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第三章 黄巾の反乱と漢王朝の衰退
第三十話 黄巾起義
しおりを挟む曹孟徳は再び、雒陽の城門の前に立っていた。
振り返ると、遥かに雄大な北邙山が望める。
「師匠…俺はまた、此処へ戻って参りました…」
孟徳は、遠く霧に霞んで見える美しい山々を眺めながら、目を細め呟いた。
頓丘に赴任した孟徳は、そこで県令として職務をこなしていたが、一年も経たずに罷免されてしまった。
その理由は、宦官たちの讒言により、皇后を廃された宋氏が、従姉妹の夫と同族であった為、それに連座する形となったのである。
自身に過失があった訳では無いが、遠い親族の者にまで罪が及ぶとは、世知辛い世である…と孟徳はつくづく実感した。
その後、一度、故郷へ戻ったが、故事に明るい者を必要とした朝廷は、孟徳を議郎に任命し、再びこの雒陽へ呼び戻したのである。
正直な所、官職に就く事に不信感を抱いていただけに、再び中央へ行くのは気が進まなかったが、"議郎"とは、光禄勲の属官で、皇帝の側近である。
皇帝に助言、上奏出来る立場となれる為、孟徳は拝命する事にした。
黄色い砂塵が吹き抜け、それに運ばれた黄色い布切れが、孟徳の足に絡み付いた。
それを手に取り開いて見ると、そこには朱墨で文字が書かれている。
遂に、此処まで来たか…
孟徳は目を上げ、手から離れた布切れは、再び風に乗って蒼天の彼方へと舞い上がった。
"蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉"
『蒼天すでに死す 黄天まさに立つべし 歳は甲子にありて 天下大吉ならん』
布に記されていたのは、その文字である。
雒陽へ来るまでの道々、通り掛かった村や郷で、白墨(チョーク)で役所の門等に、"甲子"の文字が書かれているのを幾度か目にした。
冀州鉅鹿に張角という者があり、『太平道』と呼ばれる道教を民衆に広めていた。
張角は、自らを大賢良師と称し、信者たちに符水を飲ませる等して治病を行い、病を癒したとされる。
そうして人々の信仰を集め、太平道はやがて数十万人もの信者を擁するまでになった。
太平道は、表向きは善道を説き、道教としての色を濃くしていたが、内部では軍事組織を作り上げ、信者たちが結託して、武装蜂起を企てていた。
地方では、役人と信者たちの衝突が度々起こってはいたが、この時点ではまだ、朝廷を牛耳る宦官たちには、事の重大性が認識出来なかったと言える。
しかし、漢王朝崩壊の足音は、確実に近付きつつあった。
議郎を拝命した孟徳は、意欲的に皇帝に上奏を行った。
先ずは、朝廷に巣食う魑魅魍魎たちを、皇帝の周りから排除せねばならない。
孟徳の見た所、皇帝は壮年に差し掛かったばかりでまだ若いとは言え、決して愚鈍な皇帝では無い。
それどころか、慈悲深く、人の意見を聞く耳も持っている善良な人物であった。
しかし宦官たちは、その皇帝の耳目を完全に塞いでしまっており、特に皇帝は、宦官に対して絶大な信頼を寄せている為、その認識を覆すのは難しい。
邪悪な者が蔓延り、善良な者が虐げられている現実を幾ら訴えても、皇帝は理解を示す事は無かった。
結果、二度の上奏を行ったが、朝廷に根付いた病巣は最早、簡単には取り払う事が出来ない状態であり、孟徳は己の無力さに苛まれるばかりであった。
「あの、白面郎が…生意気に皇帝に上奏などしおって…!」
宦官、蹇碩は、忌々ましく孟徳の書いた書簡を握り潰し、床へ投げ捨てた。
「橋公祖は既にこの世に亡く、後ろ盾を失った今では、好き勝手には振る舞えぬ…漸く、我々の恐ろしさを身に染みて感じておる頃であろう…」
中常侍の筆頭格とも言える張譲は、薄ら笑いを浮かべながらその様子を見ていた。
「今度こそ、あの小僧を始末したい…!良い策は無いか…?」
「最近では、書庫に篭って、書物ばかり読んでいると聞く…最早、気に掛ける事も無かろう。」
息巻く蹇碩を宥める様に、張譲は静かに答えた。
「それより、太平道の者が動き始めている…今はそちらの方が重大である。我々も足を掬われぬ様、用心せねばなるまい。いざとなれば、曹孟徳は死地へ追いやってしまえば良い…」
「うむ…」
張譲の言葉に、蹇碩も納得したのか、渋い顔のままだが小さく頷いた。
孟徳は、書庫にある大量の書物を整理する役目を買って出た。
宮中を出入りする、悪官や汚吏たちと顔を付き合わせるより、書に没頭している方が余程ましである。
出仕しては直ぐに書庫へ篭って、殆ど誰とも顔を合わせず会話する事も無かった。
その頃、孟徳は曹家に従事している数名の若者たちに、呂興将軍の食邑を探らせていた。
奉先は、暫く将軍の刺客として働いていた様であるが、ある時、将軍の怒りを買い、牢へ閉じ込められた。
一度は牢から脱出したが、身代わりとなった男が処刑される事となり、男を助ける為、再び将軍の元へ戻ったという事である。
だが、その後、将軍の側から奉先の姿は消え、その足取りは掴めなくなった。
一体…今、何処にいるのであろうか…
俺が迎えに行くまで、何があっても死ぬなよ…!
雒陽城の楼門から、美しく広がる赤い夕焼けを眺めながら、孟徳は遠い友に思いを馳せた。
そんな孟徳の元へ、ある日珍しく訪問客が現れた。
「あなたが、曹孟徳殿か?」
背の高い、立派な顎髭を生やしたその壮年の男性は、書庫の入り口に立ち、柔らかい声で書に目を通している孟徳に呼び掛けた。
多少、煩わしい目つきであったが、孟徳は振り返り、男の方へ体を向けて軽く挨拶をした。
「何か、ご用でしょうか…?」
「皇帝に、二度も上奏を行った若者がいると聞き、会ってみたくなったのでな…わしは、王子師と申す。…あなたの敵では無い。」
孟徳の目は、常に敵か味方かを探っている様である。
男はそう言って、目元に微笑を浮かべ、孟徳を見詰めた。
「ああ、あなたが、王先生でしたか…!」
孟徳は僅かだが、その目から険しさを取り除いて、男を改めて見上げた。
王允、字を子師と言うその人物は、昔、名高い儒者である郭泰から、「一日に千里を走り、王佐の才である」と称賛されたと言われる。
長い顎髭は、駿馬の鬣の如く整えられ、清潔感のある着衣には皺の一つも無い。
丁寧に結んだ髪から、後れ毛の一本も垂らしてはおらず、清廉で実直な人であるのは間違いないが、何処か堅い印象である。
何となく、孟徳は橋公祖の姿を重ねてみたが、やはり人格的には彼に及ぶ者はいないであろう。
王子師は、その後も度々孟徳を訪ねては、書庫で世間話などをして行った。
年が改まってすぐ、一つの事件が起こった。
太平道の教祖、張角の腹心である馬元義が雒陽に潜伏し、宦官たちに内通工作を行い、内と外から一斉に蜂起する計画を密かに進めていたのだが、部下の裏切りにより、計画が皇帝側に発覚してしまった。
馬元義と一味は即座に捕らえられ、馬元義は車裂きの刑によって殺された。
この事態を重く見た皇帝は、三公や司隸に命じ、宮中の衛兵や民衆を取り調べ、乱に荷担しようとした者や内通者千人余りを誅殺し、張角捕縛の命を下した。
計画が露呈してしまった張角は、予定より早く計画を実行せねば成らなくなり、諸方の信者たちに命じて一斉に蜂起した。
張角は自ら"天公将軍"と称し、二人の弟たちを、それぞれ"地公将軍"、"人公将軍"として、集めた武装信者たちを指揮させた。
彼らは皆、「黄天の世」を目指す事を掲げ、頭に黄巾を巻き着けた為、"黄巾党"と呼ばれた。
皇帝は、宋皇后が廃され新な皇后に何氏を迎えており、その異母兄である何進を大将軍とし、近衛兵を率いて首都雒陽を守備させ、八つの関に都尉を置いた。
その後、当時最も名声が高かった、北地太守、皇甫嵩らの進言によって、"党錮の禁"により捕らえられていた党人たちを許し、官界から追放されていた清流派の知識人が、反乱軍と結束する事を防ぐ処置を行った。
更に、皇甫嵩は皇帝の私財放出を上申。蓄財した銭と皇帝所有の馬を軍に提供し、人材を募って各地の諸侯、豪族らの協力を得た。
皇帝は皇甫嵩を左中郎将に任命し、右中郎将の朱儁と共に、四万の兵を率いて豫州潁川方面の黄巾討伐へと向かわせた。
黄巾党の本拠と言える冀州方面には、北中郎将に任命された、盧植が討伐に向かった。
この乱で、王允は豫州刺史を拝命し、荀爽、孔融らを幕僚に迎え、黄巾討伐の為の軍備を整えた。
王子師は意気揚々として、孟徳の篭った書庫を訪れた。
「曹孟徳殿、是非わしの幕僚に加わり、共に黄巾討伐へ行こうではないか…!」
漢王朝の衰亡を憂慮している事を知っている王子師は、孟徳が喜んで討伐軍に参加すると見ていた。
しかし、彼を見詰める孟徳の目は、喜ぶ所か益々憂いを帯び曇っている。
「王先生…この乱に乗じて、功を挙げようと諸侯、豪族が挙って参戦している事をご存知でしょう…」
「勿論、皆この王朝を助けたいと願っているのだ。それに、黄巾討伐に成功すれば、名を挙げる絶好の機となる。君にとっても、好機であろう…!」
「確かに、その通りです…しかし、考えても見て下さい。黄巾党の者の殆どは、悪政に苦しみ、拠り所が無く、仕方なく張角に頼った農民や平民たちばかりです。黄巾党を討伐すると言う事は、王朝の民を殺す事と同じではありませんか…?そのような戦に…俺は、行きたくはありません…!」
孟徳は、子師を真っ直ぐに見詰めて答えた。
それを聞いた子師は、目に険しさを現し、孟徳を見据えた。
「王朝転覆を謀り、打倒を企てる黄巾党に従った時点で、その者たちは全て賊軍である…!賊軍を討伐するのは、当然の事。正当性は我らにこそ有る…!」
二人は暫く睨み合った。
王子師の言う事は、尤もであり、正論である。
だが、それには心が無い…
戦となれば、否が応にも敵を斃さねばならない。
全ての敵を降伏させるには、その数は余りにも多く、時間が掛かり過ぎる。
そうなれば、朝廷側から圧力が掛かり、下手をすれば職務怠慢とみなされ、死罪に処される可能性もあるだろう。
どう考えても、この戦に参加するのは、気が重過ぎる。
「今こそ、漢王朝の底力を発揮せねば成らぬという時に…君には、失望した…」
子師はそう言って小さく溜め息を吐くと、孟徳から目を逸らして立ち上がり、振り返る事無く、さっさと書庫から出て行ってしまった。
孟徳は書庫に座したまま、やがて辺りが暗闇に包まれるまで、一人黙考した。
四月、穎川郡へ進軍した朱儁率いる官軍と、波才の率いる黄巾軍が激突した。
敵を侮った訳では無いが、黄巾の勢いは予想より遥かに強く、朱儁の軍は波才に打ち破られ、敗走してしまった。
更に、長社県に陣を敷いていた皇甫嵩の軍を、波才は十万もの黄巾軍で包囲したのである。
この知らせに、朝廷は騒然となった。
皇帝は、直ぐに援軍を派遣する事を決定したが、有能な武将は殆ど出払っており、兵を率いる指揮官がいない。
誰に兵を預けるかで悩んでいると、宦官の張譲が、皇帝の前へ進み出て助言を述べた。
「援軍を指揮するのは、曹孟徳が良いでしょう。」
それを聞いた皇帝は、首を傾げた。
「曹孟徳とは…議郎の、あの曹操…孟徳の事か…?」
皇帝の目に映る曹孟徳とは、文官であり、華奢と呼べる程小柄で、少女の様な風貌をした若者である。兵を率い戦場で戦う様な勇猛さを、とても想像出来ない。
「お言葉ですが、陛下…指揮官に必要なものは、勇猛さだけでございません。知恵や勇気のある者が、最も相応しいのです。曹孟徳は、そのどちらも兼ね備えております。それに、彼が預かるのは我が王朝の鍛え抜かれた官軍。何もご心配には及びません。是非とも、彼にお命じ下さいますよう…」
張譲が尤もらしく論ずるのを聞いて、皇帝は成る程と納得した。
それに、何より一番信頼している宦官の言である。
「良し、分かった。其方が申すのであれば、間違いは無いであろう。曹孟徳を騎都尉に任じ、直ぐ様、戦地へ赴く様伝えよ…!」
その命が下されると、張譲は頭を低くして皇帝に礼をしたが、その下では目を細め、ほくそ笑んだ。
「あの曹孟徳を推薦するとは…張譲殿、どういった見解がお有りか…?!」
蹇碩は、宮殿から退廷する張譲を捕まえ、辺りに目を配りながら問い掛けた。
「約束致したであろう。いざとなれば、曹孟徳は死地へ追いやると…」
張譲は蹇碩に向き直る事無く、事も無げに答える。
更に、今度は声を低くし、訝し気な蹇碩に横目で視線を送った。
「黄巾党とは、密に連絡を取り合っておる…曹孟徳は、戦死に見せ掛けて始末すれば良い。この王朝が倒れようが倒れまいが、我々は生き延びる事が出来るという訳だ…」
それを聞くと漸く安心した様に、蹇碩は目元に微笑を漂わせた。
応援ありがとうございます!
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