138個の愛と煙

由佐さつき

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138個の愛と煙

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 暦の上では四月を迎えて数日が経ったと言っても、二十三時を過ぎてしまえば肌寒さに身体が強張ってしまう。薄手のロングTシャツに太めのデニムパンツを合わせただけの樹生いつきはポケットに両手を突っ込み、煌々と明かりを漏らすコンビニを目指した。
 いらっしゃいませ、との歓迎を意味する挨拶は聞こえない。笛のような、金管楽器のようなピロピロと軽快な音を頭上に響かせて、樹生は真っ直ぐにレジへと足を向ける。他には視線さえも寄越さなかった。
 いつだったか、友人との気兼ねない雑談の内で、コンビニでは煙草かコンドームしか買わないのだと告げると、それはもう盛大に笑われてしまった。水でさえも手にしたことはなく、何が売られているのかさえよく知りはしない。つまらないな、と言われもしたが、彼自身はそのことについて何も思わなかった。
「煙草、八十一番。……とりあえず一個でいいや」
 名札に研修中とだけ書かれた大学生風の若い女性は、単語だけで喋る樹生に面喰らったかのように丸い瞳を開けて、続けられた言葉に慌てて後ろを振り返った。ポニーテールに結い上げた焦げ茶色の毛先が靡き、樹生はそっと睫毛を伏せる。探そうと宙を辿る人差し指が何度か棚の前を往復し、ようやく見つけた小さな手のひらには深い緑の箱が乗せられていた。
「こちらでお間違いないですか?」
「うん」
 樹生はパッケージに目を向けることもなく、ポケットから無造作に取り出したクレジットカードをひらひらと揺らす。きっとアルバイトを始めてからそこまで日が経っていないのだろう。一つひとつの動作を確認しながら会計を進めていく女性の手つきは覚束ないが、ぼんやりと視線を外している樹生は気にしていない。
 たかだか煙草一つの会計だ、もたついていたとしても一分すら掛からないだろう。安堵の吐息を漏らす女性を横目に、煙草を受け取った樹生は声も残さずに去っていく。店内に他の客はなく、女性は慣れない動作に焦りながらも微かに頬を染めていた。あわよくば樹生と連絡先でも交換したかったのだろうが、そんなこと彼の知ったことではない。
 もう一度ピロピロと軽快な笛やら金管楽器やらの音を背中に浴びて、買ったばかりの煙草の封を切る。渋谷の街は樹生のテリトリーとも言えるほど通い慣れた場所で、数個浮かんだ喫煙所の内、どこに行こうかと左右に視線を巡らせる。この時間帯は駅前も混んでいるだろうと、ここから二番目に近い場所へと決めた。
 手のひらの硬い部分に、煙草の底を二度、三度と打ち付ける。中に入っている葉っぱが綺麗に詰まるからだ、と誰かに教わってから習慣付いているが、果たして意味があるのかどうかは未だに分からない。振る前と振った後で違いはあるのだろうか、と不思議に思いながらも一本取り出し、喫煙所まであと五分の道のりを残したままで口に咥えた。
 実際に火を点けてしまうわけではない。ただ慰みのように上下の唇で挟み、ぶらぶらと舌で揺するだけ。ビルに掲げられた大型テレビから流れてくる流行りのバラード音楽に合わせる姿は、樹生の飾っていない服装と相まって軽薄な雰囲気を作り出していた。
 飛ぶように跳ねる足音に、オーバーサイズのTシャツの裾が揺れる。キャンパス地のスニーカーは行儀よく履かれているためか、踵の擦り減っている部分が左右で均等に割り振られている。火の点いていない咥え煙草を睨み付けてくるサラリーマンの隣を、樹生は口端を上げて通り過ぎていった。
 このまま鼻歌でも歌ってしまいそうなほど、今日は気分が良かった。新しい契約先は社長がまだ三十代半ばということも手伝って突飛な提案にも笑顔で乗ってくれ、打ち上げに選んだ居酒屋は大衆的な店構えのわりに酒の種類が豊富だった。初めて見る酒を煽り、摘まんだ食事も好みの真ん中を突いていて、また行ってみてもいいかもしれない。そう思って女将の名刺も貰った。
 さっきのコンビニで買った煙草も、何度か吸ったことのある銘柄であった。嫌いな匂いでも、重すぎるタール数でもない。何種類かあるフレーバーの中、シンプルなメンソールだったのも良い。樹生は昂っていく心のままに歩いていると、ふと逸らした視線の先が気になった。
 何処にでもいるような、普段なら意識を割くことも億劫になるような、接待終わりでお互いに頭を下げ合っているサラリーマン。四人いる内の三人は同じ会社なのか、遠目からでもタクシーに乗り込む間際の男性に媚び諂っているのが分かった。
 何十年と前から繰り返されていて、再生テープも擦り切れる間近だ。樹生自身も面白がって話のネタにするのも嫌気が差すくらい、薄くなってきたおじさんの頭頂部を眺めてきた。きっと視線を一つ左右に移してみれば、代り映えのしない光景が広がっているだろう。
 だけれど、裸眼でも充分に遠くを見通せる視力を持った彼の瞳は、何の変哲もないはずの男から離せなかった。
 ダークグレーだろうか、居酒屋から漏れる橙色の灯りを反射するスーツは量販店の吊るしになっているもので間違いないだろう。タクシーが角を曲がって見えなくなるまで下げたままの頭も、綺麗な四十五度を差した腰の角度も、すれ違っていくサラリーマンと何ら変わらない。
 下がっていた頭が持ち上がり、短く切り揃えられた髪の毛が微かに揺れる。鼻先にずり落ちていた眼鏡を人差し指と中指で持ち上げる仕草はどこか神経質そうにも見えて、それもまた有り触れたものだと言えるだろう。
 樹生はただ、咥えた煙草を上下の唇で揺らしながらじっと男を見つめる。何が自分の琴線に触れたのかは分からなかったが、このまま見逃してしまってはいけないと直感が告げていた。
 ダークグレーのスーツを纏った男の前では、恐らく彼の上司だろう年配の男が二人、部下の様子を気にすることもなく雑談を続けていた。にこやかな表情からは、去っていった男に高評価でももらえたのだろうと窺える。この男二人には何の感想も湧かないな、と少しだけずらしていた視線をまた後ろの男に向けて、樹生は静かに両の瞳を大きく開いた。
 下げていた頭を持ち上げたときは、確かに柔らかく微笑んでいたはずだ。眼鏡を上げる神経質そうな仕草と相まって満足気に見えたその顔は、今や表情の全てがすっかり抜け落ちている。微笑みがなくなっただけじゃない。喜びも、怒りも、疲れも、楽しさも。感情そのものが塗り潰されてしまったが如く、全てを消して、凪いでしまっていた。
 ただ、表情が抜け落ちただけならそれだけ仕事で疲れていたのだろう、と思えたかもしれない。けれど、背を向けていた二人の上司が振り返った先で、画面が切り替わったかのように男は落ち着き払った微笑みを浮かべていた。
 なんだ、あれ。
 とは、樹生の心を支配した感情だ。テレビを無遠慮にザッピングした結果のような、写真フォルダを適当に流し見ているような、瞬きの隙間さえ必要としていない。樹生は自身の感情が一から百へと飛びやすい自覚はあったが、男のそれはゼロと一に等しい変化だった。隣り合う数字であっても、無から有が生まれることは早々ないことだ。
 何事かを話していた三人の中で、控えるように立っている表情の変化が著しい男が一番の若手なのだろう。断りを入れてから二歩、三歩と雑談を続ける上司よりも前に出る。二人の間を横切る形になったためか、申し訳なさそうに苦く笑っていたくせして、見られていないと分かるとすぐに表情が消える。いつの間に変わったのかと不思議に思うほど、男は凪いだ湖面よりも静かな顔をしていた。
 ぐっと、自分の口角が持ち上がっていくのを、まるで他人事みたいに感じる。車がぎりぎり一台すれ違える程度の道路には信号も横断歩道もなく、距離にして十メートルも離れていない。樹生は咥えていただけの煙草を無造作にポケットへと押し入れ、真っ直ぐに男の元へと歩みを進めた。
 左側に視線を向けた男は上司のためだろうか、タクシーを止めようとしているらしいが、飲食店が軒を連ねていると言っても決して広い道ではない。大通りから一本入ったところの路地を、わざわざ流している運転手はなかなかいないだろう。誰かが乗り捨てた車を待つしかないが、こんな時間帯ではすぐに通りがかるとも思えない。
 今日の自分はやっぱり運が良い。昂っていく心臓の飛び跳ねる五月蝿い音を耳の奥で聞きながら、樹生は繰り出していく歩幅を少しずつ大きいものにしていく。あと数歩で男に手が届きそうになったところで、誰よりも先にほろ酔い気分の上司二人が樹生に気が付いた。
「おい、なんの用、だ……、っあ」
 なんの疑いもなくただ一直線に向かってくる軽薄そうな見た目の若い男に、ワイシャツの第一ボタンまできっちりと留めている中年の、おじさんと呼ばれるに相応しい男二人は不可解そうに首を傾げた後、ほとんど同じタイミングで驚愕の表情を浮かべた。
 部長職か、それとも係長止まりか。一番役職が上なのだろう男が慌てた様子で声を上げるよりも先に、樹生の手が上司の声に反応してようやく近付いてくる存在に気が付いたらしい男を捉えた。
「ねぇ、一緒に来てよ」
 伸ばした右手が男の左手を掬う。するりと絡め取った手のひらは薄いくせに柔らかく、指先を這わせた甲は僅かに血管が浮き出ていた。感触だけで男のものだと理解出来るそれに自分のものを重ね、渇いた指の隙間に一本ずつ差し込んでいく。
 所謂、恋人繋ぎと呼ばれるものの完成だ。ぎゅっと指先に力を込めて樹生は満足そうに笑うと、大して身長差のない場所にある男の瞳を覗き込んだ。眼鏡の奥にある睫毛は長くも短くもないもので、ぱちりぱちりと瞼の落ちる軽やかな音が二人の間に響いた。驚きに満ちた脳内では何も処理が追い付いていないのか、樹生の呼びかけとも誘いとも判別出来ない言葉に反応は返されない。
 樹生も確実な返事が欲しかったわけではないし、例え拒否されたとして連れ出さないという選択肢は持っていない。にんまりと上がった口角の皺を深くして、瞬きを繰り返すだけの男の反応も、呆気に取られている上司二人が上げようとしていた声も置き去りに、昂る心臓の音に合わせて踵を返す。絡めた指先に込める力は一層強くなって、樹生は混乱に溢れたその場からどんどんと離れていく。
 抜け落ちた表情に、驚きを浮かべさせたのは自分だ。一枚の薄いレンズに阻まれた先で、丸く開かれていた瞳には樹生だけが映り込んでいた。上司には張り付けたような笑みだけを浮かべていた男が、その凪いで静かになった顔に感情を乗せてくれる。その事実だけでも樹生の心はそわそわと落ち着きをなくし、前に突き出す足も力強さを増していった。
「ちょ、っと! 離せよ! つか、誰だよお前!」
 男はやっと状況が掴めたのか、赤信号に立ち止まった樹生から逃れようと繋がった手のひらを振り回す。右に、左に、と揺れ動く腕に合わせて上半身が傾き、信号が変わって歩き出そうとしても男が反対側に体重を乗せて一歩が踏み出せない。どうしたものか、と右側に揺れた手のひらを力任せに引っ張ってみると、思いのほかすんなりと男の身体が前に傾いた。
 そのまま自身の足も前に繰り出せば、青信号の点滅が始まった横断歩道に飛び出していた。男の放った言葉尻はお世辞にも綺麗だとは言えず、掠れた声色も手伝って柄は悪いものだったが、なんだかんだと抵抗の形は取られていない。
 樹生の手のひらから伝わっていく温度に期待をしているのか、それとも向かっている先に心当たりが欠片もないのか。どちらに転んでいるのかなど分かるものではなかったが、樹生の口元を彩る笑みがなくなることはない。
「おい! 聞いてんのかよ!」
「聞こえてるけど、離すわけなくない?」
 二人の間で、揺りかごのように重なった手のひらが右に、左に動いていく。抵抗というよりも何処か、戸惑いや気恥ずかしさを表しているかのようにも見える。突然知らない男に引き摺られているのだ。反対側に持っている硬いビジネス鞄で殴るなり、すれ違う他人に助けを求めるなり、樹生の歩みを阻む術はあるはずだ。
 それなのに、離せ、言うことを聞け、と喚くわりに腕を振るう程度の抵抗とは随分と可愛らしい。どうしてそんな弱々しい抗い方しか知らないのか樹生には分からなかったが、好都合だと握る右手のひらに力を込めた。
「っ、……くそっ」
 幼子よりもずっと素直な抵抗に意味など無いと判断したのか、左右に揺れ動いていた腕が大人しくなる。心なしか歩みそのものにもスムーズさが現れていて、樹生はちらりと視線だけを後ろに向けた。自分の腕が真っ直ぐに伸びた先で、不貞腐れた表情を隠しもしない男は何処か遠くに視線を預けている。不服に思っている様は分かりやすいのに、諦めの早さが際立っていた。
 整えられた眉に余分な力が込められていて、店先から漏れてくる明かりの色に眼鏡が光る。つん、と上向きに尖った唇は薄くて、酒のせいか僅かに赤く火照っていた。
 十人が見れば十人ともが普通、と答えそうな顔立ちの男は、決して樹生の好むタイプではない。だけれど、樹生の行動が原因で驚愕から不機嫌に表情を動かすこの男が、どうしてだか可愛く思えて仕方がなかった。コマ割りのように切り替わっていく表情が面白くて手を伸ばしたが、これは良い拾いものをしたのではなかろうか。
 樹生は昂り続ける心のままに、つい先ほど耳にして片隅に残っていた流行歌を鼻奥で奏でた。初めて聞いたメロディはサビ前の一部分しか聞き取れていなかったが、アップテンポで言葉数の多い歌詞が今の気分にはぴったりと合っている。
 脈絡のない鼻歌に男は驚きを浮かべたのか、それとも狂人だと怖がったのか。絡まった指先が微かに震えたが、振り解こうと揺れることはしなかった。
 聞き取れていた八小節程度の一部分を三度ほど繰り返したところで、樹生が目指していた建物がようやく見えてくる。横断歩道を渡りきってからは路地の奥へ、奥へと突き進んでいくだけで、次第にすれ違う人の数も減った。迷いなく角を曲がっていく足先に、ただ連れられていただけの男も何となく待ち構えているものに思い当たったのか、樹生の腕を後ろへと引っ張った。
 男の手のひらを掬い上げてから、一番強く見せられた抵抗であった。樹生は男の願いを叶えるかの如く歩みを止め、だけれど振り返ったその顔には愉悦ばかりが浮かんでいる。もう既に目的地の入り口にまでやって来たのだから、ここからの抵抗なんて何の役にも立ちはしない。
「なん、で……、ここ、……」
 繋いだ手の先で、男は煌々と光を放つ建物を呆然と見上げていた。不自然なまでのピンク色が玄関口からわざとらしく漏れ出していて、分かりやすいほどに分かりやすく、この建物の使用用途が告げられている。
「なに、ラブホはあんま使わない?」
 愕然と立ち尽くした男をにこやかに眺めていた樹生は、ぱたぱたと何度も上下に揺れる睫毛にこてり、と首を傾げて見せた。ホテルを使いたい人間と、使いたくない人間と。樹生は自宅に他人を招きたくはなくて専らホテルばかりを使っていたが、もしかしたら男は自宅でヤリたい派だったのかもしれない。
 使った中でもこのわざとらしい色味を除けば小綺麗で気に入っているところを選んでみたのだが、別の場所を探した方がいいのだろうか。この男ならば自宅でもいいような気持ちにはなるが、移動する時間さえも今は惜しい。樹生はぐるり、と視線を一周させて、男の顔の前に戻したところでひとつ、深い瞬きをした。
 唇を尖らせて不服そうに拗ねていた表情が、いつの間にか戸惑ったような、恥ずかしそうな、凡そ成人男性が浮かべるには可愛すぎる色に変わっていた。女子高生でももっと堂々とした顔を見せるだろうに、この変化はどういう意味が含まれているのだろうか。
 恥じらう生娘みたいな、初々しい困惑に切り替わるタイミングを見られなかった口惜しさはあるが、それ以上に眼鏡の奥で樹生の視線から逃げ惑っている瞳と、わざとらしいピンク色の照明に染まった耳から目が離せない。
 またひとつ、俺がその表情を変えてみせた。
 じわじわと湧き上がってくる感情の名前も、見せる形も、樹生は知らない。無から有を生み出していく男への好奇心だけを頼りに近付いて、掴み取った硬い身体は全て自分のものだと疑いたくはなかった。速く、早く、はやく。男の抱える内側を暴いて、ひとつ残らず触れてやりたいと思った。
 はやく、と急かす気持ちが頭の隅を焦がし、重ねた手のひらに汗が溜まっていく。灰色に澱んだ煙を上げる炎が頭から胸に、胸から腹にと下がり、下腹部では一途に出番を待機している自身が芯を持ち始めていた。
 絡めた指先に力が入れば、繋がった先が大きく揺れる。連れ去られてきた場所に戸惑い、彷徨っていた瞳と真っ直ぐに交わって、男にも樹生の灯した滾りが伝わってしまった。無意識だろうか、逃げようと一歩後ろに下がった男の足に、握った手のひらを引き込むことで自分との距離をゼロに近付けた。
「っな、に、なんで、」
「なんでって、あんたを抱きたいからに決まってんじゃん」
 揺れていた瞳が固まって、睫毛の生え際がはっきりと見てとれるほどに開かれる。大して高さの変わらない目線の下で、絡まった手のひらがまた右に、左に、と揺れ動き始めた。どれだけ抵抗されても離す気などなくて、繋がっていなかった男の右手も掬い上げると、真ん丸い瞳が漏れるピンク色の光を綺麗に反射した。
 ふらりふらり、揺すられていた手のひらはゆっくりと動きを止める。抵抗とも拒絶とも取れない反応は、存在していないのと同じだ。新たに掬い上げた右手を離し、樹生は漏れる光の中へと男を引き摺り込む。僅かにつっかえるような力はあったが、驚きに溢れた吐息が後ろから聞こえてきたから、恐らくは唐突に再開された歩みに足が縺れてしまっただけだろう。
 無人の受付に、いくつかの部屋が表示された電光掲示板。その中から一番シンプルな部屋を選んで、まだぼんやりとしたままの男を引っ張って奥へと進んでいく。鍵を受け取るときも、エレベーターの中でも、男は唇を中途半端に開けて樹生の後ろに大人しく従っていた。
 更新されていない設備は古く、金属製の鍵を回して扉を引くとぎぃ、と掠れた音が廊下に響く。樹生は先に男を部屋の中へと押し込み、後ろ手に鍵を閉めてから一向に動かない男の背中を押して歩みを促した。
 男からの抵抗が返ってくることはない。背中に添えていた手のひらで仰向けに回しながらベッドに押し倒すと、男のかけていた眼鏡が枕元へと転がった。
「あんたさぁ、男とは初めてじゃないでしょ」
「……それが、なんだよ」
「んー、別にぃ? 俺上手いから、期待しててよ」
 両腕を大袈裟に開いてスプリングに沈み込んでみせた男からは、抵抗も拒絶も、軽蔑もない。ピンク色に晒されていたときに見せた気恥ずかしさも消え失せて、真っ直ぐに見上げてくる表情は静かに凪いでいる。
 遊び慣れている雰囲気は纏っていなかったが、男との経験があるのははっきりと分かった。樹生は上まできっちりと締められたネクタイを緩め、ワイシャツの第三ボタンまで外したところで一息に裾を持ち上げた。吊るしのジャケットも、下に着込んでいた白いタンクトップも巻き込んで脱がせてみても、男は小さな溜息を吐き出すだけで抗うことはしなかった。
 蛍光灯の白々しい光が降り注ぐベッドの上で、男の上半身が暴かれる。最低限の筋肉がついているだけで、特別痩せているわけでもない。重力に従って浮き出たあばら骨も、散々に取引先の人間と飲んだのか張った下腹も、情欲を誘うだけの魅力はなかった。だけれど、樹生の両手が回りきってしまいそうなほど細く、薄い腰回りからは目が離せない。
 美味そうだと、誰かに思ったのは初めてだった。口内を満たしていく唾液を飲み込み、両手に持っていた男の洋服をベッドの下へと放り捨てる。ジャケットに纏わりついたシャツは皺になるだろうが、男が不満を口にすることもない。嚥下しきれなかった唾液が骨の浮く腰に落ち、滑っていく小さな刺激に揺れた。
「なっ、に、くすぐってぇ」
「なぁんも、気持ちぃくしてあげるからね」
 まるで童話の中の狼と同じだ。はやく目の前で震える男の全てを喰らい尽くして、底のない腹を満たしたい。ひとつ残らず、自分だけのものにしてやりたかった。
 下着の中で芯を持った自身が痛い。逸る心臓を落ち着けるように深く息を吸い込んで、樹生も纏っていたTシャツを脱ぎ捨てる。既に皺くちゃになりつつあるワイシャツの元へと送り出し、腹を括って襲われるのを待ちわびている男に覆い被さった。



「っん、ぅ……」
 スマートフォンを弄っていた樹生の隣で、こんもりと安っぽい布団で作り上げた山が呻き声を上げる。ふらりと払うように揺れ動く塊に布団を下げてやると、隠れていた男の顔が現れ、カーテンの開けられた大きな窓から入り込んでくる陽かりに開きかけた瞼をきつく閉じた。
 睫毛の下には薄く隈が塗られている。昨日、というよりもほんの三時間ほど前までは涙を散らしていた目尻は赤く腫れ上がっていて、瞼を下ろしていても情事の余韻を色濃く残していた。
 ふと樹生の脳裏に思い出されるのは、諦めたかのように両腕を投げ打った姿からは想像出来ないほど、快楽に浸かりきって蕩けた男の表情だった。鼻に引っ掛かって余計に掠れた声も、意地なのか癖なのか、樹生には縋りつかなかった指先が寄せるシーツの皺も、指三本が入るように解したアナルが樹生を受け入れてすぐに柔らかく溶けたことも、全てが予想外のことだった。
 上司の見ていないところでは見事なまでに表情を削ぎ落とした男が浮かべるには随分と卑猥で、従順で、可愛らしい。凪いだ表情をどこまで崩せるだろうかと意気込んではいたものの、ここまでの変化があるなど期待してはいなかった。
 セックスなんてものは自分が気持ち良ければそれでいいと自分勝手に快楽を追い求めていたが、男の善がり蕩ける姿はいつまでも眺めていたくて、何度も求め、吐き出すものがなくなるまで抱き潰してしまった。
「んぅ、まぶし、……は?」
 むずがるように何度か睫毛をきつく閉じて、擦ってはまた薄く開けてみて、と繰り返していた男がようやく起きる気持ちになったのか、揺れた睫毛の奥で瞼がゆっくりと持ち上がる。太陽の光に支配されていた視界が落ち着いたのか、幼い仕草にまるで赤ん坊を見守っているようだと笑みを浮かべていた樹生に焦点が結ばれた。
 事態を飲み込もうと何度も瞬いているが、点と点はなかなか繋がりそうにない。自分の下で痴態を晒していた姿とは似つかわしくない様子に、樹生は込み上げてきた感情の名前も知らずに手のひらを向ける。誰にも見られないよう仕舞い込みたくて、だけれどいっそその全てをかき乱してしまいたくて、自分が分からなくなった。
 伸ばした先でそっとかき上げた側頭部の髪の毛は短くて、まるで逃げるように指の隙間から飛び跳ねてしまう。
「気持ちかったでしょ?」
「……きもち、……っぅあ!」
 元々ハスキーな気のある男の声は、喘いで泣いて、と一晩中酷使していたおかげで見事に潰れきっている。鼻に掛かっているというよりも、喉の奥で引き攣れてしまっている声は、だけれど樹生にはどこか耳に馴染んで心地の良いものだった。
 問いかけられた言葉に一続きの記憶が蘇ったのか、男は苦虫を十匹もニ十匹も噛み潰したかのように眉根を寄せ、盛大に口元を歪めて見せた。例え強引だったとしても身体を重ねた相手に見せるとは思えない表情に、樹生は腹の底から笑いが込み上げてきた。
「ねぇ、気持ちかったでしょ、ってば」
「……調子乗んな、クソガキ」
 吐き出された言葉の温度は冷たいのに、つんと上向きに突き出された唇が男を随分と幼く見せる。初対面の同性に散々喘がされたのが恥ずかしいのか、口惜しいのか。拗ねて枕へと顔を隠してしまった男にひとつ笑いを溢して、樹生は弄っていたスマートフォンを放り出す。怠惰にベッドの上を腹ばいに移動して、適当に落とされたデニムパンツのポケットから煙草とライターを取り出した。
 八十一番の、濃い緑のパッケージは通常のものの半分程度の厚さしかない。新しく封を切ったばかりの箱から薄く巻かれた一本を取り出して、ライターの揺れる火を灯した。
「ねぇ、また俺に抱かれてよ」
「はぁ? なんで、」
「空イキするくらい気持ちかったんでしょ? 相性良いんだよ、俺たち」
 まぁ、俺が上手いって言うのもあるんだけどね。吸い込んだ煙を細く長く吐き出しながら付け足して、意地悪く口角を持ち上げて見下ろせば枕の隙間から不満そうに歪んだ瞳が見えた。
 上司の前では完璧に作り上げたような表情ばかりを浮かべていたのに、樹生の前では剥き出しのまま、ころころと喜怒哀楽が移り変わっていく。身体の相性が良いのも、指が回ってしまいそうなほど細い腰回りも、鼻に掛かって掠れた声色も。男の一つひとつが気に入ったのもあるが、男の寄せる感情の全てを取り溢したくないと思った。
 交わった視線に樹生の浮かべる欲を感じ取ったのか、男は一つ溜息を溢すだけで拒絶はしなかった。不服さを隠そうとしない姿に従順ぶりは窺えないが、どうも諦めることに慣れ過ぎているように見える。分かってはいながらもそれならそれで都合が良い、と樹生に指摘する気はなく、枕に額を擦りつけている男に圧し掛かった。
「ぅわ、あぶな、……ってお前、おい、煙草消せよ」
「んー?」
 惜しげもなく晒された背中に覆い被さって、首元に鼻先を埋めてからそっと顔を上げる。至近距離で覗いた目元はやっぱり睫毛が短くて、生え際が見えやすかった。造形自体は整っているが、印象に残る容姿をしているわけではない。眼鏡を外した視界では輪郭がぼやけるのか、起きてからずっと眉間には皺が寄っていた。
 樹生は圧し掛かったまま煙草を咥えて、ゆらりと煙を燻らせる。じりじりとフィルターが燃えていく先で灰の欠片が枕へと落ちて、男が不快感も露わに睨みつけてくる。禁煙者なのだろうか、と吐き出す煙の位置を変えるだけで、樹生がその細い一本を手放す様子はない。メンソールの粒を噛み砕いたからか、舌先が痺れて鼻奥の風通しが良くなった。
「……おい、一口」
「ん? あぁ、どーぞ」
 圧し潰されていること自体に不満はないらしい。乗っかったまま煙草を燻らせている樹生を暫く不機嫌そうに眺めて、すぐに諦めたのか枕に埋めていた頭を持ち上げた。消せ、と言いながらも薄っすらと開けられた唇はぽってりと赤みが増していて、ちらりと見える薄い舌が酷く美味そうに見えた。
 いっそこのままキスでもしてやろうか。
 そう思いながらも、樹生は不満を溢したその口に煙草を咥えさせてやった。危ないと文句を言いつつ自分も吸うんじゃん、なんて、欲をちらつかせながらにこやかに見ていれば、煙を吐き出そうともう一段階頭を持ち上げた男が一気に顔色を悪くした。
「はちっ、じ!? 遅刻、っつ、ぁ」
 丁度視線の先にある壁掛けの時計が目に入ったのだろう。勢いよく起き上がろうとして、圧し掛かる成人男性の重さに再度枕へと頭を埋める結果となった。樹生は焦る男の様子にごろりと背中から退いてやり、深く吸い込んだ煙草の煙を吐き出した。
「なに、仕事? だったら休みますって連絡しといたよ」
 あっけらかんとした、明るさだけを宿した声色であった。能天気に間延びした言葉を向けられた男は何を言われたのか理解が出来ないらしく、訝しさを含ませた視線を寄越してくる。それにも樹生は睫毛を一度震わせて、男の転がる枕元とは反対側からスマートフォンとネームプレートを取り出した。
 男が起きるまで樹生が弄っていたスマートフォンは透明のケースを嵌めていたが、二人の間に落とされたものには真っ黒いだけのケースが嵌められている。上向いたネームプレートには、五月七日つゆり理久りくという名前と、凪いだ表情を浮かべる男の顔写真が印刷されていた。
「おまっ、これっ、おれの、」
「えっ? うん、名前聞いてなかったし」
 男は驚けばいいのか、それとも叱りつければいいのか。迷うように口元を歪め、ぐにゃりと動かしてから、反省の色が一切見えない樹生の様子に脱力した。肺の中身全てをまき散らすかのような深く、長い溜息にも樹生は煙草を燻らせているだけで、何かを気にしている姿はない。
 他人の鞄を漁ろうだなんて、普段の樹生なら考えることもしない。善悪の話ではなく、単純にそんなことをする必要性が分からないのだ。
 抱き潰した自分に原因があるとはいえ、寝坊による遅刻なんて自分の知ったことではないし、それでクビになろうがなんだろうが、自分には関係のないこと。自分以外への興味関心が極端に薄い自覚は幼い頃から持っていたが、それを改善したいと思ったこともない。
 だけれど、目の前の男に対しては別だった。この男の感情は、全部自分のものであるべきだ。男が浮かべるものも、向ける先も、最初から最後まで俺だけに限っていればいい。男の全てが欲しくて、自分だけのものにしたくて、それが当たり前だとも思えてくる。
 だから、仕事先で男が勝手に叱られてしまうのが嫌だった。口惜しがる様も、理不尽に憤る姿も、原因は自分だけであってほしかった。それに、男の勤める先であればなんとでも出来る。だって。
「親父に名前は言っといたから、まぁ大丈夫でしょ」
「……は?」
「八月一日でほずみ。俺の苗字、珍しいでしょ?」
 ネームプレートの社名には、『八月一日ほずみ建設』と書かれている。ルビを振っていないと誰ひとりと正しく読み取ってはくれないが、この業界では数年前から常にトップレベルの業績を誇っている会社だ。社名と同じ苗字を掲げる一族が役員を占めているらしいが、ただの平社員でしかない男では社長の顔と名前くらいしか知らないし、本当に八月一日の一族が経営を担っているのかも分からない。
 男は入社してから昨日まで、無遅刻無欠席を貫いていた。真面目で害がなく、人当たりの良い男は部内でもそれなりに重宝されている。
 それなのに、五年以上勤めた先でやらかしてしまった。仮病による休み報告を、まさかの経営者一族にさせてしまったのだろうか。男は指先が冷えていくのを感じ、薄くなった枕に額から突っ込んだ。
「あ、理久はちゃんと下の名前で呼んでね。樹に生きる、でいつきだから」
 煙草の灰は根元にまで差し掛かっている。樹生の言葉が何ひとつと理解出来ないのか、それともしたくないのか。男が、理久が落ちていく灰を危ないと叱ることはなかった。


*****


「んっ、もう、やめっ、ろ、ってぇ、」
 枕元の照明だけが室内を照らす仄暗さの中、吐息に混ぜ込まれて随分と聞き取りづらくなった言葉が散っていく。鼻に引っ掛かっていつもより幾分か高く掠れてはいたが、一音で男のものだと分かる声は快楽に深く沈み込んでいた。
 僅かに灯された穏やかな橙色と、部屋の端から歩み寄ってくる闇の黒さと。両極端な色に染められた理久は、下着のひとつも身に付けていない。ほんの二時間ほど前まではしっかりと締められたネクタイにジャケット、と当たり障りのないサラリーマンの様相だったが、ホテルの部屋に辿り着いた途端に我慢の効かなくなった樹生によって全て取り払われてしまった。
「なんで? 好きでしょ、ここ」
 性急に身包みを剥がした張本人である樹生は、薄手のスウェットパーカーに緩いデニムパンツとカジュアルな服装であったものの、着崩れているところは見られない。理久だけが生まれたままの姿で、陽に焼けきっていない肌を薄っすらと赤く染めていた。
 たまたま見つけた男を無理矢理にホテルへと引き摺り込んだあの日から、丁度一週間が経っていた。本当はもっと早く、週末にでも連絡したかったのだが、樹生の予定がどうしても空いてはくれなかった。
 掠れた吐息に、凪いで消え去った表情からは想像出来ないほどの痴態。面倒だと眉根を寄せるくせして、投げかけた言葉にちゃんと答えてくれる律儀さ。思い出すたびに会いたくなって、どうにか仕事に区切りをつけてきた。終わらせることは出来なくとも、一応は企業の代表という立場にある樹生だ。なんとなくの言い訳をして、やっと生まれた隙間の時間。連絡をした先で気になって仕方がなかった男は、まさか二回目があるとは思わなかった、と他人事みたいに驚いて見せた。
 組み敷いた先の身体を見下ろして、樹生は天を仰いだ胸の尖りを爪先で弾く。平らだったはずのそこは刺激を与えるたびに形を変え、色を濃くして樹生のことを歓迎してくれる。だというのに、感じ入っている本人は嫌だ、やめろと涙を滲ませて振り乱れていた。
 ぴん、と戯れのように右の尖りを弾いて、反対側は指の腹で周りをゆっくりと焦らすように撫でてやる。決して乳頭には触れず、無意識に寄せてこられると逃げるように脇を擽った。激しく、優しく、けれど何よりも意地悪く。左右から違った刺激を与えられ続け、理久はとうとうこめかみに雫を垂らした。
 ホテルに引き摺り込んだのが二時間ほど前で、その十秒後には理久を一糸纏わぬ姿に剥いでいた。碌な会話もなく押し倒そうと画策した樹生の腹に蹴りを入れ、理久が全裸のまま向かったのはガラス張りのバスルーム。湯気で何をしているのか見えなくても、膝を抱えるように丸くなった影から準備をしているのだと分かった。穏やかに緊張した様で理久が出てきたのが一時間半前、それからは飽きることなく胸の尖りを弄り続けている。
 理久の腹の奥で燻る熱は、もう既に限界にまで達していた。抱かれる側になるのは初めてではないとはいえ、未開発の部分だけで果てることは出来ない。もどかしさに身を捩り、どれだけ叫んでみせても、樹生は鼻先にまで垂れた前髪の奥で不敵に笑うだけだった。
 嫌だ、やめろ、との言葉に込められているのは早く先に進んでくれ、というもので、樹生も正しく意味を読み取っている。だけれど、身も蓋もなく善がっている理久の姿に、やめてやる気にはならなかった。
 いつき、と。譫言のように舌足らずな掠れた声が何度も、何度も苛めている張本人の名前を紡ぐ。熱を上げた思考回路では逃げることも、ましてや自身で刺激を加えるという選択肢を持ち上げることも出来ず、一途なまでに歪む視界で樹生を捉えていた。
 真っ直ぐに向けられる瞳の蕩けきった熱さに、噛み締めて腫れぼったくなった唇から漏れる爛れた欲に、樹生は込み上げてくる笑いを堪えることが出来なかった。知らず持ち上がっていく口端に、喉の奥がごろごろとまるで猫のように鳴る。伝い落ちる雫が顎を滑って、組み敷いた身体に降り注いだ。
 胸の尖りを苛めていた両方の手を、あばら骨に、臍に、腰に。じれったいほどの時間を掛けてゆっくりと、滑り落としていく。指先が肌を擦るたびに理久の赤く熟れた唇から掠れた吐息が漏らされて、期待に震える視線が向けられる。
「触ってほしい?」
 浮き出た腰骨を掴んで、樹生は吊り目がちの目尻を下げて柔らかく微笑んだ。尋ねる声色は恥ずかしくなるくらい甘ったるいのに、まるで逃げ道を残してはいない。餌を前にした肉食獣のように怪しく光る瞳を向けられて、ぐずぐずに溶かされた思考だけが残された理久はひたすらに頷いた。
「はや、っく、なあ、」
 脂肪も筋肉もついていない薄っぺらい腰から、すり寄せられた膝頭へと手のひらを移す。左右に割り開くと抵抗もなく、すんなりと隠されていた秘部が顔を見せた。腰の下に挟んでいたクッションが僅かにずれて、尻が一層高く持ち上がる。
 身体を重ねてきた人の数を確かめたことなどないが、都合さえ良ければ男も女も相手に選んできた。その場限りの快楽を求めて誘った相手の身体なんて樹生はひとつも憶えてはいなかったが、誰よりも今、目の前に転がっている男が綺麗だと、疑いもなく思えてしまう。
 薄く広がった下生えの奥で、一度も触れていないはずのペニスが腹に届くほど勃ち上がり、先端からは透明の液体が糸を引いていた。特別大きくも、笑いになるほど小さくもない男のものをじっと眺めて、樹生はふっと小さく息を吐き出した。欲望に濡れた瞳の強さを隠しもしない様子に嫌な予感を覚えた理久は声を上げようとして、だけれど一歩踏み出すのが遅かった。
 丸い膝小僧を愛でるように撫でていた手のひらを膝頭から裏側へと移動させて、一言の遠慮もなく胸元にまで持ち上げる。唐突に折り曲げられて圧迫された腹が苦しくて、眉間に皺を寄せても樹生が気にする素振りはない。それどころか、息苦しさに表情を歪める理久をもっと眺めようとするかのように、真上から覆い被さってきた。
「っ、なっ、に、」
「ほしい?」
 圧し潰された苦しさで、理久は言葉が上手く繋げられない。尋ねる形も取れていない不明瞭な声色が聞こえていないのか、それとも最初から聞く気がないのか。空咳さえも漏らす理久の上で、樹生は興奮に頬を赤く染めた。
 緩いシルエットだったはずのデニムは、見事にテントを張っていた。硬い生地越しにもその大きさが分かってしまいそうなほど張り詰めた場所を、膝裏を持ち上げて晒された後孔に押し付ける。一度だとしても樹生の熱を受け入れて憶えてしまったそこは期待に口を震わせ、ペニスの先端から溢れ漏れた先走りが臍に水溜まりを作った。
 宙に浮いた足が揺れてしまうほど、押し付けてくる腰の動きが速い。まるで挿入され、自分本位に快楽だけを追い求めているかのような動きに、理久の視線は釘づけになってしまった。硬いデニム繊維に擦られる感触も、降り注いでくる呼気の熱さも、知れば知るほど腹の奥が燃え滾っていくかのようだった。
「ほら、ねぇ、理久。ほしいでしょ?」
 樹生が腰を揺らすたびに、見上げてくる瞳の焦点が合わなくなる。息が乱れ、とぷとぷと溢れてくる先走りが粘り気を増す。互いを染める期待は無意識に、だけれど確実に濃度を上げている。欲しいと言わせたくてここまで焦らしてみたが、上擦った吐息を漏らすことしか出来そうにない理久の様子に、樹生はひとつ溜息を溢した。
 我慢の限界は樹生も同じなのだ。完全に勃ち上がったペニスが痛い。持ち上げていた両足を自分の肩に乗せ、外した両手で未だ巻き付けられたままだったベルトに指を掛ける。かちゃり、と理久の上擦った声色だけが響く中で、金属の擦れる音が随分と高く鳴った。
 デニムパンツも、下着としてのパンツも見境なく膝まで下ろすと、窮屈なところに押し込められていたペニスが勢いよく飛び出してくる。経験人数を物語るが如く変色した長大なそれに、理久の喉はごくりと鳴った。飲み込んだはずの唾液は、火照った身体を冷やしてくれることなく滑り落ちていく。
 ぷちゅり、と。
 理久が自身で行った下準備だけが施された後孔に、僅かな先走りを滲ませた亀頭が当てられる。粘度のある液体が二つの距離を縮めてしまおうと、健気に隙間を埋めてきた。ゴムも、ローションも、何もない。滑りは互いの先走りだけで、このまま一息に挿入されてしまったら縁が切れてしまうだろう。きついのは理久だけではないと分かっているが、これ以上は樹生も待てそうになかった。
 腰を揺すって、先端が少しだけ沈み込む。だけれどまたすぐに引いて、ぷちゅりと押し付けるだけに留めた。理性が焼き切れそうで、掴んだ腰に込める力が強くなっていく。
 樹生は逸る自身の心を落ち着かせるように一度大きく息を吐き出して、それから上半身を折り曲げて理久の表情を窺った。とっくにずり落ちた眼鏡のせいで余計に視点が定まらないのか。ぼんやりと熱を帯びた瞳は互いの下腹部へと注がれているが、きちんと像を結んでいるようには思えなかった。
「理久?」
 尖りを擦られて散々に高められた快楽の海に溺れ、ぐずぐずに蕩けた理久の顔は涙に、鼻水に、汗に。そこら中の全てが何かも分からない液体に濡れていた。赤く腫れた目尻も、噛み痕のついてしまった唇も、枕と擦れて絡まった髪の毛も。スーツを着ているときとは比べ物にならないくらい乱れた姿は、全部が全部、余すところなく樹生のせいだった。
「っつ、き……、いつ、きぃ、」
 名前を呼べばふらふらと持ち上がってくる瞳も、燻った熱のせいで焦点は結ばれない。それでも無意識の中で何度も、何度も、樹生の名前を呼んでいた。
 この快楽に溺れ、熱に浮かされて乱れた姿は、俺だけしか見ていない。俺だけにしか見せられていない。樹生はその事実が嬉しくて、楽しくて。がむしゃらに泣き出してみたくなった。
「理久、りぃく。ほんっと、かぁーわい、……好き、すきだよ」
 濡れた頬に舌を乗せ、まるで犬猫が飼い主にするかのようにべろりと舐める。涙か、それとも汗か、塩っ気のあるそれは辛いはずなのに、理久が生み出したものだと思うと砂糖菓子を食べたときのように甘く感じた。
「、った、ねぇ、かっ、……んぁ、」
 汚いからやめろ、と開いた唇に、頬の柔らかな感触を味わっていた舌をねじ込んだ。逃げようと下がっていく舌はそのままに、上顎を舐め、前歯を舐め、むずがるように動いた舌に噛み付いた。自分のものよりも分厚く、短い舌を絡め取って、吸い付くと圧し掛かった先の身体がびくりと大袈裟に震える。
 名残惜しさに引かれつつ唇を離し、下腹部に視線を寄越しても擡げた先端からは透明の雫が僅かに漏れているだけ。火照ったままの身体を見ても達した様子はなく、だけれど互いに限界は超えてしまっている。
 今挿入してしまえば、きっと前よりもずっと乱れた理久を見ることが出来る。ぶわり、と腹の底から湧き上がってきた欲に、樹生はそのまま従ってやることに決めた。
 後孔の入り口に押し付けたまま放置していた自身を、溢れ漏れた先走りに任せて少しずつ突き入れていく。肩に乗せた理久の足が宙を蹴って、支えのない踵が背中にぶつかる。浮いた足先に加減など出来ているはずはないが、今は蹴られた痛みなど欠片として感じはしない。
「ぁ、あぁっ、ぃっ! 、んぅ、」
 逸らされた喉元さえも赤く火照っていて、張り出された喉仏に樹生は思わず噛み付いた。唇を挟んだ甘噛みは歯型を残すことなどしないが、痛みに力んだおかげで半分ほど挿し込んでいた樹生は容赦なく締め付けられる。血管の張り出た表面がきつく包まれて、誘い込むようにうねっていた壁を刺激した。
「っはぁ、きもちぃね、理久」
 噛み付いた先から唇を離し、顎を伝って唇に、鼻先に、目元に。軽やかなキスを降らせていく。ちゅ、ちゅっ、と鳴る可愛らしい音に、瞼を下ろしていた理久はゆっくりと睫毛を持ち上げた。
 とろとろに蕩けた瞳に痛みを訴える色はなく、樹生はそっと息を吐き出してから残りの半分ほどを一息に押し込んだ。ずちゅり、と腰が汗に湿った臀部に当たり、叫びを上げそうになった理久の唇は樹生によって食べられてしまう。
「んっ、ぅん、ぁ、ぃつ、きっ、」
「好き、理久、んっ、はぁ、っ、」
 挿し込まれた欲望が、包み込んでくる灼熱が、二人から余裕も思考も何もかもを奪っていく。唇を重ねたまま音にならない声で名前を呼ばれ、樹生は耐える必要もないと腰を揺らし、一層奥深くに打ち込んだ。先走りと、二人の溢す汗と。たったそれだけのはずなのに、結合部からは隠しきれない水温が部屋中に響き渡る。
「やぁ、っあぅ、んっ、ぃっ、いぁ、い、くぅ……!」
 亀頭が前立腺を押し潰したかと思えば、すぐに奥の突き当たりまで届いてしまう。臀部にぶつかる腰骨は痛みさえ訴えているはずなのに、それさえも今の理久には快楽だけを与えた。
 前立腺と突き当たりと、交互にぶつけられては快感の逃げ場所がない。乱れた呼吸も上がってしまう喘ぎも、重なった唇が全て喰らい尽くしてしまった。喉仏を惜しげもなく晒し、真っ赤に色付いた胸を突き出し、暴れる両手は柔らかなシーツを握り締め、理久はただ与えられる暴力的なまでの気持ち良さを受け止める。
「理久、……いいよ、イきな」
 重なっていた唇が離れて、蕩けた瞳を見やった樹生が耳元で言葉を落とす。腹の奥底で燻り続けている熱のせいで理久には何を言われたのか正しく理解は出来なかったが、それでも何かを察したのか、揺れていた足先にまで力が入り、圧し掛かる樹生へと両腕を伸ばした。
「ぃっ、くぅ、ん、んぁあああ」
 樹生の絞り出す熱い吐息が理久に降り注ぎ、最奥の壁に亀頭がぶつかった。伸ばした両手の指が汗で湿った後頭部を撫で、投げ捨てられていた足先が力みに丸くなる。勢いよく溢れ出た白濁が二人の間を濡らし、生暖かさに理久の背中が震えた。臍に溜まっていた透明の先走りと混じって、腹筋から腰へと零れていく。
 吐き出した理久に釣られて、突き当たりに亀頭を擦り付けていた樹生も締め付けに達してしまう。互いに漏れる吐息は熱く、まるで世界にある全てを燃やし尽くしてしまいそうな温度だった。
 力んだ身体じゅうが震えて、理久は息を整えるのもままならない。気持ち良さと、気怠さと。この心地良い微睡みの中眠ってしまえれば好い夢が見られそうだ。そう思って意識を手放してしまいたいのに、未だ中に挿し込まれたままの熱がなくならない。
「んぅ、っはぁ、いつ、き……?」
 見上げてくる瞳は蕩けているくせに、僅かな不安が滲んでいる。流れていった涙がこめかみで乾き、幾筋も痕を残していた。
「っあー、もー、ほんと、……かわいいなぁ」
 ぽつりと、無意識に零れ出た言葉は随分と熱を上げていて、それに呼応するかのように挿し込んだままのペニスが硬く、太く成長する。包み込まれた温かさにゆるゆると腰を動かしていると、快楽に沈んでいたはずの理久が驚愕に眉根を寄せていた。
「おい、もしかして、」
「まぁ、一回で終わるはずないよねぇ」
 にっこりと、今まで浮かべた何よりもずっと綺麗に微笑んだ樹生は確かに一度しか精を吐き出してはいない。だけれど散々に胸の尖りを苛められた理久は何度も空イキを繰り返していて、気怠さに包まれた身体はこれ以上の快楽を望んではいなかった。
 見開かれた瞳に、樹生はただ緩やかに腰を回すことで答える。理久もその動きにこのまま終わるはずはないと諦めがついたのか、深く長く息を吐き出した。
 余韻に力んでいた身体から、ふっと一息に力が抜けていく。締め付けていた後孔もぬかるんだことで、ますます樹生は調子に乗った。嫌だ、やめろ、とほんの少し前まで泣き叫んでいたくせに、昇るだけの快楽に恐怖さえ感じたくせに、当たり前のように樹生を受け入れようとする男が可愛くて仕方がない。
「りぃく、好きだよ」
「あー、っそ」
 樹生は上がっていく口角も、湧き出してくる滾った欲望も、止められる気が毛頭しなかった。あと何度、昂らせてやると違う表情が見られるのだろうか。自分だけが知る感情を増やしたくて、見つけたくて。逸る心のまま、抜けるぎりぎりまで熱を引き、そうして最奥まで一気にぶつけた。


*****


 丁寧に整えられていたはずのシーツが、何かも分からない液体を吸い込んで重く垂れ下がる。互いに何度果てたのかも分からず、響き渡る乱れた吐息はいつまでも鳴り止まない。樹生は項垂れるように理久へと沈ませていた身体をどうにか気力だけで起こし、濡れて冷たくなったシーツの海へと転がした。
「っから、むり、だ、って、」
「なんで、理久も気持ちかったでしょ?」
 幾分か呼吸も整い出した樹生と比べて、両腕を大の字に投げ出したままの理久は未だ荒ぶった状態で、どうにかこうにか、何とか言葉を紡いでいる様子であった。跳ねて聞き取りづらくなった声色は、元々のハスキーさに掠れが加わっている。すぐ隣に寝転んでいる樹生にはなんとか届いているだろうが、部屋全体を満たすことは出来そうにない。
 満身創痍の理久を余すところなく眺めるように、肘を立てて上向かせた手のひらに頬を乗せる。脱力した体勢に意地の悪い笑みを携えて、樹生は疑問のようにも、断定のようにも受け取れる問いを放った。
 理久を見つけて、一目で気に入って、自分のものだと確信して、ホテルへと連れ込んで。今日でもう何回目になるだろうか。少なくとも週に一度は誘っているのだから、とうの昔に両手の指では足りなくなった。気付けば季節も変わっている。
 何処にでも見かけるようなサラリーマン然としているくせして、理久はいつだって誰とも違っていたし、樹生を楽しませてくれた。
 後腐れのない関係ばかりを結んでいたらしい理久はあの日、無理矢理交換させられた連絡先に何も期待はしていなかったのだと言った。軽薄そうな見た目に、自分勝手な行動ばかりをする樹生の言葉なんて、一つも信用出来なかったと明るく笑う。
 だけれどそれは樹生にも言えることで、二回目を考えたのは理久が初めてであった。付き合った女性も、セフレの位置にいた男性も確かに存在してはいたが、理久に対して思ったように、全てを知りたいと渇望するようなことはなかった。
 自分についてこられないのは当たり前で、最初から諦めておくべきなのだ。他人と真っ正面から向き合わなかったことを淋しいとも、悲しいとも思ったことはない。
 次第に落ち着いてきた呼吸に、理久は一度深く息を吐き出した。重く、長く、熱っぽい溜息は無理だと繰り返す言葉を無視して挑んだ樹生に対する不満であろうが、未だにやついている男に気にする様子はない。
「加減ってさ、知ってる?」
 浮き沈みする胸は筋肉がないせいで薄っぺらいが、だからと言って脂肪の柔らかさがあるわけでもない。デスクワークが中心の理久は自分から運動をすることはないらしいが、太ることも痩せることも出来ないのだとぼやいていた。
 外していた眼鏡を掛けて、下瞼に僅かな影を落として睨み付けてくる理久は疲労感を欠片も隠そうとはしない。やりすぎだ、と言外に文句を溢れさせる理久の態度は、初めて身体を重ねたあの日から少しも変わりはしない。
 中身の詰まっていない甘ったれたピロートークを、樹生は求めていなかった。それは隣でこちらを睨み据えている男を相手にしているときだけでなく、今まで相手にしてきた誰にもに当て嵌まることである。欲求を発散させるために身体を明け渡していたはずなのに、それ以上は何を望むというのだろうか。
 樹生には取ってつけたような恥じらいを計画的に振り撒く女性の気持ちも、次を望んでがむしゃらに擦り寄ってくる男性の思惑も、気にするだけの魅力には欠けていた。互いに気持ち良くなって、燻っていた熱を吐き出して、はい終了。それで終わりでいいじゃないか。
 だからこそ、樹生はここ何年も恋人を作ろうとはしなかった。友人と立ち上げた会社が軌道に乗って忙しくなったのも理由の一つだとは言えるが、元から八月一日樹生という男は他人に興味関心がない。人間だけに限った話ではないのだが、彼にとって身内以外で特別視している存在はいなかった。
『聡すぎるのも考えものだな。』
 中学校に上がる直前、脈絡もなく樹生にそう告げたのは父親であった。学校で一番の成績は別の子だったし、全国模試では良くてB判定。頭が良いわけでは決してないくせに、一手も二手も先を読むことには長けていた。頭の回転が速く、他人の感情を読み取るのが上手かったのだ。
 グループが出来れば中心はいつだって自分だったし、望んでいなくても周りにはいつも人が群がっていた。簡単に人の心は掴めるのだと知って、だけれど容易い行為に熱が移ることも出来ない。他人を羨むこともなく、一過性の気楽さだけを受け入れていた。
 それなのに、だ。未だに睨み付ける瞳の鋭さを薄れさせない理久に対しては、どうでもいいと見捨てることが出来ないでいる。樹生が誰であるかを知ってからも、幾度となく身体を重ねても、理久の態度は最初から変わらない。限界を超えようとしてくる樹生に怒鳴り声を上げて、ベッドの上で管を巻く姿に呆れて、起き上がれるまで回復すればさっさとスーツを着込んで帰ってしまう。
「散々喘いでたくせにぃ」
「そっ、れとこれとは、違うだろ……」
 空調が効いていても晒された素肌には寒いのか、蹴り飛ばされて足元で丸められていた掛け布団を引き上げる。鼻先まで埋めながらこちらを見上げてくる理久の目元は、真っ赤に染まって腫れてしまっている。一方的に与えられる快楽に浸かりきって、小さな子どものように泣きじゃくってしまったからだろう。
 気持ちが良いことには割りと積極的な姿勢を見せるくせして、一糸纏わぬ姿を曝け出すことも、もっと欲しいと強請ることも理久は苦手としていた。もう嫌だと、もうやめてくれと、泣き喚く姿は腹の奥底に燻る熱を滾らせるだけだと、どうしてこの男は気が付かないのか。
 聞き入れてもらえないと呆れて小さくなっていく言葉尻は、掠れて完全に二酸化炭素と混ざってしまっている。高くも低くもなく、ほんの少しだけハスキーな声色が好きだ。吐息交じりの喘ぎも、呆れたように叱りつけてくる音も、鼓膜を震わせる全てが穏やかで、優しい。
 見上げ、睨み付けてくる瞳は剣呑さが垣間見えるのに、目尻に塗られた赤がどうしても可愛らしさを飾り付けてしまう。垂れているようにも見える瞳の形をしているのに、平行に上がった眉尻が凛々しさを作る。
 幾らか年上のはずなのに、自分の手によって表情を変えていく姿に胸の真ん中あたりがむず痒くなる。樹生は肘で支えていた身体を起こし、被っていた掛け布団を引き剥がして理久に抱き着いた。
「ぐぇ、っぉい、」
「理久さぁ、可愛く喘げるんだからもっと色気のある声出してよ」
「知らねぇよ……」
 太くも細くもなく、筋肉の厚みもない身体に面白味はないはずだ。それでも重なった肌の熱さに僅かな震えを見せた理久がやっぱりどうしても可愛く見えて、樹生は掠れた声と同じくらい気に入っている引き締まった腰回りに両腕を巻き付ける。
 皮膚に包まれていてもよく分かる骨盤の形に、骨の硬さを確かめるようにゆっくりと指先を這わしていく。目の前には重力に従ってより一層浮き出た鎖骨が現れ、湿ったぬるさを味わうように舌を伸ばした。
「ちょっ、おい、樹生!」
 上擦った制止の声は聞こえない振りをして、鎖骨の窪みに溜まったしょっぱい汗を舐める。空調に当てられて冷たくなった雫は舌の上で弾けて、痺れるような甘さを訴えてきた。かつり、とぶつかった鎖骨の端に、張り付いた汗さえも舐り取ろうと思いきり息を吸い込む。
 ふっ、と掻き消えた理久の呼吸音を頭の上で聞き留めて、鎖骨の端から肩先に唇を移動させる。二の腕に、首筋に、胸の尖りのすぐ隣に、吸い付いては真っ赤な花を咲かせていった。
「ふぅ、んっ、んぅ、」
 痛みを与えるほどきつく吸い上げ、時には程よい柔らかさの肉を食むように歯型を残し、散々に抱き潰した身体に痕を刻む。まるで自分のものだと主張するように、失わんと名前を書き記すかのように、理久の焼けていない肌に所有の証を増やしていく。
「ぁ、んま、付けんな」
「えー、俺のもんなんだからいいっしょ」
 やけにくぐもった声色だと視線だけを上げれば、晒した喉仏の奥で唇に手の甲を押し付けていた。セックス中はそんなことしないのに、と薄く息を吐き出して、囲い込むように両の手のひらを絡め取る。胸の真ん中に埋めていた頭を持ち上げて、遮るもののなくなった唇へと自身のそれを押し付けた。
 ちゅ、ちゅっ、と唇が触れ、離れるたびに湿った音が鳴る。欲の見えないバードキスを何度か繰り返し、満足したのか樹生は口端を引き上げて理久の上から退いた。
「理久の心が広いのも、優しいのも美点だとは思うんだけどさぁ。……それ、全部俺だけにちょーだいね」
「ん、あ……?」
 ふ、と自分から飛び出していった言葉に驚いて、だけれどすぐに納得してしまった。呆れたように全てを受け入れてしまう理久は単純で、素直で、まるで無垢な子どものようでもある。悪い大人に攫われなくて良かったなぁ、なんて、手放す気もない樹生が憐れんでみたところで仕方のない話だ。
 理久の左側に半身を沈めたかと思うと、またすぐにごろりと寝返りを打つ。圧し掛かられていた理久は乱れた呼吸を整えながらも呟かれた言葉の真意を探ろうと見つめていたが、ごろごろと転がっていく男からは何も浮かんではいない。
 美点、とは。呆けた調子で唇だけを動かして、それもすぐに首を振って霧散させる。二人の間に甘ったれた気配など色付いてはいないが、セックス中だけに許される睦言と同じであろうと理久は片付けてしまった。
 揺るぎないほどに根付いた諦め癖は、理久本人でさえどうとすることも出来ない。諦めることすら、諦めてしまう。そんな悪循環ともいえる思考に呆れてもいたが、まさか美点だと解釈する人間がいるとは。珍しく醸し出された甘ったるい雰囲気に、忘れてしまおうと頭を振った。
 無意識に溢した言葉が中途半端に流れていく中で合計三度の寝返りを打った樹生は、絡まった髪の毛などどうでもいいとばかりに放置して、ベッドサイドに放っておいた煙草とライターを手に取った。真っ黒い地に虹色の光が散るパッケージは、理久との待ち合わせ前にコンビニで購入していたものだ。
 フィルターまで白く覆われた一本を咥え、舌先で上下に揺り動かしてからライターを近付ける。百円と少しで買えてしまえるライターは何度か擦られて、ようやく淡い光をぼんやりと作り出した。
 じじっ、と紙と葉っぱが燃える微かな音がして、吸い込んだ煙を一息に吐き出す。一直線に伸びていく煙は次第に勢いをなくして、途中からは迷子のようにゆらりと高く上っていくだけである。一口味わってからカプセルを噛み砕いて、鼻に透けていくメンソールの清涼感を堪能した。
「だからベッドの上で吸うなよ。……樹生」
「んー? ほらよ」
 理久はぺったりとシーツに背中を引っ付けたまま、文句を言いながらも不機嫌さを装って樹生を呼ぶ。その声色の奥に含まされた意味を正しく受け取って、ヘッドボードに上半身を預けていた樹生は右手に挟み込んだ煙草の吸い口を理久に向けてやった。
 ベッドの上で吸うな、行儀が悪い、と注意をしてくるくせに、理久は必ず一口の煙草を強請った。彼自身も喫煙者ではあるが、抱き潰された身体では自分の煙草を取りに立つことも、一本を吸いきることも面倒なのだろう。
 向けられた吸い口を疑うこともなく唇に挟んで、指の先にまで沁み渡らせるように深く吸い込んだ。樹生の指先に上唇が僅かに触れて、消えない火照りが二人の間を交差する。
「樹生ってさ、銘柄にこだわりないの? いつも違うの吸ってるよな?」
 ゆっくりと、ゆっくりと。肺にまで浸透させた真っ白い煙を吐き出して、理久は眼鏡の奥に控える瞳を丸めて見上げてくる。投げ出した指先は何処に向かうこともせず、沈んだ身体の横でシーツに埋もれていた。
「銘柄ってか、番号で選んでるし。前は八十一番で、今は五十七番」
 不可思議そうな色をほんの少しだけ滲ませた視線を受けて、理久が吸ったばかりの煙草を咥えて上下に揺らす。隠すことでもないと明け透けに吐き出された言葉は、番号のときだけ意地の悪い微笑み付きであった。
 煙草の味にも、煙の匂いにも、樹生は興味がなかった。ふかしているだけではないのだが、吸えるのならそれで十分で、こだわりは何ひとつ持っていない。好き嫌いを感じることはないだろうと、ずっと苗字に組み込まれている数字で買っていた。
 コンビニだと百番以上の銘柄が揃えられているせいか、店舗を変えてもそれほど大きな変化があるわけではない。これと言った変化もなく同じようなものを吸い続けていたが、理久と出逢ったあの日から選ぶ数字が変わってしまった。
 深い緑の箱から、真っ黒い地に青や緑、虹色の光が散るパッケージへ。舌先に広がる甘さと鼻に向けていく清涼感は初めてのものであったが、理久を表す数字によるものなのだと思うと不思議と気分は高揚した。
「ごじゅうななばん? ……、って、お前!」
「っえ、ぅお! あっぶねぇ!」
 ぼんやりと見上げていた理久は数字の意味を汲み取って、下敷きにしていた枕を投げつけてきた。摘まみ上げている煙草を慌てて頭上に避難させ、飛び散っていく灰を呼気で払い除けている先で、当の本人は頭の先まで掛け布団で隠してしまう。
 だけれど相当急いで逃げたかったのか、薄らと骨の浮き出た背中が惜しげもなく晒されている。吸い付いて、噛み付いて、好き勝手に喰らい尽くした肌は触れなくても分かるほど汗ばんでいて、その様子に樹生は笑い声を上げた。
 組み敷いている先で何度も繰り返し可愛いと、好きだと、感じるままに伝えているはずだ。熱に浮かされて快楽に溺れている最中では掴みきれていないのだと思っていたが、もしかしたらこの男は恥ずかしがる部分がちょっとズレているのかもしれない。
 そんなところも可愛くて、煙草を咥える口端の皺が深くなってしまう。樹生にとっては自分の数字よりも、好きな相手の数字を選んだ方が美味しく吸える気がする、というだけのものなのだが、理久にはなんだか違って受け取れるらしい。
 飄々と叱りつけてみたり、呆れたように受け入れてみたり。理久の行動は読めないことが多くて面白い。五十七番の煙草から広がる甘く爽やかな匂いを吸い込んで、向けられた背中に思いきり吐き出した。僅かに温度が宿ったらしい煙に肩辺りの布団を震わせ、顔だけをこちらに向けた理久の目尻は未だ赤く染まっている。
「いる?」
「……いる」
 ふわふわと上っていく真っ白い煙を睨み付けて、長い溜息を吐き出してから理久は観念したかのように仰向けに戻る。さっきと同じように吸い口を口元まで持っていってやれば、フィルターに二度、三度と歯を立ててから深く吸い込んだ。
 手ずから煙を肺に含んでいく理久が幼く見えて、樹生はバレないように目尻に僅かばかりの皺を刻み付けた。可愛らしいと、愛おしいが混ざって、落ち着いていたはずの情欲がまた姿を現わせる。けれどきっと、これ以上は理久の機嫌を損ねてしまうだろう。
 不機嫌さを隠さず見せてくれて、最後は仕方がないと呆れた溜息を吐き出して苦く笑う。見せるだろう反応は容易に想像出来てしまえるが、別にわざわざ怒らせてしまいたいわけではない。不貞腐れている理久も可愛いけど、と樹生は熱を冷まそうと湿ったフィルターを咥える。
 やめておいてやろう、だなんて。樹生は誰に対しても持ち得なかった遠慮を胸に、理久の数字である五十七番の煙を深く、静かに味わった。


*****


『悪い、今日は無理』
 たったの一行で完結させられた言葉が返ってきたのは十七時を少し過ぎた辺りで、樹生は適当に流し見ていた飲食店の情報サイトを閉じた。
 理久と会うのはほとんどが煌びやかなラブホテルかシンプルなビジネスホテルであったが、落ち合ってそのままホテルへと直行することは少なくなった。互いに仕事で使って気に入った居酒屋に入ってみたり、行きつけのセレクトショップがあるくせにスーツのセンスが悪い理久にネクタイを選んでみたり。未だセフレとしか説明出来ないくせに、健全な関係性も築き始めていた。
 光り続けるスマートフォンの画面をどれだけ見つめても、斜めから透かして見ても、届いた言葉が変わってくれることなどない。初期設定のまま変えていない待ち受け画面に戻して、もう一度緑のアイコンを押して、一番上に表示された理久の名前をタップして。往生際悪く三度繰り返してみても、繋がるのは相も変わらず簡素な一言だけだった。
「っ、あー……」
 熱の籠ったような溜息を吐き出して、樹生は悩みに悩んで決めたリクライニングシートの背凭れに体重を掛けた。会社を設立したときから使っている貸しオフィスは、あと数ヶ月もすれば二回目の更新がやってくる。手狭になってきたからこれを機にちゃんとした場所を借りてみようか、という話も出てきてはいるが、引っ越し作業の面倒さを思うと腰がなかなか上がらない。
 目の前に置かれたパソコンがスリープモードに入って、部屋の中が薄暗くなる。夏も真っ盛りの毎日で陽が十分に長くなったと言っても、ビルに挟まれたこの部屋は太陽が天辺にいない限りは季節の影響を受けにくい。夕陽の真っ赤に熟れた色が見られないのが嫌だと、暑くなるたびに友人が愚痴を溢している。
 スマートフォンから醸される僅かな灯りだけでは心許無くて、樹生は背凭れに体重を預けたまま部屋の中をぐるりと見渡した。何のこだわりもない会社の中はシンプルで、だからこそ仕事以外で残ろうと思う人間などいない。ぐだぐだと無駄な時間を過ごしているのは樹生ただ一人で、部屋の隅は闇に沈み始めている。
 理久から断りの連絡が来るのは、別にこれが初めてというわけではない。それぞれに毎日の仕事をこなして、会社との付き合いもある。理久は企画部署にいると話していたが、内勤だからって接待がないわけでもない。誘うのは専らこちらばかりであったが、樹生にだって誘いたくても誘えない日というのは存在する。
 だけれど、こうして断りの連絡を一言で済まされたのは初めてだった。元々が真面目に出来ているのか、それとも社長子息を相手として遠慮しているのか、理久は必ず断った理由を添えてくれる。上司との飲み会だから、打ち合わせが長引くだろうから、出張の準備があるから。企画がボツになって気分が悪いから、と断られたこともある。
 そういうときこそセックスして気分転換するんじゃないの、と笑いながらも、正直に全てを曝け出す理久の遠慮ない姿を見ると不思議と安心出来て無理に呼び出したことはない。理久に向けて浮かべる仄暗い感情を自覚しながらも、彼との気兼ねないやり取りは楽しくて、わざわざ放り出すことをしようとは思えなかった。
 全てが知りたい、知らないところをなくしたい。ただの好奇心のようでいて、その正体はただの独占欲である。理久を一目見たあの瞬間からこうなることは分かっていた、分かっていて止められなかった。いや、樹生には止まるつもりなど欠片もなかった。
 全てが知りたい、全てが欲しい、理久の全ては自分のものだ。直感でしかない確信は、今も変わらずに樹生の中で生きている。誰にも持ち得なかった興味関心も、独占欲も、執着心も、どれもが理久だけに向かっていて、樹生はそれに満足していた。
 理久がどう思っているかはそこまで重要ではないけれど、今の流されているだけの状況は少しずつ変わっていくだろう。それが分かっているのに、見逃してやるわけなんてない。
 分かった、と了承の旨を返そうとして、二文字打っては消してしまう。会えないことに変わりはないのだからさっさと済ませてしまえばいいのにと思うのに、会えない理由が気になって仕方がない。どうせ仕事関連の用事だろうとは分かるのに、何が引っ掛かっているというのだろうか。
 はぁ、ともう一度深い溜息を吐き出して、樹生は軋ませていた背凭れから離れ、ひょこりと勢いよく立ち上がった。伝えられなかった理由をいくら考えたところで仕方がないのだから、一人で昂った身体をどうにかするしかない。理久と会うようになってからは適当に声を掛けることもしなくなったし理久以外に興味はなかったが、ただの発散ならば楽でいいかもしれない。
 男を見つけることが出来たら、理久を苛めるプレイの試しをしてみてもいいだろう。樹生は己の中にある独占欲が人間に向かえば誰よりも一途で、何よりも深く痛々しいのを理解している。理久をぐずぐずに鳴かせ、蕩けさせるのは自分だけでなければならない。
 純粋な痛みを齎したいわけではないし、そう言ったプレイを好んでいるわけでもないから、今日は留めていたプレイスタイルの練習に充てることにしよう。そうと決めたらスリープ状態のパソコンもそのままに、鍵の施錠だけを済ませて一人きりだった空間に背を向けた。
 なんとなく理久とは、ノーマルと言われるようなプレイしか試したことがない。最初は諦めたような色を強く見せていた理久も気持ち良いことには逆らえないのか、その身を硬く強張らせることもなくなっている。
 ただ挿入して締め付けの中を抉っているだけ、ただ弱いしこりや最奥の壁を突かれているだけ。それだけでも充分に気持ち良くなれているのは、身体の相性がひたすらに良いのだろう。互いに言及したことはないが、火照って力の抜けた身体が満足していることは分かる。
 不満はないけれど、試してみたいことがないわけではない。あれも、これも、それも。理久が今までに見せたことのない表情が見られるのなら、試してみないわけがない。
 勝手知ったる街並みを人に見せられないような想像を浮かべながら歩いていると、いつもパンツの後ろポケットに入れている煙草がないことに気が付いた。ヘビースモーカーでもない自分が、今朝買ったばかりの五十七番を切らすはずなどあり得ない。きっとパソコンの横にでも置き忘れてきたのだろう。
 取りに戻るほどの重要性はないが、無いと分かると吸ってみたくなるのは何の性であろうか。仕方がない、と今さっき通り過ぎたばかりのコンビニに寄ろうと踵を返して、踏み出した足裏が地面に落ちる前に止まってしまった。
 あれは、どういうことなのだろうか。目の前に広がった光景が、コマ送りのように錆び付いてしまう。持ち上げていた右足を静かに下ろし、変わらないと知りながら何度も瞬きを続けた。
 十メートルほど先に、たった一行の言葉で断りを寄越してきた理久がいた。夏仕様なのかジャケットもネクタイも見当たらず、シャツの第一ボタンも外されている。短く切り揃えられた髪の毛はワックスでかき上げられていて、萎びれる様子は見られなかった。
 それだけなら会社帰りの、ただ街を歩いているだけのサラリーマンだ。だけれど、理久は樹生が初めて見るほど豪快に笑っていた。上司の前では張り付けたようなうすら寒い笑みを刻み、樹生には年下を見守るような少し困った笑みを浮かべるだけの男が、凛々しさの見える眉尻を下げ、涙さえ滲ませて笑っている。
 なんだ、あれ。
 とは、理久に対して抱く二度目の感情であった。握り絡め取った手のひらを引いて、何処に連れ出しても理久は仕方がないと諦めて、呆れたように笑うだけ。面白おかしく喋ったことなどないが、それでも気負いなく笑っている姿なんて樹生は知らなかった。
 隣にいる男の腕が理久の肩に回って、反対側を歩く女が豊満な胸を惜しみなく絡めた二の腕に押し付けている。二人に行為に慣れているのか、理久は未だけらけらと場違いに笑うだけである。嫌がる素振りは見せなくて、近付いた距離に上がる笑い声さえも聞こえてきた。
 理久の浮かべる表情は、漏らす吐息は、一つ残らず自分が受け取るべきだと信じて疑ったことなどない。あいつは、俺だけのものなのに。樹生は初めて見る理久の屈託なく笑う姿に、腹の奥底から怒りが湧いてきた。
 それが嫉妬と名付けられたものなのだと、樹生は気付けない。こんな感情を抱くのは生まれて初めてなのだ、無自覚であることを誰が責められようか。指先が震えて、呼吸さえもままならなくなっていく。肌触りが良くて購入した綿のTシャツが、背中にべったりと張り付いたのが分かる。樹生は寄ろうと思っていたコンビニの前を通り過ぎて、笑い続けている理久へと近付いた。
 男の指先が理久の顎を撫で、樹生が何よりも気に入っている細い腰に女の腕が絡み付く。樹生の中で何かが弾け飛んで、視界の端が白く淡く燃え上がる。賑やかな街並みは人で溢れているというのに、樹生にはもう理久だけしか見えていなかった。
「だから理久は、……んぁ?」
「なに、どうしたの? って、いつぅ、んっ」
 伸ばした手のひらが理久の頬を捉え、力任せに引き込めば抵抗もなくするりと体重を預けてきた。傾いた身体を支え、丸く形どられた瞳に映り込む汗ばんだ自分の姿を隠そうと手のひらを当てる。暗くなった視界に声を上げる理久に気を留めることもなく、樹生は薄く開かれたままの唇に舌をねじ込んだ。
「ちょ、ぃんっ、ん、んぅ、っあ、」
 逃げていく舌を追いかけて、飛び出してこようとする息さえ飲み込み、溢れてくる唾液をしゃぶる。最中でもないのに、突き入れた口内の全てが熱かった。掬いきれなかったものが垂れて気持ち悪かったけれど、離してやる気にはなれない。
 腕の中に閉じ込めている身体が震えて、伸びてきた手のひらが力なく樹生の二の腕を掴む。指先に柔らかな布の繊維が引っ掛かって滑っていくのが恐ろしいのか、肘の辺りまで落ちたところで爪を立てられた。直接ぎりぎりと皮膚に食い込んでくる痛みに眉根は寄ってしまうが、腹の奥底で燃え続けている感情の前では幼子の癇癪よりも可愛らしいものだ。
 絡めていた先で逃れようと藻掻いていた舌も、いつからか自分から伸ばしてくるようになった。舌先を噛んで、歯列をなぞって、いよいよ理久の呼吸がままならなくなってきたのを感じたところで漸く唇を外す。身長はさして変わらないはずなのに、体重を預けている理久の上目遣いが潤んでいて、腹奥に別の熱が灯るのを感じた。
「んっ、ぁ、なんで、樹生……?」
 仄かな熱で濡らした吐息に名前を呼ばれ、真っ直ぐに見つめられて、樹生は細腰に回した両腕に力を込めた。囲い込んだ檻から獲物を逃さんとする力強さと貪欲さが合わさっていて、理久は無意識の内に喉を鳴らす。
「……理久? お前、は……?」
「っぁ、ちが、これは、っ、」
「勝手に呼んでんじゃねぇよ」
 自分だけを見つめていた蕩けた瞳が、ひとつ瞬いたのちに大きく開かれて呼ばれた方へと向きを変える。目尻に滲んでいた赤は残されたままで、情欲に染まりきった姿を見せたくなどない樹生は誰からも隠すように理久を抱き込んだ。
 眼鏡のフレームがこめかみに当たって、頬を温かい何かが伝っていく。僅かに息を詰めた理久の様子から金属が掠って血でも出たのだろうと思うのだが、呆然とこちらを見守る見知らぬ二人から視線を逸らすことは出来なかった。
 ノーネクタイとラフに着崩した格好の男と、フレアのロングスカートにヒールの高いパンプスを組み合わせた女。理久と同じ会社で働いている人間とは思えないし、幾らか年上にも感じる見た目から同級生ということもないだろう。他人との間に一定の線引きをしているみたいな理久との親密な仲を思って、巻き付けた指先に無遠慮な力がこもって握り締めてしまった。
「はぁ? なに、お前」
「……ちっ。理久、行こ」
「えっ? ぅわ、ちょっ、はぁ!?」
 数歩分距離の空いた先で、男の眉根が寄せられた。水と油、点と点。交わることなどひとつもないと一目で分かる雰囲気に、女が不安がるように眉尻を下げて見せる。言葉を吐き出したのは目の前の男の方が先で、地を這うような声色に樹生は舌を打った。
 平和的なやり取りなどするつもりはない。樹生は腕の中で怯えたように視線を左右に動かしている理久の手のひらを掬い、睨み付けてくる男へと背中を向けた。
 突然手を引かれて足が縺れたのか、軽く後ろに引っ張られるような感覚はあったけれど、樹生の歩みを止めるだけの力にはならなかった。去っていく背中を引き留めようとする声は聞こえてこない。それだけの関係性なのか、それとも、理久が自分で戻ってくるとでも信じているのか。
「っ、おい、樹生、おいってば!」
「うるさい、黙れ」
 いくら気に入っている相手の声色だとしても、今の樹生はトップレベルで機嫌が悪い。喚いてくる声が耳障りで、握り締める手のひらに潰さんばかりの力を込める。指先から骨の軋む音が伝わってきたけれど、それを気にするだけの余裕はない。ひゅっ、と不自然に乱れた空気の流れが聞こえてきたが、ぐるぐると腹奥で渦巻く熱の中ではそんなもの関係がなかった。
 引き摺る感覚が薄くなり、握り込んだ手のひらに自分じゃない力が込められる。ただ掬い上げていただけだった手のひらが、理久の意思で指先が深く絡み付いた。だけれど、樹生にはそれがご機嫌を窺っているようにも思えて、巣食う怒りが薄れてくれることもない。
 俺の、俺だけのものなのに。吐き出した重たい溜息が宙を舞って、ふらりと広がっていく。見たことのある困ったような笑みを、見たことのない純粋な笑い方を、一つひとつと思い出しては息が苦しくなった。
 静かになった理久を連れてたどり着いたのはたまたま視線の端に捉えたラブホテルで、二人のときも他の誰かとのときも使ったことはない。どんなところなのかは分からなかったが、知っている場所まではまだもう少し歩く必要がある。
 横目に振り返った先で、理久は気まずそうに俯いていた。その様子にまた怒りが湧いてきて、場所なんてどこでもいいだろうと自動扉を潜る。きつめに設定された冷房の風が頬の上を滑り、絡み合った手のひらの熱さを際立たせた。抵抗してくるのかと思ったけれど、口を噤んだ理久は大人しく後ろを着いてきている。
 饒舌な男というわけではない。ただ、嫌だと感じたことは素直に言葉へと変換するタイプではある。樹生の体力が途切れるまで何度も何度も続けられる行為も、ピロートーク代わりにベッドの上で燻らせる煙草も、隠すこともなく罵倒された。
 繰り返される声色は散々好き勝手に喘がされたせいで掠れて、吐き出される言葉尻も含めて聞き取りづらい。だけれど、樹生はそんな理久の態度が心地良かった。媚び諂うことも、顔色を窺われることも、遠慮されることもない。ただの八月一日樹生を見てくれている理久のことが、何よりも好ましいと思った。
 だからこそ、耐えられない。理久は樹生だけのものだ。樹生だけに許されて、理久だけが許される。そうでなくてはいけない。
 怒りとも不快感とも判別が付かなくなった感情が、腹の奥で渦を巻き続けている。休日でもないくせして、空いているのは最上階の無駄に広いスイートルームだけだった。セックスをする為だけの場所に、どうしてホームシアターなんてものが必要なのだろうか。
 意味など分からなかったが、空いているのがそこだけなのならば仕方がない。ベッドさえ綺麗に整えられていればいいのだ、と僅かな逡巡を残して樹生は部屋を取り、エレベーターへと向かう。
 丁度良く一階に辿り着いたエレベーターが、燻る欲を焦がすようにゆっくりと扉を開けていく。碌に中を確認しなかった樹生が、出てこようとしていた丈の短いワンピースを着た女性とぶつかりそうになる。鼻に引っ掛かったような甲高い悲鳴が狭い直方体の中で響き、奥に立っていたスーツ姿の男が樹生を睨み付けた。
 女の声に視線を上げた理久が、落ち着かせるように握られた手のひらを自分の方へと引き寄せる。樹生は悲鳴を上げたきり熱っぽい視線を向けてくる女にも、今の状況に不満を抱いて八つ当たりしてくる男にも、欠片も興味が湧かなかった。今はただ、理久のことしか考えられない。
「さっさと出てくんない?」
 冷え切った声色に、あわよくば次のセフレにでもしようかと画策していた女は持っていた鞄を滑り落とし、男は情けなくも逃げるように二人の前から立ち去っていった。後を追うように走っていく女は、最後に二人のきつく絡められた指先に視線を寄越す。彼女の眉間には力がこもり過ぎて白くなった二つの男の手を、気持ち悪がるように皺が刻まれていた。
 上昇していく狭い箱の中は、先ほどの女が使っていた香水だろうか。数種類の花を煮詰めたような甘ったるい香りが充満していて、樹生は煙草を咥えようとポケットに手をやろうとする。だけれど右手は理久と繋がっていて、わざわざ遠い方の腕を使う気にはならない。
 ふ、と煙草の燻された清涼感ではなく、目の前で太くも細くもない身体を精いっぱいに縮めようとしている男を感じたいと思った。あと少しで到着する部屋までなど待ってはいられない。
 繋がったままの手のひらに少しの力を加えてやると、視線を合わせようとしない理久は突然のことに大人しく身体を傾かせた。樹生は倒れ込んでくる薄っぺらい上半身を抱き込んで、夏仕様で緩くなった首元に鼻先を埋める。漂うのは柑橘類の爽やかさと、じんわりと滲ませた真新しい汗のしょっぱさだ。
「ぅ、あ? え、樹生、なに?」
 小さな身じろぎに合わせて汗の香りが強くなる。恥ずかしいのか、照れくさいのか。抱き込んだ腕の中で、理久の体温が一息に上がっていくのが分かった。同性が醸す汗なんて普段なら気持ちが悪いと遠ざけるものであるが、理久から排出されたと思うと自分のものだと優越感が生まれてしまう。
 シャツの隙間にねじ込んでいた鼻先を浮かせて、湿って白色蛍光灯の輝きを反射する肌に舌を這わす。塩のようだと形容される分泌液だったが、樹生の元へと不快感を運んでくることはない。それどころか、後に残るざらつきに何度も舐めしゃぶってしまう。
「ひっ、ぅう、やめっ、やめろってぇっ」
 びくびくと小刻みに肩が跳ね、押さえつけているはずの腰が緩やかに動く。太腿の間に片足を突き込んでやると我慢ならなかったのか、膨らみを帯びた足の付け根を押し付けられた。
 ちん、と。窮屈そうに布を押し上げた昂りに手を差し出そうとしたところで、タイミングが良いのか悪いのか、目的の最上階でエレベーターが止まった。外観は温かな橙色の灯りに照らされて綺麗に整備されているように見えたが、実際の築年数は幾らか経過しているのか、エレベーターの扉が開くのは随分と遅い。
 左右にゆっくりと開いていった先で、果たして人はいなかった。樹生の肩越しにいち早くそれを確認した理久の身体から強張りが解けていき、ぬるい溜息が樹生の無造作に伸ばされた髪の毛先を弄んだ。
 舌打ちが飛び出そうになって、口内に溜まった唾液と一緒に飲み込む。埋めた首筋から離れたくなどなかったが、樹生は耐えるように握り締められていた理久の右手を掬うと、慰めるように手の甲をひとつ撫で、解けた隙に指を絡め取った。
 最上階にはスイートルームが二つあるだけで、スタッフの出入りさえ最低限しか行われていないようだった。静まりかえった廊下を進み、手前に設けられている扉の前で止まる。隣は空室のまま、今日が過ぎてくれるのを祈る。カードキーで開いた先で、モデルルームと遜色ないような落ち着いた色味の空間が広がった。
 ラブホテル特有の色っぽさは何処にも存在していなくて、呆気に取られているらしい理久の身体を皺ひとつないベッドへと放り投げる。間接照明は穏やかなクリーム色で、理久の垂れているくせに少しだけ上向いた目尻のラインを柔らかに見せつけた。
 仰向けに転がされたというのに、理久は未だに事態を把握出来ていないのか、幼子のように睫毛を揺らして真っ直ぐに樹生を見上げてくる。自分よりも年上なのだと知っているはずなのに、何故だかこの男を両腕の中に囲い込んで、自分だけを与えて、甘やかしてしまいたくなる。
 昼間のような色合いの照明から理久を隠すかの如く覆い被さり、スラックスに仕舞われていたシャツを引き抜く。第三ボタンまで外して首から脱がせてやると、ようやく理久が暴れ始めた。
「おいこら、樹生! 待てって! ちょ、おい!」
 逃げようと懸命に樹生の肩を両手で押し返し、じたばたと宙を蹴る足の爪先が整えられていたシーツに波を起こす。訳も分からずにホテルまで連れ去られ、何も言われずに押し倒された恐怖があるのだろう。エレベーターで抱き込んだときからずっと震えていることに樹生も気が付いてはいたが、それに配慮して優しくしてやる余裕など持てそうになかった。
 眼鏡が当たらないように引き上げていたシャツを肘の辺りでぐしゃぐしゃに丸め、藻掻いた程度では引き抜けないようにする。思い通りにならない両腕に理久はまた両足を蹴り上げたが、面白くないのは樹生も同じである。
 引き払ったシャツの下で、晒されたのは陽に焼けていない白磁の肌だった。いくら暑くなってきたと言っても、白いワイシャツは透けやすいのだ。分かっているはずなのに、素肌のまま一枚しか身に纏っていなかった理久に怒りが湧き上がってくる。
 見せつけられた胸の真ん中で、淡いピンク色をした尖りがつん、と天を向く。緩めに設定された空調は興奮した身体には熱いくらいで、だからこそ反応しているそこが目に付いた。
 犯されると期待しているこの男に、どう快感を明け渡してやろうか。隣り合っていたあの男女とは、これからホテルにでも連れ立つつもりであったのだろうか。この身体も、吐息も、齎される感情も、全ては樹生のものであるはずなのに、理久はどうしてあんな奴らと一緒にいたのだろうか。
 一つ、ふたつ。振り落ちてくる思考が邪魔をして、何かしらを理久が叫んでいるというのに上手く聞き取れない。ふらりと飛び込むように理久の胸元へと顔を近付け、期待か恐怖か、可愛らしく震えている尖りへと舌を這わす。
「んぁ、ちょ、っと、はっ、ぁ!」
 飴玉を転がすように舌の上でころころと転がして、もう一方は指の腹で優しく擦ってやる。爪や歯は立てないように、湧き上がる怒りとは真逆に甘やかすように、蕩けさせるように、乳頭に刺激を与える。
 口では待て、やめろ、と嘯いているが、覆い被さった身体の下で、我慢ならない昂りが押し付けられているのが分かる。自由にならない両腕が頭上から降りて、高められていく肌を悪戯に擽っている樹生の髪の毛に乗せられた。そうするとまるでもっと、と強請っているようで、樹生は口惜しさに口端を持ち上げた。
 舌で優しく転がしていた尖りを、ぎゅっと乱暴に押し潰してやる。途端に大きくなる喘ぎ声に、反対側は尖りから指の腹を離し、焦らすように周りで円を描いた。
「ひぅ、っんあ、ぃつ、きぃ、ぃ、ぁ、」
 掠れて鼻に引っ掛かった声色が響いて、もしあの二人がこの声を聞いていたらと想像して、詰られる感度に悶える男を閉じ込めてしまいたい衝動に駆られる。理久は、自分が樹生のものだという自覚が足りていないのだろうか。
 樹生は自分の齎す感情が度を越えているのだと、幼い頃から知っていた。何でも出来るが所以に、何ものも望まない。他人とは当たり障りのない関係性だけを築いていた男ではあるが、裏を返せば執着と依存の塊であった。
 気に入ったものは何があっても手放さなかったし、何ものよりも大切に丁寧に接していた。忙しい親代わりとして買ってもらったくまのぬいぐるみも、単純さにのめり込んだサバイバルゲームの道具も、自分のものだと決めると周りが気味悪がるくらいに抱き込んだ。誰にも触らせなかったし、見せびらかしたいとも思わない。自分の中だけで大切にして、可愛がって、愛し尽くしていたかった。
 他人は早々、ここまでの感情にはならないのだろう。樹生が中学に上がったと同時に離婚した両親の背中を見ればそれがよく分かったし、誰かに理解してもらいたいわけでもない。適当な人付き合いが苦手な方でもなかったから、流されるままでいいと思っていた。
 そんなときに見つけたのが理久で、人間相手に執着を覚えたのは初めてだった。一目見たときから手放せないと確信していたし、自分のものになるという絶対的な自信もあった。五月七日理久という男は俺のもので、俺だけのものだ。恍惚にも似た感情ばかりが先走って、ひたすらに手を伸ばし続けている。
 あの男が、あの女が、理久にとっての誰かなど欠片も関係がない。俺のものに触れて、俺のものに笑いかけられていた。あんな笑い方を向けられたことは未だになくて、それが余計に口惜しかった。
「っは、はぁ、……樹生?」
 舌先で、指の腹で、爪の先で、愛撫していた胸の尖りはすっかり冷えてしまった。渦巻く思考に飲み込まれていたのか、熱のこもる声色に呼ばれたときには縋りつくように理久を抱き締めていた。
 後頭部に乗せられていたシャツ混じりの両腕が除けられ、中途半端にずり落ちた眼鏡の奥で、理久は不安げに眉尻を歪めていた。快楽によるものなのか、涙の滲んだ瞳が柔らかな光を反射して眩しい。
「理久は俺のものだろ、俺以外に抱かれんなよ」
「っ、はぁ? さっきのは兄姉だよ、……つか、俺のものって、」
 瞬きをするたびに雫が飛んで、短い睫毛が濡れていく。寄せられた眉根には消えていった言葉の続きが隠されているような気がして、樹生は負けるものか、と眉間に皺を刻んだ。不満に思っているのは理久だけじゃないのだと、示しているのは子どものわがままと同じである。
「俺のものだよ、当たり前だろ」
 無理矢理にシャツを剥かれた男と、きちんと着込んだまま覆い被さる男と。ラブホテルという名に相応しい様相をしているくせに、二人を取り巻く雰囲気に艶やかさなど掻き消えてしまった。
 理久は言葉のままを受け取っていいのかと迷って真っ直ぐに向けられる瞳を見返すが、樹生はありのままを伝えているのだからこれ以上は説明のしようがなかった。樹生にとっては言葉の通りに、理久は樹生のものであり、当たり前だと自信たっぷりに言いきってしまえる事象なのだ。
 樹生は埋めていた胸元から這い上がるように移動し、逃げを打つ身体を抱き込んだまま唇を寄せる。止めろ、だとかなんとか言おうとしていたのか、半開きになっていた唇にぬめった舌を差し込んで、歯列をゆっくりとなぞっていく。
 喉奥で縮こまっていた舌を絡め取ってやると、互いに爛れるほどに熱く燃えているのが分かる。樹生は逃がさないように舌先を吸い、薄ぼやけた肉に歯を立て、滑り落ちようとしている唾液さえ飲み込んだ。
「ぁぅ、んぅ、やっ、ん、ぅ、」
 細切れに溢されていく吐息に、頭の上で緩く拘束していた腕が藻掻き出す。名残惜しさを残しつつも重なった唇を離してやると、二人の間に銀糸が舞った。
 引き抜くのが面倒でシャツを纏わせていただけで、中途半端な拘束にそれ以上の意味はない。のたうつ身体を起き上がらせて、両腕から皺くちゃになった元ワイシャツを引き抜いてやった。
 ここまで皺が目立つと着て帰るのも憚れるのだろうが、理久は一体どうやって帰るのだろうか。引き起こしたのは樹生自身であるはずなのに、他人事のように眺めてベッド脇へと落とした。
「樹生ってさ、もしかして俺のこと好きなの?」
 向かい合った状態で座り込み、視線は交わらせないまま。ぼんやりと熱に浮かされたような声色を落としたのは、胡坐をかく樹生の前で体育座りの形を取っていた理久だ。
 丸く見開かれた瞳の奥には、純粋な疑問ばかりが浮かんでいて、問いかけられた側の樹生も同じようにぱちくりと瞼を揺らす。心当たりなどまるでないと断言している目の前の男の鈍感さに何を思うでもなく、樹生の口元は自信満々に弧を描いた。
「なに、当たり前じゃん」
「いや、当たり前って……。一回も言ってないだろ」
 訝しさを含ませた視線を一直線に向けられて、樹生は胡坐をかいた上で腕を組んだ。組み敷いた上で、細腰を掴んで揺さぶる最中で、何度も繰り返し伝えていたはずだ。好きも、可愛いも、俺のものだということも。分からない方がおかしいだろうと樹生は思うのだが、理久の中ではそのどれもが冗談の類で済まされてしまっていた。
「理久は俺のもんだよ。手放してやる気なんてないし、逃げるつもりなら全力で追いかけてやるよ」
「なんでだよ、ただのセフレだろ」
「違う、お前は俺のものだって。……こう言えばいい? 一目惚れだって」
 隠れるところなんてないのに、セフレだと言葉にした途端、抱え直した膝の上に額を押し付けて表情を見えなくしてしまう。自分から言っておいて、その関係性に不安がっているのは理久の方だろう。
 いつも誘うのは樹生ばかりで、理久から夜を共にしようと連絡が送られてきたことはない。だけれど、断るときの理由はいつもはっきりとしていた。今日も理久の説明を信じるのならば、兄姉との約束が先に立っていたのだろう。
 理久は快楽に従順なタイプのようだと分かってはいるが、特定の相手を作らないところを見ると面倒事は嫌いなはず。身体の相性が良いとはいえ、樹生の誘いを理由もなく断らないのはそこに情が芽生えてしまっている証拠だ。それにきっと、理久は気付いていない。
 髪の毛を短く切り揃えているせいで、真っ赤に染まった耳殻がよく見えた。樹生は遠慮もなく熱くなったそこに冷えた指を這わせ、首筋に、項に、背中に、移り進んでいく。
「理久もさ、俺のことめっちゃ好きじゃん」
 初めて向かい合ったときは、不思議なくらい諦めの早い男だと思った。抗うことをしないのは元来の性格だろうが、樹生の伸ばした手のひらを受け入れ、全てを拒絶しないのはそれこそ、愛情と呼べるものだと思う。
 思っていた以上に甘ったるく響いた樹生の声色に、往生際悪く逃げていた理久が思いきり頭を持ち上げる。その拍子に撫でていた樹生の指先が離れ、ふわりと宙に浮かび上がった。耳殻を染め上げていた赤が目尻にも、頬にも、鼻先にも。いたるところに移動していって、林檎のように熟れて収穫期を迎える。
「……なに、それ、」
「相思相愛っていいね」
 投げ出していたもう一つの腕を持ち上げて、熟れた身体を縮こまらせる目の前の男を抱き締める。小さく揺れて強張った肩も、落ち着かせるように撫でてやれば少しずつ力が抜けていく。
 未だ真っ赤に染まった耳殻に舌を滑らせ、何の飾りもついていない耳朶に歯を立てる。傷みに震えた理久が湿った吐息を吐き出して、それが樹生の首筋を火照らせていく。
 無自覚だった男も、これでようやく分かっただろう。樹生もただ真っ直ぐ伸ばしていた両腕の中で、これほどの愛情が育つとは思っていなかった。
 樹生を呼ぶ掠れて鼻に引っ掛かった声色も、両手に収まってしまいそうなほどに華奢な腰回りも、年上ぶってくる子どもっぽいところも。理久を作る一つひとつに、どうしてこんなに惹きこまれるのだろう。
 それは樹生だけではなく、理久も全くの同じである。手放せなくなって、そうして生まれた愛おしさの名前を、二人はもう知ってしまった。
「……樹生、さ、もぉ、」
 膝を抱えて何かから自分を守ろうとしていた両腕が持ち上がって、背中に回される。背骨をゆっくりと辿っていく指先には隠しきれない熱が籠められていて、樹生は無意識の内に深く笑っていた。
「じゃあ、初夜といきますか」
 覗き込んだ瞳の奥で、期待が滲んで淡く蕩けている。自覚されたばかりの真っ新な感情はまだ見られなくて、だけれど絡まった舌先の甘さが随分と深くなった。二人の間に生まれた欲も、愛も。幼子のように無垢なくせして、互いに沈んだ昂りを見つけていた。


*****


 安っぽい明かりに照らされて、キングサイズのベッドに並んで寝転んだ二人の汗が光る。なかなか息が整えられないのは、僅かに柔らかさの失くした枕に額を擦り付けている理久だけであった。
「なんで、そんな、げんき、なっ、げほっ、……ぅえ」
 身体を濡らす汗も、こびり付いた白濁も、何かも分からなくなった液体も。まるで気にしていない様子で、ヘッドボードに背中を預けた樹生は今日も変わらず五十七番の煙草を燻らせている。光からの干渉を受けずに揺蕩うその身は、迷うことなく真っ直ぐに天へと向かっていた。
 理久との待ち合わせ前に立ち寄ったコンビニで、樹生はいつものように番号だけを店員に告げた。その場所にどんな色味が並んでいるのかは問題ではなく、ただ理久と同じ番号でさえあれば良い。昼に行った定食屋が現金払いのみに限っていたから、もしかしたらポケットの中にまだ小銭が残っているかもしれない。
 視線を上げずにパーカーやデニムパンツのポケットに手のひらを突っ込んでいた樹生は、だけれど時が止まったかのように進まない会計に眉根を寄せる。訝しさを隠しもしないで見上げた先で、綺麗なポニーテールを作った大学生風の女性が頬を赤らめていた。なんだ、と思ったところで指先に硬い何かが引っ掛かった。
 出してみると小銭ばかりで、ちょうど五百円玉が見つかる。トレイに乗せたところでようやく動き出した女性がスキャンした煙草は、濃い緑に紫のラインが入った薄い箱だった。不足も超過もない小銭が金属皿の上で転がって、裏向きに落ちる。女性の手のひらから奪うように煙草を受け取って、声を掛けることも掛けられることもせずに背中を向けた。
 彼女の頬が赤かった理由は何だろうか、考えてみたところで分かるわけがない。真っ直ぐに伸びて、溶けて消えていく煙の先を眺めていると、急に膝頭が痒くなった。
「……何してんの?」
「いや、ぼーっとしてたから」
 宙に浮かせていた視線を落としてみれば、そこには爪先で膝のお皿部分を擽っている理久がいた。ベッドの端で居心地悪そうにしていた眼鏡は元の位置に戻り、蛍光灯の光りを反射して瞳の奥底を切り取ってしまう。微かに上がっている口角から楽しんでいるのだろうとは思うのだが、何がしたいのかまでは窺えなかった。
 理久に視線を預けたまま、一口分の煙を吸い込んでゆっくりと、小刻みに吐き出していく。ふわりふわり、と覚束ない進路を取った煙は、それでも最後は天井に向かうだけだ。
 シーツさえも被っていない理久の首筋には、肩には、胸には、背中には。赤黒くなった鬱血痕と歯型が所狭しと刻まれている。情事を彷彿とさせるような蜜に塗られた甘ったるいものではなく、血が滲んでいるものも見られる有り様だ。
 刻み付けたのは当たり前のように樹生で、身体を重ねるたびにその数を増やしていく。薄くなるよりも先に新しいものが付けられるせいで、理久はシャツの第一ボタンすらも外せなくなった。
「理久、おいでよ」
「はぁ? 年上に向かってそれはないだろ」
 不機嫌そうに唇を尖らせてみても、差し出された左の手のひらを掴んで腹ばいによじ登ってくる。白濁に濡れた樹生の腹筋と、理久の尖ったままの胸板が引っ付いて、視線を交わす前に煙草が奪われていく。半分ほどに減った吸い口を咥え、残していたカプセルが潰される軽い音が部屋に響いた。
 触れ合った温度が気持ち良くて、煙草を奪い返すついでに半開きになった唇にキスを落とす。不意を突かれた理久は大して長くもない睫毛を何度も揺らして、無邪気なまでの瞳を寄越した。それが子どもの頃大切にしていたぬいぐるみの飾らない黒目とよく似ていて、樹生は遠慮もなしに腹を抱えて笑う。
「……おい」
「ぃや、あー、笑った。ふはっ、違う違う、理久はかわいーなって」
 素直なまでに、従順なまでに、真っ直ぐ樹生を見つめ続ける理久が可愛くて仕方がなかった。諦め癖は横暴な兄姉のせいで培われてしまったと、互いの感情を確かめ合ったあの日に教わっていたが、それでもこうまで全幅の信頼を寄せられてしまえば可愛いと頭を抱えたくなる。
 この男はいつまでも無自覚なのだ。愛情ゆえに受け止められるのだと告げたところで、理久は自分だけが囚われていると思っているのだろう。実際はその逆で、手放せないのは樹生の方ばかりだ。
 きゅっと寄せられた眉間の皺に人差し指を埋め、解してやろうと左右に動かす。くすぐったいから、痛いから、と二言、三言。文句を並べつつも払い落とすことはしない。
「いつぅ、んむ、っ、ぁ、んぅ、」
 眉間に置いていた指先を額からこめかみへと動かして、後頭部を押さえたところで今度は深いキスを落とす。歯列をなぞり、腫れぼったくなった舌先を絡め、溢れてくる唾液を溢さないように吸ってやる。腹に乗った身体が吸い付くたびに震え、腰骨に熱い昂りが擦り付けられる。
「はっ、……かぁわいいね、ほんと」
 ねっとりと名残惜しそうに縋りついてくる舌を離し、覗き込んだ瞳は蕩けそうなほどに潤んでいた。目尻に滲んだ赤色が眩しくて、僅かにずれた眼鏡が間抜けに見えて愛おしさが増す。
 意識しなくても口端が持ち上がっていく。何時間も前から散々に分け合った体温が恋しくなって、額同士を合わせられるようになるまで理久を引き上げた。うわ、とかなんとか、叫び声を上げた理久も視線が真っ直ぐに重なると、仕方がないと言わんばかりに眉尻を下げて微笑んだ。
「一生離してやんねぇから」
「はいはい、責任もって面倒見てやるよ」
 何とも上からの言葉も、理久から放たれたものだと思うと気持ちが良い。高鳴っていく心のままに触れるだけのキスを送ると、不敵に笑った理久から舌を絡め取られた。

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