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19. 前向きなマリオ②
しおりを挟む強くなっただろうか。誰にも汚されない、透明な氷のようになれただろうか。リオは自問する。目は閉じているが、眠ってはいなかった。
あのときから、タロンは年に数回やってきては、商取引の裏側を教えてくれるようになった。商売人の性質なども分かりやすく伝えてくれる。
「たいていの商売人は貸し借りがある状態が苦手なんです。貸しはともかく、借りはさっさと返してしまいたい」
「それは分かりました。だからといって、なぜ私が賄賂を受け取るかどうかの話につながるのでしょう?」
「賄賂を受け取らない徴税官が少ないからですよ。正当に徴税してもらえた、ぼったくりの関税ではなかった、それ自体がめったにないこと。その上、お礼も受け取ってもらえないと。分かりますか? あなたにとってはそれが仕事でしょうが、商人はあなたへの負債がどんどんたまっている状態なんです」
「そういうことですか。おかしな世の中ですね」
「まったくです。この世はクソみたいなことが多いです。ああ、失礼。マリオ坊ちゃんの前で悪態をつくなんて」
「賄賂ではなく、情報を受け取ればいいんですね。私とタロンさんがしたみたいに」
「そういうことです。不正ではないことで、でもあなたに利があること。それを商人からもらい、商人の気を軽くしてやるのです。ただし、それなりに、そこそこに善良な商人のみでいいです。悪い商人とはなるべく関わらない方がいいです」
「分かりました。やってみます」
マリオは、担当する商人には誠実に向き合い、正しい徴税を行った。感激した商人が、どうしてもお礼をと言ってきた場合は、「物をいただくことは、父からきつく止められています。その代わりと言ってはなんですが」という枕詞をつけ、様々な情報を得た。
「そうですか、北方地域が不作。小麦価格が高騰していると。なるほど。では、我が国の小麦を高値で輸出するいい機会ですね」
父を通じて有力商人に情報を流す。商人が潤い、国家の税収が増え、父の評価が上がり、両親の機嫌がよくなる。とてもいい結果になった。
「なるほど、世界はこうやって回っていくのか」
杓子定規だけではよくないことを、マリオは理解できた。
「マリオ坊ちゃん、足が早そうな商品があるのです。塩漬けニシンなんですがね。売り物にはしにくいので、なんでしょう、日ごろのお礼として、そのう、ご家族で召し上がっていただけないでしょうか。なんてことを考えていたりしたのですが」
ある商人から言われたとき、「物はダメなので情報を」と、いつも通り返答しようかと思った。タロンの苦笑いが頭に浮かんだ。マリオは一度開きかけた口を閉じ、頭をひとなで、いいことを思いついた。
「なるほど、そういうことでしたら、そうですね。こうしましょう。我が家ではいただけません。ですが、近々お祝い事がある貴族家を知っています。そちらにお祝いの品としてお贈りしましょう。とはいえ、我が家とあなたの名前が直接的に出るのは生臭い」
「ニシンだけに」
「そう、ニシンだけに。間に魚の仲買人と魚屋を入れましょう。良心的な人たちを知っています」
商人、仲買人、魚屋が少しずつ利益を得た。魚屋からそれとなく、マリオ父からのお祝いだったと情報を流してもらった。結婚式の宴で塩漬けニシンは大いに喜ばれ、貴族家からマリオ父へ礼状が届いた。
「こんなやり方もあるのか。徴税官という仕事、向いているかもしれない」
情報と人を知っていることが、仕事の強みにつながる。仕事の楽しさに目覚め始めたマリオを、タロンが助けてくれた。
「いい商人と、関わってはいけない悪い商人の見分けのつけかた、ですか」
マリオが尋ねると、タロンは「実にいい質問ですね」と言いながら、考え込み始めた。どう説明すれば、子どもであるマリオに伝わりやすいか、悩んでいるのだろう。タロンはとてもいい人なのだ。マリオはじっと教えを待つ。
「いい商人、というのは基本的にはいないものと思っていた方が安全です。酷なことを言いますが。商人は自分の利益を一番に考えますからね。真っ白な商人は生き残れません」
「はい、それは分かります」
清廉潔白だけで食べていける世の中じゃないことは、マリオももう分かっている。
「ちょっとばかし姑息な商人の方がつき合い安いですよ。読みやすいともいいます。そういう商人は思い当たりますか? ああ、名前は言わないでくださいよ」
マリオは言葉に出さずに、何人かの商人を頭の中に思い浮かべる。こずるい商人、何人か知っている。なんとかしてマリオを出し抜こうとしてくるけど、大胆な悪事はできない商人だ。そう、彼らはそんなに怖くない。
「思い当たりましたね。よろしい。では、そういう商人をもっともっとたくさん知ってください。毎日、いつでもそういう商人が入管で見つけられる、そうなると安心です」
「そんなにたくさんいますかね」
「います、大丈夫。気をつけて見ていてください。そして、そういう小物商人はマリオ坊ちゃんにとっての炭鉱のカナリアです。大事にしてください」
意味が分からなくてマリオは何度も首を傾げた。
「小物商人が、普段と違う態度を取る相手、それがヤバい商人です。一見すると器の大きい商人に見えるかもしれない。小物商人は危険を察知する力がとても強い。彼らが遠ざかったり、普段より腰が低かったり、そんな相手には注意するといいですよ」
「分かりました。カナリアをたくさん見つけてみます」
今までは、こすっからい商人は好きじゃなかった。でも、危険を知らせてくれるカナリアだと思えば、大切にしようという気持ちになる。せこい商人にも、心から真剣に向き合えるようになった。
ある日、マリオのカナリアたちがさざめいた。急に帽子をとり、髪を撫でつける商人。咳払いして、入管から出て行く商人。目が泳ぐ商人。カナリアたちが気にしているのは、ひとりの男。特徴らしい特徴のない、どちらかというと目立たない商人。カナリアが怖がっていなければ、立派な紳士だと思っただろう。
ヤバいらしい彼が、列に並ぶ。マリオは震えそうになる手を注意深く止めた。大丈夫、落ち着こう。どう対応するかは、タロンから教わった。用事があるフリをして席を立つ。窓口の後方にある資料室に入り、探し物をしているかのように紙をめくる。ヤバい彼を、どの徴税官が担当するかを見届ける。呼吸を整え、資料をいくつか持って窓口に戻る。普通の商人たちを、普段通りに審査した。
***
マリオが見つけたヤバい商人たちの情報は、タロンを通じて密やかにリヒトヘルレン王国の情報部、つまりはジョナの父ニコラウスの手に届けられた。
「タロン、お前、すごいな。いや、すごいのはマリオか。いや、やっぱりタロン、お前もすごい。マリオから聞き出して、商人たちを尾行して調べ上げたんだろう。でかした」
「ありがとうございます。俺より、マリオがすごいですね。頭がよくて、のみこみも早い。人を見る目もあるようです」
「これだけ当たってりゃ十分だ」
ニコラウスは調査書類の束を指で叩く。
「それで、マリオはリヒトヘルレン王国を選びそうか? 他国の商人ギルドからも声がかかっているんだろう?」
「多分、俺がいるのでリヒトヘルレン王国を選ぶとは思うのですが」
「頼むぞ。十歳から書記として色んな書類を作り、十五歳の今では徴税官。その上、各国の間諜を見抜く目も持っている。ぜひとも我が国で活躍してもらいたいじゃないか」
「まあ、そうなんですが。決めるのはマリオですから」
「なーにを生ぬるいこと言っているの、タロン」
突然扉が開き、鼻息荒くジョナが入ってくる。
「君を一生かけて守る。今までできなかった、楽しいことをリヒトヘルレン王国で一緒にしよう。君が望むなら、もしよければ俺と婚約してほしい。それぐらいのこと言って口説き落としなさいな」
「そんないきなりすぎますよ。無茶言わないでくださいよ、ジョナさん」
上司の愛娘ジョナは、いつも割と突飛だ。きちんと反論しないと、大変なことになる。
「無茶なもんですか。十五の女の子が、国を捨てるのよ。誰か、彼女が信頼できる大人が、彼女を全力で受け止める。そう確約してあげるべきでしょ’」
「言ってることは分かりますが。マリオは俺より十歳も下ですよ。ずっと弟みたいに思っていたんです。いきなり婚約とか言われても」
「それは、その通りだな。ジョナ、先走ってはいかん」
ニコラウスがジョナをいさめてくれた。
「だって、お父さま」
「よく考えろ、ジョナ。もしマリオが、こんなおじさんイヤって言ったら?」
「ひでー。いや、その通りなんですけども」
「おじさんとまでいかなくても、兄と思って慕っていたのに。いきなりそんなこと言われたら気持ち悪いわよね」
「ひでー。ふたりとも、マジで」
タロンの悲鳴を、ふたりは聞き流す。
「そうね、婚約うんぬんはやめましょう。弟みたいに思ってきた。全力で守る。その方向でいきましょう。マリオが実は女の子ってことは、本人が言うまで知らないフリをする方がいいわね」
「分かりました。誘ってみます。うまくいくように、祈っていてください」
「祈りより、もっと効くものをあげるわ」
ジョナが本をタロンに渡す。
「ギデオンさんの『腑抜けども』じゃないですか」
「サイン入りよ」
「うわー、ありがとうございます」
「ちょっと、タロンのためじゃないわよ。マリオにあげるためよ。これで釣りなさい。リヒトヘルレン王国に来てくれれば、英雄の家に住まわせてあげるわ。ホーホホホ」
「す、すごい。さすがジョナさん。英雄も、英雄の家も、自由自在ですね」
「まあね。恐れ入ったでしょう」
「マジで尊敬します。それでは、全力で口説いてきます」
強力な武器をもらったタロン。レッツェブルグ王国に赴き、商品を納入する倉庫で切り出した。
「マリオ坊ちゃん、折り入って相談したいことがあるんですが」
「はい、なんでしょう?」
のぞきこむようにして、マリオがタロンを見上げる。久しぶりに会ったマリオは背が伸びて、首や肩あたりの華奢さが目立つ。昔からかわいい子だったが、思春期になって花開いたのだろうか。髪を伸ばして、女物の服を着れば、すぐに同年代の男子たちから声をかけられるだろう。マリオの見た目だけでなく、仕事に対する真摯さ、学ぼうとする意欲、理不尽な状況でも前向きに生きようとする性質。そういうところを好きになってくれる男だといいな。タロンは、親心のような、兄心のような、複雑な感情に襲われた。
シャキッとしろ、俺。タロンはカバンの中から本を出す。
「腑抜けども、ですね? タロンさんが、前に貸してくださいましたよね。とてもおもしろかったです」
「ええ、同じものです。が、こちらはギデオン閣下のサイン入りです。プレゼントです」
「そんな貴重な物をいただくわけにはいきません。いつも通り、情報交換という形にしましょう」
「ああー、そうなるよなー。うーん」
プレゼントなんて、受け取ってくれるわけがなかった。そう教え込んだのは、俺じゃないか。そうだな、策を弄さず、正面突破しよう。頭がいいマリオに、からめ手は悪手だろう。見抜かれたら、せっかく今まで築き上げた信頼が粉々になる。
「実は、マリオ坊ちゃんをリヒトヘルレン王国に勧誘したいと思っております。聡明で、学ぶ意欲が高く、難しい状況でもへこたれず、できることをしようとする前向きさが素晴らしいです。リヒトヘルレン王国では能力があれば、国籍、身分、性別を障壁とせず、のびのびと働ける環境がありますので、ご検討ください」
「それは、リヒトヘルレン王国の徴税官になるということですか?」
マリオの目が光る。これは、興味があるときの目だ。
「もしそれが望みであれば。俺としては、いえ、国の上層部はマリオ坊ちゃんの希望をまず聞いてからという考えです。本当の適正は何なのか。末永くリヒトヘルレン王国で活躍していただきたい。例えば、学園に通って色んな学科を学んでいただくのも可能です」
「学園」
マリオが目と口を丸く開く。虚を突かれたときの顔。
「同世代の友人もできます。他にもっと好きなことが見つかるかもしれません」
「どうしてそこまで。私にそこまでの価値があるとは思えません」
「マリオ坊ちゃんは天才ですよ。それを自覚していないのが、数少ない欠点かもしれませんね。謙虚すぎるのは、場合によってはチャンスを逃します」
「前向きに検討します」
よし、もうひと押し。
「そうしてください。もし来ていただけるなら、俺が保護者代わりとしてマリオ坊ちゃんをお守りします。兄、もしくは親戚のおじさんぐらいに思って、こき使ってください」
「ええっと、それは一緒に暮らすということですか?」
マリオの瞬きが増える。期待と緊張と迷いだろう。
「それは、まあ、不可能ではありませんが。実は、ギデオン閣下の屋敷に滞在していただこうかと思っていました。警護がしっかりしていますし、マリオ坊ちゃんはギデオン閣下のファンですよね? 部屋数が多いですから、俺も閣下の屋敷に居候させてもらうこともできます。もし、マリオ坊ちゃんがお望みなら」
「行きます」
マリオがピョンッと跳ねた。初めて見るマリオの動き。
「え? 本当に?」
「すぐにでも、リヒトヘルレン王国に行きます」
「あ、ええ、はい。分かりました。すぐに手配します」
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