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最終章 これからも恋心
第四十九話
しおりを挟むベッド横のマガジンラックに新聞や雑誌が並んでいる。
若手芸能人とモデルの不倫、政治家の汚職と失言、アイドルのちょっと過激なグラビア……青木副社長の逮捕についても少しだけど触れられていて、やっぱりそこにはあることないことが無責任に書き散らかされている。
世間の興味の移り変わりはいつも目が回るほどに速い。
人の噂も七十五日なんてよく言ったもので、弊社社長代理への陰湿な付き纏いはすっかり鳴りを潜めつつあった。妙な動画やネットニュースはそのほとんどが削除されたし、SNSの炎上の方も気づかないうちに鎮火したらしい。
何もかもが、あるべき日常へと戻っていく。
――そして、私も。
「凛ちゃん」
病室の扉を軽くノックして、私服の玲一さんが入ってくる。ベッドに腰かけ、新品のスマホを鞄へと入れた私を見つめ「元気そうでよかった」と彼は軽く頬を緩める。
「支度も終わったみたいだね。忘れ物はない?」
「はい、これで全部です」
「そっか。じゃあ、行こうか」
衣類ばかりがぱんぱんに詰まった私の鞄を持ちあげて、玲一さんはドアを開けると私の方を振り返った。
あのあとすぐに救急車で運ばれた私と玲一さんは、健康面の検査とともにメンタルのケアも受けることになった。玲一さんは日帰りで終わったけど、私の方は結局一週間も入院することになって……どうやらずっと気を張っていたせいで気が付かなかったのだけど、あの一件は私の心に想像以上の大きな爪痕を残していたらしい。
とはいえ、あまり実感が湧いていないのも事実。短い入院生活は気持ちを切り替える絶好の機会となり、今や私の心身は不思議なほどさっぱりと晴れ渡っている。
それはきっと、玲一さんが毎日お見舞いに来てくれたおかげでもあるのだろう。隣に並んだ彼を見上げ、私は頬の緩みを堪える。
病院のエントランスへ降りると、波留さんが柱に寄りかかって待っていた。彼はいつもどおりの仏頂面を私へ向けて、
「退院おめでとうございます」
と、ちっとも嬉しくなさそうな声で言う。
「ありがとうございます。わざわざすみません、来てもらって」
「いえ。こいつが運転できればよかったんですが、そうもいかないので」
うるせー、と玲一さん。実は玲一さん、あのときプールに飛び込んだ折に運転免許証をどこかへ落としてしまったらしい。
そのことに気づいたのが昨日の夜で、私の退院の日は変えられなくて……結局波留さんに泣きついて、運転手をお願いしたのだとか。
駐車場には見慣れた車が朝日を浴びて待っている。以前はぴかぴかに磨き上げられていた傷ひとつない赤いボディも、今ではところどころに擦り傷や、木の枝でひっかいたらしい跡だらけ。
副社長の家のすぐ側で、植木に頭から突っ込んでいたこの車の姿を思い出す。車を大事にしていた玲一さんには悪いけど、この傷のひとつひとつが私にとっては想いの証だ。
運転席に乗り込んだ波留さんが、ルームミラーを調整している。
玲一さんは私と一緒に後部座席に腰かけると、
「自分の車の後部座席ってなかなか乗る機会ないよね」
と、少し物珍しそうにぺたぺた座席に触っている。
「意外に広いんだな、俺の車」
「乗ると見た目より広いですよね」
「さっき助手席に座ったときも、見え方がいつもと全然違って結構面白かったんだよ。でも波留の運転が危なっかしくて、あちこちこすりそうで怖くてさ」
波留さんは振り返りもせず「もう傷だらけだろ」と嫌味でもなく言う。「うるせー」と、また玲一さん。この二人のやりとりにも、なんだか少し慣れてきた。
シートベルトを締めたのを確認して、車がゆっくり動き出す。何気なく窓の外を眺めていると、プランターに植えられたりんどうが爽やかな秋風とともにちいさく揺れているのが見えた。
ふいに隣から視線を感じ、目線を窓から内側へ移す。ドアに頬杖をつきながら、かすかに微笑む玲一さん。
慈しむような、見守るような……それでいてどこか甘く艶めいた、いかにも玲一さんらしい馴れきった猫の眼差しが、ほのかにゆるむ口元を添えて私を静かに見つめている。
私もまた、彼を見つめ返す。すぐ隣で視線が絡む。ただそれだけで心がじんわりと、内側から熱を帯びていくのがわかる。
ふ、と笑い声が聞こえて見上げると、ルームミラー越しに波留さんが微笑んでいた。わあ、この人笑うんだ。端正な顔をほんの少し和ませて、彼は軽くハンドルを握ったまま玲一さんを見つめている。
「何笑ってんの?」
「いや」
訝しげに首を傾げた玲一さんに、波留さんは柔らかく目を細めると、
「幸せそうで何よりだ」
と言って、軽くアクセルを踏み込んだ。
アパートの前に二人並んで、遠ざかっていく車を見送る。一番近くのコインパーキングが珍しく満車になっていたものだから、波留さんは空いている駐車場を探しに近場をぐるぐる回るつもりらしい。
一週間ぶりの我が家は、懐かしいような、そうでもないような……。ああでも、最後にこの家を出てきたときは、まさか玲一さんと一緒に戻ってくるとは思ってもいなくて、洗濯物は干しっぱなしだし布団もきっとぐちゃぐちゃだ。
急に焦り始めた私を無視し、玲一さんは私の荷物を持ったまま錆びついた階段をカンカン昇る。私は慌てて彼を追い越し、どうか虫だけは出ませんようにと祈りながらドアを開けた。
一週間換気されていない部屋は独特のにおいがして、私は小走りで部屋へ入ると大急ぎで窓を開ける。案の定布団はぐっちゃぐちゃ、脱いだ服がそのまま散らばっていて、おまけに部屋干しのまま放置された下着がぶらぶら揺れている。
「あの、すみません、汚くて……!」
慌てて下着を回収しながらわたわたと振り返ると、足元に鞄を置いた玲一さんが部屋の入口に立っていた。
彼はいつになく真剣な、意を決したような顔をしていて――張りつめた糸のような空気に、私は自然と姿勢を正す。
「凛ちゃん」
「……はい」
「曖昧なのはもう嫌だから、きちんと言葉で伝えるけど」
軽くつばを飲み込んだ玲一さんが、私の目を射抜くように見つめる。
「俺、凛ちゃんが好きです。本当に特別だと思ってます。だからこそ、俺みたいに薄っぺらで、無責任で、不誠実な男が一緒にいるべきじゃないと思ってました。でも」
「…………」
「あのとき、俺のことをまだ好きだって、……やめられなかったんだって聞いて、俺、めちゃくちゃ驚いたし、本当に嬉しかったんです。俺だって関係が切れてから、何度も忘れようとしたけど、結局胸の中はいつもぐちゃぐちゃでずっと苦しいままだったから。……だから、その」
そこで一旦言葉を切り、玲一さんは少しうつむく。結んだ唇が言葉を選ぶように開いて閉じてを繰り返し、そうしてやがて、顔が上がると同時に眼差しに光が宿る。
「今度こそ、全力で幸せにするんで……凛ちゃんの、彼氏に、なりたいです」
たどたどしい――あまりにもらしくない、迷い、悩み、戸惑い、たじろぎ、やっと紡いだその言葉。
じわりと血の昇った頬がほのかな桃色に染まっている。困ったように眉間にしわが寄り、大きな瞳がおずおずと、伺うように私を見つめて……純情な少女が恥じらうようなさまが、あまりにも可愛くていじらしいものだから、私もほどよく緊張が解けて思わずくすっと笑ってしまう。
「笑うなよ!」
「すみません、だって……今まで見たことないくらい可愛かったから」
彼へ向かって一歩前へ。それから、ほんの少しだけ背伸びをして、触れるだけのキスをする。
これが私の告白の返事。ずっと胸の中で育んできた、不器用で純粋な想いを込めて、あなたが私にしたくちづけを今度は私があなたに贈ろう。
「玲一さん、照れてます?」
額と額をこつんと合わせ、からかうように訊ねてみる。
玲一さんは赤い頬のまま、拗ねたようにそっぽを向くと、
「……はじめてなんだからしょうがないだろ」
と、小さく唇をとがらせた。
『初恋カレイドスコープ』 おわり
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