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第八章 海と夕陽と私の写真
第二十四話
しおりを挟む住み込みハウスキーパーとして桂さんと長い時間を過ごして、この人のことならそのだいたいを知っている気になっていた。
でも、そんな私の愚かな慢心を無邪気に打ち壊すみたいに、桂さんはまた新しい一面を見せてくれる。
――青空をなだらかに切り取る広く美しい水平線。
まだ肌寒い冬の海原に、ちらほらと見える黒い人影。物好きだな、と言いたいのを堪え、私はスカイくんの背中を撫でる。
なにせ我らのご主人様もまた、その物好きの一員となるべく、わざわざ私たちを引き連れてこの西伊豆までやってきたのだ。
「寒くないですか?」
降り注ぐ声に顔を上げれば、桂さんの穏やかな微笑――そして、彼の肉体をぴっちり包む黒いダイビングスーツ。
薄々気づいてはいたことだけど、桂さんってやっぱりものすごくスタイルが良い。引き締まったウエストライン、明らかに鍛えられている背筋、色気のある胸の厚みと、硬質な線を描く内腿。
今まで服に隠されていた男性特有の匂い立つ色香は、普段の彼とのギャップがすごくてなんだかくらくらしてしまう。別に裸でもなんでもないのに、目のやり場に困るというか……。
「私は着込んでいるので……桂さんは寒くないんですか?」
「暖かいですよ。これ、裏起毛ですから」
そう言いながら桂さんは首に提げたカメラに触れると、
「では、スカイをお願いしますね」
と言って、船着き場のボートへと向かっていった。
今まで全く知らなかったことだけど、なんと桂さん、スキューバダイビングのライセンスをお持ちなのだという。数年前に取得した当初は近場の海でよく潜っていたのだけど、結局色々面倒があって足が遠のいていたらしい。
はっきりとは言わなかったけど、たぶんドッグランに行かなくなった理由とだいたい同じなのだろう。伊豆なら知り合いもいないから、と話す桂さんの横顔は晴れやかで、今まで彼がどんな苦労をしてきたのかがしのばれる。
そして今回の私の立場は、スカイくんを預かるペットシッター。桂さんがダイビングを楽しんでいる間、スカイくんのお世話をしながら彼を待つのがお仕事だ。
(こんなところまで連れてきてもらったんだ。しっかり仕事をやり遂げないと)
ボートに乗り込んだ桂さんが、こちらを振り返り手を振っている。
私が小さく手を振り返すと、それを合図にしたみたいに、ボートが波に揺られながら海原へと滑り出して行った。今回桂さんが潜るスポットは、ここからボートで十分程度。ダイビング全体でも一時間ちょっとで帰ってくるという。
「さ、行こうか」
ボートが見えなくなるのを待って、私はスカイくんに声をかけた。彼は飼い主そっくりの理知的な瞳を私へ向けると、微笑むみたいに口角を上げて、緩くしっぽを振ってみせた。
辺りをのんびり散歩してから、船着き場のすぐそばにあるカフェに向かった。ダイビングショップに併設された新築のおしゃれなカフェで、桂さんとはここで待ち合わせる約束をしている。
スカイくんと一緒にテラス席へ案内された私は、観光地価格のメニューの中から暖かい紅茶を注文した。しっかり着込んでいるとはいえ、やはり冬のテラス席は少し肌寒い。こんなことなら桂さんに言われたとおり、スカイくんと一緒に先にホテルに入っていれば良かったと思いつつ、
(だって、ダイビングスーツ姿の桂さんを見てみたかったし)
なんて低俗な本音が頭をよぎってしまう。
ぼんやりと海を見ながら時折鼻をすする私に反し、スカイくんは涼しげな顔で潮風の香りを楽しんでいる。ボルゾイはロシア原産の犬だから、寒さには非常に強いんだ。
「お待たせしました」
お店の方らしき男性がテーブルへ置いたお皿を見て、私は目を丸くした。
私が注文したのは、確か紅茶だけだったはず。でも、ティーセットと一緒に置かれたのは湯気の立つオニオンスープで、私は戸惑いながら彼の顔をちらと見上げる。
男性は白い歯を見せて笑うと、
「ごめんね。とても寒そうだったから」
と言って、ダイビングショップのロゴが入った薄手のジャンパーを私の膝へとかけてくれた。
「すみません、ありがとうございます」
「玉ねぎが苦手だったら遠慮なく言ってね。インスタントでよければコンソメスープもあるし、グラタンやホットサンドイッチなんかも作れるから」
親切な方だなぁ、と重ねてお礼を伝えながら、私はあつあつのオニオンスープに口付ける。冷えた身体に温かいスープがあっという間に染みわたって、特に疲れているわけでもないのにほっとため息が漏れてしまう。
彼は立ち去る気配もないまま、スカイくんの方を覗き込み「大きい犬だね」なんて笑っている。褐色肌でがっしりしていて、いかにも海の男って感じの男性。きっと本業はカフェのウェイターではなくダイビングショップの店員なのだろう。
そしてそのまま流れるように、彼はあれこれと質問をしてきた。どこから来たのか、とか、泊まるホテルはどこなのか、とか。本当に当たり障りのない、ステレオタイプの世間話だ。
(桂さんが戻ってくるまであと何分くらいかな)
適当に受けごたえをしながら時計を確認しようとすると、
「よかったら、海が綺麗に見える場所を教えてあげようか? ここからそんなに遠くないし、フォトスポットとしても有名なんだよ」
と言って、彼は妙にこなれた仕草で私の背中に腕を回した。
びくっ、と一瞬心臓が跳ねて、それから鼓動が加速していく。ときめきではない純粋な緊張が、私の身体を固く強張らせる。
「すみません、人を待っているので……」
「今ダイビングに出てる客のペットシッターなんだっけ? ご主人様ならすぐには戻らないし、ちょっとくらい楽しんだっていいじゃん」
「私、今もこの子のお世話をする仕事の最中なんです」
「犬ならうちのスタッフが見てるから。大丈夫だって、どうせバレないよ」
バレるとかバレないとかそういう問題ではないのに、私がどれだけ断っても彼はちっとも退こうとしない。さっきは親切な方だと思ったのに、このしつこさは何なのだろう。押していればいずれ私が流されるとたかを括っているみたいだ。
「せっかく伊豆まで遊びに来たのに、留守番なんてつまんないでしょ?」
男性の日に焼けた手が私の肩をぐいと引き寄せる。その瞬間、私の中で溜まりに溜まった苛立ちが弾けた。
肩を掴む指に手をかけ、力を込めて振り解く。たぶん予想外だったのだろう、唖然と手を宙に浮かべて、男性は信じられないものを見るように私をじっと見つめている。
私は彼の目をまっすぐ見つめ、一字一句言い聞かせるように、
「やめてください」
と、強い声ではっきりと告げた。
張り詰めたような緊迫感が、私と彼の間に漂う。それがふっと解けたのは、彼の目線が私の奥へと泳ぐように動いたからだ。
つられて振り返った私は、そこに立ちすくむ桂さんの姿に息をつくような安堵を覚えた。よかった、来てくれた。……でも、厚手のコートをダイビングスーツの肩に引っ掛けた格好の彼は、毛先から滴る水を払いもせずに、ただ呆然と私を見つめている。
「桂さん」
そう私が声をかけてようやく、桂さんは我に返ったみたく小さく息を飲み込んだ。一度の深い瞬きを経れば、そこにあるのは常と変わらない穏やかな微笑みで、彼は何事もなかったみたいに私の側へと歩み寄る。
「……お待たせしました。すみません、寒かったでしょう? それに退屈でしたよね」
「いえ、スカイくんが一緒だったので」
ならよかった、と桂さんは大きな手でスカイくんの首のあたりを撫でる。それから自分の着ていたコートを私の肩へ雑にかけると、入れ替わりにロゴ入りジャンパーを取り上げて男性へと差し出した。
「どうもありがとう」
「……は、はい」
間にバスタオルが挟んであったせいか、コートは全然濡れていない。私が小さくお礼を言うと、桂さんはにこと笑って、それからもう一度男性の方へと向き直った。
「シャワー室をお借りできますか? 今回のセットに含まれていたはずですが」
「あ……ああ、はい。こちらです」
「どうも。あと、さっき聞こえたフォトスポットの場所、僕も是非知りたいです。……彼女と一緒に行ってきますので」
褐色の男性は乾いた笑いを浮かべながら、ダイビングショップへと足を進める。桂さんは私に向かい「すぐ戻ります」と短く告げて、彼の後を追ってお店の中へと消えていった。
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