契約結婚ですか?かけもちですけど、いいですか?

みねバイヤーン

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22. 諦めないライアン①

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 母を失った悲しみ。癒してくれたのがサラだった。とても静かで、空気の中に溶けてしまいそうな儚い少女だった。銀色の髪に同じ色の瞳。神聖な雰囲気をまとっていた。


「お母さまは、そばで見守っていらっしゃいますよ」


 そう言ってくれた。ライアンの肩越しを見つめ、少しだけ微笑んだ。母と何かを語り合っているのだろうか。サラはときたま頷きながら、指をせわしなく動かす。


「喉から風邪をひきがちだから、心配。そうおっしゃっています」


 ライアンは思わず喉に手を当てた。その通りなのだ。いつも、季節の変わり目になると喉が痛くなり、高熱が出る。それを知っているのは、家族だけ。やっぱり、ここに母がいるんだ。


「喉が痛くなりかけたら、すぐにこちらを巻いてください」


 いつの間にか、編み上がったマフラー。


「お母さまがお好きな色ですよね? お母さまの気持ちがこもっています。こちらを巻けば、ひどい風邪にならないはずです」


 相変わらず、サラの視線はライアンの周囲をさまよったままだ。そっと差し出された紺色のマフラー。とても柔らかい。ライアンは首に巻いてみた。母の優しい手の感触を思い出した。


「ありがとうございます。また来てもいいですか?」

「はい」


 サラは了承してくれた。ライアンは侯爵令息、サラは男爵令嬢だ。ライアンが頼めば、サラは断れない。普段のライアンなら、しないことだ。でも、母を亡くし、心の整理がつけられないライアンは、やっと見つけた救いの手を、わらにもすがる思いで求めた。


 会うたびに、サラはライアンの肩越しを静かに見つめる。何か手仕事をしていると声がよく聞こえるらしい。


「ライアン様は子どもの頃、カササギの鳴きまねがお上手だったそうですね」


 尾の長いカササギがハンカチに刺繍されていく。


「泣くのを我慢すると心の傷が癒えません。思いっきり泣いて、このハンカチで拭いてください。お母さまが心配そうにライアン様をご覧になっています」


「ありがとうございます。また来てもいいですか?」

「はい」


 サラの透き通った目は、母の子守歌を思い出させる。母しか知らない色んなこと。ライアンさえ忘れていた出来事。サラが歌うように告げる度、記憶が鮮やかによみがえる。


「今日はお外でお話しましょう。どんぐりを集めておきました」

「どんぐり?」


「剣の稽古でどんぐりをお使いになるのでしょう? お母さまは、その練習を見るのが好きだったそうです」

「そういえば、昔やっていました。父がどんぐりを投げてくれて、それを切ったり突いたりするんです」


「見せてくださいますか?」

「もちろんです」


 サラが投げるどんぐりを、ライアンは無心で切った。サラは何も言わず、淡々と投げる。父もそうだった。ああしろこうしろ、腕の伸ばし方が悪い、父はそんなことは言わない人だった。ライアンが自分で気づくまで、黙って待ってくれる人。


「父と、話してみようと思います」

「はい」


「母が病気になっても仕事を優先し、死に目にも間に合わなかった父を、許せなかった。でも、ちゃんと話を聞いてみます」

「はい。そうしてください。お母さまも、それをお望みですよ」


 夕日に照らされたサラの淡い輪郭。溶けて消えてしまいそう。ライアンは思わず手を伸ばし、サラの手を取った。



「また会いたいです」

「はい」


 父と話をし、次にサラに会った時は婚約を前提とした交際を申し込もう。ライアンはそう決心した。

 ところが、次に男爵家を訪れたとき、サラはいなかった。


「サラがもういない? いつ戻りますか?」

「サラは聖女と認められましたので、神殿で暮らすことになりました。もう戻ることはありません」

「そんな」


 ライアンは聞いたことをすぐには理解できなかった。サラの父が何やら話していたが、少しも頭に入ってこない。どのように外に出たか、覚えていない。世界から、色が消えた気がした。


***


 サラの一日は日の出と共に始まる。身支度を整えると、窓に向かって跪き小声で祈る。


「神よ。生と死を司るトーデモロスよ。健気な人たちが今日を一心に生きられますように。神よ。寿命を司るモイラーンよ。懸命に生き、これからそちらに向かう魂をお救いください。神よ。穀物の成長を司るデメセレスよ。小麦が豊かに育ち、必死で生きている農民が豊かになりますように」


 貧しい農家に長女として生まれたサラ。数年前に力を発現した力を買われ、男爵家の養女となった。自分の稼ぎのいくらかが、男爵家と実家に届けられると聞いている。逃げられない。逃げるわけにはいかない。お世話になった男爵家への恩返し。貧しい実家族を助けるため。サラはここで暮らさなければならない。


 祈りの後は、鐘楼に向かう。頂上まで登らなくてもいいように、鐘から長い綱が一階ホールまで垂れ下がっている。最初に着いた人から順番に鐘を鳴らす。徐々に聖女や修道女が集まり、数人で綱を引く。朝日に照らされた街に、鐘の音が響き渡っていく。


 食堂に全員が集まり朝食。パン、トマトなど神殿の畑で採れた野菜、紅茶。会話はしない。副院長が新聞を朗読するのを、食べながら聞く。


 その後は、昼まで労働。野菜畑の手入れ、家畜の世話、糸つむぎ、裁縫、チーズ作り。仕事はいくらでもある。サラは畑仕事と裁縫をすることが多い。農家育ちなので畑仕事は慣れている。でも、布仕事の方がお金になるので、暇を見つけては刺繍をしている。神々の刺繍を施したハンカチは高く買ってもらえるのだ。


 昼食にはスープと卵料理がつく。温かい料理が食べられるのは昼食だけだ。


 昼食後、修道女たちは神話の書き写しをする。聖女たちは各国から訪れた重要人物と面会することが多い。面会費、寄付金が修道院の運営費や実家への仕送りになるため、聖女たちにとって面会は最も大事な仕事。


 聖女の力も様々だが、花形はやはり癒し。高貴な人々の病気やケガを治せば、修道院は活気づく。貴族が感謝し、寄付金が山と積まれ、聖女と修道院の名声が高まる。


 サラの力は霊視。亡き人からの思いを、残された人に伝えるのがサラの務めだ。基本的に、前情報は断っている。知識に引っ張られると、ありのままを見れなくなる。


 予感はある。面会の前に裁縫道具を用意すると感じる。この色の糸がよさそうだ。刺繍より編み物かな。棒針よりかぎ針にしよう。柔らかくて太めの毛糸でさっくり編もう。


 霊視というのは、猫との触れ合いに似ている。気配をなんとなく感じる。そちらを見すぎると、さっと逃げていってしまいそうなので、見ないように見る。ひとなつっこい猫。怖がりな猫。威嚇してくる猫。


 様々な猫と少しずつ距離を詰め、声を聞かせてもらう。触ろうとすると逃げてしまいそうな猫に、やっと手を伸ばし柔らかい毛並みを手のひらに感じる。途端に猫は逃げてしまい、床に残るほんのりとしたぬくもりを確かめる。サラにできることは、その感覚を残された人に伝えること。


「子どもたちは独り立ち、夫は家督を譲り、さあこれからふたりでのんびり旅行でも思っていた矢先に、夫が亡くなってしまいました。葬儀を終えて、夫の物を整理し始めたところで、なんだか呆然としてしまって」


 老婦人が静かに話す。サラは黄緑色の毛糸をたぐりよせた。


「寂しい、というよりは、張り合いがない。そんな感じなの。そしてね」


 老婦人はややためらった後、意を決したように小声で切り出す。


「どういうわけかしら。涙が出ないの。夫のことは大事に思っていたのよ。でも、泣けないの。薄情な人間と思われるのではないかしらと心配で。そんなことを気にするのも、我ながらなんて品性が卑しいのかしらと、イヤになってしまったの」


 老婦人は悩みを口に出し、気が楽になったのかもしれない。背景が明るくなったように感じた。サラはじっくり考えてから口を開く。


「故人を悼む方法、過程は人それぞれです。涙を流していないと薄情。そう咎める人もいるでしょうが、気にしなくてもよいと思います。気になる場合は、ハンカチに玉ねぎをはさんで目元に当てればいいのではないでしょうか」

「まあ」


 老婦人は、もう一度「まあ」と言ってから、ホホホと笑う。


「そうね、次はそうしましょう。いい方法を教えてくださってありがとうございます」

「旦那様と交信できるか試してみましょうか? もし、思い出の物があれば触れさせていただければ、旦那様を探しやすくなります」


 すると、老婦人は小さなカバンから、大切そうにメガネを取り出した。


「これ、あの人のメガネなのよ」


 サラは丁寧にメガネを受け取る。


「小さな男の子が見えます」


 老婦人の後方に野原が見えた。サラは黄緑色の毛糸をたぐりながら、目を細める。


「白いシャツと茶色の半ズボンの男の子が、菜の花をかきわけながら走っています。後ろ姿しか見えません。菜の花色の巻き毛」


 老婦人が身を乗り出す。サラは耳を澄ませながら編み針を動かす。手を動かしていると、声が聞こえてきた。


「リア? リアと言っているのかしら?」


 老婦人が首を傾げている。サラは編み針を動かす手を速めた。なにかしら。耳のそばで何かが羽ばたいた。黄色の毛糸をつなげなくては。カゴから目当ての毛糸を取った。


「男の子が空に向かって手を伸ばしています」


 とてもまぶしい。光の中に何か見えた。


「あら、カナリアね」


 老婦人の目がサラの手元に注がれている。いつの間にか、黄色と黄緑色のカナリアが編み上がっていた。


「あの男の子が呼んでいたのは、カナリアだったんですね」

「リア。そういえば、子どもの頃カナリアを飼っていたわ。温室の中で放し飼いにしていたの。扉を開けたときに逃げてしまったのよ。すっかり忘れていたわ」


 戸惑っている老婦人の後ろで、少年がサラの方を向いた。得意そうな笑顔。高く掲げた手に、カナリアがとまっている。


「旦那様がカナリアを見つけてくださったみたいです」

「まあ、あの人ったら」


 老婦人はサラの視線の先を追い、微笑んだ。


「あなた、わたくしのためにカナリアを探してくれたのね。そうなのね、ずっと昔にお別れしたカナリアや友だちに、あなたは会えるのね。でしたら、わたくしがいなくても寂しくないわね。わたくしはのんびりそちらに向かいますから、待っていてくださる?」


 老婦人がそう言うと、少年は少しずつ成長し、白髪のおじいさんになった。おじいさんはカナリアの頭にキスをすると、ふっと息を吹きかける。カナリアがサラの手の中に飛んでくる。ほんのり温かくなった毛糸のカナリアを、サラは老婦人に渡す。


「ありがとう、サラさん」

「呆然としたときに持つといいかもしれません」


 老婦人は少女のような笑顔で去って行った。


 こういう、ホノボノとした霊とお客様はとてもやりやすい。霊視をすると疲れるのだけれど、心地よい達成感で熟睡できる。


 でも、ときには眠れなくなってしまう霊との出会いもある。


 数日前からなんだか落ち着かなくなる。何かが近づいてくる気がして、後ろを確かめたくなる。ほんのわずかな違和感が続く。冷たい水が背中を伝い落ちたり、アリが足首を這い上がったり、木の枝に髪がからまったり。そうこうしていると、院長に呼ばれた。


「サラ、新しい修道女が来ます。悪いものがついていないか、見てもらえますか?」

「はい」


 やっぱりそうだったか。こういう依頼は何度かあった。サラに好意的な霊たちが、イヤなことがあるぞ、準備しろ、そう告げてくれていたのだろう。


 修道女は、神への奉仕を望む経験な信者だけではない。衣食住が目当ての貧しい娘や、貴族社会から追放された令嬢もいる。


 修道院は陸の孤島。清貧と勤勉を強いられる。厳格なしきたりから逃げることはできない。和を乱す恐れのある新人は、矯正しやすいように初めに心を折らなければならない。イヤな役目だ。でも、サラが適任だから、やらなければならないのだ。実家と男爵家のためにも。


 新人が最初に通される小部屋。机と椅子しかない。所在なさげに座っている令嬢はまだ華やかな外出着を着ている。俗世の雰囲気をまとったままだ。サラは少しだけ頭を下げ、無言で対面に座る。令嬢の周囲を念入りに観察する。


 令嬢の背景は暗い。背後でうごめく黒い顔には目がない。井戸の底をのぞきこんだときの、吸い込まれそうな不安。たくさんの恨みが渦巻いている。


「そうですか。他の人の婚約者を略奪するのが趣味なのですね」

「な、何をおっしゃいますの? 初対面でいきなりそんな。ひどいです」


 令嬢は両手を頬に当て、目を潤ませる。サラは構わず、分かったことを淡々と指摘していく。


「優秀な姉と天真爛漫な妹にはさまれ、両親の注目を独占できなかった。主役になりたい、誰かのものを奪うことで優越感にひたりたい。屈折してらっしゃいますね。でも、まあ、よくある話ではあります」

「イヤだ、本当に意地悪だわ」


 令嬢は顔を紅潮させ、肩を震わせる。後ろの黒いものたちは、令嬢を指さしながら左右に揺れる。手足の長い虫のような黒い影が、令嬢の髪を出入りする。何かを感じたのか、令嬢は首を振った。


「自信たっぷりに見えて、実は自分の判断力に不安がある。だから、他の人が選んだものなら間違いないだろうと奪ってみる。でも、いざ手にすると飽きてしまう。新しいオモチャを次々に欲しがる幼児と同じ」

「どうしてそんなこと、あなたに言われないといけないんですか?」


 令嬢の目から涙がこぼれる。黒いものたちが跳ねた。何度も、何度も。窓ガラスが突風に吹かれたような音を立てる。天井から黒い雫がしたたり落ち、令嬢の涙とまじる。令嬢の顔に黒い筋がいくつもできた。


「負けたということを思い知らせるためです。人の物をとって、勝った気でいたけれど、反省しなさいとここに送られたのです。今までのやり方は、もう通用しない。生き方を変えなければいけない。なぜなら、ここにはあなたが操れる男性はいないのですから。女性の園では、あなたの小手先の技はお見通し」


 ワアッと叫び、令嬢が泣き出す。黒いものたちが回転しながら、煙のようになった。煙が令嬢にまとわりつき、搾り上げようとする。令嬢が苦痛の声を上げる。


「あなたたちの恨み、受け止めましょう」


 サラは縫い終わった小袋の口を煙に向ける。煙たちは嫌がりながら、それでもサラの力には叶わず、小袋に入っていく。全てを吸い込んだあと、小袋の中に乾燥させたラベンダーを入れ、リボンを結んだ。


「あなたに染みついていた、色んな恨みはここにしまいました。祈り、務めを果たし、罪と向き合ってください。嫉妬心がわきおこり、何かを奪いたくなったら、ラベンダーの香りを思い出してください」


 机に突っ伏している令嬢はそのままに、サラはラベンダーの香りがする小袋を持って部屋を出た。院長に報告した後、サラは鐘楼の上まで登る。大きな鐘の近くに置かれた木箱の蓋を開けた。中にはたくさんの小袋が収められている。サラは新しい小袋をそっと重ねた。


「鐘の音を聞くうちに、許しがたい恨みつらみは消えていくでしょう」


 木箱の蓋を閉じるとき、ラベンダーの香りが強くただよった。


 サラは一階まで降りると、垂れ下がっている綱を持つ。不快な一日だった。鐘の音で浄化しなければならない。サラはひとりで鐘を鳴らす。サラは恐れられ、避けられている。ここに、サラの友だちはいない。

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