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第五章 なってはいけない
第十四話
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「由希子さん、おかえりなさ……わっ」
玄関に着くなり倒れるようにその場にくずおれた私を見て、桂さんは大慌てで肩を支えてくれた。
きっといつかと同じように、貧血でも起こしたと思われたのだろう。でも、今日はそうじゃない。
「た、卓弥が」
桂さんの腕に縋りつきながら、私は泣き出しそうな声で言う。
「再構築したいって……離婚届は、出したくないって」
途切れ途切れの私の声に、桂さんは一瞬息を飲み、それから何も言わず静かに私の肩を抱いてくれた。
今日は朝から有給を頂き、一人で家庭裁判所へ向かった。現地で担当の女性弁護士さんと合流し、一日でも早く離婚を成立させるべく、気合を入れて調停の場に赴いたのだ。
でも、あれだけひどいことがあったのに、卓弥の意見は『再構築』一択。相手の弁護士から開口一番に暴力を振るったことを謝罪され、いきなり出鼻を挫かれてしまったのは言うまでもない。
調停の場には配慮があるようで、当事者である私と卓弥が顔を合わせることはない。調停員が間に入り、双方の言い分を聞きながら、その落とし所を一緒に探す……という形なのだけれど。
(最初から完全に向こうのペースだった。……私の話なんて、誰も聞いてくれなかった)
暴力はお互い様だとか、再構築は難しくないとか。
まるで卓弥のスピーカーみたいに彼の肩ばかりを持つ調停員は、卓弥と相手弁護士の話術に完全に丸め込まれていたようだ。
しまいには『妻は要領が悪く家事を満足にこなさなかった』『夫婦生活にも非協力的で夫の気持ちをないがしろにした』などと、いかにも私が悪者みたいに勝手なことをあげつらった挙句、
『それでも歩み寄ろうとしてくれるだなんて、いい旦那さんじゃないですか』
なんて恥ずかしげもなく言う始末。
(つらい)
寄ってたかって私ひとりが悪者みたいに攻撃されて、心が折れると思ったのも一度や二度のことではない。
私の弁護士さんも途中からやる気を失くしてしまったらしく、次回についての相談もそこそこに今日は解散にされてしまった。まだ年若い弁護士さんで、調停にも慣れていないようだから、正直少し頼りないなと思っていたところではあるけれど。
(再構築なんて絶対に嫌。せっかく自分で歩き始めたのに、また卓弥と一緒にされたら昔の私に戻ってしまう)
ああでも、どうすればこの状況を打破できるか、私の頭じゃまったく思いつかない。
そもそも卓弥が再構築を望んでいるというのが予想外すぎて、頭の中で組み立てていたプランがあっという間に瓦解してしまった。私の中ではもう、お金を多少支払ってでも、さっさと離婚届を出して自由の身になりたかったのに……。
「由希子さん、大丈夫ですか」
耳元から声をかけられてようやく、自分がまるで幼い子どもみたいに桂さんにしがみついていたことに気がついた。
鼻の付け根に力を入れながら「すみません」と彼から離れる。桂さんはまるで自分が傷ついたみたく、形のいい眉をきゅっと寄せている。
「リビングで少し休みますか。温かい飲み物がよければ、何か」
「いえ……平気です。すみません、お出かけ前に」
桂さんの白いニットからふわりと漂う線香の匂い。
今日はお父様の月命日だから、お墓参りに行くつもりなのだろう。桂さんはお父様のことをとても大切にされているようで、二階の和室にあるお仏壇はいつも綺麗に整えられている。
「本当にすみません、少し休んだら仕事を始めますから」
そう言って私が立ち上がる姿を、彼は不安そうな目で見上げた。その瞳に見つめられると強がりなど簡単に暴かれてしまいそうで、私は頬に力を込めて無理やり笑顔を作り出す。
「外はまだ寒いですから、暖かくして行ってくださいね。お気をつけて」
桂さんの返事を聞くより先に、私は足早にリビングへ入った。重い扉を閉めると同時に堪えていた涙が溢れだして、私は両手で顔を覆ってその場にずるずると座り込んだ。
リビングのソファで少し休んでから、私はばちんと両頬を叩いた。
いつまでもだらだらしているわけにはいかない。午前中は有給という形で時間を使わせていただいた分、午後はしっかり働かないと桂さんにも迷惑がかかる。
今後の調停のことなんて、今うじうじ悩んでも仕方ない。もしかしたら卓弥の気持ちが変わってくれるかもしれないし、今は私にできることを、目の前の仕事を頑張るだけだ。
あらかじめ考えておいた時短メニューを作る傍ら、キッチン以外の部屋の掃除を一心不乱に進めていく。体も心も疲れていたけど、何もしていないと悪いことばかり考えてしまうから、むしろ仕事に打ち込んでいる方がいくらか気は安らいだ。
洗濯物を片付け終えた頃、桂さんは戻ってきた。玄関のドアが開く音がすると、まずスカイくんが最初に気が付き、私は彼のしっぽを追いかけて一緒に玄関に立ち並ぶ。
「おかえりなさい」
桂さんは私とスカイくんを交互に見比べ、寒さに赤らんだ鼻の先を隠すみたいにマフラーを寄せた。
「ただいま。具合はどうですか?」
「おかげさまで、すっかり元気です。ご心配をおかけしました」
「いえ、もっとゆっくり休んでいてもらってもよかったのですが……」
桂さんは斜め下へ視線を放り出しながら、背に隠していた白い箱を靴箱の上へそっと置く。白くて小さな……ケーキボックス? 中に保冷剤が入っているのか、それとも冬の大気に冷えたせいか、ひんやりとした空気の漂うそれからはわずかに甘い匂いが立ち昇ってくる。
スカイくんは躾の行き届いたわんちゃんなので、箱を軽く見上げはするけど飛びついたりはしないようだ。私がまじまじと箱を眺めていると、桂さんは靴も脱がないままそれへ手を伸ばし、
「こういうの、お好きですか?」
と言って、箱を閉じていたシールを指先でピッと切った。
開いた箱の中に見えたのは、ふわふわのシュークリームが三つ。濃厚そうなカスタードの中にはバニラビーンズのつぶつぶが見えて、少し鼻を近づけるだけで甘い匂いがぶわっと香る。
「わあ、美味しそう!」
「よかった。僕、よく考えたら由希子さんが何を好きなのかも知らなくて」
「甘いものは大好きです! シュークリームなんて久しぶりだなぁ」
きゃっきゃとはしゃいで目を輝かせる私を見つめ、桂さんは優しく瞳を細める。それから彼は小さくぽつりと、
「これで少しは元気になってもらえるといいんですが」
と呟いた。
はっとして顔を上げると、正面で桂さんと目が合った。彼は少し肩をすくめて、恥ずかしそうにくしゃっとはにかむ。
(まさか、私のために?)
甘いものへの単純な喜びがじわりとその色を変える。ときめきでにわかに高鳴る鼓動。でも、胸に感じる痛みは、決してそのせいだけではない。
私のために。……なんてもったいない、なんて申し訳ない言葉だろう。またこの人に迷惑をかけてしまった、と、呼吸が少しずつ浅くなっていく。
「あの、……す、すみません……」
「あまり気にしないでください、僕が勝手に買ってきたものですから」
いつもおなじみの謝罪の言葉を口にしながらうつむく私を、桂さんは先生みたいに穏やかな眼差しでじっと見つめる。やがて、あっ、と気がついた私が、
「ありがとうございますっ」
と早口で言うと、彼は少し口元を抑え「部活みたいですね」とくすくす笑った。
「スカイにもおやつを買ってきたから。待っててね」
桂さんはそう言いながらスカイくんの頭をひと撫でし、靴箱に肘を置き片手で靴を脱ごうとした。
そのとき、彼の肘に押されたケーキボックスが軽くぶつかったのだろう、靴箱の上に飾られていた写真立てがバタンと音を立てて倒れた。私が空いた手で写真立てを支え、そっともとの位置へ戻すと、
「すみません」
彼は平然とした眼差しで、その写真立てをちらと見る。
シンプルで高価そうな写真立て。合計で六枚もの写真が飾れるほど大きなものだけど、今ここにはめ込まれているのは何も映らない白紙ばかりだ。
私はその写真立てを見つめたまま、
「お写真、飾らないんですか?」
と、今思うとあまりにも不用意に、無神経に問いかけた。
「飾る写真がないんです」
桂さんの返答は、非常に穏やかだった。
彼は特段気を悪くするわけでも、居心地悪そうにするわけでもなく、
「僕、写真を撮ったことがないんです」
一切の感情を挟まずに、ただありのままの事実を述べる。
「い……一枚も、ですか」
「ええ」
「それは……その」
「さすがに子どもの頃はありますよ。でも、独身男が自分の七五三の写真を飾っていたら、なんだか少し不気味というか、ちょっと怖いじゃないですか」
それは確かに……そうだろうけど。
でも、そんなこと本当に起こりうるのだろうか。彼が私みたいな貧乏で、卑しい生活をしてきたならわかる。現に私は学校に行かず友達もほとんどいなかったから、誰かと一緒に写真を撮るような機会なんてまるでなかった。
でも、桂さんは私とは違う。政治家のお父様のもと、お金持ちの家に生まれた彼のことだ。ご家族と一緒に旅行へ行くとか、お友達とお出かけをするとか、何かしらカメラを向けられるような機会がありそうなものだけど……?
「こんなことで嘘は吐きませんよ」
私の心を見透かしたみたいに、桂さんは薄く笑う。
「僕の家は父子家庭で、父は多忙な人でしたから。僕自身、社交的な人間ではないので、友達と出かけるということもほぼありませんでしたからね」
「そ……そうですか」
「家にはいつも人がいましたが、みな父の部下であって家族ではありません。半年前に父が亡くなり、実家の土地を売り払ってからは、もう誰がどこで何をしているのか見当もつかないくらいです」
あっけらかんと言い放つその言葉が胸の奥深くに突き刺さった気がして、私はそっと胸を押さえる。
桂さんは遠くを眺めつつ、淡々と言葉を続ける。
「この写真立ては、弟夫婦が引っ越し祝いに贈ってくれたものなんです。彼らはきっと、僕がここに入れるような写真を一枚も持たないとは思わなかったのでしょうね」
そこで彼は小首を傾げて、写真立てを覗き込んだ。単なる白い紙が挟まれたピカピカのガラス板には、戸惑う私と、桂さんの作り物みたいに綺麗な笑顔が半透明に反射している。
彼はほんの少しの間、物言わず写真立てを見つめていたけど、やがてぱっと顔を上げると、
「みんなでおやつにしましょうか」
と言って、スカイくんの頭を撫でた。
「由希子さん、おかえりなさ……わっ」
玄関に着くなり倒れるようにその場にくずおれた私を見て、桂さんは大慌てで肩を支えてくれた。
きっといつかと同じように、貧血でも起こしたと思われたのだろう。でも、今日はそうじゃない。
「た、卓弥が」
桂さんの腕に縋りつきながら、私は泣き出しそうな声で言う。
「再構築したいって……離婚届は、出したくないって」
途切れ途切れの私の声に、桂さんは一瞬息を飲み、それから何も言わず静かに私の肩を抱いてくれた。
今日は朝から有給を頂き、一人で家庭裁判所へ向かった。現地で担当の女性弁護士さんと合流し、一日でも早く離婚を成立させるべく、気合を入れて調停の場に赴いたのだ。
でも、あれだけひどいことがあったのに、卓弥の意見は『再構築』一択。相手の弁護士から開口一番に暴力を振るったことを謝罪され、いきなり出鼻を挫かれてしまったのは言うまでもない。
調停の場には配慮があるようで、当事者である私と卓弥が顔を合わせることはない。調停員が間に入り、双方の言い分を聞きながら、その落とし所を一緒に探す……という形なのだけれど。
(最初から完全に向こうのペースだった。……私の話なんて、誰も聞いてくれなかった)
暴力はお互い様だとか、再構築は難しくないとか。
まるで卓弥のスピーカーみたいに彼の肩ばかりを持つ調停員は、卓弥と相手弁護士の話術に完全に丸め込まれていたようだ。
しまいには『妻は要領が悪く家事を満足にこなさなかった』『夫婦生活にも非協力的で夫の気持ちをないがしろにした』などと、いかにも私が悪者みたいに勝手なことをあげつらった挙句、
『それでも歩み寄ろうとしてくれるだなんて、いい旦那さんじゃないですか』
なんて恥ずかしげもなく言う始末。
(つらい)
寄ってたかって私ひとりが悪者みたいに攻撃されて、心が折れると思ったのも一度や二度のことではない。
私の弁護士さんも途中からやる気を失くしてしまったらしく、次回についての相談もそこそこに今日は解散にされてしまった。まだ年若い弁護士さんで、調停にも慣れていないようだから、正直少し頼りないなと思っていたところではあるけれど。
(再構築なんて絶対に嫌。せっかく自分で歩き始めたのに、また卓弥と一緒にされたら昔の私に戻ってしまう)
ああでも、どうすればこの状況を打破できるか、私の頭じゃまったく思いつかない。
そもそも卓弥が再構築を望んでいるというのが予想外すぎて、頭の中で組み立てていたプランがあっという間に瓦解してしまった。私の中ではもう、お金を多少支払ってでも、さっさと離婚届を出して自由の身になりたかったのに……。
「由希子さん、大丈夫ですか」
耳元から声をかけられてようやく、自分がまるで幼い子どもみたいに桂さんにしがみついていたことに気がついた。
鼻の付け根に力を入れながら「すみません」と彼から離れる。桂さんはまるで自分が傷ついたみたく、形のいい眉をきゅっと寄せている。
「リビングで少し休みますか。温かい飲み物がよければ、何か」
「いえ……平気です。すみません、お出かけ前に」
桂さんの白いニットからふわりと漂う線香の匂い。
今日はお父様の月命日だから、お墓参りに行くつもりなのだろう。桂さんはお父様のことをとても大切にされているようで、二階の和室にあるお仏壇はいつも綺麗に整えられている。
「本当にすみません、少し休んだら仕事を始めますから」
そう言って私が立ち上がる姿を、彼は不安そうな目で見上げた。その瞳に見つめられると強がりなど簡単に暴かれてしまいそうで、私は頬に力を込めて無理やり笑顔を作り出す。
「外はまだ寒いですから、暖かくして行ってくださいね。お気をつけて」
桂さんの返事を聞くより先に、私は足早にリビングへ入った。重い扉を閉めると同時に堪えていた涙が溢れだして、私は両手で顔を覆ってその場にずるずると座り込んだ。
リビングのソファで少し休んでから、私はばちんと両頬を叩いた。
いつまでもだらだらしているわけにはいかない。午前中は有給という形で時間を使わせていただいた分、午後はしっかり働かないと桂さんにも迷惑がかかる。
今後の調停のことなんて、今うじうじ悩んでも仕方ない。もしかしたら卓弥の気持ちが変わってくれるかもしれないし、今は私にできることを、目の前の仕事を頑張るだけだ。
あらかじめ考えておいた時短メニューを作る傍ら、キッチン以外の部屋の掃除を一心不乱に進めていく。体も心も疲れていたけど、何もしていないと悪いことばかり考えてしまうから、むしろ仕事に打ち込んでいる方がいくらか気は安らいだ。
洗濯物を片付け終えた頃、桂さんは戻ってきた。玄関のドアが開く音がすると、まずスカイくんが最初に気が付き、私は彼のしっぽを追いかけて一緒に玄関に立ち並ぶ。
「おかえりなさい」
桂さんは私とスカイくんを交互に見比べ、寒さに赤らんだ鼻の先を隠すみたいにマフラーを寄せた。
「ただいま。具合はどうですか?」
「おかげさまで、すっかり元気です。ご心配をおかけしました」
「いえ、もっとゆっくり休んでいてもらってもよかったのですが……」
桂さんは斜め下へ視線を放り出しながら、背に隠していた白い箱を靴箱の上へそっと置く。白くて小さな……ケーキボックス? 中に保冷剤が入っているのか、それとも冬の大気に冷えたせいか、ひんやりとした空気の漂うそれからはわずかに甘い匂いが立ち昇ってくる。
スカイくんは躾の行き届いたわんちゃんなので、箱を軽く見上げはするけど飛びついたりはしないようだ。私がまじまじと箱を眺めていると、桂さんは靴も脱がないままそれへ手を伸ばし、
「こういうの、お好きですか?」
と言って、箱を閉じていたシールを指先でピッと切った。
開いた箱の中に見えたのは、ふわふわのシュークリームが三つ。濃厚そうなカスタードの中にはバニラビーンズのつぶつぶが見えて、少し鼻を近づけるだけで甘い匂いがぶわっと香る。
「わあ、美味しそう!」
「よかった。僕、よく考えたら由希子さんが何を好きなのかも知らなくて」
「甘いものは大好きです! シュークリームなんて久しぶりだなぁ」
きゃっきゃとはしゃいで目を輝かせる私を見つめ、桂さんは優しく瞳を細める。それから彼は小さくぽつりと、
「これで少しは元気になってもらえるといいんですが」
と呟いた。
はっとして顔を上げると、正面で桂さんと目が合った。彼は少し肩をすくめて、恥ずかしそうにくしゃっとはにかむ。
(まさか、私のために?)
甘いものへの単純な喜びがじわりとその色を変える。ときめきでにわかに高鳴る鼓動。でも、胸に感じる痛みは、決してそのせいだけではない。
私のために。……なんてもったいない、なんて申し訳ない言葉だろう。またこの人に迷惑をかけてしまった、と、呼吸が少しずつ浅くなっていく。
「あの、……す、すみません……」
「あまり気にしないでください、僕が勝手に買ってきたものですから」
いつもおなじみの謝罪の言葉を口にしながらうつむく私を、桂さんは先生みたいに穏やかな眼差しでじっと見つめる。やがて、あっ、と気がついた私が、
「ありがとうございますっ」
と早口で言うと、彼は少し口元を抑え「部活みたいですね」とくすくす笑った。
「スカイにもおやつを買ってきたから。待っててね」
桂さんはそう言いながらスカイくんの頭をひと撫でし、靴箱に肘を置き片手で靴を脱ごうとした。
そのとき、彼の肘に押されたケーキボックスが軽くぶつかったのだろう、靴箱の上に飾られていた写真立てがバタンと音を立てて倒れた。私が空いた手で写真立てを支え、そっともとの位置へ戻すと、
「すみません」
彼は平然とした眼差しで、その写真立てをちらと見る。
シンプルで高価そうな写真立て。合計で六枚もの写真が飾れるほど大きなものだけど、今ここにはめ込まれているのは何も映らない白紙ばかりだ。
私はその写真立てを見つめたまま、
「お写真、飾らないんですか?」
と、今思うとあまりにも不用意に、無神経に問いかけた。
「飾る写真がないんです」
桂さんの返答は、非常に穏やかだった。
彼は特段気を悪くするわけでも、居心地悪そうにするわけでもなく、
「僕、写真を撮ったことがないんです」
一切の感情を挟まずに、ただありのままの事実を述べる。
「い……一枚も、ですか」
「ええ」
「それは……その」
「さすがに子どもの頃はありますよ。でも、独身男が自分の七五三の写真を飾っていたら、なんだか少し不気味というか、ちょっと怖いじゃないですか」
それは確かに……そうだろうけど。
でも、そんなこと本当に起こりうるのだろうか。彼が私みたいな貧乏で、卑しい生活をしてきたならわかる。現に私は学校に行かず友達もほとんどいなかったから、誰かと一緒に写真を撮るような機会なんてまるでなかった。
でも、桂さんは私とは違う。政治家のお父様のもと、お金持ちの家に生まれた彼のことだ。ご家族と一緒に旅行へ行くとか、お友達とお出かけをするとか、何かしらカメラを向けられるような機会がありそうなものだけど……?
「こんなことで嘘は吐きませんよ」
私の心を見透かしたみたいに、桂さんは薄く笑う。
「僕の家は父子家庭で、父は多忙な人でしたから。僕自身、社交的な人間ではないので、友達と出かけるということもほぼありませんでしたからね」
「そ……そうですか」
「家にはいつも人がいましたが、みな父の部下であって家族ではありません。半年前に父が亡くなり、実家の土地を売り払ってからは、もう誰がどこで何をしているのか見当もつかないくらいです」
あっけらかんと言い放つその言葉が胸の奥深くに突き刺さった気がして、私はそっと胸を押さえる。
桂さんは遠くを眺めつつ、淡々と言葉を続ける。
「この写真立ては、弟夫婦が引っ越し祝いに贈ってくれたものなんです。彼らはきっと、僕がここに入れるような写真を一枚も持たないとは思わなかったのでしょうね」
そこで彼は小首を傾げて、写真立てを覗き込んだ。単なる白い紙が挟まれたピカピカのガラス板には、戸惑う私と、桂さんの作り物みたいに綺麗な笑顔が半透明に反射している。
彼はほんの少しの間、物言わず写真立てを見つめていたけど、やがてぱっと顔を上げると、
「みんなでおやつにしましょうか」
と言って、スカイくんの頭を撫でた。
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