上 下
30 / 132
第三章 黄巾の反乱と漢王朝の衰退

第三十話 黄巾起義

しおりを挟む

曹孟徳そうもうとくは再び、雒陽らくようの城門の前に立っていた。
振り返ると、遥かに雄大な北邙山ほくぼうざんが望める。

「師匠…俺はまた、此処へ戻って参りました…」

孟徳は、遠く霧に霞んで見える美しい山々を眺めながら、目を細め呟いた。

頓丘とんきゅうに赴任した孟徳は、そこで県令として職務をこなしていたが、一年も経たずに罷免ひめんされてしまった。
その理由は、宦官たちの讒言ざんげんにより、皇后を廃された宋氏そうしが、従姉妹いとこの夫と同族であった為、それに連座する形となったのである。

自身に過失があった訳では無いが、遠い親族の者にまで罪が及ぶとは、世知辛せちがらい世である…と孟徳はつくづく実感した。

その後、一度、故郷くにへ戻ったが、故事に明るい者を必要とした朝廷は、孟徳を議郎ぎろうに任命し、再びこの雒陽へ呼び戻したのである。

正直な所、官職に就く事に不信感を抱いていただけに、再び中央へ行くのは気が進まなかったが、"議郎"とは、光禄勲こうろくくんの属官で、皇帝の側近である。
皇帝に助言、上奏じょうそう出来る立場となれる為、孟徳は拝命する事にした。

黄色い砂塵さじんが吹き抜け、それに運ばれた黄色い布切れが、孟徳の足に絡み付いた。
それを手に取り開いて見ると、そこには朱墨しゅずみで文字が書かれている。

遂に、此処まで来たか…

孟徳は目を上げ、手から離れた布切れは、再び風に乗って蒼天の彼方へと舞い上がった。


"蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉"

蒼天そうてんすでに死す 黄天こうてんまさに立つべし 歳は甲子こうしにありて 天下大吉ならん』


布に記されていたのは、その文字である。

雒陽へ来るまでの道々、通り掛かった村やさとで、白墨はくぼく(チョーク)で役所の門等に、"甲子"の文字が書かれているのを幾度か目にした。 
                         
冀州きしゅう鉅鹿きょろく張角ちょうかくという者があり、『太平道たいへいどう』と呼ばれる道教を民衆に広めていた。

張角は、自らを大賢良師たいけんりょうしと称し、信者たちに符水ふすいを飲ませる等して治病ちびょうを行い、病を癒したとされる。
そうして人々の信仰を集め、太平道はやがて数十万人もの信者をようするまでになった。

太平道は、表向きは善道を説き、道教としての色を濃くしていたが、内部では軍事組織を作り上げ、信者たちが結託して、武装蜂起を企てていた。
地方では、役人と信者たちの衝突が度々起こってはいたが、この時点ではまだ、朝廷を牛耳る宦官たちには、事の重大性が認識出来なかったと言える。

しかし、漢王朝崩壊の足音は、確実に近付きつつあった。


議郎を拝命した孟徳は、意欲的に皇帝に上奏を行った。

先ずは、朝廷に巣食すく魑魅ちみ魍魎もうりょうたちを、皇帝の周りから排除せねばならない。
孟徳の見た所、皇帝は壮年に差し掛かったばかりでまだ若いとは言え、決して愚鈍ぐどんな皇帝では無い。
それどころか、慈悲深く、人の意見を聞く耳も持っている善良な人物であった。

しかし宦官たちは、その皇帝の耳目じもくを完全に塞いでしまっており、特に皇帝は、宦官に対して絶大な信頼を寄せている為、その認識を覆すのは難しい。
邪悪な者が蔓延はびこり、善良な者がしいたげられている現実を幾ら訴えても、皇帝は理解を示す事は無かった。

結果、二度の上奏を行ったが、朝廷に根付いた病巣は最早、簡単には取り払う事が出来ない状態であり、孟徳は己の無力さにさいなまれるばかりであった。


「あの、白面郎はくめんろうが…生意気に皇帝に上奏などしおって…!」
宦官、蹇碩けんせきは、忌々ましく孟徳の書いた書簡を握り潰し、床へ投げ捨てた。

橋公祖きょうこうそは既にこの世に亡く、後ろ盾を失った今では、好き勝手には振る舞えぬ…ようやく、我々の恐ろしさを身に染みて感じておる頃であろう…」
中常侍ちゅうじょうじの筆頭格とも言える張譲ちょうじょうは、薄ら笑いを浮かべながらその様子を見ていた。

「今度こそ、あの小僧を始末したい…!良い策は無いか…?」
「最近では、書庫にこもって、書物ばかり読んでいると聞く…最早、気に掛ける事も無かろう。」
息巻く蹇碩をなだめる様に、張譲は静かに答えた。

「それより、太平道の者が動き始めている…今はそちらの方が重大である。我々も足をすくわれぬ様、用心せねばなるまい。いざとなれば、曹孟徳は死地へ追いやってしまえば良い…」

「うむ…」
張譲の言葉に、蹇碩も納得したのか、渋い顔のままだが小さく頷いた。


孟徳は、書庫にある大量の書物を整理する役目を買って出た。
宮中を出入りする、悪官や汚吏おりたちと顔を付き合わせるより、書に没頭している方が余程ましである。
出仕しては直ぐに書庫へ篭って、殆ど誰とも顔を合わせず会話する事も無かった。

その頃、孟徳は曹家に従事じゅうじしている数名の若者たちに、呂興将軍の食邑しょくゆうを探らせていた。

奉先は、暫く将軍の刺客として働いていた様であるが、ある時、将軍の怒りを買い、牢へ閉じ込められた。
一度は牢から脱出したが、身代わりとなった男が処刑される事となり、男を助ける為、再び将軍の元へ戻ったという事である。

だが、その後、将軍のそばから奉先の姿は消え、その足取りは掴めなくなった。

一体…今、何処にいるのであろうか…
俺が迎えに行くまで、何があっても死ぬなよ…!

雒陽城の楼門ろうもんから、美しく広がる赤い夕焼けを眺めながら、孟徳は遠い友に思いを馳せた。


そんな孟徳の元へ、ある日珍しく訪問客が現れた。

「あなたが、曹孟徳殿か?」

背の高い、立派な顎髭を生やしたその壮年の男性は、書庫の入り口に立ち、柔らかい声で書に目を通している孟徳に呼び掛けた。
多少、わずらわしい目つきであったが、孟徳は振り返り、男の方へ体を向けて軽く挨拶をした。

「何か、ご用でしょうか…?」
「皇帝に、二度も上奏を行った若者がいると聞き、会ってみたくなったのでな…わしは、王子師おうししと申す。…あなたの敵では無い。」 

孟徳の目は、常に敵か味方かを探っている様である。
男はそう言って、目元に微笑を浮かべ、孟徳を見詰めた。

「ああ、あなたが、王先生でしたか…!」
孟徳は僅かだが、その目から険しさを取り除いて、男を改めて見上げた。

王允おういんあざな子師ししと言うその人物は、昔、名高い儒者である郭泰かくたいから、「一日に千里を走り、王佐の才である」と称賛されたと言われる。

長い顎髭は、駿馬のたてがみの如く整えられ、清潔感のある着衣には皺の一つも無い。
丁寧に結んだ髪から、後れ毛の一本も垂らしてはおらず、清廉せいれんで実直な人であるのは間違いないが、何処かかたい印象である。

何となく、孟徳は橋公祖の姿を重ねてみたが、やはり人格的には彼に及ぶ者はいないであろう。
王子師は、その後も度々孟徳を訪ねては、書庫で世間話などをして行った。


年が改まってすぐ、一つの事件が起こった。

太平道の教祖、張角の腹心である馬元義ばげんぎが雒陽に潜伏し、宦官たちに内通工作を行い、内と外から一斉に蜂起する計画を密かに進めていたのだが、部下の裏切りにより、計画が皇帝側に発覚してしまった。
馬元義と一味は即座に捕らえられ、馬元義は車裂くるまざきの刑によって殺された。

この事態を重く見た皇帝は、三公や司隸しれいに命じ、宮中の衛兵や民衆を取り調べ、乱に荷担しようとした者や内通者千人余りを誅殺し、張角捕縛のめいくだした。

計画が露呈してしまった張角は、予定より早く計画を実行せねば成らなくなり、諸方の信者たちに命じて一斉に蜂起した。

張角は自ら"天公将軍"と称し、二人の弟たちを、それぞれ"地公将軍"、"人公将軍"として、集めた武装信者たちを指揮させた。
彼らは皆、「黄天の世」を目指す事を掲げ、頭に黄巾を巻き着けた為、"黄巾党"と呼ばれた。

皇帝は、宋皇后が廃され新な皇后に何氏かしを迎えており、その異母兄である何進かしんを大将軍とし、近衛兵を率いて首都雒陽を守備させ、八つの関に都尉といを置いた。

その後、当時最も名声が高かった、北地太守ほくちたいしゅ皇甫嵩こうほすうらの進言によって、"党錮とうこの禁"により捕らえられていた党人たちを許し、官界から追放されていた清流派の知識人が、反乱軍と結束する事を防ぐ処置を行った。

更に、皇甫嵩は皇帝の私財放出を上申。蓄財した銭と皇帝所有の馬を軍に提供し、人材を募って各地の諸侯しょこう、豪族らの協力を得た。
皇帝は皇甫嵩を左中郎将に任命し、右中郎将の朱儁しゅしゅんと共に、四万の兵を率いて豫州よしゅう潁川えいせん方面の黄巾討伐へと向かわせた。

黄巾党の本拠と言える冀州きしゅう方面には、北中郎将に任命された、盧植ろしょくが討伐に向かった。

この乱で、王允は豫州刺史を拝命し、荀爽じゅんそう孔融こうゆうらを幕僚ばくりょうに迎え、黄巾討伐の為の軍備を整えた。


王子師は意気揚々として、孟徳の篭った書庫を訪れた。

「曹孟徳殿、是非わしの幕僚に加わり、共に黄巾討伐へ行こうではないか…!」

漢王朝の衰亡を憂慮している事を知っている王子師は、孟徳が喜んで討伐軍に参加すると見ていた。
しかし、彼を見詰める孟徳の目は、喜ぶ所か益々憂いを帯び曇っている。

「王先生…この乱に乗じて、功を挙げようと諸侯、豪族がこぞって参戦している事をご存知でしょう…」
「勿論、皆この王朝を助けたいと願っているのだ。それに、黄巾討伐に成功すれば、名を挙げる絶好の機となる。君にとっても、好機であろう…!」

「確かに、その通りです…しかし、考えても見て下さい。黄巾党の者の殆どは、悪政に苦しみ、り所が無く、仕方なく張角に頼った農民や平民たちばかりです。黄巾党を討伐すると言う事は、王朝の民を殺す事と同じではありませんか…?そのような戦に…俺は、行きたくはありません…!」

孟徳は、子師を真っ直ぐに見詰めて答えた。
それを聞いた子師は、目に険しさを現し、孟徳を見据えた。

「王朝転覆をはかり、打倒をくわだてる黄巾党に従った時点で、その者たちは全て賊軍ぞくぐんである…!賊軍を討伐するのは、当然の事。正当性は我らにこそ有る…!」

二人は暫く睨み合った。
王子師の言う事は、もっともであり、正論である。

だが、それには心が無い…

戦となれば、いやおうにも敵をたおさねばならない。

全ての敵を降伏させるには、その数は余りにも多く、時間が掛かり過ぎる。
そうなれば、朝廷側から圧力が掛かり、下手をすれば職務怠慢とみなされ、死罪に処される可能性もあるだろう。

どう考えても、この戦に参加するのは、気が重過ぎる。

「今こそ、漢王朝の底力を発揮せねば成らぬという時に…君には、失望した…」
子師はそう言って小さく溜め息を吐くと、孟徳から目をらして立ち上がり、振り返る事無く、さっさと書庫から出て行ってしまった。

孟徳は書庫に座したまま、やがて辺りが暗闇に包まれるまで、一人黙考した。


四月、穎川郡へ進軍した朱儁率いる官軍と、波才はさいの率いる黄巾軍が激突した。
敵をあなどった訳では無いが、黄巾の勢いは予想より遥かに強く、朱儁の軍は波才に打ち破られ、敗走してしまった。
更に、長社ちょうしゃ県に陣を敷いていた皇甫嵩の軍を、波才は十万もの黄巾軍で包囲したのである。

この知らせに、朝廷は騒然となった。
皇帝は、直ぐに援軍を派遣する事を決定したが、有能な武将は殆ど出払っており、兵を率いる指揮官がいない。

誰に兵を預けるかで悩んでいると、宦官の張譲が、皇帝の前へ進み出て助言を述べた。

「援軍を指揮するのは、曹孟徳が良いでしょう。」

それを聞いた皇帝は、首を傾げた。
「曹孟徳とは…議郎の、あの曹操…孟徳の事か…?」

皇帝の目に映る曹孟徳とは、文官であり、華奢きゃしゃと呼べる程小柄で、少女の様な風貌をした若者である。兵を率い戦場で戦う様な勇猛さを、とても想像出来ない。

「お言葉ですが、陛下…指揮官に必要なものは、勇猛さだけでございません。知恵や勇気のある者が、最も相応ふさわしいのです。曹孟徳は、そのどちらも兼ね備えております。それに、彼が預かるのは我が王朝の鍛え抜かれた官軍。何もご心配には及びません。是非とも、彼にお命じ下さいますよう…」

張譲がもっともらしく論ずるのを聞いて、皇帝は成る程と納得した。
それに、何より一番信頼している宦官のげんである。

「良し、分かった。其方そなたが申すのであれば、間違いは無いであろう。曹孟徳を騎都尉きといに任じ、直ぐ様、戦地へおもむく様伝えよ…!」

そのめいが下されると、張譲は頭を低くして皇帝に礼をしたが、その下では目を細め、ほくそ笑んだ。


「あの曹孟徳を推薦するとは…張譲殿、どういった見解がお有りか…?!」
蹇碩は、宮殿から退廷する張譲を捕まえ、辺りに目を配りながら問い掛けた。

「約束致したであろう。いざとなれば、曹孟徳は死地へ追いやると…」

張譲は蹇碩に向き直る事無く、事も無げに答える。
更に、今度は声を低くし、訝し気な蹇碩に横目で視線を送った。

「黄巾党とは、密に連絡を取り合っておる…曹孟徳は、戦死に見せ掛けて始末すれば良い。この王朝が倒れようが倒れまいが、我々は生き延びる事が出来るという訳だ…」

それを聞くと漸く安心した様に、蹇碩は目元に微笑を漂わせた。

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

不遇の花詠み仙女は後宮の華となる

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:88

螺鈿の鳥

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:7

異世界に転生したので、とりあえず戦闘メイドを育てます。

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:547pt お気に入り:945

危険な森で目指せ快適異世界生活!

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:11,835pt お気に入り:4,127

酔仙楼詩話

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:0

処理中です...