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第十一章 焦燥と失敗
第三十八話
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目が覚めたとき、めまいとともに重い鈍痛が後頭部を襲った。思わず声を上げようとして、ようやく口の違和感に気づく。
声が出せない。口を何か、厚手の布で塞がれているようだ。鼻があいているから呼吸はできるけど、視界はほとんど真っ暗で、縦に長細い一筋の光だけがかろうじて周りを照らしている。
私はどうやら、暗くて狭い空間で横たわっているらしい。起き上がりたいけど身体は固く、思うように動かせない。足首はガムテープで雁字搦めのぐるぐる巻き。手首は背中で固定されて、両手の親指同士が結束バンドできつく縛られているようだ。
(ここは……私は……)
ずきずきと痛む後頭部。かろうじて首を持ち上げると、つんとしたカビのにおいで記憶が一気に脳へなだれ込む。
私は、卓弥の家へ来たんだ。離婚届を回収するため。そしてそこでまた暴力を振るわれ、意識を失ってしまった。
(私は……騙されたんだ)
思い返せばなんと愚かで、馬鹿らしいことをしたのだろう。あの卓弥がそんな素直に離婚届をくれるはずがない。ちょっと考えればわかることなのに、無駄に焦って、判断を誤って……あまりの情けなさに声を上げて泣きたくなったけど、この状態ではくぐもった声が漏れ出るだけだ。
どうやらこの狭い空間は、寝室のクローゼットの中のようだ。縦に伸びる光の向こうには、目を凝らせば汚いベッドが見える。
なんとかここから出られないかと必死に身体を動かしていると、ふいにどこかの扉の開く音と人の足音が聞こえてきた。反射的に息を詰め、床に張り付く右耳に意識を集中させていると、
「悪いねえ、汚い部屋で」
謝罪の言葉とは裏腹に、嘲るように笑う卓弥の声が聞こえてくる。そして、
「いえ、お構いなく」
続いたその清らかな声に、私の呼吸は止まりそうになった。
(桂さん)
……どうしてあなたが、卓弥と二人でこの部屋にいるの!?
「あんたみたいな育ちの良い男は、こんな汚い家見たことがないだろ? 俺みたいな底辺の男はこんな場所でしか暮らせないんだよ」
「…………」
「いやまったく、不思議だよな。結局のところ人生なんてのは生まれひとつで決まるんだ。俺は貧乏なド田舎出身で、東京に出るのがひとつの目標だった。でもあんたみたいな金持ちの息子は、そもそものスタートが東京から始まる……ああ、悪いね、俺ばかり話して。俺に用事があるんだろ? お先にどうぞ」
へらへらと笑う卓弥が黙れば、部屋は重い沈黙に包まれる。
桂さんは少しの間黙っていたけど、やがて静かに頭を下げて、
「離婚届を、提出していただきたい」
と、淡々と言った。
私は――目の前が真っ白になった。胸が火炙りにされたように熱い。上手く息を吸うこともできない。
私のために。その言葉が、全身に重くのしかかる。……ああ、どうしてこの人は、悲しいほどに優しいのだろう。
(あなたがそんなことをする必要はないのに)
これは全部私の問題。私が自分で解決すべきこと。桂さんには手を出す義務も、その必要だってないはずだ。
……クローゼットの扉の隙間からは、桂さんの表情は前髪に隠れ見えない。
卓弥の姿もまったく見えないけど、彼がにやにやと嗤っているのはわかる。嘲笑から来るかすかな空気の揺れが、かすれた息とともに伝わってくるからだ。
そして案の定、割れるように大きな声で笑いながら、
「そこへ座れ」
と、卓弥は桂さんの頭を小突いた。
桂さんは何も言わず、静かにその場で正座をする。彼の周りをぐるぐると、卓弥が歩く足元が見える。
「あんな女のどこがいいんだ? 家事はへたくそ、子どもは産めない。若くもないし貧乏育ち。あんたとは到底釣り合いの取れない、低脳で無価値な女だ」
「…………」
「まあ、広い世の中だ。そういう女が趣味って男が一人くらいいてもおかしくないか。蓼食う虫も好き好きってな。いいよ、今の質問はナシだ。別のことを訊かせてくれ。……あんた、由希子にいくら出せる?」
正座をしたままの桂さんが、ほんのかすかに顔を上げる。
その正面で足を止め、卓弥はつま先を桂さんへと向けた。トントンと、片足で軽く足踏み。機嫌良く話をしているときの卓弥の癖だ。
「意味わからなかったか? 俺から由希子を買うために、いくら払うのかと聞いたんだよ」
「……それは……」
「百万? 二百万? まさかその程度じゃねえよなあ? 諏訪邉桂一郎の遺産をまるまる全部受け継いだ息子が、そんなケチなこと……はは! さあどうする? 言ってみろよ。本音でいいぜ、どうせ誰も聞いちゃいない」
茶化す笑い声に晒されながら、桂さんは身じろぎのひとつもせず、ただ静かにその場で座っている。
ひどく失礼で、下品な問いかけ。答えなんか聞きたくない――そう思いながらも、クローゼットの隙間から固唾を飲んで耳を澄ませるあさましい私の姿。
そして、
「言い値を払います」
桂さんがそう静かに告げると、笑い声はすんと消え去り、部屋は再び水を打ったような沈黙へと戻った。
正気でないものを見るような目で、卓弥は愕然と桂さんを見下ろす。桂さんは微塵も動じず、ただその瞳を見つめ返し、
「愛する女性に値札をつけることは、僕にはできない」
と、落ち着いた声で言い添えた。
声が出せない。口を何か、厚手の布で塞がれているようだ。鼻があいているから呼吸はできるけど、視界はほとんど真っ暗で、縦に長細い一筋の光だけがかろうじて周りを照らしている。
私はどうやら、暗くて狭い空間で横たわっているらしい。起き上がりたいけど身体は固く、思うように動かせない。足首はガムテープで雁字搦めのぐるぐる巻き。手首は背中で固定されて、両手の親指同士が結束バンドできつく縛られているようだ。
(ここは……私は……)
ずきずきと痛む後頭部。かろうじて首を持ち上げると、つんとしたカビのにおいで記憶が一気に脳へなだれ込む。
私は、卓弥の家へ来たんだ。離婚届を回収するため。そしてそこでまた暴力を振るわれ、意識を失ってしまった。
(私は……騙されたんだ)
思い返せばなんと愚かで、馬鹿らしいことをしたのだろう。あの卓弥がそんな素直に離婚届をくれるはずがない。ちょっと考えればわかることなのに、無駄に焦って、判断を誤って……あまりの情けなさに声を上げて泣きたくなったけど、この状態ではくぐもった声が漏れ出るだけだ。
どうやらこの狭い空間は、寝室のクローゼットの中のようだ。縦に伸びる光の向こうには、目を凝らせば汚いベッドが見える。
なんとかここから出られないかと必死に身体を動かしていると、ふいにどこかの扉の開く音と人の足音が聞こえてきた。反射的に息を詰め、床に張り付く右耳に意識を集中させていると、
「悪いねえ、汚い部屋で」
謝罪の言葉とは裏腹に、嘲るように笑う卓弥の声が聞こえてくる。そして、
「いえ、お構いなく」
続いたその清らかな声に、私の呼吸は止まりそうになった。
(桂さん)
……どうしてあなたが、卓弥と二人でこの部屋にいるの!?
「あんたみたいな育ちの良い男は、こんな汚い家見たことがないだろ? 俺みたいな底辺の男はこんな場所でしか暮らせないんだよ」
「…………」
「いやまったく、不思議だよな。結局のところ人生なんてのは生まれひとつで決まるんだ。俺は貧乏なド田舎出身で、東京に出るのがひとつの目標だった。でもあんたみたいな金持ちの息子は、そもそものスタートが東京から始まる……ああ、悪いね、俺ばかり話して。俺に用事があるんだろ? お先にどうぞ」
へらへらと笑う卓弥が黙れば、部屋は重い沈黙に包まれる。
桂さんは少しの間黙っていたけど、やがて静かに頭を下げて、
「離婚届を、提出していただきたい」
と、淡々と言った。
私は――目の前が真っ白になった。胸が火炙りにされたように熱い。上手く息を吸うこともできない。
私のために。その言葉が、全身に重くのしかかる。……ああ、どうしてこの人は、悲しいほどに優しいのだろう。
(あなたがそんなことをする必要はないのに)
これは全部私の問題。私が自分で解決すべきこと。桂さんには手を出す義務も、その必要だってないはずだ。
……クローゼットの扉の隙間からは、桂さんの表情は前髪に隠れ見えない。
卓弥の姿もまったく見えないけど、彼がにやにやと嗤っているのはわかる。嘲笑から来るかすかな空気の揺れが、かすれた息とともに伝わってくるからだ。
そして案の定、割れるように大きな声で笑いながら、
「そこへ座れ」
と、卓弥は桂さんの頭を小突いた。
桂さんは何も言わず、静かにその場で正座をする。彼の周りをぐるぐると、卓弥が歩く足元が見える。
「あんな女のどこがいいんだ? 家事はへたくそ、子どもは産めない。若くもないし貧乏育ち。あんたとは到底釣り合いの取れない、低脳で無価値な女だ」
「…………」
「まあ、広い世の中だ。そういう女が趣味って男が一人くらいいてもおかしくないか。蓼食う虫も好き好きってな。いいよ、今の質問はナシだ。別のことを訊かせてくれ。……あんた、由希子にいくら出せる?」
正座をしたままの桂さんが、ほんのかすかに顔を上げる。
その正面で足を止め、卓弥はつま先を桂さんへと向けた。トントンと、片足で軽く足踏み。機嫌良く話をしているときの卓弥の癖だ。
「意味わからなかったか? 俺から由希子を買うために、いくら払うのかと聞いたんだよ」
「……それは……」
「百万? 二百万? まさかその程度じゃねえよなあ? 諏訪邉桂一郎の遺産をまるまる全部受け継いだ息子が、そんなケチなこと……はは! さあどうする? 言ってみろよ。本音でいいぜ、どうせ誰も聞いちゃいない」
茶化す笑い声に晒されながら、桂さんは身じろぎのひとつもせず、ただ静かにその場で座っている。
ひどく失礼で、下品な問いかけ。答えなんか聞きたくない――そう思いながらも、クローゼットの隙間から固唾を飲んで耳を澄ませるあさましい私の姿。
そして、
「言い値を払います」
桂さんがそう静かに告げると、笑い声はすんと消え去り、部屋は再び水を打ったような沈黙へと戻った。
正気でないものを見るような目で、卓弥は愕然と桂さんを見下ろす。桂さんは微塵も動じず、ただその瞳を見つめ返し、
「愛する女性に値札をつけることは、僕にはできない」
と、落ち着いた声で言い添えた。
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