初恋カレイドスコープ

雪静

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第三章 こんにちは恋心

第九話

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 吐いて流してをさんざん繰り返して、少しずつ頭がクリアになってきた。広々とした洗面台で口をきれいに洗い流す。崩れた化粧は……直せないけど。

「すみません、ご迷惑をおかけしました」

 せめてもの抵抗のつもりで髪をきっちり結び直した。これでもう私は元通り。秘書の高階凛の出来上がりだ。

 バスローブ姿でベッドに横たわり、社長代理は何か言いたそうに私の顔を眺めている。ああそうだ、今の今まですっかり忘れてしまっていたけど、ここは当然ベッドなんてものはこの一つしかないんだった。

「諸々のお代金は後程支払いますので、今日は帰りま……」

「時計見てみな」

 社長代理が指さす方へ目を向ける。大きな壁掛けのアナログ時計が指しているのは……えっ、午前一時!?

「うそ……」

「本当。今日は諦めて、さっさとシャワー浴びてきなよ。下着は買えるよ、ほら」

 と、手渡された分厚いメニューを見て私は危うく卒倒しそうになる。めくってもめくっても大人のおもちゃ! 下着もあるけどこれはちょっと、隠す気のないものばっかりじゃない!!

 瞳を白黒、顔は赤青、混乱しきった私を見ながら、社長代理は肩を揺らして笑いをこらえているらしい。こ、この人はもう! 私がセクハラで訴えたら100パーセント勝てるんだからね!

「そんな心配しなくたって、別に変なことしたりしないよ。吐いてる女に興奮するような性癖は持ち合わせてないからさ」

 だから気にせずシャワーを浴びろと、社長代理は平然と言う。

 私は――

 至極当然な彼の言葉に、なぜか聞こえないふりをして、一番ましな下着を買うと黙ってシャワーへと入っていった。

 シャワーは別にすけすけとかじゃない、ごく普通の綺麗なバスルームだ。汚れた全身をくまなく洗いながらゆっくりと心を整えていく。

 髪の毛もしっかり乾かし、渋々備え付けのバスローブを身にまとってから部屋へ戻ると、社長代理はスマホを片手にすやすやと眠りこけていた。早いな。シンガポールでもそうだったけど、この人、子どもみたいに寝つきがいい。おやすみと言って電気を消して、三秒くらいで眠っていた気がする。

 大きなクイーンサイズのベッドの、わざわざ左端で眠る彼。

 私はできるだけ心を落ち着かせたまま「すみません」と一声かけて、隣へそっともぐりこむ。人肌でほのかに温められた大きな布団は心地よくて、ふかふかの枕に顔をうずめると疲れがどっと押し寄せてきた。

「玲一さん」

 声に出して呼んでみたところで、返事がないのはわかりきったことだけど。

 子どもみたいな寝顔を見つめ、私は枕に頬杖をつく。可愛い顔。女の子みたい。でも、私はこの人の誰よりも男らしい姿を知っている。

「……玲一さん」

 正直に告白します。さっきあなたに「変なことしたりしないよ」と笑いながら言われた瞬間、私、確かにがっかりしました。

 お互い初めて出会ったあの日の、熱気にまみれたシンガポールの夜を、心のどこかで――いや、心の底から期待しました。

 それは別に、身体の関係が気持ちよかったからじゃない。きっと私はとっくの昔に、心まであなたに惹かれていた。

 調子が良くて、軽薄で、――誰よりも優しいあなたのことを、本気で好きになっていた。

「……おやすみなさい」

 柔らかな髪にそうっと触れて、私は彼に背中を向ける。

 気を抜くとあふれ出しそうな想いを、胸の奥に隠し続けるために。







 シンガポールと、都内のホテル。

 それぞれ趣の違う夜を経て、私と社長代理の関係は未だまっさら白紙のまま。あのあとホテルで目が覚めてからも、彼は私を気遣うばかりで、あんな場所なのに妖しい雰囲気のひとつも無いまま解散となった。

 私は――社長代理が好き。

 でも、だからといってそう簡単にどうにかなれるわけではない。なにせ相手は弊社のトップ。普通なら視線すら交わらないような、言ってしまえば高嶺の花だ。

(シンガポールで偶然会えたのは本当に奇跡だったんだな)

 悩む私をまるで無視して、今日も仕事はやってくる。

 ちょっとトイレに行っている間に、デスクに積まれる書類の山。これを分野別に仕分けして、社長代理へ提出しなければならない。

(うわあ、きついな)

 というげんなりした気持ちと、

(これを捌けば社長代理の顔を堂々と見に行ける)

 なんて下心が半々。まったく、我ながらちょっと浮足立っているとは思う。

 秘書課に異動して約ひと月。

 新人である私の立場は、しいていうなら秘書アシスタントといったところだろうか。秘書課のメインの社長秘書は今までと変わらず鮫島先輩。他の先輩方はさまざまな役員のサポートに就いている。

 私はまだ半人前だから、鮫島先輩のオマケ程度の働きしかできていないのだけど、いずれは一人前の秘書として社長代理の隣を歩いてみたい。そして可能ならもう少し親密な……いや、それはさすがに無理か。

 夢ばかりが膨らんで、もう、やっぱり私、浮ついているな。

「ああ、いた。高階さん!」

 秘書課のオフィスで社長代理以外の男性の声? と思ったら、営業課時代の先輩がずかずかと部屋へ入ってきた。

 私は慌てて立ち上がって、先輩の方へと歩み寄る。大きな声を出されたものだから、周りの視線が少し痛い。

「お久しぶりです。どうされたんですか」

「突然ごめんね、ちょっとお願いがあってさ。今日の夜、空いてない?」

 聞き覚えのある言い回しに脳内でサイレンが鳴り響く。嫌な予感。でも、話を聞かないわけにもいかない。

「実は岡水の営業さんと飲むことになったんだけど、なんかあちらのお偉いさんに『高階さんも当然来るんでしょ?』って言われちゃってさ」

「ああ……」

「悪いんだけど、今夜だけ参加してくれないかなぁ? ちょっと顔を出すだけでいいから」

 岡水か……と、私は内心苦笑いする。営業課時代によくご一緒させてもらった、付き合いの長い企業ではあるけれど、あそこの営業さんは押しが強くて正直かなり苦手だったんだ。

 お酒が入るともっとひどくて、身体を触られたり、ホテルに行こうと誘われたこともある。もちろん笑って断ってきたけど、できるなら二度と会いたくない相手だ。

 でも、それだけ私を気に入ってもらえていたのもまあ事実ではあるし、今こうして困っている先輩を見ると、無碍に断るのもしのびない。

 何より私、平日の夜に予定なんてひとつもないんだ。子どもの迎えとか彼氏とデートとか、良い口実がちっとも浮かばない自分の孤独が恨めしい。

「一生のお願い! ね!」

 パチンと手を合わせる先輩の薄いつむじを見下ろしながら、私は必死に考える。行きたくない。でも、こんなに困っているのなら、一度くらい我慢して付き合ってあげても……。

「悪いけど却下」

 唐突に割り込んできた声に、先輩がムッとした表情で顔を上げる。

 それから、凍りついた。声の主の胸にぶら下がる銀色の名札に気づいたからだ。

「しゃ、社長代理」

「高階はこれから俺と一緒に藤沢まで行かなきゃいけないの。営業の仕事は営業課の中だけで完結させてくれないかな」

「は、はい。すみません……」

 社長代理に同行して藤沢へ? そんな予定、確か入っていなかったと思うけど。

 おずおずと見上げた私の顔を、社長代理はちらと一瞥する。咎めるような呆れた視線――まさか。

「で、では、失礼しました」

 深々と頭を下げて、バタバタ先輩が去っていく。音を立てて閉じられた扉をちょっと鬱陶しそうに見やってから、社長代理は私を振り返りゆっくりと瞬きをしてみせた。

「社長代理、あの」

「予定忘れてたの? それとも俺、スケジュールに入れ忘れてたっけ」

 ごめんねと笑いもせず言ってから、社長代理は静かな足取りで社長室へと引き返す。

 鮫島先輩が鋭い瞳で、彼の背をじっと見つめている。探るようなその眼差しが、ゆっくりと私の方へ移り、それから何かに気づいたみたいにきゅぅっと緩く細められた。腹の底を暴かれたような感覚に、身体が一気に縮み上がる。

「高階」

 社長代理の落ち着いた声に、蛇に睨まれたようになっていた私の四肢が解き放たれた。はっとして顔を上げた私を振り返り、彼は軽く肩をすくめる。

「何してるの。早く支度」

「は、はい」


 たしなめるような言葉にせっつかれ、私は慌てて立ち上がる。
 鮫島先輩はなおも私の方を眺めていたようだけど、やがてふっと小さく微笑み、自分の仕事へと戻っていった。
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