『ねえ、彼女いるんでしょ? だからこそ、奪いたくなったんだよ?

夜道に桜

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陽が傾きかけた校門前。
 夕焼けに染まった制服の影が、歩道に長く伸びる。
 
 成瀬くんが、ほんのわずかに眉を歪めて私を見た。

「白瀬さん、……少し、いいかな」

 “さん”付け。
 昨日まで、名前で呼んでくれてたのに。

 ……ああ、もう限界なんだ。

 噂が耳に入ったのか、千夏に何か言われたのか。
 どちらでもいい。
 ただ、彼が「距離を取ろう」としているのは明らかだった。

 わかってる。
 でも、逃がすつもりはない。

「うん。ちょっとだけでいいなら」

 私は、にこりと笑って答えた。



 人気のない中庭。
 彼は、一歩だけ距離を取って立った。

「……俺、真冬さんの噂を聞いたんだ」

「へえ。どんな?」

 声色は変えず、あくまで“無関心そうに”。
 でも、心の中ではピキピキと音がしていた。

 成瀬くんは苦しげに続けた。

「中学の時、大人と関係があったとか……男を弄ぶのが得意だとか……。
 最初は信じなかった。でも……あの時、千夏が君を叩いたの、……たぶん俺のせいでもあって」

 彼は頭を下げた。
 馬鹿みたいに、真面目に。優しく。

 そして、顔を上げて、言った。

「だから、俺……もう、関わらない方がいいと思う。
 これ以上、君も俺も傷つけないために」

 ふぅん、って思った。
 いや、呆れたって言ったほうが正しいかな。

(こっちが遊んでやってたのに、何様?)

 インキャが、自分から“幕引き”をしようとしてる。
 浅はかすぎて、笑えてくる。



 でも――私は泣いた。

「……そっか。
 ……じゃあ、私、振られたんだ」

 涙を滲ませ、声を震わせる。
 目元は濡れても、心は乾いたまま。

 彼が戸惑うのが、手に取るように分かった。

「そういうんじゃ……ごめん。
 俺、ただ、君に――」

 「話があるの。最後に、ちゃんと」

 私は彼の言葉を遮るようにして、静かに言った。

「ほんの少しでいいから、うちに来てくれない?」

 彼は目を見開いた。

「え、でも……」

「最後だから。ね? ちゃんと、話すから」

 語気を強めすぎないように。
 でも、“断らせない”温度で。

 成瀬くんは、戸惑いながらもうなずいた。



 その夜、私は家を整えて待っていた。
 カーテンを閉め、照明を落とし、玄関の靴を一足分だけ揃えた。

 ピンポンと鳴ったチャイム。
 そして、ドアの外の気配。

「いらっしゃい」

 私は柔らかく微笑み、彼を中へと誘った。

 玄関のドアが閉まる。

 その音が、合図だった。

 私は振り返りざま、成瀬くんの胸元に手をかけ、
 一気に彼の顔に近づいて――唇を、奪った。

「っ……!」

 彼が抵抗しようと体を引くより早く、
 私は首に手を回して、そのまま唇を押し付けた。



「……話って、これ?」

 彼が目を見開いて言う。

「うん。だって、最後なんでしょ?」

 私の声は甘く、喉の奥で絡むように湿っている。

「……違う、俺は……っ」

「違わないよ。ねえ、成瀬くん。
 “最後に”って、言ったの、そっちじゃん」

 私は彼の胸に手を当てた。
 どくん、どくんと脈打つ心臓が、指先に伝わってくる。

「だったら、最後くらい、気持ちよくしていこうよ」



 押し倒すのは、あっけないほど簡単だった。

 彼は抵抗しなかった。
 ただ、驚いて、戸惑って、動けなかっただけ。

 私は、彼の服のボタンをゆっくり外していった。

「何もしないって思った?
 話をするだけだって?」

 小さく笑う。

「そんなの、信じるほうがバカだよ」



 事が終わる頃には、彼はソファにぐったりと座り込み、
 私はスマホの画面を見つめていた。

 そこには、眠たげな表情の成瀬くんと、私の素肌が映っている。

「ねえ。
 別れたいなら、それでもいいよ」

 私は、彼の膝に腰かけて、にこりと笑う。

「でも――この写真、“襲われた”って言ったら、どうなると思う?」

 成瀬くんが、顔を強ばらせた。

「冗談、だよね……?」

「冗談に聞こえるなら、そう思ってていいよ」

 指先で彼の顎をなぞる。

「でもひとつ、条件をつけさせて」

「……なにを」

「“あの子”とは、もう絶対に口をきかないで。
 私が“嫌だから”。
 ね? それだけ守ってくれれば、全部丸く収まる」



 返事はなかった。
 でも、私はもう“勝った”と確信していた。

 彼の目から、完全に力が抜けていたから。

 私はそっと、もう一度、彼の唇を噛んだ。

「……かわいいね、成瀬くん。
 こんなに素直なら、もっと早く襲えばよかった」


⭐︎⭐︎⭐︎

翌朝、私は鏡の前で制服の襟を整える。

 鏡の奥で笑う“もう一人の自分”が、囁いてくる。

 (今度は、心を溶かしてあげようか)

 夜の支配だけでは不十分。
 だって、成瀬くんがまだ“後悔”してる顔をしてたから。

 だったら、次の一手は——“日常”を奪うこと。



 教室の扉を開けると、ざわりと空気が揺れた。
 視線が刺さる。でもそれも織り込み済み。

 私は、いつも通りに微笑んで、成瀬の隣の空いた席に腰を下ろす。

「おはよう、成瀬くん」

 教室の時間が、少しだけ止まった気がした。
 昨日まで彼の隣に座っていた“彼女”が、目を見開いてこちらを見ていた。

 当然の反応。

 でも、私はすぐに視線を外し、彼女の存在を無視するようにノートを開く。

「これ、昨日の小テストの答え合わせ。一緒にやろ?」

 成瀬くんは戸惑いながら、ゆっくりとノートを開いた。

 ——その距離、昨日より近い。
 その視線、もう私から逸らせない。



 昼休み。

 私は、購買で買ったサンドイッチを成瀬くんに渡す。

「ほら、昨日お礼も言わずに帰っちゃったから。……あれ、好きだったでしょ?」

 彼は一瞬、ギクリとした目をした。

(覚えてたんだ、って思ったでしょ?)

 彼女が横から口を開こうとする。

「……真冬さん、あの、ちょっと——」

 でも私は、その声を完全に遮るように笑って言った。

「あ、ごめんね。成瀬くん、今日、放課後ちょっとだけ時間ある?図書室で課題のこと相談したいんだけど」

 まるで彼女が“他人”であるかのような距離で。

 彼は少し迷った末、静かに頷いた。

 その瞬間。
 彼女の唇が、わずかに震えたのが見えた。



 放課後。

 図書室の窓際、ふたり並んで参考書を広げる。

「なんか、こうしてるとさ」

 私は頬杖をついて、彼を横目で見る。

「まるで“付き合ってる”みたい、じゃない?」

 成瀬くんは咄嗟に何かを否定しようと口を開きかけて——閉じた。

 私はそれを見逃さなかった。

(ねえ、ほら。
 あの子じゃダメだったこと、私が埋めてあげるよ)

 何も言わず、静かに笑うだけ。
 でもその“沈黙”こそが、彼の心をじわじわと染めていく。



 帰り道、彼女の姿を見つけた。

 駅のホーム。私たちに気づいた彼女が、小さく手を振る。

 ——でも、成瀬くんはそれに応えなかった。

 彼女の表情が、ほんの一瞬で“困惑”から“恐れ”へと変わったのを、私は見逃さない。

 そのまま私は、成瀬くんの腕に軽く指を絡めて、囁いた。

「ねえ、最近さ、思わない?
 私のほうが……君には、合ってるんじゃない?」



 答えなんて、いらない。
 だって彼は、もう答えを“出せない”状態にされているのだから。


⭐︎⭐︎⭐︎


 放課後の渡り廊下。窓の向こうに沈みかけた陽が差し込んで、金色の光が彼の制服の肩を照らしていた。

 成瀬くんは、一人で立っていた。

 だけど、彼の影は、すぐ隣に“誰か”がいるように見えた。

 私は、意を決して近づいた。

「……ねえ、久しぶり。ちょっとだけ、話せないかな?」

 彼の肩が、ほんの少し揺れた。
 だけど、すぐに何もなかったように戻る。

「別に、大したことじゃないの。ただ、最近ちょっと避けられてる気がして……」

 自分でも震える声だった。
 でも、言わなきゃって思った。

「私、あの日……彼女に手を上げたこと、本当に後悔してる。ごめん」

 成瀬くんは、ゆっくりと振り向いた。

 でも、その顔には何の感情もなかった。

「……いまさら、何?」

 突き放すような言い方じゃなかった。
 むしろ、それが余計に冷たくて、胸が痛かった。

「もう、話しかけない方がいい?」

 そう尋ねる私に、彼は微かに目を伏せて言った。

「……うん」

 その言葉に、私は笑おうとした。
 だけど、笑えなかった。

 胸の奥がぎゅっと締めつけられて、唇が震える。

 でも、それでも、私は彼に近づいた。

「ねえ、お願い……」

 そっと手を伸ばす。
 彼の腕に触れようとした――その瞬間だった。

 「……触んな」

 彼が私の手を、振り払った。

 それは、本当に一瞬のことだった。

 けれど、私の中で“なにか”が音を立てて崩れた。

「……そっか、うん。わかった……」

 そう言った声が、今まででいちばん小さかった。



 その場を離れてから、私は校門の影でしばらく立ち尽くしていた。

 周囲の声も、空の色も、風の音も、何も入ってこない。

 ただ、心の奥に焼きついた――
 “触んな”の一言だけが、何度も何度もリフレインしていた。



 もう、彼の隣にはいられない。
 私はその日、ようやくそれを受け入れた。

 でも、それでもまだ、どこかで願ってしまう。

(……あの子さえいなければ)

(あの子さえ、いなければ——)
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