初恋カレイドスコープ

雪静

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第十二章 敗北

第四十二話

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 カランとベルの音が鳴って、スーツ姿の青木副社長がお店に入ってきた。社員たちが腰を上げて、どうぞどうぞと上座へ案内する。

 青木副社長は私へ目を向けると、ふっと意味ありげな微笑を浮かべた。私はわずかに頬を引きつらせ、へらと笑って会釈を返す。なんだか、胸騒ぎがする。

「では副社長、乾杯を」

 皆の手にグラスが行き渡るのを見て、副社長は腰を上げた。小さく咳払いをするその姿を、私以外の社員たちはきらきらした瞳で見上げている。

「諸君、今日はお集まりいただきありがとう。ここにいる者は皆同志だ。我らの華々しい門出を祝い、楽しんでいってもらいたい」

 青木副社長は不敵に微笑み、グラスを軽く持ち上げる。




「――新の船出に、乾杯」




 乾杯!!

 明るい声を上げて一斉に杯をあおるみんなの中で、私一人が呆然としたまま空いた口を閉じられずにいた。

 新ではない。と言った。はじめは言い間違いかと思ったけど、副社長の表情を見るに、残念ながらそうではないらしい。

(青木副社長はシーナコーポレーションから独立するつもりだったの? ここにいる社員たちは、みんなその仲間だというの?)

 冗談じゃない――と、私は慌てて周囲を見回す。どうやら何も知らずに来たのは私一人だったみたいで、他の社員たちは和気あいあいと明るい未来について語り合っている。

「人事異動で部署をがっつりシャッフルされた時は焦りましたけど、結果としてなんとか独立にこぎつけられそうで良かったですね」

「会社のやり方に納得していない社員は少なくないからね。子どもの発熱とか学校行事とか、ホイホイ休み過ぎなんだよ、子持ちの奴ら」

「結局俺ら独身が全部残業で仕事を肩代わりしてさ。やってらんないよな、本当」

 噴き出す愚痴と不満の渦に揉まれ、私は右往左往する。座っているのにめまいがする。涼しい部屋なのに汗が出てくる。でも、聞こえる話を拾うだけで、なんとなく事情がわかってきた。

「本当はハウスキーパー部門も連れて行きたかったけど、まあ、ネイルサロン部門だけでも良しとしましょう」

 弊社において有休取得率の差が最も大きいネイルサロン部門。ここは元々、秘書課に来る前の鮫島先輩が中心となって立ち上げた部門だと聞いている。

「いずれみんな引き抜いてしまえばいい。会社の方向性や社長代理に不満を持つ社員は大勢いる」

 青木副社長と鮫島先輩は、会社に不満を持つ社員を取り込み、独立の機会を伺っていた。

「女性のためのシーナコーポレーションだったはずなのに、あの社長代理はおかしいですよ。あんな不誠実な人の下で仕事なんてできませんね、笑われてしまう」

 社長代理の女性問題スキャンダルは、不満を煽るちょうどいい追い風となった。彼の醜聞が広まれば広まるほど、組織の中で離反を考える勢力は膨れ上がる。

 最初に感じた違和感の正体。ふたつのSNSにほぼ同時期に投稿された、あの投稿はもしかして――

「凛さん」

 ためらい気味な声で我に返る。顔を上げ、それからキッとまなじりを吊り上げた私を見て、颯太くんは先ほど同様のかすかな笑みを浮かべている。

「……どうして先に教えてくれなかったの」

「すみません。でも、本当のことを話したら、凛さんはきっと来てくれないと思って」

 当たり前だ。私は独立の話なんて知らなかったし、そもそも今の会社を辞める気なんて毛頭ない。

 新しい企画の激励会と聞いたから渋々参加したはずなのに、いつの間にかとんでもないことに巻き込まれてしまった。歯噛みする私の隣で、颯太くんはいやに真剣な面持ちで私の顔を見つめている。

「だまし討ちみたいにつれてきたのは、悪かったと思ってます。でも俺、間違ったことは何もしていないつもりです」

「……どういうこと?」

「凛さんは会社を離れた方がいい。あの社長代理から距離を置かないと、いつまで経っても何も変わりませんよ」

 何も飲んでないはずの胃袋が苦しげに蠢くのがわかる。

 私の額ににじむ汗を落ち着き払った瞳で見据え、颯太くんは感情を込めない淡々とした言葉で続ける。

「今の凛さんは社長代理のセフレだった頃と同じです。あの人の言葉に一喜一憂して、ひと気のないところに連れ込まれても手を振り払うことすらできない。それでまた泣かされて……正直見ていられませんよ」

「…………」

「もうやめたい、前に進まなきゃって、自分で言ってたじゃないですか。本当に変わる気ありますか? 一生このままでいたいんですか?」

 それは……わかってる。私は何も変わってない。

 社長代理の顔を見るたびに、眠らせたはずの心が疼く。彼のために何かしたいと、理性ではなく心が叫ぶ。

 椎名玲一の隣に私の幸せは存在しない。そう思ったから別れを告げた。

 それなのに……私の足は立ち止まったまま。未だに手の届かない月の背を物欲しそうに見つめるばかり。

「自分の幸せを見つけに行きましょうよ。……俺と、一緒に」

 颯太くんが私の手を握る。

 彼と一緒に会社を辞めて、青木副社長の独立に参加すれば――社長代理と物理的に距離を置けば、こんな私でも変われるのだろうか。

(ここにはない私自身の幸せに、一歩でも近づくことができるのかな)

 そのときだった。
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