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時計屋『永遠時間』 【完結】
1-1 彷徨う青年
しおりを挟む暦の上では春を迎えていようが、まだまだ寒い日々が続く季節。なごり雪のちらつく街を、とくにどこへ行くともなしに、青年は彷徨っていた。
古いレンガ造りと漆喰の壁が立ち並ぶ下町商店街。その街の中に足を踏み入れたのは、ほんの偶然だったのかもしれない。
――時計屋『永遠時間』――
疲れた足を止めた青年の目を捉えたのは、おかしな名前の古びた時計店の看板だった。
ふらふらと誘われるまま近づくと、かじかんだ手が扉の把手を握っていた―――
チリンチリンッ
足を一歩踏み入れた瞬間、青年はしまったと思う。
店内をさらりと見回し、この店の品物が手頃そうな商品以上に、アンティーク物の高価そうな品々が多く揃っているのが見てとれたからだ。
どこか異国の香りが漂う店内は、少しくたびれた人懐っこそうな外観とは裏腹に、シンプルだが特定の人間には威圧的な効果を発揮する威嚇というか、境界線が引かれている場に感じられた。
ワイシャツの上にベージュ色のコートを纏い、薄手のズボンに何年も履き古した革靴という軽装。上から下まで安物でコーディネートされた青年には、馴染みの薄い場所だった。
だが、そろりと後ずさり、値踏みされる前に出て行こうと逃げ腰になっていたところを、朗らかな声に足止めされる。
「いらっしゃいませ。なにかお探しですか?」
奥のカウンターから、にっこりと微笑まれてしまった。
「いえ、あの……」
声の主はフチなしの丸眼鏡を外すと、さっきまで読んでいたらしい本を閉じ、懐中時計を懐から取り出して時間を確認したように見えた。
「ちょうどいい、お茶の時間だ。一緒にどうですか? こちらへどうぞ」
店内へ手招きされてしまった。
どう見てもこの店にそぐわない青年をつかまえて、客だとは思っていないだろうに。その愛想の良さはどこからくるものなのか。
カウンターの後ろのガラス扉が付いた棚には、ティーポットやカップのセットが置いてあった。手慣れた仕草でトレーに乗せると、カウンターの左側手前にある小さな丸テーブルに置いた。
青年の方に向き直ると、サラリと言い放った。
「大丈夫ですよ。無理やり売りつけようとは、思っていませんから」
内心を突かれて一瞬ギクリとした青年に、やはり、というような苦笑を浮かべた。
「そんなに警戒しないでください。誰かとお茶を飲むのは、僕の趣味です」
相手の意図が分からず、その場で立ち尽くしていた青年を、店主はクスリと笑った。
こぽこぽこぽ……
熱い紅茶をカップに注ぐ店の主人は、一風変わった人物のように思われた。おそらく、店主自身からも異国の香りがするせいかもしれない。
年の頃は青年と同じくらいに見えた。二十五から三十といったところだろうか。褐色の少し長めの髪を、首の後ろで緩く一つにまとめている。
風貌は細面の色男で、顔と手の白さが際立つシンプルな黒尽くめの服を身につけていた。見た目の印象としては、人当たりのいいおっとりとしたタイプといったところだろうか。
「いい香りですね」
とりあえず引かれた椅子に腰を掛けてしまっていた青年は、ポツリと呟いた。とても心地よい紅茶の香りが店内を満たしていた。
ためらいながらも、密に誘われる蝶のように、勧められた紅茶をひとくち口に含んだ。冷えた鼻腔を湯気が湿らせ、喉の奥を暖めながら甘く通り過ぎ、その熱が徐々に血管を伝わるように体中に広がっていく。
静かに時間が流れた。
次第に頭の中もスッキリとしていくようで、深い霧のようなどこかもやもやしていたものが少し晴れたような気がした。
そういえば、この店に入った時の一瞬耳の奥で耳鳴りのようなピィーンという感覚はなんだったのだろうか。すぐに消えていたから忘れそうになっていたけれど……、と青年は何気なく思い出した。
「少しは、リラックスできましたか?」
声をかけられ、視線がぶつかる。言われて、固まっていた肩の力がいつの間にか抜けていることに気が付いた。
「はい。とても、美味しかったです」
素直に感想を述べると、ふふっと幸せそうに店主が微笑み、青年の心臓がドキリと跳ね上がった。
「本当は、紅茶の銘柄なんて分からなくても、美味しいと思えれば、それで十分だと僕は思うんだけれど……」
細めた目は、暗に何かを指して言っているかのような口ぶりだった。小首を傾げていると、店主は話を続けた。
「高価なものでも気に入る人がいなければ、ただの置物ってことかな」
それは売れ残っている、のかまでは分からなかったが、店内の品物に対しての言葉だったらしい。
「……あの、申し訳ありません。ふらりと入り込んだだけなのに。ごちそうさまでした」
温かく居心地のいい雰囲気に忘れそうになっていたが、自分の今の状況を思い出した。
「おや」
礼を言い、そそくさと立ち上がろうとする青年に、心外だとでも言うのか、店主は驚きを隠さなかった。
「残念だな。もう、行ってしまうのかい?」
そう言いながら、持っているカップの縁をゆっくりとなぞる、白く長い人差し指の動きに、青年の瞳は知らず知らず吸い付けられ、次の動作が奪われた。
「けれど君は……、何か理由があってここへ来たはずだよ」
「……⁉」
疑問符のない確定の問いに、青年の言葉が失われる。
(理由? 理由とは……。この人は一体なにを言って?)
青年の心に不信感が芽生えた。
「どうして、そう……思うんですか?」
慎重に言葉を発した。
「さぁ、どうしてだろうね……。この店の扉を開く人は、何かしら共通した理由を持っているから」
伏せていた視線を上げ、持っていたカップをソーサーに戻すと、店主は左手で頬杖をつき、真面目な顔で囁く。
「実はね、あの扉は普通の人には見えないんだ。この店内と外とは同じように見えて、まったく別の次元に存在している……。ほら、今店の前を通った彼らには、見えていない」
吸い込まれるように、店主の人差し指の先の一点に視線が誘われる。指差された扉を振り向いて見た。確かに、誰もこちらを見る者はいないが……。
沈黙が流れた。
張り詰めた空気が、ソーダ水のように皮膚の上でパチパチ弾けているような気がした。
不思議な感覚に触れた瞬間、目の前が眩み、平衡感覚がぶれた。落ちる、と思った刹那、悪戯っぽい声が耳元に届いた。
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