短編・完結【人魚の卵】【時計屋『永遠時間』】

m.sei

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人魚の卵【完結】

七、彼と僕

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 街も人も静まり返っていた。聞こえてくるのは、波の音だけ。深夜の海は神秘的でいて、どこか恐ろしい。

 けれど、行かなくては……と、シドの心は囚われていた。あの〈卵〉に。

 あれは夢だったと、そう言い切ることはできなかった。あまりにもリアルな光景が、脳裏にこびりついて離れない。

(手に入れたい……)

 その思いでやってきたが、アスファルトの地面から足を踏み出せずにいた。

(本当に、これで、いいのか……?)

 何度も同じことを自分に問いかけた。

(決めたんだ。これで、いい)

 言い聞かせるように、心の中で決断した。

 階段を下りると、砂浜に足をつけた。さくさくと砂がこすれる音と、一歩ずつ踏みしめる感触を確かめながら、しばらく岸辺に沿って歩いていた。

 すると、岸に一隻の小舟が、不自然に打ち上げられているのを見つけた。

(日中は、なかった気がするけど……)

 人影らしきものはなく、不思議に思っていると、

「待ちくたびれるかと思った。ようやく、決心がついた? ここに来たということは、ボクと一緒に行くってことでいいのかな?」

 いつ現れたのか、〈彼〉がそこにいた。シドはその問いには答えず、逆に尋ねた。

「……君は、何者なの?」

 〈彼〉は首を傾げた。

「それを、ボクに聞くのか。ずっと、呼んでいたのに……。けれど、君は答えてはくれなかったね。だからあのとき、子供を沖に連れ出して君を待っていた。あのまま、連れて行ってもよかったけれど――」

 意味ありげにシドを見ると、〈彼〉はくすりと笑った。

「ボクが欲しいのは、君だけ。ほかはどうでもいい」

 本当に興味がないのか、最後はにこりともせずに、吐き捨てるように言った。

「……なぜ、僕を――」

 そう声に出しながら、シドの頭の中ではぐるぐると過去が反芻していた。

「君は、考えたことはない? なぜ人魚が、子供をさらうのか」
「……」

 シドに分かるはずはなかった。首を振ると、〈彼〉は楽しそうに告げてきた。

「子供が、産めないからさ。だから人間の子供を攫って、人魚として育てる。大人じゃ駄目かって? 大人では受け入れられないんだ。陸に対する思いが強すぎて、直に死んでしまう」
「君……は――」
「ボクの名前を、呼んでくれないの? シド」

 名前を呼ばれ、シドはぎくりとした。

「知っているはずだ。ちゃんと、聞こえていただろう?」

 雑音のなかで、確かに聞き取れた〈彼〉の名前。

「カ……イン。君も、もとは人だったのか?」

 名前を呼ばれた〈彼〉は、嬉しそうに答えた。

「ボクの場合は、少し違う。この世に人間として生まれる前に、暗い海の底で、人魚として生まれた」

 なにが面白いのか、〈彼〉はくすくすと笑い始めた。だがその笑い声は、すすり泣いているようにも聞こえた。

「――そうだよ。淋しかったんだ。だから、君を呼んでいたのに……。そんなに、恋しいのかい? 陸に、長く住み着いてしまったからね」
「そう、だよ……。今の僕を連れて行っても、君にはなんの得にもならないはずだ……」

(じきに、死んでしまうのなら――)

「かわいそうに。そんなに、否定したいんだね。ボクは君を、人魚にするとは一言も言っていないよ? ただ、連れて行くだけ――」

 ぴちゃん……と、どこかで水の跳ねる音がした気がした。そう思った直後、〈彼〉がいつの間にか、すぐ目の前まで来ていた。そして、シドの耳元に歌うように囁く。

「それとも、そんなにボクに言わせたいの? 君が、ってことを」

 告げられた言葉に、衝撃というよりも、核心を突かれて目の前が眩んだ。崩れ落ちるように力をなくしたシドの身体を支えながら、〈彼〉はさらに追い討ちをかけるように告げる。

「人魚になるとね。性別……というより、生殖器がなくなるんだ。見た目は変わらなくても、体の中が作り変わってしまうからね。だから、子供ができない」
「……」

 それは、父親と診療所の医師しか知らないことだった。だが、シドの体を心配した父親が、医師と相談して検査した結果を、シド自身も知っていた事実を、彼らも知らなかった。

「君とボクは、同じ生き物。そもそも、ボクたちは二人で一つなんだよ。なのに、君は流され陸で育ってしまった。ボクがどんなに淋しかったか、君に分かるかい? シド、ずっとこの日を待っていた。一緒に、おいで」

 だが、シドは首を縦には振らなかった。まだ、ためらっていた。

「これが、欲しいんだろう? これは、君のものだ」

 どこから出してきたのか、〈彼〉のその手には、夢で見たあの〈卵〉とは違う、掌に乗るほどの小さな白っぽい塊があった。

(そうだ……。このために、僕はここに来たんじゃないか。これを、手に入れるために――)

 シドはその〈卵〉に手を伸ばし、受け取った。

「その代わり、すべてを忘れるんだ。陸での記憶は消さないと。君の想いは、強すぎるからね」

(忘、れる……?)

「それは、駄目だ……」

 背筋に悪寒が走った。今まで必死に堪えていた感情があふれ出し、シドの心がひどく乱れた。

「それは、できないっ。忘れることなんてできないよ……っ。愛して、いるんだ」

(父さんを、友達を、この街を……)

 自分を愛してくれたすべてを、忘れることはできない。

 たとえ傍にいられなくても、遠くから見守ることができるなら。そう思ってここへ来たというのに、それさえもできないのかと、シドの頬が涙で濡れていく。

「ここにいても、君は普通の人間にはなれない。分かっているはずだ。君の成長はけれど、もう限界なんだ。このままでは、人魚としても生きられなくなるんだよシド」
「……どういう、こと?」

 シドは聞き返していた。

(限界で……、生きられない? なら、僕は……)

 考え始めたシドの意識をそらすように、〈彼〉が囁く。

「そんなに、人間になりたい?」

 その言葉に、シドはぴくりと反応した。

「君が一番、愛している人の命を奪えばいい。そうすれば――」
「やめてっ、聞きたくないっ」

 シドは耳を塞いだ。人に戻るためのおぞましい儀式など、望んでいない。最初から、選択肢などなかった。それを知っていて、〈彼〉は最後の駄目押しをシドに突きつけた。


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