初恋カレイドスコープ

雪静

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第十四章 初恋カレイドスコープ

第四十八話

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 唖然とした顔で玲一さんを見つめ、青木副社長はぱちくりと瞬きする。それから急激に、早送りのボタンを押されたみたいに、その顔が急速にしわくちゃで枯れ果てた様へと老け込んでいく。

「そうだ、私は……激励会に椎名がやってきて、独立の計画をすべて潰されて」

「……青木副社長?」

「払えないと思ったんだ、あんな額の賠償金なんて。家を売っても、貯金を出しても、内臓を売り払ったとしても。……だから、私は、……この女を使って、取引を……」

 髪を鷲掴みにしたまま、青木副社長は虚ろな瞳をゆっくりと私へ向ける。

 現実を写し込んでしまった闇深い深淵の眼差しは、生気のないまま私から逸れて、今度は玲一さんをとらえた。……そのとき、

「この赤いワーゲンの運転手はどちらですかー?」

 拡声器を経た男の人の威圧的な大声に、青木副社長と玲一さんが同時に声の方を振り返った。

 濃紺のジャケットに黒い帽子――ベストを着た二人の警察官が、居丈高にあたりを見回しながらずかずかと庭へ入り込んでくる。

「ヒッ」

 そしてその姿を見た途端、青木副社長は真っ青になった。歯の根が合わずガチガチと音が鳴り、逃げ場を探すように視線が右往左往する。

 警察官は玲一さんと青木副社長、そして椅子に縛られた私の姿に気付くと、

「お、お前ら、何やってるんだ!」

 と、腰の警棒を取り出そうとした。

 瞬間、

「ああああ!!」

 副社長は突然大声を上げると、私の座る椅子を両手で突き飛ばした。キャスターがプールサイドを走り、がくんと身体が仰向けになる。

「凛ちゃん!!」

 視界いっぱいの秋の星空。

 どぼんと耳元で大きな音。

 目を見開いた玲一さんの泣き出しそうに引き攣れた顔が無数の泡に消えていく。

 冷たい――身体中に突き刺さる水の冷たさ。細かい枯葉や虫の死骸が私を避けるように方々へ逃げていく。ああ、私、プールに突き落とされたんだ。

 椅子にくくられた私の身体は夜の水底へ緩やかに沈む。プールの周りを電灯が照らしているせいか、水の中は明るく透き通って見える。

(やばい)

 背中できつく縛られた手首は、ちょっとの抵抗じゃ抜けられそうになくて。

(溺死する。……なんとかして拘束を解かないと、このままじゃ本当に死んでしまう!)

 今更必死に身体をばたつかせて拘束を外そうともがくけど、私の身体は深い底へとゆっくりゆっくり沈んでいくだけ。

 泣き出しそうな思いで見上げた水面はすでに遥か高く、柔らかに揺らぐ水の向こうにはカラフルな灯りと夜空が見える。




(誰か、――助けて!!)




 ――そのときだった。




 ばんっ、と何かの弾ける音とともに、視界が大きく波打った。唐突に視界の真ん中に現れた、夜空を遮る大きな影。それを中心に円を描くように、水面が大きく揺らいでいく。

 濃紺の夜空を両手で裂いて、色とりどりの光を浴びて……まるで天の川の中のように、あるいは煌びやかな万華鏡のように、輝く水中を必死にかき分ける――私の、好きな人。

 両頬にいっぱいの空気を溜めながら、懸命に、ただまっすぐに、私を見つめて手を伸ばす。玲一さん。思わず名を呼ぼうとして、開いた口から空気が溢れた。飛び出しそうなほど目を見開いて、玲一さんは足をばたつかせる。

 やがて、うんと伸ばした彼の両腕が、やっとのことで私の肩に触れて……かき寄せるように抱きしめられた瞬間、私の胸に途方もない莫大な感情が燃え広がった。ぎゅっと閉じたまぶたの際からはきっと涙が溢れただろう。でも、水の中ではあっという間に周囲に溶けて消えてしまう。

 背中に回った彼の手が、たどたどしい手つきでロープを解く。手首の圧迫感がふっと消えて、両腕が自由になった瞬間、私は無意識に手を伸ばして玲一さんに抱きついた。

 玲一さんも私の身体をぎゅうときつく抱きしめてくれて、私たちはもがくように水面へ向かって立ち上がる。

 そうしてやっとプールの外に顔が出た瞬間、私は必死に口を開けながらありったけの酸素を吸い込んだ。ひゅうひゅうと喉から変な音が鳴って、喉の半ばでわだかまっていた水が口から溢れ出す。

 玲一さんも私と同じくらい苦しそうにむせ返っているのに、私を強く抱きしめたまま必死に背中を叩いてくれた。げほっ、と水をその場に吐き出し、彼は呻くように低く唸る。

「れいいちさんっ」

 彼の肩口に額を押しつけ、ぼろぼろと大粒の涙をこぼして、……ただひたすら夢中になって、彼の背中をかき抱いて。

「凛ちゃん」

 夢に見るほど恋焦がれていた彼の優しい微笑みが、今、また目の前にある。

「ごめんなさい、ごめんなさい! 私っ、……わたし、こんな、」

「俺は、大丈夫……。それより怪我とかしてない!? 痛いところは!?」

「違うんです、全然平気で、……あの、お願いです、これ以上きらいにならないで! 私ほんとうに迷惑ばかりで、役に立たなくて、……でも、どうしても、あきらめられなくて……」

 私の肩を掴んだまま虚をつかれたような顔をする玲一さんに、私はそれしか言葉を知らない子どものように繰り返す。

「やっぱり好きです。好きなんです。……がんばったけど、やめられなかったんですっ」

 ぐちゃぐちゃの顔で鼻をたらしながら泣く私を、玲一さんはただ静かに、ちいさく唇を開けたまま見つめる。それから彼は、ずぶ濡れの頬にひと筋の透明な雫を零し、朝露に花が開くように、表情をほぐして微笑んだ。

「俺もだよ」
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