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人魚の卵【完結】
四、海水浴
しおりを挟む夕暮れ時、開け放たれた部屋の窓から、海の香りが入り込む。
いつものように椅子に腰掛け、温かい風にその身を預けながら、揺りかごに揺られるように、心地よい眠気にうとうとと意識を委ねていた。
『――愛してる……愛してる……』
囁きが優しく頬をなでていく。
(僕も、愛してるよ。僕を愛してくれるすべてを……)
呼んでいるのは誰?
波の音に意識が溶けていく――
(あぁ……、そうか。待っているんだね)
僕もいつか、小さな波となって、この海に還るだろう。
だからどうか、もう少しだけ。このままでいさせて欲しい。
(愛しているから。愛して……)
願いは、叶うだろうか――――
* * *
海水浴を楽しむ人たちの声が、浜辺に響く。キャシーたちが楽しんでいるのを、パラソルの下から眺めながら、シドはもの思いに耽っていた。
(こんな近くで、海を眺めるのは何年ぶりだろうか……)
数分前、カーマンがジュースを持ってやってきた。それをシドに渡すと、日に焼けた長身の体をシートの上に転がした。
なにも話さないカーマンにつられ、シドも黙って海を眺めながら、昨日のことを思い出していた。
放課後、一緒に帰る約束をしたキャシーと、アイスクリーム屋によったとき、こっそり教えてくれた。
「カーマンがね、遊びを計画したのは、本当はあなたのためなの。最近、シドが元気がないのは、気晴らしが足りないせいだとか言い出して」
「僕が、元気がないって?」
「私も、そう思ってた」
「そう……」
(そう思われてしまっていたのか)
「でも、海は駄目だって言ったの。シドが嫌がったらやめようって、そう言ったのに、強引なんだから」
「……僕なら、大丈夫だよ」
カーマンは彼なりに、シドを元気づけようとしてくれたらしい。
そのことを思い出し、シドはくすりと笑った。それに気がついたのか、カーマンがむくりと起き上がってシドを見た。
「なに、笑ってんだよ?」
「なんでもないよ。あと、言い忘れてたけど、誘ってくれてありがとう、カーマン」
ふわっとした、柔らかな笑顔を向けられ、カーマンはそっぽを向いた。
「別に。誘ったのはキャシーだろ。礼なら、そっちに言えよ」
ぶっきらぼうにそう言うと、ミルクホワイトの短めの髪をがしがしと忙しなくかきながら、早足でみんなのところへ行ってしまった。
それから、カーマンを皮切りに、入れ代わり立ち代わり誰かしらやって来ては、ただ静かに休んだり、シドとたわいない世間話をしたりして戻っていく。
その度にシドは不思議に思っていたが、途中から気がついた。
(みんな、保護者の気分なのかな?)
過保護すぎるクラスメイトたちに、シドは密かに苦笑した。
「シド、楽しんでる?」
ビーチバレーを楽しんでいたキャシーが、一休みをしに戻ってきた。シドの隣に腰を下ろして一息つく。
「ごめんなさい。こっちが誘っておいて、荷物番をさせてしまって……」
「いいんだよ。眺めているのは好きだから」
だからそんなに、気を使わないで。そう思いながら、シドはただ静かに微笑んだ。
「相変わらずね。あなたの中には、それしかないの? まるで、恋をしてるみたい」
キャシーが言いたいことは分かっていた。だから、シドは自分で告げる。
「でも、海には入れない。でしょ?」
そう、シドは海水に浸かることができない。幼いころの記憶が、鮮明に蘇ってくる。
「あのことがまだ、影響しているのでしょう? 私の、おじいちゃんが言ったことが……」
「キャシー、大丈夫だよ。僕はあのころよりもずっと大人になった。迷信や物語を言われたとおりに、ただ信じるほど弱くはないつもりだし、誰のせいでもない。ただ……」
(問題はほかに、僕自身にもあるのだから)
「おじさんは、なんて?」
「父さんは、なにも言わなかった」
けれど、シドには分かっていた。出かける前、なにも言わずに見送ってくれていたが、父親もまた不安を隠していた。
「そう……。おじさんはこの海で、大切な人を亡くしているのよね……」
それからしばらく、二人で静かに海を眺めていた。
* * *
『パパ。だれかが、ボクをよんでる』
『シド?』
『いつも、とおくてよくきこえなかったけど、むこうから、ボクをよんでるこえがする』
そう言って、シドは水平線の向こうを指差した。
『……』
父親は、シドの指の先にある海を見て押し黙った。
『それはお前さんが、人魚に呼ばれているからだよ』
声をかけられ、シドは振り返った。
『キャシーの、おじいちゃん?』
『お前さんのような子供は、人魚が一番喜ぶ。こんなに愛らしい顔と、そうだ……、このきれいな碧い瞳が、人魚を呼び寄せてしまう』
節くれだった両手でシドの顔を包むと、その瞳をのぞき込んだ。
『しかしもう、海に魅入られてしまっているようだ。海に入れば、必ず連れて行かれちまうよ。必ずな』
『お義父さんっ、変なこと言わないでちょうだい。ごめんなさいね、シド君』
キャシーの母親が、割って入ってきた。聞いているのかいないのか、ふらふらと離れていく義父の後ろ姿を見ながら、シドの父親に告げる。
『最近、少しぼけ始めてしまって。それに昔、娘さんを海で亡くしたとかで……。あっ、気にしないでくださいね。ちょっと待って、お義父さんっ』
またどこかへ行ってしまいそうな義父を追いかけ、キャシーの母親は行ってしまった。
『……』
父親はずっと、シドの手を握ったまま、その場に黙って佇んでいた。
『パパ? パパ、いたいよ。そんなに――』
『シド。海は駄目だ。海は……。きっとお前を連れて行く。パパには分かる。もう二度と、失いたくないんだ』
『パパ……』
父親は泣いていた。その父にきつく抱きしめられながら、シドの心の中にも不安が渦巻いていた。
それは、父親の不安だったのか、それとも……
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