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その後の何とも言えない人生
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予定通り、私はある大手コンピュータ会社に入社した。
当時は「IT」なんて洒落た言葉はなかった。「コンピューター」と誰もが呼んでいた。
この頃は、まだインターネットも日本では一般には知られていない時代だった。大型汎用機が幅を利かせていた。
大型汎用機に接続された、入出力機能のみを備えたダム端末と言う、モニターとキーボードだけの端末でプログラマーたちは仕事をしていた。テキストモードしかない端末である。
大型汎用機は、大型というだけあって、洋ダンスを二回りくらい大きくしたサイズであった。
しかしそれも、二年ほどすると、半分以下の大きさにまで縮小された。それでもチェストくらいの大きさがあった。重量は相当あったと思う。
大型汎用機に接続されるハードディスクは、洗濯機くらいの大きさがあった。それが何台も接続されていた。
驚くなかれ、その容量は1台で1ギガバイトであった。
更に言うと、大型汎用機のメインメモリーの容量は3メガバイトであった。ギガではない、メガである。
今から思うと、信じられないサイズである。
こんな容量で、大企業のコンピューターシステムが動くのか!と疑いたくもなるが、当時のプログラムはほとんど手書きであったので、メインメモリーを非常に節約して書かれていたのであった。
技術の進歩は凄いもので、半導体の集積密度は飛躍的に増大していった。
それと同時に、DLL(ダイナミック・リンク・ライブラリー)なるものがプログラムのほとんどの容量を占めることとなり、それが飛躍的にメインメモリーを食った。
プログラムは手書きのメモリー節約タイプではなくなり、馬鹿のようにメインメモリーを使う非節約タイプとなったのであった。
そうこうしているうちに、大型汎用機がUnixサーバーに取って代わられるようになった。
それもまもなく、瞬く間にWindowsサーバーが主流となった。
私が十分理解に追いつく間もなく、技術がどんどん変わっていく。
もう、大型汎用機のコマンドはおろか、Unixサーバーのコマンドもほとんど覚えていない。
私よりも年上の先輩たちは、この目まぐるしい変化にどのように対処しているのだろうかと私は眺めていたが、彼らの多くは技術など学ぼうとする気は無いのであった。
自分たちを「マネージャー」と称して、他者の管理だけをしているのであった。管理と言っても、会社の業績を向上させるための役に立つ管理をしたわけではない。部下の行った仕事をまとめるだけの、低レベルの管理さぎょうである。
私は、Fの言葉を思い出した。
『アメリカ様の発明をなぞってるだけだ。いや、なぞることさえできない馬鹿がわんさかふんぞり返っているよ。』
ああ、Fはなぜ私の職場の将来を予見することができたのだろうか。
私が結婚するとき、Fに結婚式の招待状を送ったが、返事はなかった。
結婚してから数年して、私は大阪転勤になった。大阪の事業拡大のための人員補充と言われたが、大阪の景気は良くなかったので、何だか左遷されたような気がした。
しかし、大阪も住んでみると悪くない。何と言っても東京に比べれば家賃が安い。通勤状況も、東京のような殺人的通勤ラッシュではないので、いくらか通勤が楽になった。
しかし、そのためFとはますます音信不通になってしまった。
ところで、「マネージャー」のほとんどは、現場の仕事ができない能なしだと私は悟った。
なぜなら彼らは、うまい具合に現場の仕事やユーザーの矢面に立つことから逃れ、会社の価値向上には何の役にも立たない「管理業務」で毎日過ごしているのだから。
だいぶ後になって分かったことだが、だから日本のコンピューター産業はアメリカの二歩も三歩も四歩も遅れを取っているのだ。
日本の技術力は優れているとよく言われるが、ことコンピューター産業に関しては、仕事のできない社員が大勢あふれていた。
二割の仕事のできる社員が、八割の売上げを稼いでいる・・・にっぱちの法則とか、パレートの法則とか言われる現象であるが、コンピューター産業ではこの傾向が特に強かった。
私の在籍していた会社もそうであるが、例えば他社で言えば、NTTがそうであった。あの親方日の丸巨大企業である。
ある時期私もベンダーとして、堂島の立派なビルのNTTで働いていたのであった。
NTTになってから入社した社員はそれなりに仕事ができたが、電電公社から入社している社員で、情報システム関連に属している人材は全く使い物にならなかった、と私は断言する。
NTTはそんな人材にも相当な給料を支払って大切にしていたのだが、その給料の原資は、かつてはバカ高い通話料であり、その後はテレカや携帯電話などから得られる収益である。
時代の波は、NTTに追い風を吹かせていた。
そのNTTビルには、情報システム部という部署が存在していた。
名前だけは立派だが、彼らが何をしていたかと言うと、ひたすらオアシスというワープロ専用機で文書を作成していたのであった。サーバーとは接続していない。いわゆるオフラインの作業である。NTTで入社した若い社員たちは忙しく働いていたのに、この情報システム部の数十名の社員たちはいったい、毎日何をしていたのであろうか・・・
やがてNTTへの常駐も終わって、私はあちこちの部署を転々とした。
そんなこんなで、私は十八年間この大手コンピューター会社で辛抱していたが、とうとう辞めてしまった。
中途半端であった。辞めるのなら、もっと早く見切りをつけるべきであった。実際に、入社数年で転職してしまった同期が少なからずいる。
もしくは、定年までこの会社で辛抱し続けるべきであった。そうすれば、年金も途切れることなく会社の天引きで支払うことになるので、もらうときはそれなりの金額がもらえるはずであった。
(国民年金にだけ加入している人は、豊富な貯えがないと歳をとってから苦労することになるのだ。個人的には、国民年金の受給額をもっと増やすべきだと思う。日本国の財政は実はそれくらいの余裕があるからだ。もし日本がまっとうに経済成長していれば、年金受給額はもっと増やすことができた。長年経済成長してこなかった日本の国民はだんだん貧乏になった。)
新卒で入った会社を退職することになった私は、転職人生をさまようことになった。
四十歳をとうに過ぎていてもう大手は無理なので、中小企業が対象となった。
転職当初は、正社員として採用されたこともあったが、中途採用者はすぐに切られた。
正社員などという肩書は、この業界では何の意味もないようだ。
正社員の肩書に安心して、のほほんと構えていた私は現実の辛さを知らされることになった。
結局、契約社員や派遣社員として働くことになった。すなわち非正規社員だ。
仕事は業務プロジェクト単位なので、プロジェクトが終わると、その都度また仕事を探さなければならない。
そうすると、その都度また職務経歴書を書き直して、面接を受けに行かねばならない。
これは非常に非効率的で、うっとうしい作業であった。
それでも私は六十歳まで、この業界でなんとか生き延びてきた。
あちこちで仕事をした。東京が最も多かったが。
だが、私の体はかなりぼろぼろになってしまっていた。
いつも倦怠感が取れず、日増しに疲労が蓄積しているのを感じた。
『己の時間と体を削って資本家のために働く労働者のことだよ。』
労働集約型労働者に対する、Fの言葉が思い出された。
私が若いころ、定年は六十歳だった。それで六十歳になったら、もう働かなくても良くなるのだ、解放されるのだとずっと思っていた。
しかし、いつだっただろうか、ある日の昼休みに食堂のテレビを見ていると、坂口厚生労働大臣が、『今後は定年を六十五歳に延ばします。』という趣旨のことを、いけしゃあしゃあと喋っていた。これを見て、『こいつはとんでもない奴だ。』と思わず憤慨したことを覚えている。
なぜ特定の宗教団体をバックボーンに持つ政党が、連合して与党になっているのかがそもそもおかしいと思っていた。国家の体制として異常ではないか。
今思えば、その頃の政界は、ひどくぐちゃぐちゃだったと思う。
私は、出来るだけ長く働こうと思っていたのだが、結局、六十二歳で年金を受給することになった。
なぜならば、私は六十一歳を目前にしてとうとう脳の血管が破裂して頭が正常ではなくなり、脳出血の手術を受けて入院してしまったからだ。
この頃はちょうど、いわゆる世界的なウイルス騒ぎの時で、リモートワークで勤務していたのだが、東京で単身赴任状態であったので一人で住んでおり、異変に気が付いた総務の取締役がアパートまで来てくれて、救急車を呼んで私を病院に担ぎ込んでくれた。
おかげで助かった。
下手をすると、右半身が麻痺してしまって動かなくなる恐れもあったのだが、幸い右手も右足も動いてくれた。
私の人生の中で、本当に良かったと思った出来事のうちの一つである。
もちろん、いくらかの麻痺は残ったが。
入院中に私は六十一歳になった。
退院後、会社の総務も、『もう年金がもらえるのだから、無理はしない方が良い。』と、退職を勧めた。
しかし、私は転職を何度もしているのでもらえる年金が少なく、貯えも乏しかったので、現役続行を希望した。
転職が多いということは、失業中は厚生年金を支払っていないということなので、将来貰える年金も少なくなる。
失業中、本当に生活が苦しい時は、国民年金も免除を申請していた時期があった。
だから私のような労働者は、終身雇用で雇われるのが将来的に一番年金を多くもらえるのである。これが現実だ。
職場に復帰して最初の頃は、業務内容が軽かったのでなんとか凌げていたが、業務内容がより重い職場に変わると、途端に仕事が辛くなり、退職を余儀なくされた。左脳をやられたので、特に計算能力や細かい注意力、記憶力が劣化していた。
やはり、開頭手術を受けてしまうと、どうしても元気が出てこない。
退職後、三か月ほどは失業給付で凌いで、その間に六十二歳になった。
ということで、失業給付が切れるとすぐに年金受給を申請し、六十二歳で受給することになったのである。
当時は「IT」なんて洒落た言葉はなかった。「コンピューター」と誰もが呼んでいた。
この頃は、まだインターネットも日本では一般には知られていない時代だった。大型汎用機が幅を利かせていた。
大型汎用機に接続された、入出力機能のみを備えたダム端末と言う、モニターとキーボードだけの端末でプログラマーたちは仕事をしていた。テキストモードしかない端末である。
大型汎用機は、大型というだけあって、洋ダンスを二回りくらい大きくしたサイズであった。
しかしそれも、二年ほどすると、半分以下の大きさにまで縮小された。それでもチェストくらいの大きさがあった。重量は相当あったと思う。
大型汎用機に接続されるハードディスクは、洗濯機くらいの大きさがあった。それが何台も接続されていた。
驚くなかれ、その容量は1台で1ギガバイトであった。
更に言うと、大型汎用機のメインメモリーの容量は3メガバイトであった。ギガではない、メガである。
今から思うと、信じられないサイズである。
こんな容量で、大企業のコンピューターシステムが動くのか!と疑いたくもなるが、当時のプログラムはほとんど手書きであったので、メインメモリーを非常に節約して書かれていたのであった。
技術の進歩は凄いもので、半導体の集積密度は飛躍的に増大していった。
それと同時に、DLL(ダイナミック・リンク・ライブラリー)なるものがプログラムのほとんどの容量を占めることとなり、それが飛躍的にメインメモリーを食った。
プログラムは手書きのメモリー節約タイプではなくなり、馬鹿のようにメインメモリーを使う非節約タイプとなったのであった。
そうこうしているうちに、大型汎用機がUnixサーバーに取って代わられるようになった。
それもまもなく、瞬く間にWindowsサーバーが主流となった。
私が十分理解に追いつく間もなく、技術がどんどん変わっていく。
もう、大型汎用機のコマンドはおろか、Unixサーバーのコマンドもほとんど覚えていない。
私よりも年上の先輩たちは、この目まぐるしい変化にどのように対処しているのだろうかと私は眺めていたが、彼らの多くは技術など学ぼうとする気は無いのであった。
自分たちを「マネージャー」と称して、他者の管理だけをしているのであった。管理と言っても、会社の業績を向上させるための役に立つ管理をしたわけではない。部下の行った仕事をまとめるだけの、低レベルの管理さぎょうである。
私は、Fの言葉を思い出した。
『アメリカ様の発明をなぞってるだけだ。いや、なぞることさえできない馬鹿がわんさかふんぞり返っているよ。』
ああ、Fはなぜ私の職場の将来を予見することができたのだろうか。
私が結婚するとき、Fに結婚式の招待状を送ったが、返事はなかった。
結婚してから数年して、私は大阪転勤になった。大阪の事業拡大のための人員補充と言われたが、大阪の景気は良くなかったので、何だか左遷されたような気がした。
しかし、大阪も住んでみると悪くない。何と言っても東京に比べれば家賃が安い。通勤状況も、東京のような殺人的通勤ラッシュではないので、いくらか通勤が楽になった。
しかし、そのためFとはますます音信不通になってしまった。
ところで、「マネージャー」のほとんどは、現場の仕事ができない能なしだと私は悟った。
なぜなら彼らは、うまい具合に現場の仕事やユーザーの矢面に立つことから逃れ、会社の価値向上には何の役にも立たない「管理業務」で毎日過ごしているのだから。
だいぶ後になって分かったことだが、だから日本のコンピューター産業はアメリカの二歩も三歩も四歩も遅れを取っているのだ。
日本の技術力は優れているとよく言われるが、ことコンピューター産業に関しては、仕事のできない社員が大勢あふれていた。
二割の仕事のできる社員が、八割の売上げを稼いでいる・・・にっぱちの法則とか、パレートの法則とか言われる現象であるが、コンピューター産業ではこの傾向が特に強かった。
私の在籍していた会社もそうであるが、例えば他社で言えば、NTTがそうであった。あの親方日の丸巨大企業である。
ある時期私もベンダーとして、堂島の立派なビルのNTTで働いていたのであった。
NTTになってから入社した社員はそれなりに仕事ができたが、電電公社から入社している社員で、情報システム関連に属している人材は全く使い物にならなかった、と私は断言する。
NTTはそんな人材にも相当な給料を支払って大切にしていたのだが、その給料の原資は、かつてはバカ高い通話料であり、その後はテレカや携帯電話などから得られる収益である。
時代の波は、NTTに追い風を吹かせていた。
そのNTTビルには、情報システム部という部署が存在していた。
名前だけは立派だが、彼らが何をしていたかと言うと、ひたすらオアシスというワープロ専用機で文書を作成していたのであった。サーバーとは接続していない。いわゆるオフラインの作業である。NTTで入社した若い社員たちは忙しく働いていたのに、この情報システム部の数十名の社員たちはいったい、毎日何をしていたのであろうか・・・
やがてNTTへの常駐も終わって、私はあちこちの部署を転々とした。
そんなこんなで、私は十八年間この大手コンピューター会社で辛抱していたが、とうとう辞めてしまった。
中途半端であった。辞めるのなら、もっと早く見切りをつけるべきであった。実際に、入社数年で転職してしまった同期が少なからずいる。
もしくは、定年までこの会社で辛抱し続けるべきであった。そうすれば、年金も途切れることなく会社の天引きで支払うことになるので、もらうときはそれなりの金額がもらえるはずであった。
(国民年金にだけ加入している人は、豊富な貯えがないと歳をとってから苦労することになるのだ。個人的には、国民年金の受給額をもっと増やすべきだと思う。日本国の財政は実はそれくらいの余裕があるからだ。もし日本がまっとうに経済成長していれば、年金受給額はもっと増やすことができた。長年経済成長してこなかった日本の国民はだんだん貧乏になった。)
新卒で入った会社を退職することになった私は、転職人生をさまようことになった。
四十歳をとうに過ぎていてもう大手は無理なので、中小企業が対象となった。
転職当初は、正社員として採用されたこともあったが、中途採用者はすぐに切られた。
正社員などという肩書は、この業界では何の意味もないようだ。
正社員の肩書に安心して、のほほんと構えていた私は現実の辛さを知らされることになった。
結局、契約社員や派遣社員として働くことになった。すなわち非正規社員だ。
仕事は業務プロジェクト単位なので、プロジェクトが終わると、その都度また仕事を探さなければならない。
そうすると、その都度また職務経歴書を書き直して、面接を受けに行かねばならない。
これは非常に非効率的で、うっとうしい作業であった。
それでも私は六十歳まで、この業界でなんとか生き延びてきた。
あちこちで仕事をした。東京が最も多かったが。
だが、私の体はかなりぼろぼろになってしまっていた。
いつも倦怠感が取れず、日増しに疲労が蓄積しているのを感じた。
『己の時間と体を削って資本家のために働く労働者のことだよ。』
労働集約型労働者に対する、Fの言葉が思い出された。
私が若いころ、定年は六十歳だった。それで六十歳になったら、もう働かなくても良くなるのだ、解放されるのだとずっと思っていた。
しかし、いつだっただろうか、ある日の昼休みに食堂のテレビを見ていると、坂口厚生労働大臣が、『今後は定年を六十五歳に延ばします。』という趣旨のことを、いけしゃあしゃあと喋っていた。これを見て、『こいつはとんでもない奴だ。』と思わず憤慨したことを覚えている。
なぜ特定の宗教団体をバックボーンに持つ政党が、連合して与党になっているのかがそもそもおかしいと思っていた。国家の体制として異常ではないか。
今思えば、その頃の政界は、ひどくぐちゃぐちゃだったと思う。
私は、出来るだけ長く働こうと思っていたのだが、結局、六十二歳で年金を受給することになった。
なぜならば、私は六十一歳を目前にしてとうとう脳の血管が破裂して頭が正常ではなくなり、脳出血の手術を受けて入院してしまったからだ。
この頃はちょうど、いわゆる世界的なウイルス騒ぎの時で、リモートワークで勤務していたのだが、東京で単身赴任状態であったので一人で住んでおり、異変に気が付いた総務の取締役がアパートまで来てくれて、救急車を呼んで私を病院に担ぎ込んでくれた。
おかげで助かった。
下手をすると、右半身が麻痺してしまって動かなくなる恐れもあったのだが、幸い右手も右足も動いてくれた。
私の人生の中で、本当に良かったと思った出来事のうちの一つである。
もちろん、いくらかの麻痺は残ったが。
入院中に私は六十一歳になった。
退院後、会社の総務も、『もう年金がもらえるのだから、無理はしない方が良い。』と、退職を勧めた。
しかし、私は転職を何度もしているのでもらえる年金が少なく、貯えも乏しかったので、現役続行を希望した。
転職が多いということは、失業中は厚生年金を支払っていないということなので、将来貰える年金も少なくなる。
失業中、本当に生活が苦しい時は、国民年金も免除を申請していた時期があった。
だから私のような労働者は、終身雇用で雇われるのが将来的に一番年金を多くもらえるのである。これが現実だ。
職場に復帰して最初の頃は、業務内容が軽かったのでなんとか凌げていたが、業務内容がより重い職場に変わると、途端に仕事が辛くなり、退職を余儀なくされた。左脳をやられたので、特に計算能力や細かい注意力、記憶力が劣化していた。
やはり、開頭手術を受けてしまうと、どうしても元気が出てこない。
退職後、三か月ほどは失業給付で凌いで、その間に六十二歳になった。
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