それでも僕らは夢を見る

雪静

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第九章 暗雲

第二十九章

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「卓弥……」

「次の調停いつだっけ? のびのびになってて忘れちまったよ」

「あの……」

「わかってるって。離婚したいんだろ? お前がこんなに頑固だったなんてな。あれだけ長く一緒にいたのに、全然わからなかった」

 よれよれのポケットに両手を突っ込み、卓弥は肩をすくめる。私は胸元をこぶしで抑えたまま、ただうつむいて彼の言葉を待つ。

 私は変わった。卓弥も変わった。

 物理的な距離を置いて、私たちは二人とも大きく変化した。

 良くも悪くも。……そして今、ずっと頑なに閉ざされていた卓弥の重い心の扉が、意地を張ることに疲れたみたいにわずかに開きかけているのがわかる。

 だって今、私たちはきちんと目を見て話をしている。私は彼から逃げることなく、彼は私を威圧することなく、対等な人間として言葉を交わすことができている。

「離婚届は、次のときに――」

 どこか寂しそうに、彼がそう言ったときだった。



 二人だけの空間に、唐突に知らない声が響いた。

 水を打ったように静まり返る廊下に、女性の足音が近づいてくる。動きを止めた卓弥の背後から、小走りで現れるホテルスタッフの女性。彼女は私の姿を眼に留め、ぱっと明るく微笑みながら、あくまでも丁寧な口ぶりでいっさいの他意なく言葉を続ける。



 ……彼女のことを責めるだなんて、いったい誰ができるだろうか。

 だって普通、思わないだろう。二人同室で宿泊した男女が、夫婦でも恋人でもないなんて。そしてその女の方が、偶然にもこんなところで、離婚調停中の元夫と顔を合わせていたなんて。

「ち、違う」

 それでも私は慌てて否定する。奥にいるホテルのスタッフではなく、目の前にいる卓弥の方へ。

「違う、私、本当に仕事で」

 早口で言い募る私の顔を、卓弥はただ見つめている。

 何も言わない。問いただすことも、聞き返すこともせず、彼は黙って私を見ている。

 ほんの一瞬彼の目に宿ったように見えた光は、ただ一度の瞬きを経て気づけば泥濘に埋もれていた。そこにあるのは最初と同じ、抜け殻となった虚ろな瞳だけで、卓弥は開いた唇から音もなく乾いた吐息を漏らす。

「……奥様、ね」

「違う!!」

 私がどれだけ声を荒げても、卓弥にはもう届かない。開きかけた彼の心の扉が、どす黒い埃を巻き上げながら、再び重く、深く、固く、誰にも触れられないよう閉ざされていく。

「ああ、そう。そういうことかよ」

 卓弥は笑った。

 天井を仰ぎ、目を隠し、奥歯が見えるほど口を開いて張り裂けるような声で笑った。

 声は激しいうねりを帯びて、狭い廊下に木霊した。いつかと同じ悪意の渦が竜巻みたいに燃え広がり、彼はその真ん中で笑いながら泣いているようにも見えた。

 そうしながら去っていく卓弥の背中を、私はただ呆然と見つめることしかできなかった。




 ふらつきながら部屋へ戻り、桂さんに事情を説明した。パニックでうまく物も言えない私の背中を撫でながら、桂さんは苦々しげに「遅かったか」と呟いた。

 どうやらその少し前、桂さんもまたホテルの中で、清水正義――卓弥の上司である議員――と偶然鉢合わせていたのだという。党の青年会が集まっていると気付いた桂さんは、面倒になる前にホテルから引き上げるべく、大急ぎで私の姿を探していたのだそうだ。

 頭が真っ白になってしまった私を抱きかかえるようにしてタクシーに乗り込み、桂さんは運転手に急いで出発するよう告げた。幸せな旅行の幕引きとしてはあまりにも慌ただしい、夜逃げでもするみたいな締めくくりとなってしまった。

 帰りのタクシーの中、後部座席に並んで座り、私たちは何を話すこともなく物思いに沈んでいた。車窓の向こうには月も星もない闇一色の夜の海原が、まるでこの世の終わりのように一面に広がっている。

 あのスタッフの言葉を聞いて、卓弥は何を思ったのだろう。裂けるような笑い声の意味は? その前に言いかけたことは?

 考えれば考えるほど気持ちが際限なく滅入ってしまい、私は背もたれに頭を預けて何度目かのため息を吐く。息が苦しい。胸が重たい。目を閉じるたびに卓弥の顔がまぶたに浮かんで離れなくなる。

 ……離婚さえ成立したら、私たちは幸せになれる。

 仮にそれが事実だとしても、その事実に私の手が届くまであとどれくらいかかるのだろう。この苦しみさえ乗り越えれば後は幸せな日々が続いているはずなのに、目の前に広がる道の先には暗雲が立ち込めている気がしてならない。

「あ、……」

 ふいに指先に熱を感じて、とっさに肩が跳ね上がった。桂さんが正面を見据えたまま、私の手に長い指を重ねる。

 こんなところで、と思ったけど、この狭いタクシーの中なら人目を気にすることもない。ドライバーさんは長距離の運転に集中しているようだし、私は少し戸惑いながらも、彼の手をおずおずと握り返した。

「大丈夫」

 高速道路を駆け抜ける低い風の音の合間で、桂さんは自分に言い聞かせるように言う。

「僕が、なんとかしますから」

 根拠なんてない、優しい気休め。

 でも、私はなんだかたまらない気持ちになって、目尻を指先で軽く拭うと彼と同じく正面を向いた。

(大丈夫。二人一緒なら)

 私にできることをやろう。どれだけつらくても、どれだけ苦しくても。

 この人の幸せを守るためなら、私はきっと、なんだってできる。

 高速道路を照らすライトが、四角い窓のすぐ向こうで瞬いては消えるを繰り返している。

 私たちは手を握り合ったまま、いつまでも、いつまでも、二人同じ方向をまっすぐ見つめ続けていた。
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