14 / 50
第四章 溢れる想いと最低の提案
第十三話
しおりを挟む
デートだ!
いや、デートではない……。
でもデートみたい!!
いや違う、みたいってだけで別にデートでは……。
頭の中でくだらない妄想が行ったり来たりを繰り返す。私の大きな失敗は二つ。ひとつは最初から残業のつもりで、着慣れた形崩れのパンツスーツを履いてきてしまったこと。そしてもうひとつは「何の店がいい?」と訊かれたとき、反射で「ラーメン」と答えてしまったことだ。
前者はまだいい。だってスーツはスーツだもの。でも後者はまずい。最悪だ。好きな人からの夕飯の誘いにラーメンはないでしょ、ラーメンは。
実際、私の返答を聞いた社長代理はまた弾けるような声で笑ってから、持っていたスマホでわざわざラーメン屋さんを検索してくれた。あああ最悪、恥ずかしい。どうしてこういうときお洒落な答えがパッと浮かばないんだろう。
羞恥心で半ばパニックになりながら大急ぎで仕事を終わらせて、私は社長代理の隣に並んで夜の会社を後にした。こんな形で隣に並ぶ日が、こうもすぐにやって来るなんて思いもしていなかったけど、当然嬉しい。そりゃあ嬉しい。嬉しいに決まっている。
「社用車だ。営業が帰ってきたのかな」
上向きのライトを付けて入ってきた白い車。走る姿を目で追ってしまったのは、運転席に山田先輩、そして助手席に愛菜が見えたからだ。
二人とも営業ではあるから、特におかしいところはないのだけど、二人の仲を知っている私としては変な勘繰りをしてしまう。もちろん社長代理はあの姿を見ても「仕事頑張ってるな」くらいにしか思わないのだろうけど……。
(あっ)
一瞬、息が止まった。
ふいにこちらを向いた愛菜が、私と社長代理の姿を見つけて顔色を変える姿が、夜の駐車場のさらに奥へと徐行で通り過ぎていく。
あの目は単なる驚きじゃない。戸惑いと困惑と、抑えきれない焦燥感。格下だと思っていた相手に追い付かれそうな衝撃といえば、一応説明はつくだろうか。
あるいは、単純な嫉妬かもしれない。山田先輩より社長代理の方が数百倍はかっこいいし……と、そこまで考え、自分の性格の悪さにちょっと辟易した気持ちになる。
いずれにしろ、今の私では想像もつかないどす黒いどろどろとしたものが、愛菜の中にはタールみたいに淀んでいるのかもしれない。もっとも私の側だって、彼女の顔を見てほんの少しでもせいせいした気持ちになったのだから、似たようなものかもしれないけど。
「何かあった?」
「いえ」
軽くかぶりを振る私と、遠ざかる社用車の後ろ姿を見、社長代理は少し眉を寄せたけど特段何も言わなかった。
年季の入ったお店の入り口で強烈に漂う豚骨の香り。
きゅうとお腹を鳴らした私を見て、社長代理はまたくつくつ笑う。恥ずかしい。でも、あまりにも私の好みにストライクなラーメン屋さんで、本音を言えばなりふり構わず貪り食べたいほどの気分だ。
「こちらのお店には、よく来られるんですか?」
「そうだね、わりと。一人で来ることも多いし、友達誘って来たこともあるよ」
狭いカウンターに並んで座る。他のお客さんは仕事帰りのサラリーマンがほとんどだけど、中にはちらほらと私たちみたいな男女の姿もあるようだ。
質素なメニューに選択肢は少なく、私は社長代理と同じ定番の豚骨ラーメンを注文する。社長代理の麺は大盛。あいよと不愛想に返事をして、エプロン姿の店主さんが仏頂面で厨房へ向かう。
「しかし、正直意外だったな。どこでも奢ってやるつもりだったけど、まさかラーメンとはね」
「すみません……その、お洒落なお店とか、あんまり知らなくて」
「いいと思うよ、変に気取ってよくわからない店をリクエストするより。俺としてはありがたかったし、こっちのほうがずっと楽しい」
なんてことない些細な一言に、あっという間に心が凪いでいく。よかった、本音で正解だったんだ。そう思うと、なんだか二人の相性も良いような気がして少し気分が高揚してしまう。
「あのさ、言いたくないなら言わなくてもいいんだけど」
横目でちらと私を見ながら、社長代理は声を落として言う。
「営業課の頃の同僚と、やっぱり何かあったんだろ? あの、同い年くらいの女と」
……愛菜のことだ。あんなところで大声で喋っていたら、社長代理だって気づくよね。
具体的に彼女との間に何かが起きたわけではないけど、しいていうなら積もり積もったものが爆発した結果だろうか。私はできるだけ暗くならないよう、言葉を選びながら話す。
「彼女は私の同期で……まあ、ライバルみたいな存在だったんです。一緒に営業の仕事を頑張って、いつか秘書になろうって話してて」
「ああ……」
「それでその、私が先に秘書になったものだから、ちょっと今関係がこじれてしまっているんですよね。他にも理由は色々あるとは思うんですけど」
独身同盟のことについては、口にするのがちょっと恥ずかしい。それに、今となっては愛菜があそこで旅行をキャンセルしてくれたからこそ、私はこうして社長代理を好きになれたとも思っている。
そういう意味では、ほんの少しだけ愛菜に感謝もしているんだ。本人に伝えると嫌味になるから絶対言わないつもりだけど。
「私が口止め料として秘書課に異動させてもらったと知ったら、たぶん彼女は今以上に私を敵視すると思うんですよね」
なんて、私が苦笑いを浮かべながら言ったとき、
社長代理は少し怪訝な顔をして、私の顔を覗き込んだ。
「なんの話?」
「え……違うんですか?」
「だからなんの……ああ、まさかアレ? シンガポールの時の話?」
ふっと社長代理が笑ったところへ、狙ったように二人分の豚骨ラーメンが運ばれてくる。一旦話を中断して、ラーメンをひとくちすすってから、
「誤解だよ」
と、社長代理は呆れ顔で言った。
「あのね、俺そんなことのために人事異動に首突っ込んだりしないよ。だいたい異動を決めたのは高階に会う前の話で、それも一華ちゃんとリモートで相談しながら全部決めたんだから」
「そうだったんですか?」
「そうだよ。高階が人事課に異動になったのは、紛れもなく仕事が評価された結果。まさか今まで、ずっと口止め料で異動になったと思ってたの?」
ラーメンを咀嚼しながら私がおずおずと頷くと、社長代理はこれ見よがしにはーっと大きなため息を吐いた。
胃もたれするような豚骨の香りがあっちこっちに充満している。ずるずる麺をすすりながら、鼓動が少しずつ加速していくのがわかる。
「もうちょっと自分に自信持ちなよ。高階が仕事頑張ってるのはちゃんと俺が保証するからさ。……意外にネガティブなんだよな、もっと堂々としていればいいのに」
独り言みたいなそのぼやき声がどれほど私の胸を打ったのか、きっと彼には言葉を尽くしたって伝えられっこないだろう。
意図的でも無意識でも、彼はいつだって私に溢れんばかりの優しさを注いでくれる。ひだまりみたいに温かなそれに私がどれほど救われているか……どれほど心奪われているか、きっと彼にはわからない。
「食べれそう? ……ちょっと濃すぎた?」
俺はこの味好きなんだけどな、と困った顔をする彼に、私は首をぶんぶん横に振って思い切りラーメンをすすりあげる。
私も好きです。大好き。味なんてわからないくらい好き。
シンガポールで出会ったあの日から、溜めに溜めこんだ熱い想いが、もう、溢れて止まらない。
涙目になりながら黙々とラーメンを食べ続ける私を見て、社長代理は少し安心したみたいにほのかな笑みを浮かべている。私はそれに気づかないふりをして、自分の熱を飲み下すようにラーメンのスープを飲み込んだ。
いや、デートではない……。
でもデートみたい!!
いや違う、みたいってだけで別にデートでは……。
頭の中でくだらない妄想が行ったり来たりを繰り返す。私の大きな失敗は二つ。ひとつは最初から残業のつもりで、着慣れた形崩れのパンツスーツを履いてきてしまったこと。そしてもうひとつは「何の店がいい?」と訊かれたとき、反射で「ラーメン」と答えてしまったことだ。
前者はまだいい。だってスーツはスーツだもの。でも後者はまずい。最悪だ。好きな人からの夕飯の誘いにラーメンはないでしょ、ラーメンは。
実際、私の返答を聞いた社長代理はまた弾けるような声で笑ってから、持っていたスマホでわざわざラーメン屋さんを検索してくれた。あああ最悪、恥ずかしい。どうしてこういうときお洒落な答えがパッと浮かばないんだろう。
羞恥心で半ばパニックになりながら大急ぎで仕事を終わらせて、私は社長代理の隣に並んで夜の会社を後にした。こんな形で隣に並ぶ日が、こうもすぐにやって来るなんて思いもしていなかったけど、当然嬉しい。そりゃあ嬉しい。嬉しいに決まっている。
「社用車だ。営業が帰ってきたのかな」
上向きのライトを付けて入ってきた白い車。走る姿を目で追ってしまったのは、運転席に山田先輩、そして助手席に愛菜が見えたからだ。
二人とも営業ではあるから、特におかしいところはないのだけど、二人の仲を知っている私としては変な勘繰りをしてしまう。もちろん社長代理はあの姿を見ても「仕事頑張ってるな」くらいにしか思わないのだろうけど……。
(あっ)
一瞬、息が止まった。
ふいにこちらを向いた愛菜が、私と社長代理の姿を見つけて顔色を変える姿が、夜の駐車場のさらに奥へと徐行で通り過ぎていく。
あの目は単なる驚きじゃない。戸惑いと困惑と、抑えきれない焦燥感。格下だと思っていた相手に追い付かれそうな衝撃といえば、一応説明はつくだろうか。
あるいは、単純な嫉妬かもしれない。山田先輩より社長代理の方が数百倍はかっこいいし……と、そこまで考え、自分の性格の悪さにちょっと辟易した気持ちになる。
いずれにしろ、今の私では想像もつかないどす黒いどろどろとしたものが、愛菜の中にはタールみたいに淀んでいるのかもしれない。もっとも私の側だって、彼女の顔を見てほんの少しでもせいせいした気持ちになったのだから、似たようなものかもしれないけど。
「何かあった?」
「いえ」
軽くかぶりを振る私と、遠ざかる社用車の後ろ姿を見、社長代理は少し眉を寄せたけど特段何も言わなかった。
年季の入ったお店の入り口で強烈に漂う豚骨の香り。
きゅうとお腹を鳴らした私を見て、社長代理はまたくつくつ笑う。恥ずかしい。でも、あまりにも私の好みにストライクなラーメン屋さんで、本音を言えばなりふり構わず貪り食べたいほどの気分だ。
「こちらのお店には、よく来られるんですか?」
「そうだね、わりと。一人で来ることも多いし、友達誘って来たこともあるよ」
狭いカウンターに並んで座る。他のお客さんは仕事帰りのサラリーマンがほとんどだけど、中にはちらほらと私たちみたいな男女の姿もあるようだ。
質素なメニューに選択肢は少なく、私は社長代理と同じ定番の豚骨ラーメンを注文する。社長代理の麺は大盛。あいよと不愛想に返事をして、エプロン姿の店主さんが仏頂面で厨房へ向かう。
「しかし、正直意外だったな。どこでも奢ってやるつもりだったけど、まさかラーメンとはね」
「すみません……その、お洒落なお店とか、あんまり知らなくて」
「いいと思うよ、変に気取ってよくわからない店をリクエストするより。俺としてはありがたかったし、こっちのほうがずっと楽しい」
なんてことない些細な一言に、あっという間に心が凪いでいく。よかった、本音で正解だったんだ。そう思うと、なんだか二人の相性も良いような気がして少し気分が高揚してしまう。
「あのさ、言いたくないなら言わなくてもいいんだけど」
横目でちらと私を見ながら、社長代理は声を落として言う。
「営業課の頃の同僚と、やっぱり何かあったんだろ? あの、同い年くらいの女と」
……愛菜のことだ。あんなところで大声で喋っていたら、社長代理だって気づくよね。
具体的に彼女との間に何かが起きたわけではないけど、しいていうなら積もり積もったものが爆発した結果だろうか。私はできるだけ暗くならないよう、言葉を選びながら話す。
「彼女は私の同期で……まあ、ライバルみたいな存在だったんです。一緒に営業の仕事を頑張って、いつか秘書になろうって話してて」
「ああ……」
「それでその、私が先に秘書になったものだから、ちょっと今関係がこじれてしまっているんですよね。他にも理由は色々あるとは思うんですけど」
独身同盟のことについては、口にするのがちょっと恥ずかしい。それに、今となっては愛菜があそこで旅行をキャンセルしてくれたからこそ、私はこうして社長代理を好きになれたとも思っている。
そういう意味では、ほんの少しだけ愛菜に感謝もしているんだ。本人に伝えると嫌味になるから絶対言わないつもりだけど。
「私が口止め料として秘書課に異動させてもらったと知ったら、たぶん彼女は今以上に私を敵視すると思うんですよね」
なんて、私が苦笑いを浮かべながら言ったとき、
社長代理は少し怪訝な顔をして、私の顔を覗き込んだ。
「なんの話?」
「え……違うんですか?」
「だからなんの……ああ、まさかアレ? シンガポールの時の話?」
ふっと社長代理が笑ったところへ、狙ったように二人分の豚骨ラーメンが運ばれてくる。一旦話を中断して、ラーメンをひとくちすすってから、
「誤解だよ」
と、社長代理は呆れ顔で言った。
「あのね、俺そんなことのために人事異動に首突っ込んだりしないよ。だいたい異動を決めたのは高階に会う前の話で、それも一華ちゃんとリモートで相談しながら全部決めたんだから」
「そうだったんですか?」
「そうだよ。高階が人事課に異動になったのは、紛れもなく仕事が評価された結果。まさか今まで、ずっと口止め料で異動になったと思ってたの?」
ラーメンを咀嚼しながら私がおずおずと頷くと、社長代理はこれ見よがしにはーっと大きなため息を吐いた。
胃もたれするような豚骨の香りがあっちこっちに充満している。ずるずる麺をすすりながら、鼓動が少しずつ加速していくのがわかる。
「もうちょっと自分に自信持ちなよ。高階が仕事頑張ってるのはちゃんと俺が保証するからさ。……意外にネガティブなんだよな、もっと堂々としていればいいのに」
独り言みたいなそのぼやき声がどれほど私の胸を打ったのか、きっと彼には言葉を尽くしたって伝えられっこないだろう。
意図的でも無意識でも、彼はいつだって私に溢れんばかりの優しさを注いでくれる。ひだまりみたいに温かなそれに私がどれほど救われているか……どれほど心奪われているか、きっと彼にはわからない。
「食べれそう? ……ちょっと濃すぎた?」
俺はこの味好きなんだけどな、と困った顔をする彼に、私は首をぶんぶん横に振って思い切りラーメンをすすりあげる。
私も好きです。大好き。味なんてわからないくらい好き。
シンガポールで出会ったあの日から、溜めに溜めこんだ熱い想いが、もう、溢れて止まらない。
涙目になりながら黙々とラーメンを食べ続ける私を見て、社長代理は少し安心したみたいにほのかな笑みを浮かべている。私はそれに気づかないふりをして、自分の熱を飲み下すようにラーメンのスープを飲み込んだ。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
19
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる