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第十一章 黄昏のバス
第三十九話
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会社の様子がおかしい、と。
最初に気づいたのは社長代理と廊下を歩いている時だった。窓際で談笑していた社員たちが、社長代理の姿を見るなり目を見合わせて口をつぐむ。そうしながら、何かを示し合わせたように、ニヤニヤと目線で笑い合う。
何か聞かれたくない噂話でもしているのかと思ったのだけど、そういうことが二度三度続けばさすがに気がかりになってくるもので。
「考え過ぎよ」
鮫島先輩は言う。
「楽しいお喋りを不用意に聞かれたくないのは自然な気持ちでしょう? ましてそれが、社長代理ならなおさら」
「どうして、なおさらなんです?」
「だって考えてごらんなさい。今、社長代理とうかつに関わりを持ってしまったら、妙な連中の矛先がこちらへ向かうかもしれないじゃない。自宅まで追いかけられたり、ところかまわずカメラを向けられたり……ああいう面倒事を避けようと思うなら、何よりもまずその元凶から距離を置くのが一番ですからね」
……元凶って、社長代理のことを指しているのかな。言おうとしていることはわかるけど、なんだか嫌な言い方だ。
「そういえば小耳に挟んだのだけど、あなた、営業課の松岡君と付き合い始めたんですって?」
明らかに可笑しがるような微笑みに、私は引き攣り笑いを返す。相変わらず情報が早い。
遅かれ早かれ、いつかは鮫島先輩の耳には入ってしまうだろうとは思っていた。でも、できればあまり会社でそういう話題に触れてほしくない……なんて、この人に向かって言う勇気があるはずもない。
「……まだ、そういうわけでは」
「そうなの? 松岡が持ち帰ったんですよ、なんて、私の後輩が悔しそうに言っていたのだけど。……まあ、いいわ。貴女が楽しかったのであれば」
私の浮かない表情を見とめ、鮫島先輩はティーカップへ手を伸ばしつつそこで言葉を切り上げる。
颯太くんは良い人だ。顔もかっこいいし背は高いし、優しくて仕事ができて、何より私を好きでいてくれる。
彼の想いにきちんと応えれば、私はきっと幸せになれる。……そう、わかっているのだけど。
「今度、青木副社長の新企画の船出を祝って、お店をひとつ貸し切って激励会を開く予定なの」
スマホのスケジュールを開きながら、鮫島先輩は艶然と微笑む。
「よければ貴女もどう? もちろん、松岡君も一緒に」
「私もですか? 私、その企画にはまったく関与していませんが」
「いいのよ。青木副社長は、ゆくゆくは貴女にも参加してもらいたいと思っているようだから」
副社長自ら主導する企画なのだから、きっと大規模でリターンの多いものとなるに違いない。社長代理からその手の話が聞こえてこないのが不思議だけど、やはりあの二人の間には何か確執があるのだろうか。
(わざわざ断る必要はないけど、正直少し面倒だな)
何か良い断り文句がないか悩んでいると、
「デジタル戦略室へ行きたいんだけど、手が空いている人いる?」
と、社長室から社長代理が足速に姿を表した。
オフィスはしんと不自然に静まり返り、秘書たちは目を逸らすように手元の仕事に顔を向ける。社長代理は部屋を軽く見回し、それから俯くように微笑むと、何も言わず一人で部屋を出て行こうとした。
「お待ちください」
私が椅子を蹴って立ち上がる音が、静かな部屋にいやに大きく響いた。振り返った社長代理が、わずかに口を開けて私を見る。
「私、行きます」
秘書の先輩方の目線が、値踏みするみたく私を見つめているのがわかる。
それには気づかないふりをして、私は社長代理の表情だけに集中した。彼は大きな瞳で私を見つめ、それからふっと口元を緩めると、
「高階は優しいね」
と、張り詰めた目元を和らげた。
一階を歩いている最中、ふいに社長代理が足を止めた。
視線の先では一人の社員が、首に下げた社員証をぎゅっと握って、廊下を早足で歩いてくる姿が見える。
「どうなさいました?」
訊ねる私に、社長代理は眉を寄せると、
「あいつ、今どこから出てきた?」
と言って、社員が現れた廊下の奥へと進んでいった。
仕方なく社長代理の後を追い、私も一緒に廊下を歩く。閉じっぱなしの防火扉や消火器が並ぶさらに奥には、薄暗い下り階段だけが別世界への入り口みたいに鎮座している。
てっきり非常口にでも続いているのかと思ったけど、どうやらここにあるのはこの地下への階段だけらしい。ただ、私の知っている限り、このビルの地下に一般社員が使うような施設は無いはずだ。
社長代理もそう思ったのだろう。彼はしばらく難しい顔をして階段を睨んでいたけど、やがて無言のままゆっくりした足取りで段差を一歩ずつ降り始めた。
埃だらけの照明に照らされた暗い地下の廊下には、中央管理室(ビルの設備点検のための部屋)や掃除の業者用の控室・用具室など、やっぱり普通の社員であれば縁のない部屋が並んでいる。
社長代理はその一番奥の、いかにも重たげな扉の前で足を止めた。プレートの名前は『機械室』。ここは、私も知らない部屋だ。
「施錠されてない」
ドアノブを捻った社長代理が、そのまましばし黙り込む。結局彼はドアを開けると、その謎めいた部屋へと足を踏み入れた。
電気がつきっぱなしのその部屋は、私の想像をはるかに超える巨大かつ複雑な空間だった。
ごちゃごちゃした配電盤に、見上げるほど大きい受水槽。白いビニールで覆われた、人も通れそうな太さの無数のダクト。
ごうごうと唸る巨大なモーターは、おそらくエレベーターを動かすために使われているのだろう。どうやら様々な機械の設備がひとまとめにされているらしい。
これでもう少しお洒落だったらスチームパンクを感じられそうだけど、全体的にくすんだ白で統一された部屋は殺風景で、一般職員が頻繁に出入りして働く部屋でないことがわかる。
わあ、と辺りを見回す私を無視し、社長代理は黙々とダクトをくぐって部屋の奥へと進んでいく。
会社の様子がおかしい、と。
最初に気づいたのは社長代理と廊下を歩いている時だった。窓際で談笑していた社員たちが、社長代理の姿を見るなり目を見合わせて口をつぐむ。そうしながら、何かを示し合わせたように、ニヤニヤと目線で笑い合う。
何か聞かれたくない噂話でもしているのかと思ったのだけど、そういうことが二度三度続けばさすがに気がかりになってくるもので。
「考え過ぎよ」
鮫島先輩は言う。
「楽しいお喋りを不用意に聞かれたくないのは自然な気持ちでしょう? ましてそれが、社長代理ならなおさら」
「どうして、なおさらなんです?」
「だって考えてごらんなさい。今、社長代理とうかつに関わりを持ってしまったら、妙な連中の矛先がこちらへ向かうかもしれないじゃない。自宅まで追いかけられたり、ところかまわずカメラを向けられたり……ああいう面倒事を避けようと思うなら、何よりもまずその元凶から距離を置くのが一番ですからね」
……元凶って、社長代理のことを指しているのかな。言おうとしていることはわかるけど、なんだか嫌な言い方だ。
「そういえば小耳に挟んだのだけど、あなた、営業課の松岡君と付き合い始めたんですって?」
明らかに可笑しがるような微笑みに、私は引き攣り笑いを返す。相変わらず情報が早い。
遅かれ早かれ、いつかは鮫島先輩の耳には入ってしまうだろうとは思っていた。でも、できればあまり会社でそういう話題に触れてほしくない……なんて、この人に向かって言う勇気があるはずもない。
「……まだ、そういうわけでは」
「そうなの? 松岡が持ち帰ったんですよ、なんて、私の後輩が悔しそうに言っていたのだけど。……まあ、いいわ。貴女が楽しかったのであれば」
私の浮かない表情を見とめ、鮫島先輩はティーカップへ手を伸ばしつつそこで言葉を切り上げる。
颯太くんは良い人だ。顔もかっこいいし背は高いし、優しくて仕事ができて、何より私を好きでいてくれる。
彼の想いにきちんと応えれば、私はきっと幸せになれる。……そう、わかっているのだけど。
「今度、青木副社長の新企画の船出を祝って、お店をひとつ貸し切って激励会を開く予定なの」
スマホのスケジュールを開きながら、鮫島先輩は艶然と微笑む。
「よければ貴女もどう? もちろん、松岡君も一緒に」
「私もですか? 私、その企画にはまったく関与していませんが」
「いいのよ。青木副社長は、ゆくゆくは貴女にも参加してもらいたいと思っているようだから」
副社長自ら主導する企画なのだから、きっと大規模でリターンの多いものとなるに違いない。社長代理からその手の話が聞こえてこないのが不思議だけど、やはりあの二人の間には何か確執があるのだろうか。
(わざわざ断る必要はないけど、正直少し面倒だな)
何か良い断り文句がないか悩んでいると、
「デジタル戦略室へ行きたいんだけど、手が空いている人いる?」
と、社長室から社長代理が足速に姿を表した。
オフィスはしんと不自然に静まり返り、秘書たちは目を逸らすように手元の仕事に顔を向ける。社長代理は部屋を軽く見回し、それから俯くように微笑むと、何も言わず一人で部屋を出て行こうとした。
「お待ちください」
私が椅子を蹴って立ち上がる音が、静かな部屋にいやに大きく響いた。振り返った社長代理が、わずかに口を開けて私を見る。
「私、行きます」
秘書の先輩方の目線が、値踏みするみたく私を見つめているのがわかる。
それには気づかないふりをして、私は社長代理の表情だけに集中した。彼は大きな瞳で私を見つめ、それからふっと口元を緩めると、
「高階は優しいね」
と、張り詰めた目元を和らげた。
一階を歩いている最中、ふいに社長代理が足を止めた。
視線の先では一人の社員が、首に下げた社員証をぎゅっと握って、廊下を早足で歩いてくる姿が見える。
「どうなさいました?」
訊ねる私に、社長代理は眉を寄せると、
「あいつ、今どこから出てきた?」
と言って、社員が現れた廊下の奥へと進んでいった。
仕方なく社長代理の後を追い、私も一緒に廊下を歩く。閉じっぱなしの防火扉や消火器が並ぶさらに奥には、薄暗い下り階段だけが別世界への入り口みたいに鎮座している。
てっきり非常口にでも続いているのかと思ったけど、どうやらここにあるのはこの地下への階段だけらしい。ただ、私の知っている限り、このビルの地下に一般社員が使うような施設は無いはずだ。
社長代理もそう思ったのだろう。彼はしばらく難しい顔をして階段を睨んでいたけど、やがて無言のままゆっくりした足取りで段差を一歩ずつ降り始めた。
埃だらけの照明に照らされた暗い地下の廊下には、中央管理室(ビルの設備点検のための部屋)や掃除の業者用の控室・用具室など、やっぱり普通の社員であれば縁のない部屋が並んでいる。
社長代理はその一番奥の、いかにも重たげな扉の前で足を止めた。プレートの名前は『機械室』。ここは、私も知らない部屋だ。
「施錠されてない」
ドアノブを捻った社長代理が、そのまましばし黙り込む。結局彼はドアを開けると、その謎めいた部屋へと足を踏み入れた。
電気がつきっぱなしのその部屋は、私の想像をはるかに超える巨大かつ複雑な空間だった。
ごちゃごちゃした配電盤に、見上げるほど大きい受水槽。白いビニールで覆われた、人も通れそうな太さの無数のダクト。
ごうごうと唸る巨大なモーターは、おそらくエレベーターを動かすために使われているのだろう。どうやら様々な機械の設備がひとまとめにされているらしい。
これでもう少しお洒落だったらスチームパンクを感じられそうだけど、全体的にくすんだ白で統一された部屋は殺風景で、一般職員が頻繁に出入りして働く部屋でないことがわかる。
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