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三章 火野カブ漬け
三章 火野カブ漬け(4)
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♢
できるだけ早く、掴んだ事実を江本さんに伝えたかった。
しかし翌日、日曜日は間の悪いことに、『郷土料理屋・いち』の定休日だった。明日まで待とうかとも思ったのだが、大人しくしていられる私ではない。
昼の三時まで迷った末、私は江本さんにメッセージを送ることにした。
「……初めてだな」
そう思うと、まっさらのトーク画面、一文字打つたびに指先が少し震える。どう伝えようかと文面にも迷う。
何度も打ち直した結果、手が滑って送ってしまったのは、
『会いたいです』の六文字だった。
突き詰めればそうだけど、なにかが違う! 私はすぐに消そうとするが、その前に既読がついてしまった。
江本さんからの返事は、
『では好きな時間にお店にいらしてください』
というもの。
「……なんだ、今日もお店にいるの?」
私はその一文を何度か読み返す。
やはりメールでも丁寧だ。そして、このやり取りだけだと、なんだかホストとそれに貢ぐお客さんみたい。そう思った。
休日に『郷土料理屋・いち』へ行くのは、初めてのことだった。
お店に二人きりは、何回もある。けれど、今日は休日だ。誰も来ないことが分かっていて二人というのは、これまでと大きく違う。
なんだか緊張して、行く前からドキドキとしていた。
バイトの時より丁寧にお化粧をしてから、服もなるたけ洒落たものを選ぶ。玄関の立ち鏡に写った私は、まるで初めてデートに行く大学生みたいで、
「デートじゃないし!!」
こう鏡を軽くパンチした。
途中差し入れにと御徒町駅すぐの有名店でどら焼きを買って、早足で店へ向かう。表には「閉店中」の札が下げてあったが、裏口の戸は鍵がかかっていなかった。
金色の髪はカウンター席で、空調の風に揺れていた。
「あぁ、佐田さん。いらっしゃいましたか」
ノートに目を落とし、ペンを回す。
珍しく、私服姿だった。
和装ではない格好は初めて見た。シャツ一枚にジーパンというラフな格好だったが、様になるのはそのスタイルのよさゆえだろう。
「……えっと、その服いいですね」
「あぁすいません。今日は会計作業をする予定だったので適当な格好でして」
「もしかしてお邪魔でした?」
「いえ、ちょうど数字に向かうのにも飽き飽きしていたところでございます。ご用件は、漬物の件でしょうか」
「分かってたんですね」
「休日に僕に会いたいとなれば、それくらいしか思いつきませんよ。大方、誰がやったか分かったのでしょう」
江本さんはそう言って、ノートを閉じる。それから私の方を一度見て、なぜかまたページをめくりだした。
「佐田さんは、なにか用事の前後でいらっしゃいますか?」
「……ここに来るだけですけど」
「申し訳ありません。少し勘ぐってしまいました。服がとてもお似合いだったので」
もしかして褒められた? とは、少し間を置いてから気がついた。かーっと血が上ってくる。
「こ、これ! 差し入れです!」
だから袋に顔を隠して手渡した。
「……ご丁寧にありがとうございます」
江本さんは半身で受け取って、ほんの少しだけ口元を緩める。
お茶を入れてもらったら、少し遅めのお菓子の時間になった。
休日だからだろう、店全体の空気がいつもよりまったりとしていた。いるだけで家より心地がいい。
すぐにでもお母さんの話をしたくて来たけれど、すっかり心変わりしていた。なにせ今日は休みなのだ。急がずともよい。焦ったせいで昨日は賄いを食べ損ねたばかりだ。
「江本さん、日曜日もお店に来てるんですね」
「たまにの話です。毎週というわけではございません」
「いつものお休みの日はなにをしてるんですか?」
「……料理を」
「平日と変わらない!」
たわいのない会話をする。佐田さんは、と聞かれて、私も最近少しだけ自炊を始めたことを話した。
「この間、アボカドを買ってみたんですけど固くて固くて。なんとか包丁でえぐったんですけど、あんなに固いものなんですか?」
「あぁ、頃合の問題でございます。アボカドは追熟といって、しばらく置くことで身が柔らかくなるのです」
「あー、バナナみたいな?」
「はい、まさに。果実類にはそういう種が多く存在します。メロンやナシなどもその一つでございます」
私は取り急ぎ、スマホでメモを取る。そこからは、なんだか少し勉強会みたいになった。マンツーマンの徴税宅抗議だ。
まとめると、食材にはそれぞれ食べ頃があるのだそう。てっきり、新鮮であればあるほどよいと思っていた。
それはなんだか、今回の私に似ているかもしれない。
「急ぎすぎてもいいことばっかりじゃないですもんね、人も」
こうしてまったりする時間も、時には大切というわけだ。
「そうかもしれませんね。結局は一歩一歩でございます。それといえば、佐田さんの地道な努力のおかげで、店にも段々とお客様が戻ってまいりました」
「……いえ、私はそんな大したことは」
「おかげさまで今月は黒が出そうです」
「本当ですか!」
江本さんは、あくまで見込みですが、としながら会計ノートを真ん中で開いてくれる。見方がよく分からず、覗き込んでいるとうっかり肩が触れてしまった。
「右側の列が売上金で、左が諸々の費用なのですが──」
江本さんが教えてくれるのにも関わらず、私は近いところに寄ったその顔を見つめてしまう。
だめだめ、集中しなくては。
むりくりノートに意識を戻したところで、風鈴がからんと揺れる音がした。江本さんの肩越しに扉の方を振り返れば、
「本当仲いいねぇ、こっちが妬いちゃいそう」
どういうわけか、叔母が立っていた。イメージにぴったり、挑戦的で、真っ赤なドレスが揺れる。
「えっ、なんで? 今日はお店休みなんじゃ」
「あぁ、いらっしゃいましたか。僕がお呼びしたんですよ」
こう江本さんは澄まし顔をして、
「そうそう、勝手に逢瀬の邪魔をしに来たわけじゃないわよ」
叔母はくくっと口に手を当て笑う。
「そちらにおかけください。お茶をご用意いたします」
「あぁ水でいいわよ、冷たいので。歩いたから暑くて」
二人が当たり前に会話を交わしはじめる中、私はといえば一人置いていかれていた。
どうして叔母が来たのだろう。それに呼んだということは、二人は連絡先の交換をしていることにならないか。
もしかして、江本さんも叔母の大人な魅力に惹かれていたりなんかして……。
「バイトなのに、手伝わなくていいの?」
「今日は休みだからいいの!!」
ぐるぐる頭が回って、少し取り乱してしまった。叔母は、はぁとしょうがなさそうなため息をつく。
「結衣が思ってるようなことはなんにもないわよ。ただ、漬物のこと聞きにきただけ」
「……連絡先はどうして?」
「それはほら、結衣の雇い主さんだからね。緊急用に聞いただけよ」
真意はどうなのだろう、と思う。なにせ彼女が「ちょっとお話してたら~」で何人も男を手玉にした武勇伝にはいつも付き合ってきた。
追及せんとしていたら江本さんが、カウンターテーブルを超えて、水の注がれたグラスをことりと置く。
「佐田様がいらっしゃると、佐田さんに連絡を入れていたかと思うのですが」
「えっ嘘」
スマホを見ると、たしかに会う約束を取り付けてすぐ後、連絡がきていた。デートみたいと、浮き足立って見落としていたのだ。
「まーた結衣の早とちり?」
うぐ、それを突かれると弱い。
「全く誰に似たんだか。お母さんとは正反対ね」
けれど、盾をかざして守ってくれる人もいて。
「まぁ佐田様。そのあたりで。今回、実行者を暴いてくれたのは佐田さんですので」
「佐田、佐田ってどっちか分からない。名前で呼んでよ~、はじめくん」
「……結衣さんが見つけてくれましたので」
「あら、結衣の方を呼ぶのね」
名前を呼ばれた。こんな簡単なことで、どきりとするなんておかしい。とりあえず、ぬるくなったお茶を飲み干してから脈を整えた。
「で、誰が犯人か分かったの? 教えて、結衣」
言っていいものなのだろうかと少し躊躇う。けれど、私がここで口を閉ざしたところで、事実が変わるわけじゃない。
「お母さん」
だから、あっさりと答えた。
叔母は一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐにそれを細める。からんとグラスの氷を一度回してから、顎に手をついた。
「そっかぁ」
その声は這うように低く、悼むような悲しさを含んで聞こえた。視線は空中を漂っている。もしかすると、彼女の目の先には過去が映っているのかもしれない。
「…………ねぇ、お母さんとなにがあったの」
「結衣、今いくつ?」
「二十五だけど……」
「そっかー、可愛い姪も、もうそんな歳か。早いわけだなぁ。……まぁなら、話してもいいかなぁ」
私の積年の疑問が、二十年以上の時を経て晴れようとしていた。
できるだけ早く、掴んだ事実を江本さんに伝えたかった。
しかし翌日、日曜日は間の悪いことに、『郷土料理屋・いち』の定休日だった。明日まで待とうかとも思ったのだが、大人しくしていられる私ではない。
昼の三時まで迷った末、私は江本さんにメッセージを送ることにした。
「……初めてだな」
そう思うと、まっさらのトーク画面、一文字打つたびに指先が少し震える。どう伝えようかと文面にも迷う。
何度も打ち直した結果、手が滑って送ってしまったのは、
『会いたいです』の六文字だった。
突き詰めればそうだけど、なにかが違う! 私はすぐに消そうとするが、その前に既読がついてしまった。
江本さんからの返事は、
『では好きな時間にお店にいらしてください』
というもの。
「……なんだ、今日もお店にいるの?」
私はその一文を何度か読み返す。
やはりメールでも丁寧だ。そして、このやり取りだけだと、なんだかホストとそれに貢ぐお客さんみたい。そう思った。
休日に『郷土料理屋・いち』へ行くのは、初めてのことだった。
お店に二人きりは、何回もある。けれど、今日は休日だ。誰も来ないことが分かっていて二人というのは、これまでと大きく違う。
なんだか緊張して、行く前からドキドキとしていた。
バイトの時より丁寧にお化粧をしてから、服もなるたけ洒落たものを選ぶ。玄関の立ち鏡に写った私は、まるで初めてデートに行く大学生みたいで、
「デートじゃないし!!」
こう鏡を軽くパンチした。
途中差し入れにと御徒町駅すぐの有名店でどら焼きを買って、早足で店へ向かう。表には「閉店中」の札が下げてあったが、裏口の戸は鍵がかかっていなかった。
金色の髪はカウンター席で、空調の風に揺れていた。
「あぁ、佐田さん。いらっしゃいましたか」
ノートに目を落とし、ペンを回す。
珍しく、私服姿だった。
和装ではない格好は初めて見た。シャツ一枚にジーパンというラフな格好だったが、様になるのはそのスタイルのよさゆえだろう。
「……えっと、その服いいですね」
「あぁすいません。今日は会計作業をする予定だったので適当な格好でして」
「もしかしてお邪魔でした?」
「いえ、ちょうど数字に向かうのにも飽き飽きしていたところでございます。ご用件は、漬物の件でしょうか」
「分かってたんですね」
「休日に僕に会いたいとなれば、それくらいしか思いつきませんよ。大方、誰がやったか分かったのでしょう」
江本さんはそう言って、ノートを閉じる。それから私の方を一度見て、なぜかまたページをめくりだした。
「佐田さんは、なにか用事の前後でいらっしゃいますか?」
「……ここに来るだけですけど」
「申し訳ありません。少し勘ぐってしまいました。服がとてもお似合いだったので」
もしかして褒められた? とは、少し間を置いてから気がついた。かーっと血が上ってくる。
「こ、これ! 差し入れです!」
だから袋に顔を隠して手渡した。
「……ご丁寧にありがとうございます」
江本さんは半身で受け取って、ほんの少しだけ口元を緩める。
お茶を入れてもらったら、少し遅めのお菓子の時間になった。
休日だからだろう、店全体の空気がいつもよりまったりとしていた。いるだけで家より心地がいい。
すぐにでもお母さんの話をしたくて来たけれど、すっかり心変わりしていた。なにせ今日は休みなのだ。急がずともよい。焦ったせいで昨日は賄いを食べ損ねたばかりだ。
「江本さん、日曜日もお店に来てるんですね」
「たまにの話です。毎週というわけではございません」
「いつものお休みの日はなにをしてるんですか?」
「……料理を」
「平日と変わらない!」
たわいのない会話をする。佐田さんは、と聞かれて、私も最近少しだけ自炊を始めたことを話した。
「この間、アボカドを買ってみたんですけど固くて固くて。なんとか包丁でえぐったんですけど、あんなに固いものなんですか?」
「あぁ、頃合の問題でございます。アボカドは追熟といって、しばらく置くことで身が柔らかくなるのです」
「あー、バナナみたいな?」
「はい、まさに。果実類にはそういう種が多く存在します。メロンやナシなどもその一つでございます」
私は取り急ぎ、スマホでメモを取る。そこからは、なんだか少し勉強会みたいになった。マンツーマンの徴税宅抗議だ。
まとめると、食材にはそれぞれ食べ頃があるのだそう。てっきり、新鮮であればあるほどよいと思っていた。
それはなんだか、今回の私に似ているかもしれない。
「急ぎすぎてもいいことばっかりじゃないですもんね、人も」
こうしてまったりする時間も、時には大切というわけだ。
「そうかもしれませんね。結局は一歩一歩でございます。それといえば、佐田さんの地道な努力のおかげで、店にも段々とお客様が戻ってまいりました」
「……いえ、私はそんな大したことは」
「おかげさまで今月は黒が出そうです」
「本当ですか!」
江本さんは、あくまで見込みですが、としながら会計ノートを真ん中で開いてくれる。見方がよく分からず、覗き込んでいるとうっかり肩が触れてしまった。
「右側の列が売上金で、左が諸々の費用なのですが──」
江本さんが教えてくれるのにも関わらず、私は近いところに寄ったその顔を見つめてしまう。
だめだめ、集中しなくては。
むりくりノートに意識を戻したところで、風鈴がからんと揺れる音がした。江本さんの肩越しに扉の方を振り返れば、
「本当仲いいねぇ、こっちが妬いちゃいそう」
どういうわけか、叔母が立っていた。イメージにぴったり、挑戦的で、真っ赤なドレスが揺れる。
「えっ、なんで? 今日はお店休みなんじゃ」
「あぁ、いらっしゃいましたか。僕がお呼びしたんですよ」
こう江本さんは澄まし顔をして、
「そうそう、勝手に逢瀬の邪魔をしに来たわけじゃないわよ」
叔母はくくっと口に手を当て笑う。
「そちらにおかけください。お茶をご用意いたします」
「あぁ水でいいわよ、冷たいので。歩いたから暑くて」
二人が当たり前に会話を交わしはじめる中、私はといえば一人置いていかれていた。
どうして叔母が来たのだろう。それに呼んだということは、二人は連絡先の交換をしていることにならないか。
もしかして、江本さんも叔母の大人な魅力に惹かれていたりなんかして……。
「バイトなのに、手伝わなくていいの?」
「今日は休みだからいいの!!」
ぐるぐる頭が回って、少し取り乱してしまった。叔母は、はぁとしょうがなさそうなため息をつく。
「結衣が思ってるようなことはなんにもないわよ。ただ、漬物のこと聞きにきただけ」
「……連絡先はどうして?」
「それはほら、結衣の雇い主さんだからね。緊急用に聞いただけよ」
真意はどうなのだろう、と思う。なにせ彼女が「ちょっとお話してたら~」で何人も男を手玉にした武勇伝にはいつも付き合ってきた。
追及せんとしていたら江本さんが、カウンターテーブルを超えて、水の注がれたグラスをことりと置く。
「佐田様がいらっしゃると、佐田さんに連絡を入れていたかと思うのですが」
「えっ嘘」
スマホを見ると、たしかに会う約束を取り付けてすぐ後、連絡がきていた。デートみたいと、浮き足立って見落としていたのだ。
「まーた結衣の早とちり?」
うぐ、それを突かれると弱い。
「全く誰に似たんだか。お母さんとは正反対ね」
けれど、盾をかざして守ってくれる人もいて。
「まぁ佐田様。そのあたりで。今回、実行者を暴いてくれたのは佐田さんですので」
「佐田、佐田ってどっちか分からない。名前で呼んでよ~、はじめくん」
「……結衣さんが見つけてくれましたので」
「あら、結衣の方を呼ぶのね」
名前を呼ばれた。こんな簡単なことで、どきりとするなんておかしい。とりあえず、ぬるくなったお茶を飲み干してから脈を整えた。
「で、誰が犯人か分かったの? 教えて、結衣」
言っていいものなのだろうかと少し躊躇う。けれど、私がここで口を閉ざしたところで、事実が変わるわけじゃない。
「お母さん」
だから、あっさりと答えた。
叔母は一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐにそれを細める。からんとグラスの氷を一度回してから、顎に手をついた。
「そっかぁ」
その声は這うように低く、悼むような悲しさを含んで聞こえた。視線は空中を漂っている。もしかすると、彼女の目の先には過去が映っているのかもしれない。
「…………ねぇ、お母さんとなにがあったの」
「結衣、今いくつ?」
「二十五だけど……」
「そっかー、可愛い姪も、もうそんな歳か。早いわけだなぁ。……まぁなら、話してもいいかなぁ」
私の積年の疑問が、二十年以上の時を経て晴れようとしていた。
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