初恋カレイドスコープ

雪静

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第三章 こんにちは恋心

第八話

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 知らない天井だ……って、なんのアニメの台詞だったっけ?

 目が覚めてすぐそんなことを考えていた私だったけど、実際のところそんなに余裕のあるシチュエーションではなかった。知らない天井。巨大なベッド。このキラキラした部屋は、いったいどこ?

「トイレあっち」

「うわあっ!?」

 突然視界に入り込んできた顔にちょっと腰を抜かしかけてしまった。

 社長代理は大きなあくびを噛み殺しつつ、持っていたスマホをベッドサイドへ放り投げる。スーツ……じゃ、ない。何だろう。この格好、バスローブ……?

「しゃ、社長代理」

「おはよう。無理しないで、さっさと吐いてきた方がいいよ。胃の中ぐるぐるしてるでしょ?」

 吐く?

 その言葉がスイッチになったみたいに、私のお腹に渦巻くものが瞬時に逆流を再開する。そうだ、すっかり忘れていた。私、取引先との宴席でバカみたいにお酒を飲んだんだった。

 社長代理に小さく頭を下げ、口を押さえてトイレにダッシュする。せり上がるものを吐き出しながら、ひとつの恐ろしい仮定が私の頭をぐるぐる巡る。

「大丈夫? 背中さする?」

「いえ゛、げっごうでず……」

「水ここに置いておくから、口すすぎたい時に使いな。タオルはこっち。ここの備え付けのだけど、歯ブラシとマウスウォッシュも置いておこうか」

「ありがどうございばず……」

 ああいやだ、予想的中。ここはきっと、うわさに聞くアレに違いない。

 いわゆる、その……大人のホテルってやつ。

「世話の焼ける秘書だねえ」

 トイレにかじりつく私を横目に、社長代理はため息をついている。

「先に言っておくけど不可抗力だよ。高階の家の場所知らないし、俺ん家まではちょっと遠いし。だいたい車で吐かれたら困るから、タクシー呼ぶわけにもいかなかったし」

「ずみまぜん……」

「高階を背負って行ける範囲で一番近い休み場所を探して、それがたまたまここだったってこと。悪く思うなよ」
「……本当に、本当に申し訳……っぷ」

 悪くなんて思うはずないじゃない。HMCの社長さんを見送った後、私が彼とどんなやり取りをしたのか、今でもはっきり思い出せる。

 つまり私は調子に乗って身の丈に合わない深酒をした挙句、弊社のトップのお方に背負われて、縁もゆかりもないこんな場所にて介抱していただいたというわけで。

「死んでお詫びじまず……」

「死ななくていいからとりあえず出すもの出しちゃいな」

 優しい言葉が胸をえぐる。ああ、秘書にあるまじき……いや、社会人にあるまじき失態だ。

 広い部屋で待っていてくれればいいものを、社長代理は腕を組んだまま私の背中を眺めているようだ。人が吐く姿なんて見ていったい何が楽しいんだろう。見ないでください、と言いたかったけど、私のお口は別の用途で忙しいものだから、もう黙って我慢するしかない。

 せめて急いで吐き出してしまおうと、私は自分の喉へ指を突っ込む――

「吐き慣れてるね」

 小さな声に、喉を刺激していた指の動きが止まる。

「おかしいとは思ったんだよ。シンガポール・スリング半分であんなにべろべろだった女が、日本に戻ったら『酒に強い宴会上手』なんて呼ばれてる。外国の酒が口に合わなかっただけかと思ったから、今回は連れてきたけどさ」

 ふーっ、と細いため息をついて、社長代理が私を見下ろす。

「今までずっと飲み会の度に、こうしてこそこそ吐いてたんだろ?」

 その瞬間、時が止まった。

 お腹を殴られたような衝撃に言葉を失う私を見据え、社長代理は淡々と続ける。

「飲み会は営業の大事な仕事だから、たくさん飲んで楽しませなきゃ……なんて、他の社員に言われたの?」

「そんな、ことはっ……」

「仕事なら無理しても頑張らないとって、弱いくせに人一倍飲んでさ。家に帰ってから喉に指突っ込んで全部吐き出してたんでしょ。まじめだねえ、惨めなくらい」

「っ……」

 私の隣に屈んだ社長代理が、震える背中にそっと触れる。

「俺さ、そんなに頼りないように見える? 高階がここまで頑張らないと接待の一つもできないような、役に立たない飾り物の上司みたいに見えました?」

 そんなことない。急いで否定しようとしたけど、喉からせり上がってくるものが邪魔をして、私は再びトイレにかぶりつきめいっぱいに口を開く。

 社長代理は悔しいくらいに優しく私の背を撫でながら、えずく私のみっともない姿を軽く微笑んで眺めている。

「あのね高階。営業の頃は一人で頑張ってたのかもしれないけど、今後は遠慮なんてしないで、俺に頼ってもいいんだからね。こんなふうに隠れて無理される方が、俺としてはよっぽど嫌だよ」

 なんで。

 なんでそんなに優しいの。

 無理して飲んで、惨めに吐いて、こんなに迷惑をかけている私。

 優しくしてもらう筋合いなんてない。その価値もない。いっそ呆れてくれればいいのに。

(あの時のことは忘れて、なんて……全部なかったことにしたくせに)

 中途半端な優しさに揺られて、隠した感情が目を覚ます。

「……れい、いち、さん……」

 伝った涙は生理的なものだ。きっと、そうに決まってる。

 口の周りを唾液でべとべとにして、小さく振り返った私に、彼は少しだけ表情を変えるとくしゃと私の髪を撫でた。
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