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第六章 些細な気づき
第二十二話
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その日の夕方、他の秘書たちが帰った秘書室でひとり雑務を片付けていると、社長室から出てきた玲一さんが私の隣にそっと立った。
デスクに置いた私の指先に小指だけをそっと絡めて、耳元に彼の唇が触れる。
「――今夜は、何する?」
…………。
「何するって何ですか!?」
「何って、だからセ」
「言わなくていい!! ここ会社ですよ!?」
「他の秘書みんな帰ったじゃん。そこまで大騒ぎしなくても」
玲一さんはへらへらと薄笑いを浮かべて私を見下ろす。
「俺、まだお前のこと許してないからね。俺より鮫島に媚びを売った罰を受けていただきます」
……ま、まさか、二日連続? 今までそんなことなかったじゃない……。
こんなにねちっこい(失礼)人だとは知らず、また意外な一面を見た気分だ。職場とは思えないどろどろとした熱のこもった眼差しで見られ、昨夜のぐちゃぐちゃなベッドの様子が否応なしに脳裏に浮かぶ。
自然とすり寄せてしまう腿。何もかもを見透かしたみたいに、玲一さんの笑みも深くなる――。
「す、すみません」
そっと手のひらで押しのけられて、玲一さんが意外そうに眉を上げた。
「なに?」
「……今日は用事が」
「用事?」
怪訝な顔をして私を見下ろす。彼はきっと「こいつに用事なんてあるの?」とでも言いたいに違いない。
でも、本当に申し訳なさそうに俯く私の姿を見て、少なくとも嘘をついているわけではないと理解してくれたのだろう。少し小首をかしげながら、大きな瞳が探るようにじろじろと私を見つめる。
そのとき、秘書室の扉から大きなノックの音が響き、返事をするよりも先に勢いよく扉が開いた。満面の笑みで入ってきた松岡くんが、私の隣にいる玲一さんを見た瞬間はっと顔色を変える。
「あ、……社長代理」
玲一さんは何も言わない。ただ、静かに松岡くんを見据えているだけだ。
私は整理していた書類を片付けるふりをして、無言のまま席を立ち二人に向かって背を向けた。別に悪いことはしていない。だって私たち付き合ってないもの。
でも、なんだか――不安で息が詰まりそう。
「ごめんね、松岡くん。すぐに終わるから」
仮面の作り笑顔を浮かべて、私はキャビネットを閉じる。
玲一さんは少し横目で私の背中を見ていたようだけど、やがてジャケットを肩にかけると「お疲れ様」と言ってひとり秘書室を出て行った。
松岡くんに案内されたお店は、なんだか気後れしてしまうほどお洒落な肉バルだった。
薄暗い店内はすべての席が個室か半個室となっていて、大人の雰囲気にマッチした落ち着いたBGMが流れている。
「高階先輩、肉が好きって言ってたから」
と、少し恥ずかしそうに笑いながら、私と彼は狭い個室に横並びに腰かけた。念のために弁解しておくと、別に自分からわざわざ隣に座ったわけではない。これはいわゆるカップルシート。仲良しのカップルが隣に座っていちゃいちゃしながらご飯を楽しむために設けられた部屋だ。
(なぜここにした、松岡くん)
いくら相手が松岡くんとはいえ、こうも狭い場所でくっついているとなんだかちょっと恥ずかしい。
でも今更席を変えてくれというわけにもいかないし、何より当の松岡くんはどうやらこの席でご機嫌のようだ。私は気まずさを誤魔化すように、厚めのメニューをぱらぱらめくる。
「さっきはマジでびっくりしました。社長代理って意外にちっちゃい人なんですね」
「松岡くんが大きいだけでしょ? 身長どのくらいあるんだっけ」
「186cmです! でもバスケ部ではそんなに目立たない高さでしたよ」
うーん、大きい。私とはちょうど30cmくらいの差だ。確かに私が彼と目線を合わせようとすると、うんと首を上にあげるか背伸びをするか、どちらかが必ず必要になる。
玲一さんくらいの高さだと喋るとき楽なんだけど……と、ふと去り際の彼の横顔を思い出し少しだけ背中が寒くなった。
残業を嫌う玲一さんがあんな時間まで社長室にいたのは、たぶん私と二人きりになるのを待っていたため。私は彼の甘い誘いを、今日、はじめて断った。
私たちは恋人同士じゃない。相互利益の単なるセフレだ。別に他の人と遊ぶのも自由。誰にも咎める権利はない。
でも、どうしてだろう。なんだか胸が締め付けられる。もしかしたら私は心のどこかで、彼に引き留めてもらいたかったのかもしれない。
「……ねえ。お酒、頼んでもいい?」
肉バルと言ったら美味しいお肉と一緒に飲むお高めのワインだ。飲んでもいないのに据わった目でアルコールメニューを取り出した私に、松岡くんはちょっとだけ驚いたように目を見張る。
「いいですけど、先輩、アルコール苦手ですよね?」
「……え? 知ってたの?」
「知ってますよ! いっつも飲み会の度に無理して飲んでて、俺、心配だったんですから。山田先輩なんてコールかけて高階先輩のこと潰そうとしてくるし、正直ずっと危なっかしくて見ていられなかったんですよね」
……気づいてたんだ。気づかれていたことに気づかなかった。
思い返してみれば、課の飲み会の時は基本彼が隣にいてくれたような気もする。勧められるがままガンガン飲む私に、お茶やらお水やらを差しだしながら、いつも心配そうな顔でずっと傍にいてくれたっけ。
「でも、飲みたい日ってありますよね。いいですよ、今日は飲みたいだけ飲んでください。俺がちゃんと隣で見ていますから」
いつもよりちょっと大人びた顔で、松岡くんが私の顔を覗き込む。
今まで特に意識したことなかったけど、松岡くんってイケメンなんだな。そういえば入社当初から何かと持て囃されていたっけ? 背が高くて顔が可愛くて、ちょっと天然だけど爽やかで。
こういう人の恋人になれる子は、それはそれは幸せなのだろう。だって見るからに浮気とかしなそうだし、誠実そうだし、仕事もできるし、セフレとか言わなそうだし。
「えらいえらい。君はモテるぞ」
いつもよりずっと触りやすい位置にある松岡くんの頭をぐりぐり撫でる。固めの髪質がまたわんこっぽくて、ついついテンションが上がってしまい、わしゃわしゃ両手で撫でまわしてしまう。
「……不特定多数にモテても意味がないんですけどねえ」
そう言って松岡くんは苦笑すると、私が広げたアルコールメニューを覗き「俺も飲みます」と意気込んだ。
デスクに置いた私の指先に小指だけをそっと絡めて、耳元に彼の唇が触れる。
「――今夜は、何する?」
…………。
「何するって何ですか!?」
「何って、だからセ」
「言わなくていい!! ここ会社ですよ!?」
「他の秘書みんな帰ったじゃん。そこまで大騒ぎしなくても」
玲一さんはへらへらと薄笑いを浮かべて私を見下ろす。
「俺、まだお前のこと許してないからね。俺より鮫島に媚びを売った罰を受けていただきます」
……ま、まさか、二日連続? 今までそんなことなかったじゃない……。
こんなにねちっこい(失礼)人だとは知らず、また意外な一面を見た気分だ。職場とは思えないどろどろとした熱のこもった眼差しで見られ、昨夜のぐちゃぐちゃなベッドの様子が否応なしに脳裏に浮かぶ。
自然とすり寄せてしまう腿。何もかもを見透かしたみたいに、玲一さんの笑みも深くなる――。
「す、すみません」
そっと手のひらで押しのけられて、玲一さんが意外そうに眉を上げた。
「なに?」
「……今日は用事が」
「用事?」
怪訝な顔をして私を見下ろす。彼はきっと「こいつに用事なんてあるの?」とでも言いたいに違いない。
でも、本当に申し訳なさそうに俯く私の姿を見て、少なくとも嘘をついているわけではないと理解してくれたのだろう。少し小首をかしげながら、大きな瞳が探るようにじろじろと私を見つめる。
そのとき、秘書室の扉から大きなノックの音が響き、返事をするよりも先に勢いよく扉が開いた。満面の笑みで入ってきた松岡くんが、私の隣にいる玲一さんを見た瞬間はっと顔色を変える。
「あ、……社長代理」
玲一さんは何も言わない。ただ、静かに松岡くんを見据えているだけだ。
私は整理していた書類を片付けるふりをして、無言のまま席を立ち二人に向かって背を向けた。別に悪いことはしていない。だって私たち付き合ってないもの。
でも、なんだか――不安で息が詰まりそう。
「ごめんね、松岡くん。すぐに終わるから」
仮面の作り笑顔を浮かべて、私はキャビネットを閉じる。
玲一さんは少し横目で私の背中を見ていたようだけど、やがてジャケットを肩にかけると「お疲れ様」と言ってひとり秘書室を出て行った。
松岡くんに案内されたお店は、なんだか気後れしてしまうほどお洒落な肉バルだった。
薄暗い店内はすべての席が個室か半個室となっていて、大人の雰囲気にマッチした落ち着いたBGMが流れている。
「高階先輩、肉が好きって言ってたから」
と、少し恥ずかしそうに笑いながら、私と彼は狭い個室に横並びに腰かけた。念のために弁解しておくと、別に自分からわざわざ隣に座ったわけではない。これはいわゆるカップルシート。仲良しのカップルが隣に座っていちゃいちゃしながらご飯を楽しむために設けられた部屋だ。
(なぜここにした、松岡くん)
いくら相手が松岡くんとはいえ、こうも狭い場所でくっついているとなんだかちょっと恥ずかしい。
でも今更席を変えてくれというわけにもいかないし、何より当の松岡くんはどうやらこの席でご機嫌のようだ。私は気まずさを誤魔化すように、厚めのメニューをぱらぱらめくる。
「さっきはマジでびっくりしました。社長代理って意外にちっちゃい人なんですね」
「松岡くんが大きいだけでしょ? 身長どのくらいあるんだっけ」
「186cmです! でもバスケ部ではそんなに目立たない高さでしたよ」
うーん、大きい。私とはちょうど30cmくらいの差だ。確かに私が彼と目線を合わせようとすると、うんと首を上にあげるか背伸びをするか、どちらかが必ず必要になる。
玲一さんくらいの高さだと喋るとき楽なんだけど……と、ふと去り際の彼の横顔を思い出し少しだけ背中が寒くなった。
残業を嫌う玲一さんがあんな時間まで社長室にいたのは、たぶん私と二人きりになるのを待っていたため。私は彼の甘い誘いを、今日、はじめて断った。
私たちは恋人同士じゃない。相互利益の単なるセフレだ。別に他の人と遊ぶのも自由。誰にも咎める権利はない。
でも、どうしてだろう。なんだか胸が締め付けられる。もしかしたら私は心のどこかで、彼に引き留めてもらいたかったのかもしれない。
「……ねえ。お酒、頼んでもいい?」
肉バルと言ったら美味しいお肉と一緒に飲むお高めのワインだ。飲んでもいないのに据わった目でアルコールメニューを取り出した私に、松岡くんはちょっとだけ驚いたように目を見張る。
「いいですけど、先輩、アルコール苦手ですよね?」
「……え? 知ってたの?」
「知ってますよ! いっつも飲み会の度に無理して飲んでて、俺、心配だったんですから。山田先輩なんてコールかけて高階先輩のこと潰そうとしてくるし、正直ずっと危なっかしくて見ていられなかったんですよね」
……気づいてたんだ。気づかれていたことに気づかなかった。
思い返してみれば、課の飲み会の時は基本彼が隣にいてくれたような気もする。勧められるがままガンガン飲む私に、お茶やらお水やらを差しだしながら、いつも心配そうな顔でずっと傍にいてくれたっけ。
「でも、飲みたい日ってありますよね。いいですよ、今日は飲みたいだけ飲んでください。俺がちゃんと隣で見ていますから」
いつもよりちょっと大人びた顔で、松岡くんが私の顔を覗き込む。
今まで特に意識したことなかったけど、松岡くんってイケメンなんだな。そういえば入社当初から何かと持て囃されていたっけ? 背が高くて顔が可愛くて、ちょっと天然だけど爽やかで。
こういう人の恋人になれる子は、それはそれは幸せなのだろう。だって見るからに浮気とかしなそうだし、誠実そうだし、仕事もできるし、セフレとか言わなそうだし。
「えらいえらい。君はモテるぞ」
いつもよりずっと触りやすい位置にある松岡くんの頭をぐりぐり撫でる。固めの髪質がまたわんこっぽくて、ついついテンションが上がってしまい、わしゃわしゃ両手で撫でまわしてしまう。
「……不特定多数にモテても意味がないんですけどねえ」
そう言って松岡くんは苦笑すると、私が広げたアルコールメニューを覗き「俺も飲みます」と意気込んだ。
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