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第7話
名前のない不安と、夜明けのフレンチトースト
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「Cafe Sunflower」がオープンして数ヶ月。
お店の評判はSNSでも少しずつ広がり、夜な夜な迷い込んでくる「止まり木」を求める客で賑わうようになっていた。
でも、店主であるMIKAの心は、晴れない霧の中にあった。
あの夜見た、あの光景。月明かりに透けて見えたちび先生の小さな体。
「ちび先生、今日のご飯はひまわりの種と……あと、このブロッコリーも食べる?」
MIKAは努めて明るく声をかけながら、小皿を差し出す。
「ふむ、ビタミンは大事だね。だがMIKA、君のその顔は『不安』でいっぱいで、栄養も足りていないようだ。もっとシャキッとしなさい」
ちび先生はいつものように偉そうに振る舞うけれど、最近、彼が自分の椅子に座って眠る時間は、以前よりもずっと長くなっていた。
客足が途絶えた午前三時。
MIKAはカウンターの隅で、おじいちゃんのレシピノートをめくっていた。
文字を追うふりをしながら、視線は何度も、小さな椅子で丸まっている毛玉へと向いてしまう。
「ねえ、ちび先生……。先生は、いつまでここにいてくれるの?」
静寂を破ったMIKAの声は、自分でも驚くほど震えていた。
ちび先生は、ゆっくりと片目を開けた。
「……MIKA。君は、形があるものだけを信じているのかい?」
「そういうことじゃなくて……! 私、やっとここが自分の場所だと思えるようになったの。おじいちゃんの想いも、ちび先生の教えも、やっと分かってきた気がする。だから……いなくなるなんて、嫌だよ」
ちび先生は、トコトコとMIKAの指先まで歩み寄った。
その重みは、相変わらずたった数グラムしかない。
「形あるものは、いつか必ず壊れ、消える。それは悲しいことではない。むしろ、形を失うことで、それは『記憶』という永遠の形に変わるんだ」
「そんなの、理屈だよ……。私は、ちび先生にここにいてほしいの。一緒に朝を迎えたいの!」
MIKAはカウンターに突っ伏した。
溢れ出した涙が、木のテーブルに小さなシミを作っていく。
ちび先生は、ため息のような微かな音を漏らした。
「……まったく。泣き虫な店主だ。おいMIKA、甘いものを作りなさい。『心に穴が空いた時は、そこを甘さで埋めるのが一番だ』。」
MIKAは涙を拭い、ふらふらとキッチンへ向かった。
何を作ればいいか、考えるまでもなかった。おじいちゃんが、幼い頃のMIKAが泣き止まない時にいつも作ってくれた、あの料理だ。
厚切りの食パンを、卵と牛乳、たっぷりの砂糖、そして隠し味に一滴のバニラエッセンスを加えた液に浸す。
「一晩浸けるのが理想だけど……今は、少しだけレンジで温めて、芯まで吸わせるね」
熱したフライパンにバターを落とす。
じゅわっという音とともに、幸せの香りが店内に広がった。
弱火でじっくり、表面はカリッと、中はプリンのようにぷるぷるに。
「できたよ、先生。夜明けのフレンチトースト」
仕上げに粉砂糖を振り、メイプルシロップをこれでもかというほどかける。
一口食べると、熱々の甘さが口の中でとろけ、冷え切っていた胸の奥を強制的に温めていく。
「……あまい。すごく、あまいよ」
「甘さは、勇気の別名だ」
ちび先生は、フレンチトーストの端っこを、少しだけ分けてもらった。
「MIKA。君がこの店の味を守る限り、私は、そして健造は、君の中に居続ける。目に見えるかどうかなんて、些細な問題だと思わないかい?」
MIKAは、甘いシロップを噛み締めながら、ちび先生の言葉を反芻した。
ちび先生が伝えようとしていること。それは、これからやってくる『お別れ』への準備なのだと、彼女は直感していた。
「……分かった。私、もう泣かない。先生が安心して『形』を脱ぎ捨てられるくらい、立派な店主になってみせる」
「ほう、大きく出たね。なら、まずはそのシロップでベタベタの手を洗いなさい。不潔な店主には、奇跡も寄り付かないぞ」
二人は、白み始めた空を見ながら、小さく笑い合った。
でも、奇跡の時間は、確実に終わろうとしていた。
MIKAが洗い物を終えて振り返ったとき、特等席にいたちび先生の輪郭は、朝日の光に溶け込むように、昨日よりもさらに淡く、透き通っていた。
MIKAは強く拳を握りしめた。
悲しいけれど、これは不幸じゃない。
この小さな賢者が教えてくれた「止まり木」の役割を、今度は自分が、誰かのために果たしていく番なのだ。
【今夜の献立帖】
• 夜明けのフレンチトースト
• ポイント:
1. パンは思い切って厚切りにする。
2. バニラエッセンスを「一滴」だけ。その香りが、幸せな記憶を呼び覚ます。
3. 悲しい時ほど、シロップは多めに。甘さは、明日を生きるためのガソリンになります。
お店の評判はSNSでも少しずつ広がり、夜な夜な迷い込んでくる「止まり木」を求める客で賑わうようになっていた。
でも、店主であるMIKAの心は、晴れない霧の中にあった。
あの夜見た、あの光景。月明かりに透けて見えたちび先生の小さな体。
「ちび先生、今日のご飯はひまわりの種と……あと、このブロッコリーも食べる?」
MIKAは努めて明るく声をかけながら、小皿を差し出す。
「ふむ、ビタミンは大事だね。だがMIKA、君のその顔は『不安』でいっぱいで、栄養も足りていないようだ。もっとシャキッとしなさい」
ちび先生はいつものように偉そうに振る舞うけれど、最近、彼が自分の椅子に座って眠る時間は、以前よりもずっと長くなっていた。
客足が途絶えた午前三時。
MIKAはカウンターの隅で、おじいちゃんのレシピノートをめくっていた。
文字を追うふりをしながら、視線は何度も、小さな椅子で丸まっている毛玉へと向いてしまう。
「ねえ、ちび先生……。先生は、いつまでここにいてくれるの?」
静寂を破ったMIKAの声は、自分でも驚くほど震えていた。
ちび先生は、ゆっくりと片目を開けた。
「……MIKA。君は、形があるものだけを信じているのかい?」
「そういうことじゃなくて……! 私、やっとここが自分の場所だと思えるようになったの。おじいちゃんの想いも、ちび先生の教えも、やっと分かってきた気がする。だから……いなくなるなんて、嫌だよ」
ちび先生は、トコトコとMIKAの指先まで歩み寄った。
その重みは、相変わらずたった数グラムしかない。
「形あるものは、いつか必ず壊れ、消える。それは悲しいことではない。むしろ、形を失うことで、それは『記憶』という永遠の形に変わるんだ」
「そんなの、理屈だよ……。私は、ちび先生にここにいてほしいの。一緒に朝を迎えたいの!」
MIKAはカウンターに突っ伏した。
溢れ出した涙が、木のテーブルに小さなシミを作っていく。
ちび先生は、ため息のような微かな音を漏らした。
「……まったく。泣き虫な店主だ。おいMIKA、甘いものを作りなさい。『心に穴が空いた時は、そこを甘さで埋めるのが一番だ』。」
MIKAは涙を拭い、ふらふらとキッチンへ向かった。
何を作ればいいか、考えるまでもなかった。おじいちゃんが、幼い頃のMIKAが泣き止まない時にいつも作ってくれた、あの料理だ。
厚切りの食パンを、卵と牛乳、たっぷりの砂糖、そして隠し味に一滴のバニラエッセンスを加えた液に浸す。
「一晩浸けるのが理想だけど……今は、少しだけレンジで温めて、芯まで吸わせるね」
熱したフライパンにバターを落とす。
じゅわっという音とともに、幸せの香りが店内に広がった。
弱火でじっくり、表面はカリッと、中はプリンのようにぷるぷるに。
「できたよ、先生。夜明けのフレンチトースト」
仕上げに粉砂糖を振り、メイプルシロップをこれでもかというほどかける。
一口食べると、熱々の甘さが口の中でとろけ、冷え切っていた胸の奥を強制的に温めていく。
「……あまい。すごく、あまいよ」
「甘さは、勇気の別名だ」
ちび先生は、フレンチトーストの端っこを、少しだけ分けてもらった。
「MIKA。君がこの店の味を守る限り、私は、そして健造は、君の中に居続ける。目に見えるかどうかなんて、些細な問題だと思わないかい?」
MIKAは、甘いシロップを噛み締めながら、ちび先生の言葉を反芻した。
ちび先生が伝えようとしていること。それは、これからやってくる『お別れ』への準備なのだと、彼女は直感していた。
「……分かった。私、もう泣かない。先生が安心して『形』を脱ぎ捨てられるくらい、立派な店主になってみせる」
「ほう、大きく出たね。なら、まずはそのシロップでベタベタの手を洗いなさい。不潔な店主には、奇跡も寄り付かないぞ」
二人は、白み始めた空を見ながら、小さく笑い合った。
でも、奇跡の時間は、確実に終わろうとしていた。
MIKAが洗い物を終えて振り返ったとき、特等席にいたちび先生の輪郭は、朝日の光に溶け込むように、昨日よりもさらに淡く、透き通っていた。
MIKAは強く拳を握りしめた。
悲しいけれど、これは不幸じゃない。
この小さな賢者が教えてくれた「止まり木」の役割を、今度は自分が、誰かのために果たしていく番なのだ。
【今夜の献立帖】
• 夜明けのフレンチトースト
• ポイント:
1. パンは思い切って厚切りにする。
2. バニラエッセンスを「一滴」だけ。その香りが、幸せな記憶を呼び覚ます。
3. 悲しい時ほど、シロップは多めに。甘さは、明日を生きるためのガソリンになります。
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