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春の洗礼を受けて僕は
9話 金曜日1
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また夢見悪く起きる事になったら嫌だなと思っていたけど、一昨日と同じように何てこともなく目が覚めた。6時過ぎ。
ベーコンを焼いた香りがする。
上半身を起こして、カーテンとサッシを開けると、外はすでに暖かく、なんともまったりとした春の空気が入ってきた。
睦月の部屋は狭い。足を下ろして上半身をちょっと前かがみにすれば、ハンガーラックに手が届く。
制服を取ってから、これを母がかけてくれていたことに気づいた。
制服を洗濯したことも、洗濯するはめになった出来事も、五月雨に思い出す。
足を上げて引き出しを開け、シャツと靴下を出して、なまぐさに足で閉じる。
『出張続きになっちゃってごめんね。
来週までの食費+αを置いておきます。
何かあったらすぐに連絡ちょうだい。
困ったことが起きたら、+α分で、
プロの人に解決してもらってください。』
「なんのこっちゃ」
置き書きをぺしっとテーブルに戻して、ベーコンエッグとレーズンロールとサラダを横目に、洗面所に行く。
Tシャツとハーフパンツを洗濯機に入れようとして、昨日怪我した箇所をぶつけてしまった。
「う…」
窓から、だいぶ緑色が強くなった桜の木が見える。
自分だけ、まったく違う場所に生きているみたいだ。
千葉を離れることになるとは思っていなかった。マンションも引っ越ししたばかりで、まだなじまない。進学先はお金持ちの家の生徒ばかりで慣れそうにない。自分は性的に薄いのだろうしそれでよかったのにあんなことが起きて、ままならない怒りを露わにした上に怪我もして。
しばらくただ寝ていたい。
だいぶ落ち込んでいたら、自室から着信音が聞こえてきた。
「誰よ…」
目頭をぐいぐい押しながら通話ボタンを押す。
「裸でいるとは思ってなかった」
「…香月!」
ビデオ通話かよ! と叫ぶ。
ビデオ通話だよ、と笑ってから、オハヨと言われる。
「おはよ…。あと、パンツは履いてるから…いちおう…」
足を揃えて、ダイニングの椅子に腰かける。
香月はすでに制服を着て、髪も整えている雰囲気だ。
「8時前に迎えに…と思ったけど、テーブルに載っているのは朝食?」
画面の端にテーブルが映ったようだ。
「そう。母さんが作ってってくれた」
「おいしそうだな」
「…うん? うん、おいしいと思うけど…」
「さすがにこれから二度寝はしないだろ? 俺も朝食を持っていくから、一緒に食べよう。いい?」
「…え、あ、うん…?」
「うち、木之内の家から近いって言ったっけ? 10分くらいで着くから待ってて」
すげえグイグイ来るじゃん…とつぶやくと、休みたそうな顔してるからと突っ込まれる。
気分が乗らないからって休むと、ずっと行けなくなると、昨日と同じようなことを言われた。
返事はせずに、コーヒーを飲むか聞いたら「飲む」とのことだった。じゃあ準備すると言って、電話を切る。
「…10分?」
時間がない! と叫んでから、電気ケトルにお湯をセットして、洗面所に戻って顔を洗って制服をバサバサと着替えて、ぼわんとした髪を撫でつけていたら、もう呼び出し音が鳴った。早いよ。
仕方がないのでオートロックを解除して、玄関まで来てもらう。
お湯が沸いたことを確認し、コーヒー豆を測って、ミルに流し込む。
キッチン横の玄関ドアを開けると、朝から爽やかな香りをまとう男、香月が入ってきた。
「おはよう。お邪魔します」
「おはよう。入って。コーヒー淹れるね」
うん、ああいい香りだな…と呟きながら、入室する。
香月の香りには負けるよ。
なんてことを考えていたらなんだか、ホッとした。
ランチボックスのようなものを取り出したので、皿に盛ろうかと声をかけたが、いいよと言われた。
湿らせたペーパーフィルターの上にコーヒー粉を出し、ケトルをゆっくり動かしながらお湯を注ぐ。
特段緊張することのないはずの行為だが、真後ろから香月が覗き込んでいるので、腕がガチガチに固まってしまう。
「それにしてもいい香りだな…」
呟くと、本当にいい香りだな、と香月が返す。
コーヒーもいい香りだけどね。
コーヒーを二杯のマグカップに注ぎ入れ、二人でいただきますと手を合わせる。
スマートスピーカーからラジオを流して、しばらくは黙って食事をした。
「朝早くに家出てよかったの? 家の人と朝食を食べなくていいの?」
「父と姉は海外にいる。母は家にいるけど、部屋に閉じこもってて朝は出てこない」
パストラミビーフのサンドイッチを口にしながら、抑揚なく伝えられた。
「使用人がいるから、食事には困らない」
睦月の顔が固まったのを見てか、ニヒルに笑って空気を和ませようとする。
「それは、よかった」
香月は、別に答えなくてもいい質問に答えるし、ずいぶんと気を遣うんだな。
月並みだけど、お金持ちの家に生まれると、それなりに色々あるんだな…と思う。
そんなことを巡らせていたら、ふいに言葉が出てきた。
「もし一人でつまんない日があったら、うちでご飯を食べようよ」
母さんが忙しくて、最近は一人で食事することが多いから…と言ってから、でも山東君とか友達がいるもんね、とあたふたする。急に一体なにを言っているんだか…。
「山東君って呼び方はピンと来ないな。木之内も、ヒロって呼んでやって。ヒロはヒロって呼ばれるのが一番好きだから」
「そ、そう…?」
レーズンロールとベーコンエッグの残りを、交互に口に運ぶ。
香月はいつの間にか食事を終えていた。優雅にコーヒーに口を付ける。
「コーヒー、おいしいな」
香月が屈託なく笑う。
「それは、よかった」
あわてて朝食の残りを平らげ、コーヒーを飲んだ。
ベーコンを焼いた香りがする。
上半身を起こして、カーテンとサッシを開けると、外はすでに暖かく、なんともまったりとした春の空気が入ってきた。
睦月の部屋は狭い。足を下ろして上半身をちょっと前かがみにすれば、ハンガーラックに手が届く。
制服を取ってから、これを母がかけてくれていたことに気づいた。
制服を洗濯したことも、洗濯するはめになった出来事も、五月雨に思い出す。
足を上げて引き出しを開け、シャツと靴下を出して、なまぐさに足で閉じる。
『出張続きになっちゃってごめんね。
来週までの食費+αを置いておきます。
何かあったらすぐに連絡ちょうだい。
困ったことが起きたら、+α分で、
プロの人に解決してもらってください。』
「なんのこっちゃ」
置き書きをぺしっとテーブルに戻して、ベーコンエッグとレーズンロールとサラダを横目に、洗面所に行く。
Tシャツとハーフパンツを洗濯機に入れようとして、昨日怪我した箇所をぶつけてしまった。
「う…」
窓から、だいぶ緑色が強くなった桜の木が見える。
自分だけ、まったく違う場所に生きているみたいだ。
千葉を離れることになるとは思っていなかった。マンションも引っ越ししたばかりで、まだなじまない。進学先はお金持ちの家の生徒ばかりで慣れそうにない。自分は性的に薄いのだろうしそれでよかったのにあんなことが起きて、ままならない怒りを露わにした上に怪我もして。
しばらくただ寝ていたい。
だいぶ落ち込んでいたら、自室から着信音が聞こえてきた。
「誰よ…」
目頭をぐいぐい押しながら通話ボタンを押す。
「裸でいるとは思ってなかった」
「…香月!」
ビデオ通話かよ! と叫ぶ。
ビデオ通話だよ、と笑ってから、オハヨと言われる。
「おはよ…。あと、パンツは履いてるから…いちおう…」
足を揃えて、ダイニングの椅子に腰かける。
香月はすでに制服を着て、髪も整えている雰囲気だ。
「8時前に迎えに…と思ったけど、テーブルに載っているのは朝食?」
画面の端にテーブルが映ったようだ。
「そう。母さんが作ってってくれた」
「おいしそうだな」
「…うん? うん、おいしいと思うけど…」
「さすがにこれから二度寝はしないだろ? 俺も朝食を持っていくから、一緒に食べよう。いい?」
「…え、あ、うん…?」
「うち、木之内の家から近いって言ったっけ? 10分くらいで着くから待ってて」
すげえグイグイ来るじゃん…とつぶやくと、休みたそうな顔してるからと突っ込まれる。
気分が乗らないからって休むと、ずっと行けなくなると、昨日と同じようなことを言われた。
返事はせずに、コーヒーを飲むか聞いたら「飲む」とのことだった。じゃあ準備すると言って、電話を切る。
「…10分?」
時間がない! と叫んでから、電気ケトルにお湯をセットして、洗面所に戻って顔を洗って制服をバサバサと着替えて、ぼわんとした髪を撫でつけていたら、もう呼び出し音が鳴った。早いよ。
仕方がないのでオートロックを解除して、玄関まで来てもらう。
お湯が沸いたことを確認し、コーヒー豆を測って、ミルに流し込む。
キッチン横の玄関ドアを開けると、朝から爽やかな香りをまとう男、香月が入ってきた。
「おはよう。お邪魔します」
「おはよう。入って。コーヒー淹れるね」
うん、ああいい香りだな…と呟きながら、入室する。
香月の香りには負けるよ。
なんてことを考えていたらなんだか、ホッとした。
ランチボックスのようなものを取り出したので、皿に盛ろうかと声をかけたが、いいよと言われた。
湿らせたペーパーフィルターの上にコーヒー粉を出し、ケトルをゆっくり動かしながらお湯を注ぐ。
特段緊張することのないはずの行為だが、真後ろから香月が覗き込んでいるので、腕がガチガチに固まってしまう。
「それにしてもいい香りだな…」
呟くと、本当にいい香りだな、と香月が返す。
コーヒーもいい香りだけどね。
コーヒーを二杯のマグカップに注ぎ入れ、二人でいただきますと手を合わせる。
スマートスピーカーからラジオを流して、しばらくは黙って食事をした。
「朝早くに家出てよかったの? 家の人と朝食を食べなくていいの?」
「父と姉は海外にいる。母は家にいるけど、部屋に閉じこもってて朝は出てこない」
パストラミビーフのサンドイッチを口にしながら、抑揚なく伝えられた。
「使用人がいるから、食事には困らない」
睦月の顔が固まったのを見てか、ニヒルに笑って空気を和ませようとする。
「それは、よかった」
香月は、別に答えなくてもいい質問に答えるし、ずいぶんと気を遣うんだな。
月並みだけど、お金持ちの家に生まれると、それなりに色々あるんだな…と思う。
そんなことを巡らせていたら、ふいに言葉が出てきた。
「もし一人でつまんない日があったら、うちでご飯を食べようよ」
母さんが忙しくて、最近は一人で食事することが多いから…と言ってから、でも山東君とか友達がいるもんね、とあたふたする。急に一体なにを言っているんだか…。
「山東君って呼び方はピンと来ないな。木之内も、ヒロって呼んでやって。ヒロはヒロって呼ばれるのが一番好きだから」
「そ、そう…?」
レーズンロールとベーコンエッグの残りを、交互に口に運ぶ。
香月はいつの間にか食事を終えていた。優雅にコーヒーに口を付ける。
「コーヒー、おいしいな」
香月が屈託なく笑う。
「それは、よかった」
あわてて朝食の残りを平らげ、コーヒーを飲んだ。
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