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第十二章 敗北
第四十一話
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あのあと社長室に呼ばれた私は、仕事中の顔に切り替わった社長代理にいくつかの指示を受けた。
機械室で見たものについて、決して誰にも言わないこと。社長代理とあの部屋へ入ったことも、絶対人に話してはダメ。
「機械室を倉庫代わりに使っている件については、後で俺から直々に全部署へ通達を出す。だからそれまで、高階も絶対にあの部屋のことを口外するなよ」
鋭い口調でそう言われ、私はたじろぎながら了承する。そんなに怖い顔をしなくたって、別に誰かに話すつもりはないのに。
聞きたいことは色々あったけど、社長代理の面持ちが一切の会話を拒絶していて、私はおとなしく頭を下げると自分の仕事に戻るしかなかった。
あのとき私の手を握ったまま、彼は何を言いかけたのだろう。知りたい気持ちはとても強いけど、訊ねられるような空気じゃない。
心にわだかまる歪んだ想いを悶々と持て余したまま、私の毎日は仕事の山であっという間に忙殺されていった。朝起きて、働いて、夜中に帰って死んだように眠る。そしてまた朝が来て……まあ、今まで通りの毎日だ。
「青木副社長の激励会、凛さんも参加でいいですよね?」
食堂で一緒にランチをとりながら颯太くんにそう言われたとき、私はそれが何の話だかすぐに思い出すことができなかった。
間抜けな顔をする私の正面で、颯太くんは呆れたように笑う。そういえば、青木副社長が主導する新企画の成功を願って、お店を貸し切って激励会をひらくと鮫島先輩が言っていたっけ。
「うーん……私、本当に企画のことは何も知らないんだけど」
「いいんですよ、別に。会のときに説明してあげますから」
「今は教えてくれないの?」
「ここじゃちょっと。でも、悪い話じゃないですよ。俺にとっても、凛さんにとっても」
にっ、と気丈に笑ってから、颯太くんは声を潜めて言った。
「凛さんは、あまり一人でいない方がいいと思うんです。あの男、やっぱりまだ凛さんに未練あるみたいですし」
……あまりにも無邪気なその言葉に、心臓が鷲掴みにされたみたく痛くなる。手を握られたときの高鳴る鼓動。溢れて止まらない惨めな涙。
本当に未練があるのは、いったいどっちなのだろう。どうしようもない自分の弱さに気分が深く沈んでいく。
「……そんな言い方しちゃだめだよ。それに、未練だなんて」
「なんでわかんないのかなぁ。あれは復縁を迫る男の顔ですよ。ネット上で変な噂が流されたり、顔写真がおもちゃにされたりして、さすがの社長代理もちょっと心が弱ってるんじゃないですか?」
私が怖い顔をしたのを見て、颯太くんは素直に眉を下げて謝罪した。社長代理を取り巻く環境は相変わらず不穏なまま。鮫島先輩が中心となってきちんとした対応を行っているはずだけど、一度燃え上がった炎はなかなか鎮火の兆しを見せない。
ネットニュースをまとめたサイトでは依然として弊社の名前が取り上げられていて、それに対する株主や取引先からの質問もじわじわと増えてきた。
「まあ、写真はともかく、噂については同情しませんけどね」
「颯太くん」
「考えてみてくださいよ。女性関係の噂は全部、社長代理自身の過去の火遊びが原因じゃないですか。自分が不誠実に扱ってきた女に、今になって復讐されてるってだけで……同じ男として軽蔑しますよ、俺は」
……嘘だ。あんな噂は嘘だ。
ベッドの上の玲一さんはこっちが気後れするほど優しい。あの指で、唇で、あるいは彼自身を使って、私の全身がどろどろに溶けて戻れなくなるほど甘やかしてくれた。
そこに確かに、私が求める愛はなかったかもしれないけど……だからといって復讐なんて、理解できないし納得いかない。
「……俺ならそんな顔させないのに」
唇を噛んで俯く私の表情をどう解釈したのか、颯太くんは頬杖をつくと寂しそうに視線を泳がせた。
*
颯太くんに連れられて行ったのは、横浜市内のおしゃれなバーだ。小さなビルの二階にあって、道路側の大きな窓から小洒落たテーブルとソファが見える。
シックな外観の片隅には小さなメニューボードがひとつ。内容は至ってシンプル。『本日、貸し切りです』。
「鮫島さんのお知り合いがやっているお店らしいですよ」
なるほど、納得。確かに、鮫島先輩みたいな美女がひとりでお酒を楽しんでいそうなお店だ。
店内にはすでに鮫島先輩をはじめ、何人かの社員がテーブルを囲んで楽しそうにおしゃべりをしていた。思ったより人数が多い。中には私の知っている顔もちらほらと見える。
あそこにいるのは愛菜かな。……うげえ、あの合コンのタレ目気障男もいる。わ、こっち見んな。ウィンクすんな。
「秘書課の高階さんじゃん。本当に来るとは思わなかったよ」
馴れ馴れしく話しかけてくる気障男に、私は不出来な愛想笑いを返す。
できれば離れた場所に座りたかったけど、あいにく他にちょうどいい席がなくて、私は間に颯太くんを挟んで気障男たちのテーブルに腰かけた。もうすぐ副社長たちが来るから、とドリンクメニューを渡されて、仕方なくアルコール度数の低そうなカクテルを注文する。
「松岡やるじゃん、お前どうやって高階さんを口説いたの?」
「別に普通に誘っただけですよ。凛さんにも来てほしいって思ったんで」
「凛さんだって! はー、いいねえ! 俺も高階さんみたいな美人な彼女ほしいなーっ」
まだ乾杯だってしていないのに、もう泥酔してるみたいな赤い顔だ。周りもけっこうテンション高めで、私の中の帰りたいメーターがみるみるうちに上昇していく。
鮫島先輩と颯太くんが誘ってくれたから来ることにしたけど、私、やっぱりこういう飲み会ってあんまり向いてないみたい。実家の用事がどうのと言って、早めに帰らせてもらおうかな……。
「転職して自分の時間が増えたら、マッチングアプリでも始めてみるかなぁ」
それは本当に何気ない、雑談の調子の言葉だったけど、私ははっと顔を上げると、
「転職されるんですか?」
と気障男に訊ねた。
途端、悪魔でも通り過ぎたみたいにしんと部屋が静まり返る。それから示し合わせたわけでもないのに、割れるような笑い声が響き渡った。
冗談上手いね、とか、高階さんって面白い、とか。真意の掴めない言葉が私の上を次々に飛び交う。怖くなって颯太くんを見上げると、彼は少しだけ困ったような、それでいてどこか穏やかな表情で頷いた。
「待たせたね。……なんだ、ずいぶん賑やかじゃないか」
機械室で見たものについて、決して誰にも言わないこと。社長代理とあの部屋へ入ったことも、絶対人に話してはダメ。
「機械室を倉庫代わりに使っている件については、後で俺から直々に全部署へ通達を出す。だからそれまで、高階も絶対にあの部屋のことを口外するなよ」
鋭い口調でそう言われ、私はたじろぎながら了承する。そんなに怖い顔をしなくたって、別に誰かに話すつもりはないのに。
聞きたいことは色々あったけど、社長代理の面持ちが一切の会話を拒絶していて、私はおとなしく頭を下げると自分の仕事に戻るしかなかった。
あのとき私の手を握ったまま、彼は何を言いかけたのだろう。知りたい気持ちはとても強いけど、訊ねられるような空気じゃない。
心にわだかまる歪んだ想いを悶々と持て余したまま、私の毎日は仕事の山であっという間に忙殺されていった。朝起きて、働いて、夜中に帰って死んだように眠る。そしてまた朝が来て……まあ、今まで通りの毎日だ。
「青木副社長の激励会、凛さんも参加でいいですよね?」
食堂で一緒にランチをとりながら颯太くんにそう言われたとき、私はそれが何の話だかすぐに思い出すことができなかった。
間抜けな顔をする私の正面で、颯太くんは呆れたように笑う。そういえば、青木副社長が主導する新企画の成功を願って、お店を貸し切って激励会をひらくと鮫島先輩が言っていたっけ。
「うーん……私、本当に企画のことは何も知らないんだけど」
「いいんですよ、別に。会のときに説明してあげますから」
「今は教えてくれないの?」
「ここじゃちょっと。でも、悪い話じゃないですよ。俺にとっても、凛さんにとっても」
にっ、と気丈に笑ってから、颯太くんは声を潜めて言った。
「凛さんは、あまり一人でいない方がいいと思うんです。あの男、やっぱりまだ凛さんに未練あるみたいですし」
……あまりにも無邪気なその言葉に、心臓が鷲掴みにされたみたく痛くなる。手を握られたときの高鳴る鼓動。溢れて止まらない惨めな涙。
本当に未練があるのは、いったいどっちなのだろう。どうしようもない自分の弱さに気分が深く沈んでいく。
「……そんな言い方しちゃだめだよ。それに、未練だなんて」
「なんでわかんないのかなぁ。あれは復縁を迫る男の顔ですよ。ネット上で変な噂が流されたり、顔写真がおもちゃにされたりして、さすがの社長代理もちょっと心が弱ってるんじゃないですか?」
私が怖い顔をしたのを見て、颯太くんは素直に眉を下げて謝罪した。社長代理を取り巻く環境は相変わらず不穏なまま。鮫島先輩が中心となってきちんとした対応を行っているはずだけど、一度燃え上がった炎はなかなか鎮火の兆しを見せない。
ネットニュースをまとめたサイトでは依然として弊社の名前が取り上げられていて、それに対する株主や取引先からの質問もじわじわと増えてきた。
「まあ、写真はともかく、噂については同情しませんけどね」
「颯太くん」
「考えてみてくださいよ。女性関係の噂は全部、社長代理自身の過去の火遊びが原因じゃないですか。自分が不誠実に扱ってきた女に、今になって復讐されてるってだけで……同じ男として軽蔑しますよ、俺は」
……嘘だ。あんな噂は嘘だ。
ベッドの上の玲一さんはこっちが気後れするほど優しい。あの指で、唇で、あるいは彼自身を使って、私の全身がどろどろに溶けて戻れなくなるほど甘やかしてくれた。
そこに確かに、私が求める愛はなかったかもしれないけど……だからといって復讐なんて、理解できないし納得いかない。
「……俺ならそんな顔させないのに」
唇を噛んで俯く私の表情をどう解釈したのか、颯太くんは頬杖をつくと寂しそうに視線を泳がせた。
*
颯太くんに連れられて行ったのは、横浜市内のおしゃれなバーだ。小さなビルの二階にあって、道路側の大きな窓から小洒落たテーブルとソファが見える。
シックな外観の片隅には小さなメニューボードがひとつ。内容は至ってシンプル。『本日、貸し切りです』。
「鮫島さんのお知り合いがやっているお店らしいですよ」
なるほど、納得。確かに、鮫島先輩みたいな美女がひとりでお酒を楽しんでいそうなお店だ。
店内にはすでに鮫島先輩をはじめ、何人かの社員がテーブルを囲んで楽しそうにおしゃべりをしていた。思ったより人数が多い。中には私の知っている顔もちらほらと見える。
あそこにいるのは愛菜かな。……うげえ、あの合コンのタレ目気障男もいる。わ、こっち見んな。ウィンクすんな。
「秘書課の高階さんじゃん。本当に来るとは思わなかったよ」
馴れ馴れしく話しかけてくる気障男に、私は不出来な愛想笑いを返す。
できれば離れた場所に座りたかったけど、あいにく他にちょうどいい席がなくて、私は間に颯太くんを挟んで気障男たちのテーブルに腰かけた。もうすぐ副社長たちが来るから、とドリンクメニューを渡されて、仕方なくアルコール度数の低そうなカクテルを注文する。
「松岡やるじゃん、お前どうやって高階さんを口説いたの?」
「別に普通に誘っただけですよ。凛さんにも来てほしいって思ったんで」
「凛さんだって! はー、いいねえ! 俺も高階さんみたいな美人な彼女ほしいなーっ」
まだ乾杯だってしていないのに、もう泥酔してるみたいな赤い顔だ。周りもけっこうテンション高めで、私の中の帰りたいメーターがみるみるうちに上昇していく。
鮫島先輩と颯太くんが誘ってくれたから来ることにしたけど、私、やっぱりこういう飲み会ってあんまり向いてないみたい。実家の用事がどうのと言って、早めに帰らせてもらおうかな……。
「転職して自分の時間が増えたら、マッチングアプリでも始めてみるかなぁ」
それは本当に何気ない、雑談の調子の言葉だったけど、私ははっと顔を上げると、
「転職されるんですか?」
と気障男に訊ねた。
途端、悪魔でも通り過ぎたみたいにしんと部屋が静まり返る。それから示し合わせたわけでもないのに、割れるような笑い声が響き渡った。
冗談上手いね、とか、高階さんって面白い、とか。真意の掴めない言葉が私の上を次々に飛び交う。怖くなって颯太くんを見上げると、彼は少しだけ困ったような、それでいてどこか穏やかな表情で頷いた。
「待たせたね。……なんだ、ずいぶん賑やかじゃないか」
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