契約結婚ですか?かけもちですけど、いいですか?

みねバイヤーン

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23. 諦めないライアン②

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 母に続いてサラを失い、滅入っていたライアンを助けてくれたのは、契約結婚相手のジョナだった。近衛騎士隊長である父の伝手で契約することができたジョナ。ライアンと婚約しようと群がる貴族たちを、ハイエナを追い払うドラゴンの如く一蹴してくれた。その上、サラの行方まで探してくれる。


「例の男爵家の下働きに、気の利く子どもたちを斡旋できました」


 シャッテナー子爵家は孤児院の運営に関わり、孤児たちに仕事を与える慈善家として有名だ。シャッテナー家の口利きがあれば、貴族たちは雇わざるを得ない。断れば、民衆からの評判が悪くなってしまう。


「子どもたちが危ない目に合わないだろうか」

「大丈夫。うっかりどこかの窓のカギをかけ忘れてもらうぐらいです。忍び込んで書類を探るのは、本職の大人がやりますから」


 シャッテナー子爵家が実は王家の影であることは、ジョナと契約結婚してから知らされた。父は承知の上だっただろうが、王家に関することは近衛騎士隊長の父は家族にも漏らさない。


 

 ジョナは会うたびに、サラの続報を教えてくれる。


「ライアン、今のところ何もみつからないの。間諜先生たちに書斎を調べてもらったのだけど、何も出てこなかったわ。もう少し時間をくださいね」


 ジョナは、いいことも悪いことも、隠さず教えてくれる。だから、信頼できる。


 何も手掛かりがつかめないまま日々が過ぎた。何度か男爵家に足を運び、サラの行き先を聞いてはみたが、はぐらかされるばかりだった。


「ライアン様、サラは俗世の生活に疲れてしまったのです。どうかサラの意を汲んで、そっとしていただけないでしょうか」


 そう言われてしまっては、強く聞き出すこともできない。歯噛みをするような日々。それを変えてくれたのは、ジョナだった。


「ライアン、朗報です。サラさんが見つかりましたよ」


 満面の笑みで現れたジョナが、ライアンには女神のように輝いて見えた。


「例の男爵家と取引きしている商人の中に、監視対象の危ない商人がいましたの。その商人の通行証を間諜先生がこっそり確認したところ、北方の隣国にある修道院が記されていました。間諜先生たちが調査に行って聞き込みをしたところ、サラさんらしき聖女がいるそうです」


「ジョナ、心から感謝する。できるだけ早く迎えに行くつもりだ。では早速、休暇の申請を──」


「ライアン、焦ってはダメです。きちんと作戦を立てましょう。正々堂々、正面突破。どうせそんな安直な考えでしょう?」


「ダメだろうか? 修道院に行って、きちんとプロポーズをしようと思っているのだが」


「まっすぐすぎますわ、ライアン。女心も、貴族社会も、修道院も、複雑怪奇なのですよ。からめ手、賄賂、恫喝、誘拐。そんなことも選択肢に入れますわ。ご安心ください。私も一緒に行きます。汚れ仕事や危ないことは、私にお任せ。ホホホ」


 なんという頼もしい契約結婚相手だろうか。ライアンは、久しぶりに世界が鮮やかに見えた。


***


 朝起きて窓を開けると、すぐそばの窓枠に白いハトがとまっていた。クルックー、クルックーと鳴きながら、つぶらな瞳でサラを見つめる。


「おはよう。人が怖くないの、ハトさん?」


 お腹がすいたときに食べる固いクラッカーを割って窓枠に置くと、いそいそと食べ始めた。


「勇敢なハトさんね。たいていの動物は、私のことを怖がるのに」


 死者に近すぎるサラは、子どもや動物に避けられることが多い。


 白いハトはクラッカーを全て食べると、飛んで行った。ハトが飛ぶ方向に、くっきりと虹がかかっている。


「まあ、虹だわ。両端まで見えるなんて、珍しいわ」


 いつになくほっこりした気持ちで神に祈りを捧げる。


「神よ。生と死を司るトーデモロスよ。ハトや動物たちが、おいしいごはんを食べられますように。神よ。寿命を司るモイラーンよ。ハトや動物たちに食べられてしまうかもしれない虫や小動物を温かくお迎えください。神よ。愛と美を司るアフロリーベよ。恋する人たちが虹を見れますように。神よ。笑いを司るツェーロスよ。敬虔なる修道院の者たちが笑えますように」


 祈り終わると全身に力がみなぎった。


「アフロリーベとツェーロスに祈りを捧げたこと、ほとんどなかったわ。今日はなぜだか祈りたくなって、不思議」


 命を司るトーデモロスとモイラーンには毎日祈る。愛や笑いは、サラの人生にはあまり関わりがなかったのだ。


「そういえば、ハトはアフロリーベの眷属と言われているわ。だから祈りたくなったのね。これからは、色んな神様にお祈りすることにしよう」


 サラは普段よりも明るい気持ちで身支度を終え、部屋を出る。今日は珍しく、朝食にデザートがついた。アーモンドの砂糖がけ。お祭りの屋台で人気のお菓子だ。砂糖を水で溶かし沸騰したらアーモンドを入れ、カリカリになるまで煮詰める。最後にシナモンやバニラを入れる。甘くて歯ごたえが楽しくて、いくらでも食べたくなる。


 アーモンドも砂糖も高いのに、一体どうしたのかと思ったら、院長が説明してくれた。


「サラに面会希望のご令嬢が、お土産にくださいました」


 食卓を囲んでいる聖女や修道女たちがサラに向かって軽く頭を下げる。サラも頭を下げて応えた。全員に、こんな風に感謝されたのは初めてかもしれない。これまでのところ、イヤな予兆は何もないので、きっといい人だと思う。


 面会時間になり、ドキドキしながら部屋に行くと、大きなメガネをかけた赤い巻き毛の令嬢が座っていた。メガネの度が強いのか、目がとてつもなく大きくてフクロウみたい。


「面会してくださってありがとうございます、サラさん。私はジョーです」


 令嬢はスタッと立ち上がり、軽く礼をしてくれた。


「お土産の茶葉でお茶をいれてもらいました。心が落ち着くお茶です」


 そう言われて、森を思わせる青々とした香りに急に気がついた。


「こちらがおもてなしする側ですのに。すみません」

「いえいえ、こういうの好きなんです。気にしないでください」


 腰かけて、ゆっくりお茶を飲む。さっぱりとした味わい。サラは気を取り直して、ジョーの周囲に目を凝らす。あら? 何も見えない、そんなこと今までなかったのに。サラは用意していた八色の刺繍糸を編み始めた。今朝の虹を、組み紐で表現したくなった。


「ジョー様の後ろには何も見えません。雲ひとつない、夏の青空ぐらい爽やかで晴れ晴れとしています。一体どなたを悼んでいらっしゃるのでしょう?」


 こんなことは、初めて。誰にだって、ほんの少し黒いものが見えたりするものだ。あのときああしていればと心に残っていること。あいつが許せない、いつまでも消えない恨み。もう二度と会えない亡き人への思慕。そういう心の澱があるのが普通だ。こんなに澄み切っているなんて。とても変。何も気に病まないあっけらかんとした性格なのか、鋼の精神力を持っているのか、神のご加護があるか、どれかかしら。


「実を言うと、私自身が悼んでいるわけではないのです。私の友人が大切な人を失って絶望していたのです」

「そうなのですか。私の力は霊視と憑き物払いです。死者の思いをくみ取ることはできますが、生きている人を探したことはありません」


 もし行方不明の人が、誰かに恨まれて真っ黒になっていれば、探すことができるかもしれない。例えば、先日憑き物を払った略奪大好き令嬢ならば。かなりの手間だし、絶対にやりたくないけれど。鐘の下にある木箱から布袋を出し、恨みを復活させ、もう一度とりつくように言い聞かせれば。それをしたら、サラは神のご加護を失うだろう。


 面会相手、おそらく多額の寄付をしてくれた令嬢をがっかりさせるのは残念だ。でも、できないことはどうしようもない。サラは頭を下げた。


「いえいえ、行方は分かったのですよ。連れ戻したいのですが、ご本人が望んでいるかどうかを確認したいのです。こういう事情があったのではと、推測はできているのですが」


 サラが顔を上げると、ジョーと目が合った。メガネ越しの巨大な目は真剣そのもの。


「生きている人の真意を探ったことはないのですが……」


 どうしたらいいのかしら。サラは困った。


「友人が言うには、その人は誰かを助けるために身を粉にして働いているそうなのです。家族のため、恩人のため、悩んでいる人のために。自分のことは後回し。というよりは、自分のことを考えるなんてことが、そもそもない人だそうです」

「そうですか」


 そんないい人が、報われる世の中であってほしい。寝る前に神に祈ろう。


「友人は彼女を心から愛し、プロポーズしようとしたのです。ですが、どうも彼女の恩人が結婚に反対だったようで、プロポーズの機会を潰したのです。おそらく、恩人の娘が、友人に横恋慕していたようです」

「お気の毒ですね」


 異性との愛に無縁なサラにも、とてもかわいそうな話に聞こえる。


「友人は、彼女以外と結婚する気はないので、ずっと探し続けていたのです。ひょんなことから見つかったのです。めでたしめでたしになるといいのですが」

「そうですね」


 いなくなった女性が、彼のことを好きだったら丸く収まるのに。


「問題は、彼女が簡単には出られないところに軟禁されているのです。一度入ったら出て来れない、牢獄のような場所なのです。ご本人が望んでくれさえすれば、なんとしても救出したい。でも、もし、彼女がそこにいたいと思っていたら」

「それは、悲劇ですね」

「そうなんです」


 ジョーがなにやら悩み始めた。「うううう、どうしよう」とうなっている。お腹でもいいたいのかしら。サラは心配になった。


「決めました!」


 うなっていたジョーがキリッと言って、姿勢を正した。つられてサラも背筋を伸ばす。


「匂わせてもいっこうに気づいてもらえないので、もう言っちゃいます。今までの話、サラさんとライアンのことです」

「サラさんとライアン?」


 サラさん、え、私? ライアン? ライアンってあのライアン様?


「ライアンはサラさんに恋焦がれて憔悴しきってます。サラさんはどうですか? ここから出て、ライアンと共に生きる気持ちはありますか?」


 ジョーが懇願するかのように、手を組んでサラを見上げる。


「ええー、あのー、ライアン様が? 私のことを? そんなまさか」


 サラはなにがなんだか分からない。とても優しく繊細な方だった。素敵な人だとは思ったけれど、自分が誰かに好きになってもらえるなんて想像したこともなかったから、あのように美しい、誰からも好かれる、しかも侯爵で近衛騎士の男性が、まさかまさか、そんな、あり得ない。


「こんなこともあろうかと、ライアンから手紙を預かっています。本当は自分の口からきちんと告白したかったでしょうが、仕方ありません。どうぞ」


 ものすごく分厚い紙の束を渡された。


「ライアンが思いのたけを書きすぎて超長文になってます。一番上が要約文です。まずは、要約文をお読みください」

「は、はい」


 要約文は短いのになかなか進まない。動揺して何度も同じ文章を読んでしまう。やっと読み終わった。


 ライアンがいかにサラを好きでいてくれるか。婚約を申し込もうとした矢先に行方が分からなくて辛かった。サラを幸せにするために全力を尽くすから、信じてほしい。男爵家にも実家にも、決して悪い風にはしない。そんなことが書いてあった。でもやっぱり、思ってしまう。


「どうして私なんかを」


「それはきっと、超長文の方を後で読んでいただければ、ライアンの気持ちが分かるのではないかと思います。サラさんは、自己肯定感が低いので信じるのは難しいかもしれませんが。ずっと近くで見ていた私が断言します。ライアンはサラさんのことを愛しています。信じてあげてください」


 おずおずと伸ばされるジョーの手を、サラは勇気を出して握った。温かい、力強い、優しい手。こんな風に、見返りを求めずに手を差し伸べられたのは、いつぶりだろうか。


「私が修道院から出たら、男爵家にご迷惑がかかってしまいます。それが怖いです」


 貧しい農家の娘を引き取り、礼儀作法から読み書きまで教えてくれたのだ。恩知らずなことはできない。


「その気持ちは分かります。でも、ライアンとサラさんが婚約したら、実娘が怒る。そんな理由でサラさんを修道院に売り飛ばした方でもあるんですよ。それに、サラさんは十分すぎるほどのお金を既に男爵家に支払われています。もう、いいんじゃないでしょうか。サラさんは、ご自分の幸せを考えていいんですよ」


「そういうことだったのですか。突然こちらに来ることになったので、何か粗相をしたのだろうとは思っていました。お嬢様はライアン様のことをお好きだったのですね」


 養女にしてもらったとはいえ、男爵家の方々になれなれしくすることは決してなかった。身分はわきまえている。不快に思われないよう、気配を消し、息をひそめるように暮らしてきた。ライアンという太陽の光に照らされ、灰色のサラが目立ったのだもの。さぞかし目障りだっただろう。


「私、私がライアン様を好きになっても、いいんでしょうか? ただの農家の平民が」

「いいの、いいのよ。大丈夫。ライアンは、あなたの全てを、そのままのサラさんを、大好きなの」


「今夜、手紙を読んで、考えてみます」

「そうしてくださいな。明日、また来ますから」


 最後、お別れのとき、ジョーがサラをギュッと抱きしめてくれた。怖くない、怖くない。大丈夫。そう言ってくれた。考えることが多すぎて、せっかく慣れた修道院から逃げ出すことがいいのか分からなくて、恐ろしくてたまらなかった。でも、ちゃんと考えてみよう。


 その夜、分厚い手紙をロウソクの明かりを頼りに、サラは何回も読んだ。ライアンからの、愛の言葉がつづられていた。信じてみたい、信じてみよう。そう思った。




 翌日、面会室でジョーに伝えると、ジョーは手を組み「神様、ありがとうございます」と簡潔に祈ったあと、「では、脱出の段取りをお伝えしますね」と笑顔で言った。まるで「庭に散歩に行きましょう」ぐらいの気軽さ。


「善は急げです。今日、サラさんには脱出していただきたいと思っています」

「今日?」


 サラはめまいがした。


「サラさんは私の侍女に、侍女が私に、私がサラさんに変装します。サラさんに化けた私が修道院でウダウダしているうちに、サラさんは侍女と共に修道院から逃げてください。大丈夫、私がひきつけていますから、追っ手は来ませんよ」


 部屋の隅に立っている侍女が頭を触る。茶色の髪を持ち上げるようにすると、髪がはずれた。


「わっ」

 驚くサラに、侍女が「ご心配なく。カツラですよ」と言うと、さっさと服を脱ぎ始める。


「失礼します」


 肌着姿になった侍女が、サラのベールに手をかける。訳が分からないうちに、サラもあっさり肌着姿にされてしまった。驚くとか、恥ずかしがるとか、断るとか、そういうことを考える間もなかった。


「靴はそのままで。履きなれた物の方がいいですからね」


 ジョーもあっという間に肌着姿になり、サラの足元を確認している。面会室に、肌着姿の女性が三人。なんということでしょう。


 ジョーと侍女がふたりがかりでサラに侍女服を着させてくれる。灰色でシンプルなドレス。後ろにヒモがついていて、大きさを調整できるようになっている。サラの髪と目の色によく似た、地味な灰色だ。


「印象を変えるために、少しだけお化粧しますね。目を閉じてください」


 顔にクリームを塗りこまれ、粉をはたかれ、眉毛を抜いて形を整えられ、目の周りを黒く囲まれた。


「口紅はやめておきましょう。人目はひきたくないですからね」


 茶色のカツラをかぶせられ、念入りに色んな角度から確認された。


「できました」

「私じゃないみたい」


 手鏡に映るサラは、侍女にそっくりだ。


「サラさんは、いつも通りの感じで大丈夫です。大人しくて、ひっそりしていてください」


 サラが慣れないカツラに戸惑っている内に、ジョーはサラの服を、侍女はジョーの服を着る。赤毛のカツラをかぶり、ジョーの不思議なメガネをかけた侍女は、ジョーそっくりになった。それまでは目立たない感じだったのに、今では自信たっぷりで存在感の強い貴族令嬢だ。


「さすがノラ姉さん」

「あなたこそよ、ジョー」

「おふたりとも、すごいです。そっくりです」


 ジョーになった侍女もだけど、サラそっくりになったジョーもすごい。


「私って、こんな感じなんですね」

「サラさんは人見知りなんですよね。誰にも気づかれたくない、話しかけられたくない、壁と同化したい、そんなオドオドした雰囲気があります」


 ジョーにあっけらかんと言われ、サラは自分の頬が赤くなるのを感じた。いやだ、本当にその通りだ。恥ずかしい。


「サラさん、そういう控えめで楚々としたところに、ライアンは惹かれたんですから。気にしないでくださいね」


 うつむくサラの肩を、ジョーが軽く叩いた後さすってくれた。


「サラさん、いつもより控えめな感じで、ノラ姉さんの後について歩いてください。ノラ姉さんは強いですから、何があっても大丈夫です。とにかく、修道院の門から出てしまえば成功です。私はしばらくサラさんに化けて修道院にいますからね」

「は、はい」


 き、緊張するー。どうしよう。泣きたい。なんだか気持ちが悪くなってきた。心の準備ができてなさすぎて、サラは混乱の極み。


「サラさん、あなたは今からノラになります。ジョーお嬢様の侍女ノラです。いいですね」

「はい、がんばります」


 口の中が渇いて、声がちゃんと出ない。


「ノラ、しゃきっとなさい。私の後について、うつむいて歩けばいいだけよ。ほら、このカバンを持ちなさい。行くわよ」


 侍女からジョーに化けた、新しいお嬢様にピシリと言われ、サラは覚悟を決めた。やるしかない。面会室から出て、長い通路を渡り、入口で門番に挨拶して扉を開けてもらい、外に出る。それだけ。それだけなのに、本当に難しい。


 優美でいながら堂々と、貴族令嬢らしく歩くお嬢様の後を、サラは必死で歩く。右足、左足、右足、左足。吸って、吐いて、吸って、吐いて。


「お嬢様」


 後ろから声をかけられて、サラはキャッと叫びそうになった。可憐に振り向いたお嬢様が、サラの腕を強くつかむ。つかまれたところが痛くて、サラは冷静になった。


「何かしら?」

 お嬢様が気取った声で尋ねる。


「面会は、ご満足いただけましたでしょうか?」


 顔を見なくても分かる。院長だ。ダメ、バレる。どうしよう。どうしよう。どうしよう。


「よくぞ聞いてくれたわ。ええ、大満足よ。あのサラさん、素晴らしいではありませんか。わたくしね、ずっとずっと悲しかったの。大好きなレオが旅立ってしまってね。毎日一緒に寝ていたのに。今はベッドが空っぽでしょう。レオが使っていた毛布、いまでも捨てられないの。レオの毛がみつかったら宝物箱に入れているのよ」


 お嬢様が高くてかわいらしい声で話し始める。小鳥がさえずっているみたいな、愛くるしさ。院長が一歩下がったのが、サラの目の片隅に映った。お嬢様はジリッと院長に近寄る。


「毎日涙が止まらなかったのです。そんなときに、サラさんのウワサを聞いたの。正直なところ、半信半疑だったの。失った最愛ともう一度会えるなんてね。詐欺みたいではありませんか。ところがね、サラさんはね、本物でしたわ。わたくししか知らない、レオの秘密や思い出を静かに語ってくれましたの。レオを目にすることはできないけれど、レオの魂はわたくしのそばにあると分かったのよ」


 院長が咳払いした。


「お嬢様、ご満足いただけたようでよろしゅうございました。それでは、ごきげ──」

「わたくし、明日も来ますわ。というより、しばらくこの街で過ごすことにしましたの。とりあえず、十日ほど予約できますかしら? サラさんに毎日会いたいわ」


 院長が息を呑んだ音が聞こえた。


「ええ、もちろん分かっておりますわ。あれでしょう。サラさんに会いたい貴族がたくさんいらっしゃるのでしょう。ええ、わたくしもタダで、とは申しませんわよ。ノラ、カバンを開けてちょうだい」


 お嬢様に腕を離され、サラは慌てながらカバンを開ける。中には布袋がいくつか入っている。お嬢様は布袋を三つつかむと、院長に押し付けた。


「これでよろしくて? 金貨が入っていますわ。足りなければ、宝石で払うわ」


 お嬢様は袖を少し上げた。太陽の光でお嬢様の手首がきらめく。


「この腕輪、我が家に代々伝わる大事な家宝なの。でも、レオとの再会には代えられないわ」


 お嬢様がゆっくりと腕輪をはずそうとすると、院長が震えた。


「いえ、お嬢様、滅相もございません。こちらの金貨で十分でございます」


 それはそうだろう。もしかしたら、三つの金貨袋で修道院の年間運営予算がまかなえてしまったかもしれない。


「サラの予定を十日間押さえさせていただきます。お嬢様が、旦那様と再会できてなによりでございます」

「あら、いやだ。レオは旦那様ではなくってよ。レオはね、世界で一番美しい猫なの。それでは、ごきげんよう。ホホホ」


 チラッと見えた院長の顔。サラは吹き出しそうになった。お嬢様がサラの足をギュッと踏んだ。


「さあ、ノラ、もたもたしないでちょうだい。早く宿に戻りましょう。わたくし、お腹がすきましたわ」

「はい、お嬢様」


 風のように早いお嬢様に遅れまいと、サラは小走りになった。院長が合図したようで扉が開き、門番に止められることもなく、ふたりは修道院から無事に脱出できた。


「このままもう少し速足で」


 お嬢様が先ほどとは打って変わった低い声でつぶやく。サラは夢中で歩いた。修道院から少し離れたところに、馬車が二台止まっている。


「サラさんは後ろの馬車に乗ってください。そして、そのままリヒトヘルレン王国に向かってください。最強の弟がサラさんをお守りしますからね。大丈夫です。良い旅を」

「えっ、あの、あああ、ありがとうございました」


「積もる話は、リヒトヘルレン王国で。必ず、幸せになってくださいね。ご自分を信じるのです」

「はい」


 サラを華麗に救い出してくれたお嬢様は、貴族とは思えないほどキレのある動きで前の馬車にヒラリと入る。サラが後ろの馬車に近づくと、扉が開き中から手が伸ばされる。サラは咄嗟に手をつかみ、なんとか馬車に乗り込んだ。


「サラ、やっと会えた」


 なんだか聞き覚えのある声。少し震えた優しい声。サラは頭が真っ白になる。体が固まって動けない。


「会いたかった。ずっと会いたかった。無事で、よかった」


 サラの頬に、大きな手が当てられる。のぞきこまれるように見つめられた。若葉のような淡い緑色の瞳。


「ライアン様」

「迎えに来た。俺を信じてくれて、ありがとう。世界中で、一番サラを好きだ。一緒に幸せになってくれる?」

「はい」


 ライアンがサラを抱きしめる。サラは目を閉じて、ライアンの胸の鼓動に耳を傾けた。ああ、生きているって、素晴らしい。

 

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