには、小さなワインレッドの椅子に座り、優雅にひまわりの種を齧るちび先生の姿があった。
「おや……まさか、君か?」
老紳士の声が微かに震える。
ちび先生は食べる手を止め、その小さな黒い瞳でじっと紳士を見つめた。数秒の沈黙の後、先生はポツリと呟いた。
「……ずいぶんと時間がかかったね、健一くん」
止まっていた時計が動き出す
老紳士、健一さんは、崩れ落ちるようにカウンターの席に座った。
MIKAは呆然としていた。ちび先生が、客を「名前」で呼んだのは初めてだったからだ。
「ちび先生、知り合い……なの?」
「知り合い、なんて言葉じゃ足りないよ、MIKA。この健一くんは、おじいさんの健造さんと、かつてこの場所で『ある夢』を語り合っていた悪友さ」
健一さんは、震える手で目元を拭った。
「信じられない。あの頃、健造さんが『俺の店には不思議な守り神がいるんだ』と笑って話していたが……まさか、本当に君が、あの時のままの姿でここにいるなんて」
五十年前。この店がまだアンティークショップだった頃。
健一さんは、画家になる夢を追いかけていた。健造さんはそんな彼を応援し、このカウンターで夜通し語り合ったという。
「私は逃げたんだよ、健造さん」
健一さんは、力なく笑った。
「絵では食べていけないと諦め、普通の会社員になり、家庭を持った。それはそれで幸せだったが……心のどこかで、この店に置いてきた『本当の自分』に合わせる顔がないと思って、ずっと足が遠のいていたんだ」
ちび先生は、ステッキを持つ健一さんの手の上に、ちょこんと自分の前足を重ねた。
「逃げたのではない。君は、別の道で戦ってきたんだろう? 健造さんは一度だって君を責めたりしなかった。ただ、『あいつが帰ってきたら、あのアツアツを食わせてやるんだ』と、ずっとフライパンを磨いていたよ」
MIKAは、おじいちゃんの古いレシピノートの隅に、走り書きで残されていたメモを思い出した。
『健一。あいつが来たら、ケチャップは少し多め。卵は包まず、上に乗せるだけ』
「……作らせてください。おじいちゃんが、健一さんに食べてほしかった料理を」
MIKAがキッチンに立つ。
フライパンが熱せられ、バターの芳醇な香りが立ち昇る。
細かく刻んだ鶏肉と玉ねぎを炒め、たっぷりのケチャップでライスを赤く染めていく。
そして別のパンで、卵を二個、絶妙な半熟加減で焼き上げる。
「お待たせしました。思い出のオムライスです」
目の前に置かれたのは、ぷるぷると震える黄金色の卵が、真っ赤なライスを優しく覆った一皿。
それはまるで、冷え切った心を温める「黄色い布団」のようだった。
健一さんは、震える手でスプーンを持ち、卵にナイフを入れた。
中からとろりと溢れ出す半熟の黄色。ライスと一緒に口へ運ぶと、懐かしい甘酸っぱさが鼻を抜けた。
「……ああ、この味だ。健造さんが、よく『失敗作だ』なんて照れながら出してくれた、不器用な優しさの味だ」
健一さんの目から、堰を切ったように涙が溢れた。
「ごめん、健造さん。……ありがとう、健造さん」
オムライスを完食した健一さんは、驚くほどスッキリとした表情をしていた。
彼は、カウンターの隣でそれを見守っていたMIKAに、穏やかに語りかけた。
「お嬢さん。若いうちは、何かを選んだら何かを捨てなきゃいけない、と思いがちだ。でもね、捨てたつもりでも、こうして誰かが守ってくれている場所がある。過去の自分を許せる日が、必ず来るんだよ」
MIKAは深く頷いた。自分もおじいちゃんの場所を継ぐことで、知らず知らずのうちに誰かの過去を守っていたのだと気づかされた。
「ちび先生。……先生は、これを待っていたんですね」
ちび先生は、誇らしげに髭を整えた。
「ボクはただ、約束を守っただけだよ。……健一くん、また描き始めるといい。今の君にしか描けない色が、きっとあるはずだ」
「……そうだね。まずは、この黄色い布団の色から、始めてみるよ」
健一さんが店を出て行く時、その背中は、入ってきた時よりもずっと若々しく見えた。
健一さんが去った後、店内には再び静寂が戻った。
MIKAはふと、カウンターの上のちび先生を見て、息を呑んだ。
「……ちび先生? 今、一瞬……」
月明かりに照らされたちび先生の体が、一瞬だけ、向こう側の景色が透けて見えるほど薄くなった気がしたのだ。
「どうした、MIKA。変な顔をして。洗い物が溜まっているぞ」
いつもの偉そうな口調。でも、その小さな体は、どこか夜露のように儚(はかな)い。
MIKAは、胸の中にざわりと広がる不安を打ち消すように、急いでフライパンを洗うために蛇口を捻った。
止まっていた時間が動き出す時。
それは同時に、何かが終わりへと向かう合図でもあることを、今のMIKAはまだ知らない。
【今夜の献立帖】
• 思い出の黄色い布団(オムライス)
• ポイント:
1. ケチャップライスは強火で水分を飛ばし、旨みを凝縮させる。
2. 卵は贅沢に使い、予熱で仕上げる「半熟」にこだわること。
3. 盛り付けた後、スプーンを入れる一瞬のワクワクが、何よりの隠し味。
「Cafe Sunflower」のドアが、静かに、重厚な音を立てて開いた。
入ってきたのは、仕立ての良いグレーのコートを羽織った老紳士だった。
白髪をきれいに整え、手には使い込まれた革のステッキ。彼は店内に一歩足を踏み入れると、懐かしい空気を吸い込むように、深く、長く呼吸をした。
「……変わっていないな。この、古時計の刻む音の響きまで」
MIKAが「いらっしゃいませ」と声をかける前に、老紳士の視線はカウンターの端、いつもの特等席に釘付けになった。
そこには、小さなワインレッドの椅子に座り、優雅にひまわりの種を齧るちび先生の姿があった。
「おや……まさか、君か?」
老紳士の声が微かに震える。
ちび先生は食べる手を止め、その小さな黒い瞳でじっと紳士を見つめた。数秒の沈黙の後、先生はポツリと呟いた。
「……ずいぶんと時間がかかったね、健一くん」
止まっていた時計が動き出す
老紳士、健一さんは、崩れ落ちるようにカウンターの席に座った。
MIKAは呆然としていた。ちび先生が、客を「名前」で呼んだのは初めてだったからだ。
「ちび先生、知り合い……なの?」
「知り合い、なんて言葉じゃ足りないよ、MIKA。この健一くんは、おじいさんの健造さんと、かつてこの場所で『ある夢』を語り合っていた悪友さ」
健一さんは、震える手で目元を拭った。
「信じられない。あの頃、健造さんが『俺の店には不思議な守り神がいるんだ』と笑って話していたが……まさか、本当に君が、あの時のままの姿でここにいるなんて」
五十年前。この店がまだアンティークショップだった頃。
健一さんは、画家になる夢を追いかけていた。健造さんはそんな彼を応援し、このカウンターで夜通し語り合ったという。
「私は逃げたんだよ、健造さん」
健一さんは、力なく笑った。
「絵では食べていけないと諦め、普通の会社員になり、家庭を持った。それはそれで幸せだったが……心のどこかで、この店に置いてきた『本当の自分』に合わせる顔がないと思って、ずっと足が遠のいていたんだ」
ちび先生は、ステッキを持つ健一さんの手の上に、ちょこんと自分の前足を重ねた。
「逃げたのではない。君は、別の道で戦ってきたんだろう? 健造さんは一度だって君を責めたりしなかった。ただ、『あいつが帰ってきたら、あのアツアツを食わせてやるんだ』と、ずっとフライパンを磨いていたよ」
MIKAは、おじいちゃんの古いレシピノートの隅に、走り書きで残されていたメモを思い出した。
『健一。あいつが来たら、ケチャップは少し多め。卵は包まず、上に乗せるだけ』
「……作らせてください。おじいちゃんが、健一さんに食べてほしかった料理を」
MIKAがキッチンに立つ。
フライパンが熱せられ、バターの芳醇な香りが立ち昇る。
細かく刻んだ鶏肉と玉ねぎを炒め、たっぷりのケチャップでライスを赤く染めていく。
そして別のパンで、卵を二個、絶妙な半熟加減で焼き上げる。
「お待たせしました。思い出のオムライスです」
目の前に置かれたのは、ぷるぷると震える黄金色の卵が、真っ赤なライスを優しく覆った一皿。
それはまるで、冷え切った心を温める「黄色い布団」のようだった。
健一さんは、震える手でスプーンを持ち、卵にナイフを入れた。
中からとろりと溢れ出す半熟の黄色。ライスと一緒に口へ運ぶと、懐かしい甘酸っぱさが鼻を抜けた。
「……ああ、この味だ。健造さんが、よく『失敗作だ』なんて照れながら出してくれた、不器用な優しさの味だ」
健一さんの目から、堰を切ったように涙が溢れた。
「ごめん、健造さん。……ありがとう、健造さん」
オムライスを完食した健一さんは、驚くほどスッキリとした表情をしていた。
彼は、カウンターの隣でそれを見守っていたMIKAに、穏やかに語りかけた。
「お嬢さん。若いうちは、何かを選んだら何かを捨てなきゃいけない、と思いがちだ。でもね、捨てたつもりでも、こうして誰かが守ってくれている場所がある。過去の自分を許せる日が、必ず来るんだよ」
MIKAは深く頷いた。自分もおじいちゃんの場所を継ぐことで、知らず知らずのうちに誰かの過去を守っていたのだと気づかされた。
「ちび先生。……先生は、これを待っていたんですね」
ちび先生は、誇らしげに髭を整えた。
「ボクはただ、約束を守っただけだよ。……健一くん、また描き始めるといい。今の君にしか描けない色が、きっとあるはずだ」
「……そうだね。まずは、この黄色い布団の色から、始めてみるよ」
健一さんが店を出て行く時、その背中は、入ってきた時よりもずっと若々しく見えた。
健一さんが去った後、店内には再び静寂が戻った。
MIKAはふと、カウンターの上のちび先生を見て、息を呑んだ。
「……ちび先生? 今、一瞬……」
月明かりに照らされたちび先生の体が、一瞬だけ、向こう側の景色が透けて見えるほど薄くなった気がしたのだ。
「どうした、MIKA。変な顔をして。洗い物が溜まっているぞ」
いつもの偉そうな口調。でも、その小さな体は、どこか夜露のように儚(はかな)い。
MIKAは、胸の中にざわりと広がる不安を打ち消すように、急いでフライパンを洗うために蛇口を捻った。
止まっていた時間が動き出す時。
それは同時に、何かが終わりへと向かう合図でもあることを、今のMIKAはまだ知らない。
【今夜の献立帖】
• 思い出の黄色い布団(オムライス)
• ポイント:
1. ケチャップライスは強火で水分を飛ばし、旨みを凝縮させる。
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3. 盛り付けた後、スプーンを入れる一瞬のワクワクが、何よりの隠し味。
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