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第一章
op.9『音だけ。』
しおりを挟む高凌学院はミッション系の学校だった。敷地内には、光と和沙が育った養護施設のほかに、地域の教会と聖堂がある。
もう少し一人で歌っていきたいからと、委員長と達哉に先に帰ってもらった光は、こっそり教会に来ていた。
光と和沙が捨てられた、教会だ。
『少しだけ一人で歌ってから帰る』
そう言って光が人払いをすることは、珍しいことではなかった。
歌においてはプロである光にとって、そういう時間が必要なことは同じ音楽をやる人間としては理解できたし、なにより教会も学校も養護施設もなにもかも同じ敷地内だったから、二人もなにも心配せず、なにも疑わず光をおいて帰ってくれた。
歌ってなど、いなかった。
二人が帰って一人になったあとは、すぐにAホールを出て、まっすぐ教会に来る。いつものことだ。
神様と話をするためだ。
「こんにちは神様」
見えないイエス像を見上げて話しかける。
目が見えなくなる前から教会は家みたいなものだったから、イエス像の場所は憶えている。
挨拶をして、会衆席に座って大きな息をついた。
心が苦しいときは、光は、まっすぐここに来ていた。
『神様と話をしてくる』と言えば、和沙も達哉も委員長も、決してついてはこない。
けれど今日みたいな日に神様と話がしたいなんて言えば、達哉も委員長も和沙もきっと、心配してくれるから。
心配を、かけてしまうから。
ただでさえ自分は、三人の負担になってばかりなのに……
神様の前で放心しながら―――倉田の言葉を反芻していた。
『なにをされても見えないくせに、だいたいそんな目で生まれるだなんて、前世でなにかしたんじゃねーの』
本当はあのあと、ここに来るまでのことはなにも憶えていない。自分がどこを歩いたのかも、どんな話をして笑ったのかも、どんな顔をしていたのかも。
独り言のように光が呟いた。
「前世でなにか……したんですかね、おれ……」
ハハ、と乾いた笑い声で言ったけれど、その声は悲しさを含んで広い教会の空間に響いた。だからなおさら悲しくなった。笑顔は消えた。
「……なに……したのかなぁ……」
こんな目を、与えられるほどの罪があるのだろうか。
倉田には訊けなかった。達哉にも、委員長にも。
根から素直な光の、心にきちんと刺さった棘。
自分の中の、前世の自分を信じられない。どんな人間だったのだろう、どんな人間だったからこんな罰を与えられているのだろう。
遠くでなにかの練習の音が聴こえる。高凌は音楽専門学校だから、日常に音楽が溢れている。Aオケの音ではない。どこのオケだろう。
綺麗な音だな。
耳が聴こえる躯に産んでもらえて、よかったな。
おれは幸せ者だ。
ぼんやり音を聴いて、呟いた。
「……綺麗……」
声を出したら、涙が落ちた。
「わ」
駄目だ泣くな、泣くな。泣いたら可哀想な子になってしまう。
慌ててそれを手の甲で払うけれど、目の奥の熱は収まらない。
音だけ。
ほかになにもないこの世界でおれは、歌うしか……
―――悔しい。
本当は見えるようになりたい、死ぬほど。
『目見える奴のこと羨ましくないわけ? 見えるようになりたいだろ』
見えるようになりたいなど、絶対に言うものか。
見えるようになりたいなどと、誰が言うものか。
そんなことを言えば、どれほどあの三人が悲しんでくれることか。
光の目は、角膜移植を受ければほぼ確実に見えるようになる状態だった。それでも角膜移植の順番待ちは長く、光に初めてその機会が与えられたのは八歳のときだった。が、その日光は発熱しており、移植は見送りましょうということになった。次に連絡がきたときには、光はコンクールでウィーンにいた。移植の意思表示はいつも即答が求められる。二回とも、光と和沙よりも達哉と委員長の方が悔しがった。
次の移植の機会を待つということは、それはそのまま、誰かの死を待つことに思えた。それが嫌で光は移植のことはくちにしなくなったし、移植希望の更新手続きもやめた。それは、和沙はもちろん委員長や達哉やクラスメイトたちにも分かる感情だったから、誰もなにも言わなくなった。
すべて神様の御心のままに。それでよかった。
見えるようになりたいとか、移植を待ちたいとか、羨ましいとか、そんな想いはもう、光には重すぎたから、考えないようにしていたのに。
第一、倉田から言われなくとも、光は知っていた。
『可哀想』
みんなから、そう思われているということ。
だから傷つかなくていい。いまさら。
分かっているのに……
それでも。
「……自分のことで、ひとが、傷つけあうのは嫌だなぁ……」
たった二粒涙を落として、それをグイと拭き取って呟いた。
誰にも言えない。
達哉も委員長も、めったにあんなふうに声を荒げたりしない。
巻き込んでごめんと、傷つけてごめんと言えば、あの二人ならきっと、傷ついたのはおまえだろうと自分を抱きしめて、泣いてしまうから。
おれは傷ついたり泣いたり、しないのに―――絶対に、人前では。
ギイと重たい音がして、誰かが入って来た気配がした。教会の鍵はいつも開いていているから、誰でも入ることが出来る。
知っている人の気配なら、どの辺にいるかくらい分かるのだけれど、知人ではないのだろう、気配が分からない。
どうせ自分は誰が来たのかも見えやしないから、仕方なくそちらの方に会釈をして出口に向かった。
高凌の司教区で、盲目の光は有名人だったから、上手に会釈できなくたって誰も怒らないでいてくれるだろう。
同じ顔の光と和沙、見分けるのは簡単、
『上手にできない方』が光だ。
養護施設に帰るまで、途中で誰にも会いませんように。
そう思いながら教会を出る。
背筋を伸ばした。
***************************************************************
「…そう。そんなことがあったの」
東京駅まで和沙を迎えに来た達哉と委員長から今日の騒動を聞いた和沙は、とても低い声でそう言った。
「……うん」
光について、和沙が不在の間にあったことはいつも情報共有される。いつもなら大喜びで和沙を迎えに駅まで来る光が姿を見せなかった時点で、なにかあったのだとは思ったが、想像以上にひどいことだった。
光はバレていないつもりなのだろうが、達哉も委員長も和沙も当然知っている。
光が一人で神様に会いにいきたがる時は、光が、心の整理がつかないくらいに傷ついた時だ。
きっと何度も、自分たちの知らないところで涙を流しているのだろう。そんなことくらい誰にでも想像できる。それでも光が、自分たちの前で障碍のことで泣いたり愚痴をこぼしたりしたことは、一度もない。
光は絶対に、人前で弱音をはかない。唯一神様の前でだけだ。正直に、悲しがるのは。
「ごめん……」
達哉がしょんぼりと謝った。和沙が気づいて苦笑する。
「守れなくて」
「大丈夫。また、笑顔で帰ってくるよ。ちゃんと」
神様と話をしてくるのだから。
「……それにしても倉田、あんなこと光に対して思ってるなんて知らなかった」
「……敵は作るよね、才能あると」
語尾が細る委員長と和沙の横で、達哉は、いまだに怒りが収まらない感じで語気を荒げた。
「だからって、光に、言わせたかったのか? 自分は目が見えなくて、見える子のことが羨ましいって、そんなことわざわざ? 全員知ってるだろうそんなこと! 光がどんなに悔しい思いをしてたかも、それをどんな強さで自分だけで消化していたかも!」
見えるようになりたいかなんて、そんな当たり前のこと誰が訊くものかと、
―――訊かせるものかと、ずっと守ってきたのに。
「光も光だ、傷ついたって言えばいいのに、泣けばいいのに! 泣き虫のくせに!」
「ぜーったいに見せないよ光は」
怒りでまた涙を浮かべる達哉に、委員長がふっと優しく笑った。
「……達っちゃんこそ泣き虫。光ちゃんのこと笑えないな」
「!」
達哉が真っ赤になって、顔をそむけた。けれど涙は止まらない。
和沙が微笑んだ。
「達哉、泣くな。光のために泣くな。これ以上、光に悲しみを背負わせるな」
「っ……」
「おれが一緒に背負うから」
和沙の目に涙が浮かんでいるのに二人が気付く。委員長が二人の背中をバンと叩いた。
「あとで、倉田と話してくるよ」
「いい」
委員長の声にかぶせて、和沙が低く言う。
いつもの和沙とは違う、怒りを含んだ静かな声だった。
「おれがいく」
その様子に、達哉と委員長の方が冷静になった。
しまった。これは和沙に伝えてはいけないことだったのだ。
「か、和、いいから、やっぱりおれと委員長でボコボコにしてくるから」
「だから、おれが行くって言ってるだろ」
「だめだめだめ犯罪になりそう!」
三人がやっと笑って、三人で同時に大きなため息をついた。
「……今夜は優しくしてやってくれ。寝付くまで」
達哉から申し送られて、和沙が眉を上げて笑った。
「分かってるよ」
本当は自分たちが傍で慰めてやりたいけれど、神様には勝てない。
「いまは、神様に任せよう」
いつも光は、ちゃんとそうやって、傷を癒して帰ってくるから。
今夜もちゃんと、まるで目が見えるかのようにちゃんとした足取りで自分たちのところに帰ってくるだろう。
誰よりも強い目で、
誰よりも傷を負いながらそれでも自分たちを守ってくれようとする、優しい、強い笑顔で。
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