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第二章 予想外の再会
第五話
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ドアを閉めて、こっちへ来いと。
顎で指示された私は、震える手で扉を閉めてそうっとデスクへ歩み寄る。玲一さん。玲一さんだ。この目、この顔、間違いない。
「また会ったね」
猫のような瞳をにこっと細め、玲一さんは小首をかしげる。ああやっぱり、私の勘違いなんかじゃない。ほっとしていいのか驚くべきなのか、頭はまだ混乱しているけど。
「世間って案外狭いものだね。まさかここの社員だったなんて」
「あ、え、……ええと」
「一華ちゃんが知ったら驚くだろうな。まあその前に『うちの社員に手を出すな!』って、めちゃくちゃに叱り飛ばされるんだろうけど」
一華ちゃん……あ、社長のことか! あの社長をちゃん付けで呼ぶなんて、恐れ多いことをする人だ。
ああでもそういえば、係長が社長代理のことを『社長の弟さん』と言っていたっけ。
「玲一さんは……社長の弟さんだったんですか?」
「うん」
「でも、うちの役員だって……なんで、シンガポールで、お土産屋さんなんて」
「まあ、あれは副業かな? いや、むしろこっちが副業か。一華ちゃんがどうしてもって言うから名前だけ貸してたんだけど、まさかこんなことになるとはね」
玲一さんは笑っているけど、私には全然意味がわからない。
二度と会わないと思っていた人が、今、目の前にいる。
嬉しい気持ちを遥かに凌駕する驚きと戸惑いの質量に、私の脳は押しつぶされてほとんど回らなくなっている。
「びっくりした? そうだよね」
「ええ……はい」
「ま、仲良くやろうよ。あの時のことは、お互い全部夢の中だったと思ってさ」
何気なく言われたその言葉が、氷柱のように胸に刺さる。夢の中。それってつまり、現実ではないということで。
玲一さんの大きな瞳が静かに私を見据えている。熱のこもったあの夜とは違う、暗く冷淡な眼差し。心に芽生えた甘い期待が、音を立ててしぼんでいく――分をわきまえろと嗤うように。
いや、きっとすべては自明の理だ。彼は経営者で私は平社員。玲一さんは私の浮ついた気持ちに冷たい鉄の釘を刺した。
勘違いするなと。
俺たちは他人だと。
ああ、もしかしたら秘書課への異動は、彼なりの口止め料なのかもしれない。
「……そうですね。わかっています」
いやに落ち着いた私の声に、玲一さんが眉を上げる。
意外に思った? でもね私、これでもずっと営業の第一線で戦ってきているんだよ。
「これからはより一層、真摯に働かせていただきます。……椎名社長代理の秘書として」
本心を殺す仮面を被って、笑顔を作るのは私の特技。
たとえあなたが相手であっても、こんな演技くらい造作もない。
玲一さんは、……社長代理は、しばらく無言でじっと私を見つめていたけれど、やがて気が抜けたように笑うと椅子の背もたれに寄りかかった。
「改めてよろしく。……高階」
*
営業課の係長の言ったとおり、今回の人事異動は過去に例のないほど大規模なものだったらしい。
異動のドタバタに追われた弊社は一時期大混乱に陥ったけど、半月も経つ頃には徐々に収束していった。そして代わりに噴き出してきたのは、社長・椎名一華の長期休業の秘密と、社長代理・椎名玲一にまつわる様々な噂話だ。
「ねえねえ高階さん、社長代理ってどんな感じの人?」
営業課時代の先輩に呼び止められ、私は苦笑して閉口する。またこれだ。会う人会う人みんなに訊ねられるから、もう真面目に答えるのも馬鹿らしくなってきた。
「とても頼りがいのある方ですよ。就任されたばかりなのに、もう社長としての仕事を完璧にこなされていますから」
何度となく繰り返してきたテンプレートを答えると、先輩はちょっと鼻白んだ様子で「なーんだ、そうなのか」なんて言いながら足速に去っていった。
その背中を睨みながら、馬鹿馬鹿しい、と内心毒づく。若い社長代理が調子に乗って恥をかくエピソードでも期待していたのかな。でも残念。贔屓目抜きに、社長代理は凄い人だ。
就任されたばかりだというのにあっという間に業務を把握し、まるで昔から勤めていたような顔で的確に指示を出していく。お姉さんである一華社長からしっかりと引き継ぎを受けていたのかもしれないけど、それにしたってこの落ち着き様は凄いと思う。
私の方が、むしろ……慣れない仕事で毎日バタバタ、周りに迷惑をかけてばかり。
(取り立ててくれた社長代理のためにも、もっと頑張らないと)
たとえ口止め料だとしても、憧れの秘書になれたのは事実。
今の私にできることといえば、目の前の仕事にひたすら取り組み、成果を挙げていくだけだ。
デスクに戻って今日の予定を確認していると、鮫島先輩が男の人とともに秘書課のオフィスへ入ってきた。あれは、青木副社長? 眼鏡の奥に冷たい目を光らせて、社長室をじろりと睨みつけている。
鮫島先輩は社長室の扉を控えめにノックし、
「青木副社長が報告においでです」
と、淡々とした調子で言った。
どうぞと社長代理の声がして、青木副社長が社長室へ入る。その表情は……ううん、よくわからないけど、愉快そうには見えない。
考えてみればおかしな話だ。長年一華社長の右腕を務めていた青木副社長がいるというのに、どうしてわざわざ社長の弟が社長代理を務めることになったのだろう。実務においても、社内の評判にしても、代理とするなら青木副社長で十分……いや、適任のはずだ。
「余計なことは考えないで」
隣から聞こえた冷静な声にハッと現実に引き戻される。
私より頭ひとつぶん背の高い鮫島先輩。氷のように冷たい美貌が、静かに私を見下ろしている。
「私たちは仕事をしましょう。いいですね?」
「は、はい」
社内のあれこれに口出しできる身分じゃないだろってことだろうか。
それは確かにごもっともなこと。私は気持ちを引き締めると、自分の仕事に集中しようとスケジュール帳を開いた。
顎で指示された私は、震える手で扉を閉めてそうっとデスクへ歩み寄る。玲一さん。玲一さんだ。この目、この顔、間違いない。
「また会ったね」
猫のような瞳をにこっと細め、玲一さんは小首をかしげる。ああやっぱり、私の勘違いなんかじゃない。ほっとしていいのか驚くべきなのか、頭はまだ混乱しているけど。
「世間って案外狭いものだね。まさかここの社員だったなんて」
「あ、え、……ええと」
「一華ちゃんが知ったら驚くだろうな。まあその前に『うちの社員に手を出すな!』って、めちゃくちゃに叱り飛ばされるんだろうけど」
一華ちゃん……あ、社長のことか! あの社長をちゃん付けで呼ぶなんて、恐れ多いことをする人だ。
ああでもそういえば、係長が社長代理のことを『社長の弟さん』と言っていたっけ。
「玲一さんは……社長の弟さんだったんですか?」
「うん」
「でも、うちの役員だって……なんで、シンガポールで、お土産屋さんなんて」
「まあ、あれは副業かな? いや、むしろこっちが副業か。一華ちゃんがどうしてもって言うから名前だけ貸してたんだけど、まさかこんなことになるとはね」
玲一さんは笑っているけど、私には全然意味がわからない。
二度と会わないと思っていた人が、今、目の前にいる。
嬉しい気持ちを遥かに凌駕する驚きと戸惑いの質量に、私の脳は押しつぶされてほとんど回らなくなっている。
「びっくりした? そうだよね」
「ええ……はい」
「ま、仲良くやろうよ。あの時のことは、お互い全部夢の中だったと思ってさ」
何気なく言われたその言葉が、氷柱のように胸に刺さる。夢の中。それってつまり、現実ではないということで。
玲一さんの大きな瞳が静かに私を見据えている。熱のこもったあの夜とは違う、暗く冷淡な眼差し。心に芽生えた甘い期待が、音を立ててしぼんでいく――分をわきまえろと嗤うように。
いや、きっとすべては自明の理だ。彼は経営者で私は平社員。玲一さんは私の浮ついた気持ちに冷たい鉄の釘を刺した。
勘違いするなと。
俺たちは他人だと。
ああ、もしかしたら秘書課への異動は、彼なりの口止め料なのかもしれない。
「……そうですね。わかっています」
いやに落ち着いた私の声に、玲一さんが眉を上げる。
意外に思った? でもね私、これでもずっと営業の第一線で戦ってきているんだよ。
「これからはより一層、真摯に働かせていただきます。……椎名社長代理の秘書として」
本心を殺す仮面を被って、笑顔を作るのは私の特技。
たとえあなたが相手であっても、こんな演技くらい造作もない。
玲一さんは、……社長代理は、しばらく無言でじっと私を見つめていたけれど、やがて気が抜けたように笑うと椅子の背もたれに寄りかかった。
「改めてよろしく。……高階」
*
営業課の係長の言ったとおり、今回の人事異動は過去に例のないほど大規模なものだったらしい。
異動のドタバタに追われた弊社は一時期大混乱に陥ったけど、半月も経つ頃には徐々に収束していった。そして代わりに噴き出してきたのは、社長・椎名一華の長期休業の秘密と、社長代理・椎名玲一にまつわる様々な噂話だ。
「ねえねえ高階さん、社長代理ってどんな感じの人?」
営業課時代の先輩に呼び止められ、私は苦笑して閉口する。またこれだ。会う人会う人みんなに訊ねられるから、もう真面目に答えるのも馬鹿らしくなってきた。
「とても頼りがいのある方ですよ。就任されたばかりなのに、もう社長としての仕事を完璧にこなされていますから」
何度となく繰り返してきたテンプレートを答えると、先輩はちょっと鼻白んだ様子で「なーんだ、そうなのか」なんて言いながら足速に去っていった。
その背中を睨みながら、馬鹿馬鹿しい、と内心毒づく。若い社長代理が調子に乗って恥をかくエピソードでも期待していたのかな。でも残念。贔屓目抜きに、社長代理は凄い人だ。
就任されたばかりだというのにあっという間に業務を把握し、まるで昔から勤めていたような顔で的確に指示を出していく。お姉さんである一華社長からしっかりと引き継ぎを受けていたのかもしれないけど、それにしたってこの落ち着き様は凄いと思う。
私の方が、むしろ……慣れない仕事で毎日バタバタ、周りに迷惑をかけてばかり。
(取り立ててくれた社長代理のためにも、もっと頑張らないと)
たとえ口止め料だとしても、憧れの秘書になれたのは事実。
今の私にできることといえば、目の前の仕事にひたすら取り組み、成果を挙げていくだけだ。
デスクに戻って今日の予定を確認していると、鮫島先輩が男の人とともに秘書課のオフィスへ入ってきた。あれは、青木副社長? 眼鏡の奥に冷たい目を光らせて、社長室をじろりと睨みつけている。
鮫島先輩は社長室の扉を控えめにノックし、
「青木副社長が報告においでです」
と、淡々とした調子で言った。
どうぞと社長代理の声がして、青木副社長が社長室へ入る。その表情は……ううん、よくわからないけど、愉快そうには見えない。
考えてみればおかしな話だ。長年一華社長の右腕を務めていた青木副社長がいるというのに、どうしてわざわざ社長の弟が社長代理を務めることになったのだろう。実務においても、社内の評判にしても、代理とするなら青木副社長で十分……いや、適任のはずだ。
「余計なことは考えないで」
隣から聞こえた冷静な声にハッと現実に引き戻される。
私より頭ひとつぶん背の高い鮫島先輩。氷のように冷たい美貌が、静かに私を見下ろしている。
「私たちは仕事をしましょう。いいですね?」
「は、はい」
社内のあれこれに口出しできる身分じゃないだろってことだろうか。
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